健さんが逝ってしまった。

僕と健さんとは、学校の先輩後輩であることくらいしか接点はなかった。

けれど、高校時代、健さんの 「任侠映画」は僕らの憧れだった。
級友たちは皆、健さんを真似たり、『唐獅子牡丹』 を口ずさんでいた。

僕の親友だったジュンちゃんは、健さんの 「任侠映画」がかかる「池袋文芸座」のオールナイトに毎週末通い、ボクシングの腕を磨いては池袋の繁華街で不良グループを相手に大立ち回りをし、何事もなかったという寡黙な姿(実はおしゃべりで僕には嫌になるくらい良くしゃべるんだけど)を通し、結局、健さんの後を追うように東映の大泉撮影所にある俳優養成所に通っていた。
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不条理なことに我慢を通し続ける・・・けれど、それも限界となって最後は「どす」を片手に斬り込んでゆく・・・
「死んでもらうぜ」の決めゼリフ。ここで、銀幕の健さんと超満員の観客が一体となって物語はクライマックス。
会社員も商店のオヤジや社長。そして、ヤクザや左翼の学生運動家たちもみんなで健さんを後押しする。
やがて、映画館を後にする男たちの背中は皆、健さんになっていた・・・良く語られる話ですが 、これは当時を知るものとしては本当です(ただ、僕はどちらかと云うとジャック・ペランとかルノ・ベルレーのフランス軟弱モノ?映画が好きだった!!)


「昭和残侠伝」や「網走番外地」を経て、1976年に健さんは東映を退社しフリーの役者の道を選びます。
ここから、健さんは自身がやりがいのある役と監督さんを選んで映画に出演するようになっていきます。

そして、「君よ憤怒の河を渉れ」(1976)「野性の証明」(1978)では佐藤純彌監督。
「八甲田山」(1977)と「動乱」そして(1980)「海峡」(1982)は森谷司郎監督。
「南極物語」(1983)「海へSee yoo」では蔵原惟繕監督。
「幸福の黄色いハンカチ」(1977)と「遥かなる山の呼び声」(1980)では山田洋次監督と数々の賞を獲得します。
「四十七人の死客」(1994)では市川崑監督の要請で髷(まげ)を結います。
さらに「ブラック・レイン」(1989)ではリドリー・スコット監督。そして「ミスター・ベースボール」(1993)フレッド・スケピシ監督といったハリウッド映画にも出演します。
「単騎、千里を走る。」(2006)では中国のチャン・イーモウ監督です。

フリーになった1976年以降、最も多く組んだのは降旗康男監督です。
「冬の華」(1978)「駅 STATION」(1981)「居酒屋兆治」(1983)「夜叉」(1985)「あ・うん」(1989)「鉄道員(ぽっぽや)」(1999)「ホタル」(2001)そして遺作となった「あなたへ」(2012)と8作あります。さらにチャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る。」の日本版は降旗康男監督です。

僕にとって、降旗康男監督作品の特徴は映像です。シーンひとつひとつの美しさが僕の審美眼を満たしてくれます。それは「駅 STATION」や「鉄道員」の舞台になった北海道の自然の美しさや厳しさに感じます。あるいは「夜叉」の若狭湾や「ほたる」の錦江湾の美しさ。そして、「あ・うん」に描かれるノスタルジックな昭和初頭の町の様子に感じます。

そして、登場する人物が作り込まれていて、ひとつひとつの台詞や描写にとても納得させられます。演じる役者たちも総じて見事な演技です。

また、忘れてならないのは音楽です。たとえば「駅 STATION」の音楽は宇崎竜童ですが、この映画の音楽には感心させられました。それだけでなく、彼は不良グループのリーダー役としても劇中に登場しますが、これも彼の持っている個性が引き出されていました。
ちなみに、彼が主演した「TATOO <刺青>あり」高橋伴名監督(1982)での演技は、宇崎竜童の持つ個性とその時が見事に発揮されました。この映画は僕の好きな映画のひとつです。

降旗組映画音楽として、衝撃的だったのは「夜叉」のジャズ・ピアニストの佐藤允彦とトゥーツ・シールマンスのハーモニカでした。大阪のミナミのネオン街と冬の若狭湾の小さな漁港に妙にマッチしていました。エンディングで流れるナンシー・ウイルソンも良かったなあ。

と、云う訳もあって『夜叉』(1985年)を取り上げてみます。
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かつて、大阪ミナミで「夜叉のシュウジ」と恐れられた伝説のやくざ、修治(高倉 健)

