危機管理広報課の宴会の話は、新聞だけでなくテレビでも取り上げられていましたので削除しました。さて、前回紹介した内田樹著「子どもは判ってくれない」の続きです。以下引用抜粋です。
論理的な人と理屈っぽい人
論文を書くためには、まず資料を集める。そして、収集した資料を分析し、理論を立てるという論理的思考が必要である。
「論理的に思考する」というのは、今の自分の考え方を「かっこに入れて」、機能を停止させる、ということである。
「今の自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然」と思えるような経験や思考の様式のことである。目の前に問題があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「今の自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
それはペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。使いものにはならない道具をいじりまわしていても始まらない。そういうものはあっさり捨てて、「出刃」に持ち替えないといけない。「論理的に思考する」というのは、煎じつめれば、「ペーパーナイフを捨てて、出刃に持ち替える」ことである。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの2,3枚をはがすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということがわかったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコをはぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ厭わないような「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがあるが、「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。
「自分の考え方で」考えるのを停止させて、他人の考え方に想像的に同調することのできる能力、これを、「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。
うーんわかるようなわからないような話ですが、なぜか引っかかる文章なので紹介しました。理屈っぽい人と論理的な人の違いはなるほどわかるような気がします。つぎの「才能の測り方」の方は、僕はよくわかります。
才能の測り方から引用抜粋
村上龍の「タナトス」を読み終えた。
村上龍は「才能」にこだわる作家である。
ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と歓喜に満たされているような活動が自分にとって何であるかを知っていて、ためらわずそれを選びとる人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。
私はこのような村上龍の意見に全面的に賛成である。
才能は「アウトプット」で図るのではない。その活動から引き出した「快楽の総量」で測るのである。
言葉は似ているけれど、快楽は本質的に個人的なものであり、欲望は本質的に模倣的なものである。この2つはまったく違う。
欲望は他人の模倣であるからそもそもの起源は私のうちにはない。だからそれが充足されたからといって「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。
快楽はそれ自体が快楽の目的である。
こういうのを読むと日本の教育はどこか間違っているのではないかと思います。子どもたちの個性や才能を発見し伸ばすことより、なんでも平均的にできることを求める。子どもたちに自分が好きなことや興味のあることを見つけさせ、それを伸ばす教育ではなく、嫌なことでも我慢して好き嫌いなく勉強させるようなことばかりしているのではないでしょうか。
論理的な人と理屈っぽい人
論文を書くためには、まず資料を集める。そして、収集した資料を分析し、理論を立てるという論理的思考が必要である。
「論理的に思考する」というのは、今の自分の考え方を「かっこに入れて」、機能を停止させる、ということである。
「今の自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然」と思えるような経験や思考の様式のことである。目の前に問題があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「今の自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
それはペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。使いものにはならない道具をいじりまわしていても始まらない。そういうものはあっさり捨てて、「出刃」に持ち替えないといけない。「論理的に思考する」というのは、煎じつめれば、「ペーパーナイフを捨てて、出刃に持ち替える」ことである。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの2,3枚をはがすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということがわかったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコをはぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ厭わないような「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがあるが、「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。
「自分の考え方で」考えるのを停止させて、他人の考え方に想像的に同調することのできる能力、これを、「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。
うーんわかるようなわからないような話ですが、なぜか引っかかる文章なので紹介しました。理屈っぽい人と論理的な人の違いはなるほどわかるような気がします。つぎの「才能の測り方」の方は、僕はよくわかります。
才能の測り方から引用抜粋
村上龍の「タナトス」を読み終えた。
村上龍は「才能」にこだわる作家である。
ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と歓喜に満たされているような活動が自分にとって何であるかを知っていて、ためらわずそれを選びとる人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。
私はこのような村上龍の意見に全面的に賛成である。
才能は「アウトプット」で図るのではない。その活動から引き出した「快楽の総量」で測るのである。
言葉は似ているけれど、快楽は本質的に個人的なものであり、欲望は本質的に模倣的なものである。この2つはまったく違う。
欲望は他人の模倣であるからそもそもの起源は私のうちにはない。だからそれが充足されたからといって「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。
快楽はそれ自体が快楽の目的である。
こういうのを読むと日本の教育はどこか間違っているのではないかと思います。子どもたちの個性や才能を発見し伸ばすことより、なんでも平均的にできることを求める。子どもたちに自分が好きなことや興味のあることを見つけさせ、それを伸ばす教育ではなく、嫌なことでも我慢して好き嫌いなく勉強させるようなことばかりしているのではないでしょうか。
三苫です。
>「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキス
>だって料理に使ってしまう人のことである
これは内田さんは柳生新影流の無刀の極意のことを語っているの
だと思います。無刀の極意とはその場にあるものをなんでも武器
として使ってしまえる「心」を鍛えることなんだそうです。
有名なのではシステム学者の清水博さんが書かれた
「生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理」
があります。
佐野さんは次のように言われました
>開かれたというのは、僕のイメージでは、頭の天井が開いているイメージです。
>開かれているから、天から光がそそぎ、新しいアイデアも降りてくる。
則天去私という言葉も浮かびましたが、無刀の極意と近いように
も思いました。
三苫拝