「日本における西洋画の先駆者は?」
との問いにほとんどの方は高橋由一と答えるはずです。

高橋由一と言えば、あの鮭の絵が有名ですね。
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私も3年前に東京芸大の美術館で『近代絵画の開拓者 高橋由一展』に行きました。

今回紹介する五姓田義松はその高橋由一よりも早く横浜に住むイギリス人画家チャールズ・ワーグマンの門下生として西洋画の手ほどきを受けます。
この時、義松は10歳!
慶応元年(1865年)の暮れのことです。

ちなみに、高橋由一がワーグマンに入門するのは慶応2年(1866年)の夏頃。
この時、由一は40歳でした。

兄弟子の義松は10歳、弟弟子の由一は40歳。ふたりの間には30歳の開きがありました。

子供の頃から西洋画を身近に学んだ義松には大きなアドバンテージがあったわけです。


『没後100年 五姓田義松 最後の天才 』展を見に神奈川県立歴史博物館へ行って来ました。
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神奈川県立歴史博物館は旧横浜正金銀行本店として明治37年(1904)7月に竣工した歴史ある建物です。
この建物は1923年9月の関東大震災や1945年5月の横浜大空襲にも耐え生き残りました。

11月上旬の土曜日。開館とともに展覧会場入りします。

最初の展示室には膨大なデッサン画が並んでいます。
当時は非常に珍しかった鉛筆を巧みに使って対象物の形をしっかりと捉えている様子が見えます。
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          五姓田義松《変顔》 

輸入品の鉛筆で自身の顔を描いています。現在の漫画のようです。

以前見た『高橋由一』展では西洋画萌芽期ゆえでしょうか?
高橋由一の描く形体の表現にやや稚拙な様子を感じるものもありました。

しかし、この『五姓田義松』の描く絵をデッサンや水彩画そして油彩画を見て行くと、この人の描く絵はあきらかに次元が違うと思えてきます。

明治10年(1877)第1回内国勧業博覧会で義松は西洋絵画部門で最高賞を受賞します。
ちなみに、高橋由一は義松の次の賞でした。
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                   五姓田義松《自画像》第1回内国勧業博覧会最高賞

こうして、彼は22歳の若さで日本一の西洋画家に登りつめます。

翌年の明治11年(1878)宮内省の命で孝明天皇(明治天皇の父)肖像の模写を制作します。

明治天皇とその関係者に気に入られた義松はその後明治天皇の北陸東海御巡幸に同行し記録としての絵を描くという大役を務めます。

日本一の西洋画家となった義松ですが、さらなる高みを目指します。

それは西洋画の本場パリに身を置いて、自分の力量を試してみることでした。
さながら、それは日本では物足りずに世界を目指す現代のアスリートにも通ずるものではないでしょうか。

義松はパリへの渡航費として1300円以上の資金を用意したそうです。
これは現在の2600万円相当だそうですが、渡仏以前に1300円以上のお金を稼ぐ画家だったということです。

こうして明治13年(1880)7月パリに出発します。義松25歳のときです。

パリに渡った義松はホテルに住み、あちらこちらを見学して歩いたようです。
義松にとってパリでの生活はとても刺激的なものであったでしょうね。

パリ生活2年目の1881年の春、フランスで開催される最大のコンクールであるサロンで入選します。
その作品は水彩画が5点で、日本人としては初めての快挙となりました。

この頃、パリでは印象派の画家たちが活躍していました。
義松の4年後にパリに渡った黒田清輝はこの印象派の新しい表現に影響を受けています。

しかし、義松は伝統的なアカデミスムの画風を極めようとしていました。
その為にルーブル美術館などに展示されている18世紀から19世紀の作品を模写を続けます。

渡航費として用意した大金も1年で底をつき、生活は困窮していきます。

この頃から義松はパリに住む日本人の多くからの借金を繰り返します。
さらに模写をした作品を売って生計を立てていました。
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       五姓田義松《人形の着物》1883年

