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新井将敬

渡辺美智雄年表・新井将敬、石原慎太郎関連



1973年
石原慎太郎、中川一郎、浜田幸一らと青嵐会を結成。田中角栄首相と大平正芳外相による、日中航空協定締結に反対。


1976年
福田赳夫内閣の厚生大臣に就任。大蔵省から厚生省に出向していた新井将敬と出会う。日本医師会と関係の深い厚生官僚を牽制するため、新井を重用。


1978年
大平正芳が総理大臣に就任。青嵐会や中曽根派の分断を狙う、大平と田中により、農水大臣に抜擢される。


1979年
(5月)米価格差制度を巡って中川と対立。中川は石原らと、自由革新同友会を結成し、渡辺や浜田ら大角人脈を排除。

(10月)40日抗争で大平首相の退陣に反対。中曽根派を除名される。


1980年
鈴木善幸内閣の大蔵大臣に就任。新井を大臣政務秘書官に抜擢。


1981年
政策集団・温知会を結成。福田派以外からメンバーを集める。


1982年
(5月)新井が大蔵省を退官。渡辺や田中の後押しを受け、石原が地盤としていた衆院東京2区で、出馬準備を始める。

(11月)石原の公設秘書が、新井のポスター約3千枚に「北朝鮮から帰化」と書いたシールを貼り付け、現行犯逮捕される。渡辺、事件を知り号泣。

(12月)中曽根康弘が田中派の支援を受けて総理大臣に就任。渡辺は中曽根派に復帰。


1984年
新井、渡辺の勧めで日興証券に口座開設。


1983年
(1月)中川が自殺。石原は中曽根派入りを打診されるが断る。

(12月)第37回衆院選挙行われる。石原当選。新井は次点で落選。


1985年
自民党総務会で、「日本国籍取得者の立候補を制限すべき」と主張した石原と激論を交わす。


1986年
(7月)第38回衆院選挙行われる。渡辺と中曽根が、新井支援のため東京2区入り。新井は石原陣営から選挙妨害を受けながら初当選を果たす。選挙後、石破茂や武部勉らと中曽根派温知会入り。新井と石破は、新進党や「21世紀」などでも行動を共にすることになる。

(9月)新井、中曽根首相の韓国訪問に随行。全斗煥大統領に引き合わされる。


1993年
自民党総裁選で河野洋平に敗れる。新井は、党改革を訴える太田誠一の擁立を画策。


1994年
小沢一郎から自民党離党を打診されるが断念。新井は、渡辺政権の誕生を見こして自民党を先行離党していた。






・石原慎太郎は自身の回想録で、渡辺を中川同等に尊敬していたことを明かしている。長男の伸晃は、渡辺喜美と四騎の会を結成した。

・渡辺は、青嵐会出身ということもあり、親韓派としても知られた。日韓議連の幹事を務め、町井久之や高山登久太郎らとも親交があったとされる。






『代議士の自決』『21世紀のリーダーたち』『血の政治』『小説渡辺軍団』『国家なる幻影』『石原慎太郎の値打ち』『週刊現代04年3月・コリアン新井将敬代議士、7年目の真実』『現代98年5月・新井将敬になりきれなかった朴景在氏の50年』より


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人間ドキュメント・野村秋介




山平重樹著『人間ドキュメント・野村秋介』1988年刊



【河野一郎邸襲撃事件】

河野一郎を取り巻くヤクザや右翼に対する反発が事件の一因になったという。


真の標的は、ヤクザの大同団結を進めていた児玉誉士夫だったともいわれる。


事件後、真っ先に野村支持を打ち出したのは赤尾敏だった。児玉も福田進を通じて野村を支援したという。




【蒲田戦争】

1986年に起きた、石原慎太郎事務所による新井将敬事務所への選挙妨害事件


82年に起きた黒シール事件に心を痛めていた野村は、石原陣営や蒲田署に対する抗議活動を行った。


野村は、群衆に向かって「みんな、この状況を見てくれ。石原慎太郎はこういうことをやってるんだよ」と訴えた。


野村は、愚連隊時代に横浜の朝鮮人集落を巡る抗争に巻き込まれたこともあったという。


石原の周囲にも力道山金田正一町井久之といった人々がいたが、中川一郎自殺事件の影響もあって、なりふり構わない選挙戦を強いられていたという。新井の政界入りを後押ししたのは、青嵐会代表世話人で、中川のライバルでもあった渡辺美智雄だった。




