山水記

新人サラリーマンが綴るブログ。毎週、月・水・金に更新。

 この本については既に2回ほど記事にしてきたが、それは読み進めながらも刺激が強すぎて、読み終えてから感想を書くのでは書ききれないと思ったからだ。

 それが遂に読み終わってしまった。今回は読み終えてみての振り返りをしてみたい。
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 そもそも歴史を学ぶ意義とは何か?過去に学び同じ過ちを繰り返さないため、とよく言われるが、だとしたらなぜ今はこんなにも問題を抱えているのか。不思議でならない。それはつまり歴史を学んでいないということの裏返しでもある。

 筆者は興味深いことを言っている。

よく「歴史に学べ」といわれます。たしかに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりを示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意思がなければ、歴史はほとんど何も語ってはくれません。

 深い言葉である。学ぼうとしなければ何も得ることができない、それが歴史であると筆者は述べている。確かにそうだ。歴史を知るということは、その時代に何が起きてその結果こうなったとただの事実を積み上げ覚えることではない。そこから何を学び取るか、そこが最も重要なのである。しばし忘れそうになるが、歴史を学ぶとはそういうことである。 

 だが、歴史を学ぶことと同じくらい事実を知ることは自身のアイデンティティを確立するうえで必須であることは間違いない。 今、自分が住んでいる「日本」で何が起こったか、それを知らずして日本の未来を案じるなんてことはできない。自分が今ここにいる、その原点を辿ることは生きる意味を見付けるようなものである。

 右翼になれ、だとか愛国心をとにかく育め、だとかそういうことではないが、過去の大戦でどれだけの人が犠牲となり、その犠牲の上に積み上がって今がある、ということは頭の隅に常に置いていてもいいと思う。自分もこの本を読むまで忘れていた(事実としては知っていた)が、本当にそうなのである。犠牲となった人は日本の未来のために身を賭したのである。どんな思いだったか、自分にも同じことができるか、と自問すると悩んでしまう。

 ただ歴史を知りそこから学ぶと言っても、漫然と年表を開いたり、当時の資料へいきなりアタックするということはかなりハードルが高い。史実を史実として受け止め、自分なりの分析が出来ればベストであるが、最初からそこまでするのは難しい。そこでこのような筆者の主観が入りつつも、当時の資料の引用が散りばめられている講義形式の本が最適なのだ。主観といっても極端な思考に偏っているわけではなく、かなり冷静に昭和史を眺め、ご自身の中での評価をそのままオブラートに包むことなく書ききっているので読みやすい。思わずクスっと笑えてしまうほどに面白い。

 自分はこのまま『戦後篇』に突入し、『ノモンハンの夏』などの作者の本に当たってみる次第だ。かなり色んな本を書かれている方で図書館にも豊富に蔵書があったので、飽きるまで歴史を学ぼうと思う。しばらくは歴史熱が冷めそうにない。 

 『昭和史』を読み進めていて感じることは色々あるが、その内の一つに「正しい選択をすることはとても難しい」ということだったりする。どういうことか?
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 人はよく間違える。それはごくごく自然なことで、ちょっと間違っても「だって人間だもの」ということで済ませられることが多い。間違えを繰り返さないことが重要で、同じ間違えを繰り返すようでは人として終わっている。

 それはそれとして、話が大きくなるとそれは常に正しい選択を取るのが当たり前のように思えてしまう。例えば、国家の趨勢など。例えば、会社の経営方針など。偉い人が何人も集まって話し合って決めているのだから、間違えるはずがない。そうどこかで思い込んでいる部分がある。間違えなど起きるはずがない、と。

 だが、偉いからといって常に正しい行動ができるということでもないらしい。『昭和史』を読んでいるとそれを痛感する。「国家」と聞くと、何か無機質で正しい選択を選び取り動いている機械やシステムのような響きがするが、その舵取りをしているのは人間なのだ。当たり前だが、忘れそうになる。

 人間が舵取りをしている以上、間違いが起きるのは仕方がないが、その間違いを正せないというのはいささか問題である。 うまく言葉にできているか不安ではあるが、間違ったまま突っ走るなんてことをその場の雰囲気や我欲に左右されるべきではない、ということだ。

 国家としての判断を下す以上、そこにはとてつもない責任が生じる。 その判断に個人の気持ちを入れるべきではない。簡単に言えば「雰囲気に飲まれるな」ということになる。

 そう、昭和史はだいたいにおいて「雰囲気」に左右されてきた。それは確たる情報を基に戦略を立てなかったという基本的なところから、そもそもどういう方向へ日本を向かわせるのか、という大局的な部分においてまで、あらゆる部分でそういう臭いは感じられる。調子に乗っていた、いい気になっていた、そういう雰囲気が時代を覆っていた。

