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新井将敬・略年表(石原慎太郎、野村秋介との関係)

             
   



1948年
大阪府北区曽根崎で在日3世として生まれる。本名は「朴景在」。

当時の北区には、朝鮮人や中国人が多く暮らし、『国際マーケット』といわれる大規模な闇市が形成されていた。


小学校
生徒の半数近くが在日外国人である、地元・曽根崎小に入学。

成績優秀で一目置かれていたことから、日本人生徒と在日生徒の対立が起きると、両者の仲裁役としてかり出されることもあったという。

同級生から自身の国籍について揶揄された際には、「ぼくは日本人だ」と激怒したという。当時は「新井隆史」という通名を使っていた。


中学
 地元の菅南中に進学。この頃から、「新井将敬」を名乗るようになる。

中学2〜3年時に、当時義務づけられていた、指紋押捺による外国人登録を経験。精神的なショックを受け失語症に陥ったといわれる。


高校
名門・北野高校に進学。国籍制限がなかった医師を目指し、京大医学部を受験するが失敗。担任の教師には「落とされたのは日本人じゃないからだ」と語ったという。


18歳
浪人生時代に両親と共に帰化。「新井将敬」を本名とする。帰化した理由や経緯については、父親の商売上の問題、政治家を志していた新井が両親に進言した等、諸説ある。


1967年
東京大学に入学。

1972年
新日本製鐵に入社。

1973年
大蔵省に入省。


1976年
厚生省に出向。厚相を務めていた渡辺美智雄の知遇を得る。



1982年
大蔵省を退官。当時、蔵相だった渡辺美智雄の政務秘書官となる。

同年中頃から、衆院(旧)東京2区(大田区、品川区)で事実上の選挙活動に入る。


11月初旬
大田区内で大規模な、新井支持集会が開かれる。

また、対立候補の一人である、石原慎太郎の有力支援者が新井陣営に回る。危機感を抱いた石原陣営は、新井の国籍問題を取り上げ始める。


11月19日
大田区西蒲田の路上で、新井のポスターに「41年・北朝鮮より帰化」と書いたシールを貼り付けた男が、現行犯逮捕される。男は新井のポスター3000枚に同様のシールを貼り付けていた。

逮捕されたのは、石原慎太郎の公設第一秘書を務めていた栗原俊記(当時34歳)。翌日に釈放され、秘書を辞任した。

当時、大田区に住んでいた野村秋介は、同事件について「日本人として恥ずべき行為だ」と憤慨した。



1983年1月
栗原俊記が週刊誌のインタビューに応じ、「石原本人は無関係」、「元親分(石原)に迷惑をかけて申し訳ない」などと語る。栗原は第一秘書辞任後も、石原の政治団体に籍を置き、選挙活動に関わっていたとみられる。


4月
栗原俊記が『週刊新潮』のインタビューで、再び事件について語る。同誌は栗原を好意的に扱い、「新井のような帰化人であっても、当選し、政治家となり、いつの日か総理大臣になることができる。(中略)その場合、総理大臣について、何らの制約もない、ということでいいのかどうか」と、新井の政界進出について危機感を煽った。

しばらくして、新潮の記事と新井の戸籍謄本が、大田区と品川区の有力者宅に送りつけられるようになる。


5月
新井、東京地検に栗原を告訴。記者会見で、「人は誰も、出生の条件だけは自分で選びとれません」と涙ながらに語る。

その後、告訴は渡辺美智雄などの説得により、取り下げられる。


12月
新井、衆院選挙に初出馬。次点で落選。石原トップ当選。



1985年
石原慎太郎が自民党総務会で、「外国から帰化した者が立候補することを制限するべきだ」と発言。



1986年7月
新井、二度目の衆院選で初当選。10万票あまりを獲得し、石原に300票差まで迫る。


選挙中、野村秋介は石原陣営による新井陣営への、妨害行為に憤慨し支援に乗り出す。

野村関係者の話「新井事務所がある蒲田駅の西口ロータリーに、石原陣営がチャーターした車が10台ぐらい駐車して、動かないんです。当然、新井事務所は困る。野村は『今度は許さない』と言って街宣車を出し、石原陣営の車を追い払ったのです」。


7月下旬
週刊新潮に、『選挙民も知らなかった帰化韓国人の代議士当選』と題した、新井の特集記事が掲載される。

同誌は、石原の「選挙民は立候補した人のパーソナルヒストリーを知る権利がある」といった発言を引用しながら、「国政に携わる者が、その問題(国籍、帰化の公表)で国民に不安と心配を与えることは、既にして政治家の資格を失っていると言っていい」と、新井を断じた。



1986年9月
中曽根康弘首相の随行員として韓国を訪問。中曽根首相とともに、全斗煥大統領と会談した新井は「日韓のパイプ役になりたい」と発言し、韓国マスコミの注目を浴びる。


11月
新井と野村秋介との交流が始まる。新井は、野村が主催するシンポジウムや出版イベントに頻繁に出席。野村の支援者であった盛田正敏(サムエンタープライズ社長)とも家族ぐるみの付き合いが始まる。


1990年
衆院選当選(2期目)


1993年
野村秋介と石原慎太郎が、栗本真一郎の仲介で会見。石原、黒シール事件について謝罪(7月)

野村が朝日新聞本社で自決(10月)


1994年
自民党離党。自由党、新進党結成。


1995年
石原が議員辞職を表明。



1997年 8月
自民党に復党。

9月
第一勧銀・四大証券による総会屋への利益供与事件の捜査で、政界ルートの解明始まる。東京地検特捜部は、新井と日興證券の取引に注目。

12月
新井に関する報道が過熱。


1998年 1月
参考人質疑に応じ、「わたしは在日韓国人として生まれた」と発言。同時期、盛田正敏に対して「差別を受けている」と話す。

2月17日
特捜部の事情聴取を受ける。

18日
特捜部、自宅と事務所などを家宅捜査。逮捕状請求。

新井、米紙のインタビューで「在日であることが、捜査に影響している」と語る。親しい在日女性にも「帰化しても在日は在日なんだ」と語ったとされる。


19日
都内のホテルで自殺。現場には野村秋介から贈られた日本刀があったとされる。


24日
池上本門寺で告別式。



亀井静香
「君は愛してやまない日本国から激しい汚辱を受けた」

父親
「息子は生まれ育った日本を愛したんです。本当に愛してました」



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千代田区のホテルグランドパレス。新井将敬と野村秋介は、1986年11月に同ホテルで行われた、野村の出版パーティーで出会った。




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新井のポスターに貼られた「(昭和)41年・北朝鮮より帰化」と書かれた黒シール








『代議士の自決』『週刊現代04年3月・コリアン新井将敬代議士、7年目の真実』より

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