【後藤組と創価学会の対立】

自公連立の遠因になったという後藤組創価学会の対立。発端となったのは、創価学会が富士宮市で進めた墓苑開発だったという。


後藤忠政と関係が深かった野村も、学会の対応を非難する内容証明を池田大作に送り付けたという。


一方で、長女が熱心な学会員であったことも明かされている。町井久之の妻も学会員で、町井の遺骨は富士宮に眠っているという。










『右翼・行動の論理』『猛牛と呼ばれた男』『さらば群青』『代議士の自決』『石原愼太郎の思想と行為・同時代の群像』『差別と権力』より


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新井将敬・関連人物

石原慎太郎

太田誠一

小沢一郎

柿沢弘治

金丸信

亀井静香

喜多条忠

栗原俊記

鈴木恒夫

全斗煥

徳田虎雄

中曽根康弘

永田雅一

野村秋介

浜平裕行

韓昌祐

平石弓夫

松下康雄

盛田正敏

渡辺美智雄

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新井将敬語録


週刊現代の記事より。


黒シール事件の告訴会見
「人は誰も、出生の条件だけは自分で選びとれません。生命は両親、さらに無数のご先祖様からの授かりものだからです。父や母が背負ってきた歴史から、僕たちは誰も逃げることが出来ません」


韓国紙のインタビュー
「私が韓国系だという理由だけで、『韓国のスパイだ』とまで責め立てられた。私は政治家として、堂々と闘って彼(石原慎太郎)を打ち倒すつもりです」


死の前日に行われた米紙のインタビュー
「これは、見せしめのために私を狙い撃ちした捜査だ。自分が在日コリアンであることが、捜査に影響した可能性は十分にある」


死の前日の記者会見
「私はもう二度と帰ってこられない・・・。皆さんの前に帰ってこられないかもしれないけど、皆さんは私が今日言ったことをよくご理解下さい。最後の言葉に、ウソはありません」






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新井将敬・略年表(石原慎太郎、野村秋介との関係)

             
   



1948年
大阪府北区曽根崎で在日3世として生まれる。本名は「朴景在」。

当時の北区には、朝鮮人や中国人が多く暮らし、『国際マーケット』といわれる大規模な闇市が形成されていた。


小学校
生徒の半数近くが在日外国人である、地元・曽根崎小に入学。

成績優秀で一目置かれていたことから、日本人生徒と在日生徒の対立が起きると、両者の仲裁役としてかり出されることもあったという。

同級生から自身の国籍について揶揄された際には、「ぼくは日本人だ」と激怒したという。当時は「新井隆史」という通名を使っていた。


中学
 地元の菅南中に進学。この頃から、「新井将敬」を名乗るようになる。

中学2〜3年時に、当時義務づけられていた、指紋押捺による外国人登録を経験。精神的なショックを受け失語症に陥ったといわれる。


高校
名門・北野高校に進学。国籍制限がなかった医師を目指し、京大医学部を受験するが失敗。担任の教師には「落とされたのは日本人じゃないからだ」と語ったという。


18歳
浪人生時代に両親と共に帰化。「新井将敬」を本名とする。帰化した理由や経緯については、父親の商売上の問題、政治家を志していた新井が両親に進言した等、諸説ある。


1967年
東京大学に入学。

1972年
新日本製鐵に入社。

1973年
大蔵省に入省。


1976年
厚生省に出向。厚相を務めていた渡辺美智雄の知遇を得る。



1982年
大蔵省を退官。当時、蔵相だった渡辺美智雄の政務秘書官となる。

同年中頃から、衆院(旧)東京2区(大田区、品川区)で事実上の選挙活動に入る。


11月初旬
大田区内で大規模な、新井支持集会が開かれる。

また、対立候補の一人である、石原慎太郎の有力支援者が新井陣営に回る。危機感を抱いた石原陣営は、新井の国籍問題を取り上げ始める。


11月19日
大田区西蒲田の路上で、新井のポスターに「41年・北朝鮮より帰化」と書いたシールを貼り付けた男が、現行犯逮捕される。男は新井のポスター3000枚に同様のシールを貼り付けていた。