この絵もまた、パリサロン入選を果たします。生活には困窮しても志は失ってはいませんでした。

明治20年(1887)イギリスからスコットランドを周りアメリカへ渡ります。

そして、明治22年(1889)日本に帰国します。
34歳の義松は10年にも及ぶ西洋の画壇へのチャレンジを終えました。

その挑戦は大成功とは言えなかったかも知れません。けれども、本場西洋の画壇に挑んだ最初の日本人であることは事実です。

このことは大いに評価されるべきことでしょう。

五姓田義松がパイオニア(先駆者)として道を切り開いたのです。


帰国後、日本画壇の状況は大きく変化していました。

明治政府が主導した急進的な欧化政策の反動から、美術の分野でも伝統的な日本美術と新しい日本の絵画を振興させようという動きが顕著になっていました。

義松の後半生は不遇であったとの見方もあるでしょう。
しかし、晩年までその制作意欲は衰えなく続きました。



今回の展覧会場で五姓田義松の家族を描いた作品に心が動かされました。
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       五姓田義松《老母図》明治8年(1875)

義松が好きな絵が描けるように常に支えてくれた母・勢子。
亡くなる前日。
命が尽きようとしている母を描いたこの絵には胸を打たれます。義松20歳の時です。



そして、父の芳柳(ほうりゅう)を描いた絵も多くあります。
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   五姓田義松《絵を描く芳柳》明治6年(1873)

この絵のタイトルにあるように義松の父・芳柳は絵描きでした。

五姓田・・・ 変わった苗字ですが、この苗字は芳柳が自身で作った苗字だそうです。

父・芳柳は紀州藩江戸藩邸の下級武士の家に生まれ、名を森田弥平治といいましたが、時代が江戸から明治の世になり苗字も名前も変えてしまったようです。

五姓田は弥平治を育ててくれた5つの家の意味だそうです。 

この五姓田芳柳もまた小さい頃から絵を描くことが好きでした。
十代の後半には絵師として生きて行こうと考え、諸国を放浪しさまざまな絵師に出会い、絵の修行に励んだようです。
やがて、明治天皇の肖像画を宮内省の依頼で描き、洋画元祖の評判を持つ人物までになります。

ですから、息子義松の絵に対する情熱と才能を見抜き、横浜に在住のチャールズ・ワーグマンのもとに預け息子の成長を見守ります。

日本一の洋画家になって本場西洋で自分の腕前を試して見よう。
それは、父・芳柳と息子・義松の共に描いた夢であったと思います。
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   五姓田義松《初代五姓田芳柳像》明治13年(1880)

武士であり絵師の威厳のある姿に圧倒されます。佇まいが只物ではありませんね。



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        五姓田義松《自画像十三歳》

義松13歳の自画像と伝えられてきた作品です。
しかし近年、義松の自画像ではなく妹の登米(とめ)を描いたとの説があるそうです。



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   五姓田義松《五姓田一家之図》明治5年(1872)

義松が芳柳から独立して母と二人の妹、弟子たちと共に住んだ家の工房兼居間を描いています。

画面右端に登米、その隣りが母・勢子です。

画面左端で描き手の義松を描こうとしているのが一つ年下の妹の幽香。彼女もまた五姓田派の画家として活躍しました。


五姓田義松の作品を見ている際に、一番に心を惹かれたのが義松の父である五姓田芳柳の姿でした。
武士らしい凛とした佇まいでしたが、どこか自由人的な雰囲気のある、とても魅力的な男に見えました。

展示室を出て売店を覗くと、『絵師五姓田芳柳 義松親子の夢追い物語』という本が目にとまりました。
著者は神奈川県立歴史博物館主任学芸員 角田拓朗氏とありました。
確か日曜美術館でも解説されていた若い方と思い出し、この本を購入させて頂きました。

五姓田芳柳と義松のことを丹念に良くここまで調べあげたものだと感心させられましたが、とにかく面白くて一気に読んでしまいました。

角田拓朗氏の五姓田芳柳と義松親子、そしてその家族に対する思いが伝わってきました。
今まで知らなかった歴史の一端を知ることが出来ました。

大変ありがたい歴史との出会いに感謝したいと思います。

( 本記事の画像は『五姓田義松ー最後の天才』展図録より引用させて頂きました。ありがとうございます。)