松浦1

「幕末の北方探検家松浦武四郎展」を訪ねたのは昨年の11月でした。
以来、北方に興味を持ち、今年の2月は「流氷を探して」9月には「オホーツク人を求めて」北海道の北方を旅しました。

今回の旅の途中、「松浦武四郎の碑」を 度々目にしました。行った先々で偶然に出会ったものですが、その後、調べてみると、北海道のあちこちに「松浦武四郎の碑」があるそうです。

今回は、「オホーツク人を求めて」の旅行中に出会った「松浦武四郎の碑」を紹介します。
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オホーツク人目梨泊遺跡のある神威岬です。
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「幕末にこの地を旅した探検家の松浦武四郎は、アイヌ民族が ”神霊の宿る地”として岬を厚く敬っていたことを記録しています。岬一帯にはアイヌ語で ”神”を意味する”カムイ”を冠した地名が点在しており、この岬が古くから神聖な場所として大切にされてきたことが判ります。・・・」と枝幸町教育委員会が記しています。

松浦武四郎はアイヌの人々の暮らしの中へ尊敬の念をもって入って行き、彼らから、様々な生活様式や文化、信仰を学び、記録を残しました。


神威岬からオホーツク海沿いに北上すると、猿払(さるふつ)村があります。猿払村はその面積の広さと帆立貝の水揚げ日本一で知られています。
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オホーツク海を見下ろす場所に「松浦武四郎宿営の地」とあります。
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松浦武四郎は自ら「北海道人」と名乗っていたそうです。
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松浦武四郎の日誌によると安政3年8月20日に猿払に来ています。この時期は蚊が多かったのでしょう。昼夜わかちなく蚊に悩まされている様子が記されています。夜は蚊取りを抱えて寝たようです。たしかに、私もオホーツク人の遺跡を見るために森に足を踏み入れる度に蚊の大群に大いに悩まされました。冒険家・・・大変です。
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そして、手塩町。
鏡沼海浜公園には「松浦武四郎像」がありました。
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松浦武四郎は「北海道」の名付け親と知られています。
北海道のあちこちで松浦武四郎は今も道民に親しまれているようです。


今回の旅の参考書になったのは、司馬遼太郎の「街道をゆく オホーツク街道」です。
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司馬遼太郎もまた、オホーツク街道をゆく旅の終わりに松浦武四郎に思いを馳せています。
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「旅の終わり」の章で、司馬遼太郎は、知床で雑木林を見ながら、松浦武四郎のことを思います。

武四郎が愛した山川草木のなかで、司馬遼太郎は武四郎の日記や紀行文を読むと、自分自身がアイヌとなって武四郎と話をしているような気になると、あります。
司馬遼太郎は生前、自分にはこの世にはすでにいないけれども、歴史の上に大勢の友人がいると言っていましたが、彼のオホーツクの旅・・・オホーツク人を訪ねる旅の最後で松浦武四郎といろいろなことを語り合ったのでしょう。

幕末の頃、松浦武四郎は未知の蝦夷地や北方を探検し、アイヌを始めとした北方の少数民族と交友関係を持ちます。
松前藩のアイヌに対する差別や搾取、弾圧にも立ち向かいます。そのために命を狙われることもありました。けれども、異なる文化や言葉を話す異民族に対して尊敬の念を持って接する彼の様子に、司馬遼太郎はキリスト教によらぬ人類愛を見出します。そして、アイヌに対しては、異民族ではなく縄文文化の直系の末裔なのであると言います。
司馬遼太郎もまた人類愛にあふれた人ですから松浦武四郎とは意気投合したことでしょう。

そして、司馬遼太郎は最後に結びます。
「オホーツク人の正体につき、私の想像力では手に負えなかった。が、そのことに後悔していない。
 そんなことよりも、私どもの血のなかに、微量ながらも、北海の海獣狩人(かりゅうど)の血がまじっていることを知っただけで、豊かな思いを持った。
 旅の目的は、それだけでも果たせた。」

ここ最近、国内で異民族に対するヘイトスピーチに代表されるような様子に私も息苦しさを感じていました。しかし、司馬遼太郎の言葉や松浦武四郎の行動は清々しく、そして豊かな気持ちにさせられました。

私もまた、旅の目的は果たせたようです。