すごく当たり前のことですが、タイトルのままのことを書こうかな、と。

 同じだけの給料を貰うのであれば、割り振られる給料も同じ。給料が高い人はそれだけたくさん仕事をしなければならない。特に理論的矛盾はない。

 だが、現実はそうではない。高い給料を貰っているにも関わらず、あまり仕事ができない人や安い給料にも関わらず、大量の仕事を押し付けられている人もいる。不平等は悪ではないとでも言うつもりか。

 昔の自分であれば、そのことに憤っていた。仕事ができないor遅いってのはただの言い訳で、つまるところ「やれ」って思っていた。何が何でもやる、やってから考える、そういうある意味マッチョな考えをしていた。

 が、それでは無理なのだ。できるんだったら最初からやっているし、できるようになろうという気概があれば、それも最初から努力している。

 そう、そういう人は「できないからできない」のだ。

 おかしな論理展開だと思われるかもしれないが、これほど事実を事実として正確に伝えられているものもない。できないからできない。本当にただそれだけなのだ。

 サボっているのも一部あるかもしれない。が、往々にしてそれは本人としては精一杯やっているつもりなのだ。 ただただ「できない」だけで。

 アホみたいな労力を使い、結果としてのアウトプットが微々たるもの、なんてことはザラにある。虚しくならないのか、効率化を図ろうと思わないのか、甚だ不思議なところではあるが、ある種の思考停止状態に陥っているようで、もうどうしようもないのだろう。諦観。

 できない人間というのはただそれだけで迷惑な存在であり、その迷惑っぷりを少しでも意識すればそこから道は開ける。できないんだから仕方がないと開き直ったら、そこで人生ターンエンド。極端な言い方をすれば、そこで死んだも同然になる。

 できる・できない、なんてことはそこにガッツリ壁が存在しているわけではなく、ちょっとした気付きをどれだけ積み上げられるか、にかかっている気がする。すごく些細なことでも、何万回も繰り返す作業であれば、短縮できる時間は計り知れない。一瞬先の未来を軽くイメージするだけで、 今どんな手を打てば楽できるか分かるようになる。

 仕事ができない、ということがただちにその人の人間性に繋がるはずはない。が、人間性が多少アレでも、仕事という部分で評価される可能性はあるにはある。人間性なんてあやふやなものが人の評価においてすべてではない、ということはある種「救い」でもあるのだろう。