15年前に足を洗い、若狭湾の小さな港町で漁師として妻の冬子(いしだあゆみ)と三人の子供、そして、義母(乙羽信子)とつつましく暮らしていた。

ある日、ミナミから蛍子(田中裕子)がこの小さな港町にやってきて蛍(ホタル)という飲み屋を始める。港町の漁師の男たちで店は繁盛する。

やがて、矢島(ビートたけし)が蛍子の後を追ってやってくる・・・矢島は覚せい剤の常習者、港町の漁師たちもシャブに取り憑かれてゆく・・・

こんなストーリーで話は進んで行くのですが、
冬の若狭湾、荒れ狂う日本海と小雪の降る小さな港町の様が美しい。カメラは降旗組ではおなじみの木村大作です。

小さな港町は福井県美浜町の日向(ひるが)というところですが、美しいアーチ型の太鼓橋があります。この橋は日向湖と若狭湾を結ぶ運河に架かっていました。(残念ながら今は形を変えてしまいました)

この橋がこの映画では重要な役割を果たしています。
飲み屋の蛍は橋の袂(たもと)にあり、橋の向こうは男たちの仕事や生活の場、こちらは蛍が夜になると光り輝き・・男たちがやってきます。
橋の上で矢島が蛍子を追いかけたり、冬子が蛍にいる修治の様子を見に来たり、冬子と蛍子がすれ違ったり・・・橋の下の運河を修治は自分の船(朝日丸)で抜け、蛍子に漁で穫れたブリを一本放る様子もあります。

印象的なシーンとして、修治が早朝の橋の袂のバス停に立つシーンがあります。例によって『止むに止まれぬ事情で』行かねばならないのですが、「伝説の男・夜叉」が乗合いバスでミナミに向かう姿はとても好きな情景です。
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このあとも、橋のシーンはありますが・・・それは、ぜひ映画を見てください。

僕にとっての健さんは、やはり若い頃の任侠モノが強烈にあります。
多い時、ちなみに1965年は年間20本近い映画に出演しています。そのほとんどが任侠映画です。

映画のなかで健さんは、多くのやくざ者を斬ってきました。映画の中ではただ斬るだけですが、実際には多くの人にさまざまな影響を与えてきたと思います。
健さん自身も背中に刺青描いて、そんな「斬った張った」の世界に疲れてしまったこともあったようです。

健さんはフリーの役者の道を選び、新しい役を模索する。やがて、自分自身が納得の出来る役を選んで出演を引き受ける。それは、任侠映画から足を洗って「かたぎ」に生きようとする「高倉 健」の姿ではなかったのではないでしょうか?

そんな様を、僕はこの映画から感じてしまうのです。映画の「修治」と俳優「高倉 健」の生き方が重なって見えてしまうのです。
もっとも、健さんが独立してからの映画は役の中の人物と健さんがあたかも一体となっている様が顕著でした。己(おのれ)を律して、追い込んで生きる・・・そんな姿に美しさを感じました。

でも、健さんがやくざ者として登場する映画は、この『夜叉』が最後です。

大阪のミナミで白いスーツ姿に白い帽子を被りウイスキーを飲む姿。
ナイトクラブで美しい女性とダンスを踊るシーン。
しまってあったオーバーコートを身にまとい、ミナミに向かう早朝のバス停に立つシーン。

だから、僕にとって、この映画は、かつての健さんに対するノスタルジーとオマージュ?でもあるのです。


作家の沢木耕太郎さんは高倉 健さんと交友があったそうです。

ある時、健さんの言った言葉を沢木耕太郎さんが書いています。

沢木耕太郎さんがロバート・キャパの伝記の翻訳をしている時のことです。
「キャパというのは、どういう人なんですか?」と健さんが訊ねたとき。
沢木耕太郎さんは、こんな紹介の仕方をします。


『スペイン戦争が終わり、しばらくアメリカに行っていたが、やがて第二次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパに渡って連合軍に従事して写真を撮るようになる。その時、ロンドンでピンキーというニックネームの美しい女性と恋に落ちる。アフリカ戦線から戻り、ピンキーとの再会を果たすと、キャパはホテルに高価なシャンパンを用意して楽しい夜を過ごそうとする。ところが、戦線の状況が急変するや、美しい恋人と飛び切りのシャンパンを残したまま戦場へ向かってしまう・・・・・。
私がそこまで話すと、その説明を黙って聞いていた高倉さんがつぶやくように言った。
「どうしてなんでしょうね」
私は意味がうまく取れなくて訊き返した。
「えっ?」
「どうして行っちゃうんでしょうね」
「・・・・・・・・・・・・」
「気持ちのいいベッドがあって、いい女がいて、うまいシャンパンがあって・・・・・・どうして男は行ってしまうんでしょうね」
私がどうとも反応できなくて黙っていると、高倉さんが独り言のようにつぶやいた。
「でも、行っちゃうんですよね」
そこには複雑な響きが籠っているように思えた。そして、私は思ったものだった。高倉さんも、どういうかたちかは正確にわからないが、かつて「行ってしまった」ことがあったのだな、と。』

「深い海の底に ー 高倉さんの死」(沢木耕太郎)より抜粋


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『夜叉の修治』も行っちゃうんですよね・・・。


『往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし』  高倉 健