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ロッテ重光武雄伝 4

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「在日」の英雄・ロッテ重光武雄伝―前川恵司 (文芸春秋1987年)
在日韓国人の中で最高の成功者といわれるロッテの重光武雄会長だが普段メディアに顔を出すことは、ほとんどといってない。またロッテ自体もプロ野球や人気タレントを使ったCMなどで華やかなイメージがあるが株は未公開。そんな中で、この記事では珍しく重光会長がインタビューに応じている(あんまり喋ってないけど・・・)。

重光氏の出身地は韓国慶尚南道。18歳の時に日本に渡り、働きながら早稲田実業などで学ぶ。そして戦後間もない頃、進駐軍が持ち込んだチューインガムに目を付け、友人らとガム工場を設立。しかし当時はライバルの同業者が全国に約400、なかでも関西を地盤にするハリスとの戦いは熾烈を極めた。このとき重光氏が重要視したのがセールス、宣伝だった。特に宣伝には当時から力を入れていたようで、1千万円の懸賞などで話題を集め結局ライバルを打ち負かしてしまったそうだ。その後は日韓の国交回復を機に祖国に進出。ホテル・レジャーを始め様々な事業を手掛ける新興財閥として知られるようになった。

「広告代をケチるのは節約とはいわない。売り上げを減らすだけだ」 (106ページ)

しかし急成長するロッテに対しては妬みや僻みも絶えなかったという。日本では在日であること、祖国韓国ではいわゆる僑胞として冷たい視線を浴びた。またロッテが韓国に進出した60〜70年代は、まだ朴正煕による軍事独裁の時代だったことから岸信介など親韓ロビーの政治家との癒着が取り沙汰された(ロッテがプロ野球界に進出したのは岸の斡旋によるもので、その他にも政界工作を依頼)。85年に行われた次男の結婚披露宴には岸の他にも中曽根、福田両元首相や石原慎太郎氏などが出席し週刊誌などで様々な憶測を呼んだ。重光氏が寡黙になってしまったのも無理はないのかも知れない。

「確かに岸さんとは20年以上も前に、知り合って以来、つきあいがある。しかし・・・自分が韓国人だから何かあるなと感じられ、既成事実化されてしまうのはたまらない。評論家先生の下種の勘繰りだ・・・」 (110ページ)

一方で日韓両国を股にかける経営には有利な面もかなりあったらしい。それは日韓の金利格差を利用することや、日本で流行ったものを韓国でいち早く売り出したりすることだ。でも今後、日韓関係が悪化していくようならロッテも苦しい立場に立たされるのかもしれない。朴正煕も岸信介もいない今、閉鎖的にならず、ロッテにはむしろ日韓の架け橋になって欲しいと感じた。

初めて重光に会った日、彼は2種類の名刺を手に持っていた。「辛格浩」という名刺と、「重光武雄」という日本名の名刺である。彼は一瞬ためらい。そして片方の名刺を差し出した。 (111ページ)



■重光武雄エピソード■

・川島派所属の某議員が語った重光武雄と船田中の関係。
「1960年から61年のことだったと思うが、ロッテの重光という男から『200万の献金をしたい』といわれたことがある。『だれに言われたんだ』と聞くと『実は藤枝泉介さんからだ』という。藤枝は船田中の弟で、交友会の会計をやっていたんだが、その船田が重光のバックアップを受けていたこととも関係があったように思う」(資料・日韓関係2・266頁)
船田は日韓国会で衆院議長として強行採決を断行。この裏で動いていたのが藤枝だといわれる。77年のドラフト会議で、ロッテが江川卓を指名しなかった背景には、江川の後援者であった船田に対する配慮があったともいわれる。

・『資料・日韓関係』は、重光と福田赳夫や中曽根康弘との関係についても触れている。福田とは岸信介の線で繋がりを持ったとされている。また、同郷で駐日大使やKCIA部長を務めた李厚洛から、中曽根を支援するように勧められたことも記されている。

・『猛牛と呼ばれた男』によると、李厚洛は東声会の町井久之とも関係が深く、駐日大使時代は重光を含めて、3人でよく食事をしたという。重光と町井の関係は、1952年に行われたサッカーのW杯予選で、来日する韓国代表チームの支援を、町井が同胞の実業家などに呼びかけた際に始まったという。

・中曽根は総理就任後、総理訪韓時の定宿を三星財閥系のホテルからロッテホテルに変更させたという。また、中曽根は重光次男の結婚式やソウルのロッテワールド開園式、釜山ロッテホテル開館式にも出席したという。

・伊藤昌哉著『自民党戦国史』には、ロッキード事件の最中に、重光が大平正芳と福田赳夫との会談を取り持とうとする場面が出てくる。伊藤は重光について“福田氏連絡者”と記している。

・『佐藤栄作日記』によると、1968年の12月18日に重光が佐藤栄作(当時首相)の元を訪れ、ガム自由化への反対陳情を行ったという。重光が恐れていたのは米国リグレーの日本進出で、同時期には、岸信介の秘書・中村長芳(後のロッテオリオンズオーナー)なども政官界工作に動き回っていたとされる。

・同じ68年、政界からの強い要請を受けてプロ野球界に進出するが、重役会議などで「他チームのファンがロッテ製品を忌避する恐れがある」との意見が相次ぎ、正式にロッテ球団を設立するのは3年後の1971年となった。(韓国財閥25時より)

・重光の次男・昭夫氏の結婚式は1985年の6月に行われた。新婦は大成建設副社長・淡河義正の次女で、自民党の伊藤宗一郎(元防衛相)の秘書を務めていた淡河真奈美さん。

・野党人脈。1980年に当時民社党の書記長であった塚本三郎の訪韓を取り持ったとされる。また85年に行われた次男の結婚式には、江田三郎や田英夫など、従来は韓国軍事政権に批判的だった議員も出席した。





コメント
1. Posted by 名無しさん   2015年02月18日 15:53
こちらもご覧ください。
≪ロッテグループ総師 重光武雄(辛格浩)を告発するブログ≫
http://ameblo.jp/has2531/entry-11980696093.html
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