 だからこそ、今を生きる上で大事にしなければならないことは、雰囲気に飲まれず淡々とやるべきことをやる、という決断だったりする。パッと見栄えのする政策だったり、一時的なしのぎのためのカンフル剤などいらないので。ただ、統計データが示す数字から何をどうすれば解決するのかを導き、それを国民に説明し理解を求め、政策として実行していく。この愚直さが最も重要なのではないか、と思う今日この頃である。

 歴史、というのはただの事実の羅列。そう思われてはいないだろうか。

 それは歴史の持つ側面の一つを表しているだけで、それが全てではない。歴史とは「過去に起きた事象」である以上に、「生身の人間が積み上げてきた出来事の集大成」なのである。その言葉の真意を問いたい。
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 というのも、この本が面白すぎる故、誰かに「歴史って楽しいんだよ!」ということを言いたくて言いたくて仕方ないからである。タイトルは飾り気もないし、表紙も目を見張るようなデザインではない。ただの「昭和史」。1926-1945までの史実が書き連ねてあるだけの本にしか見えない。第一印象はそんなものだ。

 僕もそんな「退屈な本」という印象で手に取った。職場の偉い人がこの本を推薦しており、たいていの場合そういう本は「つまらないが何かしらの教訓が詰まっていて、今後のサラリーマン人生を歩む上で薬籠となりうる本」 というのが定石である。そして、そういう本は得てして最後まで読みきることが難しい。抽象的な古典や過去の大作が挙げられていて、内容を理解する前に、読みきれるかどうかというハードルが厳然と存在している。まるで「読みきっただけですごい人」と思われるかのような、そんな印象さえある。

 だが、この本はそんな邪推とは無縁に思えるくらい楽しく読める。文字通り「日本史の授業を受けている」ような感じで「昭和史」の出来事を説明してくれていて、たまに差し込まれる「舞台の裏側事情」というのがクセになる。著者の皮肉めいた批評も面白い。そもそも、歴史の授業というのはただ史実をそのまま伝えるのではなく、それを先生自身がどう受け止めているか、というのが生徒にとって一番の関心事だったりする。中には偏った思想を持っている先生もいるが、それもそれで面白い。さらっと悪口を言う先生なんかはかなり評判がいい。逆に、教科書通りの授業一辺倒でテスト対策をきちっとしてくれる先生であっても、そんなのは全然面白くない。史実など教科書に書いてあるし、その気になれば読むだけで内容は頭に入る。生徒が知りたいのはその裏側。人と人がどう生きたか。その息吹を少しでも感じることができるならば、そこに歴史を学ぶ意義が生じる。

 歴史を知ることは~年に~事件が起きた、という知識をたくさん詰め込むことではない。それはただの暗記。もっと重要なことは歴史の対局を掴み、その時代でどんなことが行われていたか、それを当時の人はどのように受け止めていたか、そのギャップを理解することにある。なぜか?その時代に生きていた人々はその時代を生きていたからこそ、誰よりもその時代を理解しているのだから、ギャップなどあるはずがない。むしろ、今を生きる我々の方が当時の時代の受け止め方にギャップがあるのでは?そう疑問に持つかもしれない。

 が、それは違う。今という時代を正しく認識することは、少なくとも今を生きる人々にとって大変難しい。昭和を生きていた人々は昭和という時代が持つ異常性を異常と捉えるまでにかなりの時間がかかっている。それは今から見れば明らかに異常と指摘できるものの、その時代に生きていてはそれが日常であり正常であると受け止められているからだ。この考えを推し進めると、今、平成28年を生きている我々は、この平成28年という時代を正しく認識できていない、ということに帰結するが、それは本当か?何を馬鹿なことを。今という時代を誰よりも詳しく知っているのは自分だと自負できるか?

 細かな事実として今を誰よりも知っているのは今を生きる自分である。しかし、その今という時代をどう捉えるか。もっと言うと「どう評価するか」という次元の話になると、途端に雲行きが怪しくなる。未来から見たら「誰が見てもやるべきであることをどうして当時の人はしなかったのか」という視点で平成28年を評価するかもしれない。その瞬間、初めて我々は時の洗礼を受けることになる。

 まだこの本を読破したわけではないので、現時点(太平洋戦争に突入するまでの章)において感じたことをまとめてみた。過去を反省し、現実を直視し、未来を洞察する。言葉にすれば簡単に聞こえるが、これが本当に難しいのだろう。そうしみじみ感じる今日この頃であった。
 

 笑える漫画ですよ、これは!
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 なんというか、最初の一ページ目で持って行かれた。あ、そう来るか、そう来ちゃう?うわ、めっちゃ面白いじゃん!みたいな。そんな感じ。

 悟り世代なんて言葉はゆとり世代の次の世代を指す言葉だろう。ゆとりは独創性と豊かにするとかなんとかで、カリキュラムを減らされ、結果的にちょっと抜けた社会人が量産されたわけだが、悟り世代はそんなゆとりを見て育った世代であり、何者にも期待しない、クールで冷たい現実を正面から見据えた世代になっている。

 それが接客業を始めるとどうなるか、ってあたりが面白い。悟り世代を極端にして哲学的に仕上がった新人さんという設定がツボ。うーん、ゆとりとは違う意味でブッ飛んでやがる。これはこれで扱いが大変そう。

 指導係である主人公が就職浪人中というのも少し泣けてくる。ゆとりは就職氷河だったからなぁ。決まらずにバイトを続けるパターンで珍しくなかったんだよなぁ。

 それはそれとして、接客業ってやっぱとても大変そう。自分はバイトでこういうのをやったことがなかったため、深夜のコンビニってどんなものだろうと純粋に楽しめた。ほうほう、そんなお客さんもいるのか、と。そんでもって、厄介な客はどこまでも厄介だな、と痛感した。

 ニーチェ・・・中学時代に傾倒している友人がいたが、彼は今どこで何をしているのだろう。超人になれ、と僕を鼓舞してはその意味を長々と説明してくれていたが、当時の僕はあまり本を読む性格ではなく、宇宙人を眺めながら、その内容を推察するかの如く、彼の話を聞いていた。つまるところ、何言ってんだコイツ?状態だった。

 ひょんなことから手に取ることになった作品だが、普通に楽しそうで続く二巻・三巻が楽しみ。息抜きにさくっと読めますよ。是非是非。 

 なかなかに結末が見えないなぁ、と思っていたらそういう感じで終わるのか!という終焉だった。今日はそんな話。
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  上巻から引き続き、脚本家・高遠ナツメの浮気(?)は続く。浮気というか本人曰く「自分に正直になっているだけ」なのかもしれないが・・・一応、省吾という旦那がいる以上は浮気と読んで差し支えないだろう。

 志澤との夜を過ごし、振られ、同級生・岩井と親しくなり、ついにこの男と一緒になるのか、と思っていた。いや、むしろ、そこから岩井との浮気も飽きて最後は旦那のところへ帰るのだと思っていた。別のところではそうあって欲しいと祈ってもいた。

 が、話は予想外の展開をし始める。岩井が忙しくなりナツメと会う機会が減るタイミングで坊主に気に入られ、一夜を過ごすことになり、ホテルを出る瞬間を若手俳優・大林に目撃され、その後のやり取りを経て、ナツメは新しい男・大林と一緒になる。ナツメの中でも本命が岩井から大林に移り、一緒に見に行った花火の帰り道で話は終わる。

 男としては複雑な気持ちになる。女性性の覚醒などというテーマでは斬新なのかもしれないが、それを手放しで喜べない自分がいる。結婚・離婚というのはそんなに軽いものであったのか。分からない。

 気に入らない部分があるにせよ、パートナーはパートナー。そこをどう乗り越えていくのか、それが課題であるように思える。本書はそこを脚本家であるということを理由に、浮気をやむを得ない、むしろ自分の殻を破ったとして賞賛するような空気までもが流れている。

 色んな場所へ出て行って、様々な経験をし、世界を広げることはイイことだ。が、出れば出るほど、他者との比較に苛まれることになる。誰かから声を掛けられる機会も増える。誘惑が増す。パートナーとの関係を軽んじがちになる。なかなか悩ましい状況だろう。

 女性にしても言い分はたくさんあるだろう。が、何より男性が恐れているのは作品全体に流れている雰囲気「セックスのテクニックが結局のところ一番重要なのではないか」というあたりだろう。

 ナツメは会って気になった男だいたい全てと一夜を過ごしている。そして、それを振り返って、「~ほどではない」「~の~な部分は予想外だった」と冷静に分析している。このあたりが鬼門。女性の心理をこと細かく描写しているのだろうが、読めば読むほど虚しくなってくる。頭を抱えてしまう。

 端的に言って、ある種の現実を直視し、男性として自信を喪失させるかもしれないという覚悟もあり、それでも怖いもの見たさが勝るのならば、読んでみるのもいいだろう。そうでないのなら、そっと棚に返したほうがいいだろう。 

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