逮捕されたのは、石原慎太郎の公設第一秘書を務めていた栗原俊記(当時34歳)。翌日に釈放され、秘書を辞任した。

当時、大田区に住んでいた野村秋介は、同事件について「日本人として恥ずべき行為だ」と憤慨した。



1983年1月
栗原俊記が週刊誌のインタビューに応じ、「石原本人は無関係」、「元親分(石原)に迷惑をかけて申し訳ない」などと語る。栗原は第一秘書辞任後も、石原の政治団体に籍を置き、選挙活動に関わっていたとみられる。


4月
栗原俊記が『週刊新潮』のインタビューで、再び事件について語る。同誌は栗原を好意的に扱い、「新井のような帰化人であっても、当選し、政治家となり、いつの日か総理大臣になることができる。(中略)その場合、総理大臣について、何らの制約もない、ということでいいのかどうか」と、新井の政界進出について危機感を煽った。

しばらくして、新潮の記事と新井の戸籍謄本が、大田区と品川区の有力者宅に送りつけられるようになる。


5月
新井、東京地検に栗原を告訴。記者会見で、「人は誰も、出生の条件だけは自分で選びとれません」と涙ながらに語る。

その後、告訴は渡辺美智雄などの説得により、取り下げられる。


12月
新井、衆院選挙に初出馬。次点で落選。石原トップ当選。



1985年
石原慎太郎が自民党総務会で、「外国から帰化した者が立候補することを制限するべきだ」と発言。



1986年7月
新井、二度目の衆院選で初当選。10万票あまりを獲得し、石原に300票差まで迫る。


選挙中、野村秋介は石原陣営による新井陣営への、妨害行為に憤慨し支援に乗り出す。

野村関係者の話「新井事務所がある蒲田駅の西口ロータリーに、石原陣営がチャーターした車が10台ぐらい駐車して、動かないんです。当然、新井事務所は困る。野村は『今度は許さない』と言って街宣車を出し、石原陣営の車を追い払ったのです」。


7月下旬
週刊新潮に、『選挙民も知らなかった帰化韓国人の代議士当選』と題した、新井の特集記事が掲載される。

同誌は、石原の「選挙民は立候補した人のパーソナルヒストリーを知る権利がある」といった発言を引用しながら、「国政に携わる者が、その問題(国籍、帰化の公表)で国民に不安と心配を与えることは、既にして政治家の資格を失っていると言っていい」と、新井を断じた。



1986年9月
中曽根康弘首相の随行員として韓国を訪問。中曽根首相とともに、全斗煥大統領と会談した新井は「日韓のパイプ役になりたい」と発言し、韓国マスコミの注目を浴びる。


11月
新井と野村秋介との交流が始まる。新井は、野村が主催するシンポジウムや出版イベントに頻繁に出席。野村の支援者であった盛田正敏(サムエンタープライズ社長)とも家族ぐるみの付き合いが始まる。


1990年
衆院選当選(2期目)


1993年
野村秋介と石原慎太郎が、栗本真一郎の仲介で会見。石原、黒シール事件について謝罪(7月)

野村が朝日新聞本社で自決(10月)


1994年
自民党離党。自由党、新進党結成。


1995年
石原が議員辞職を表明。



1997年 8月
自民党に復党。

9月
第一勧銀・四大証券による総会屋への利益供与事件の捜査で、政界ルートの解明始まる。東京地検特捜部は、新井と日興證券の取引に注目。

12月
新井に関する報道が過熱。


1998年 1月
参考人質疑に応じ、「わたしは在日韓国人として生まれた」と発言。同時期、盛田正敏に対して「差別を受けている」と話す。

2月17日
特捜部の事情聴取を受ける。

18日
特捜部、自宅と事務所などを家宅捜査。逮捕状請求。

新井、米紙のインタビューで「在日であることが、捜査に影響している」と語る。親しい在日女性にも「帰化しても在日は在日なんだ」と語ったとされる。


19日
都内のホテルで自殺。現場には野村秋介から贈られた日本刀があったとされる。


24日
池上本門寺で告別式。



亀井静香
「君は愛してやまない日本国から激しい汚辱を受けた」

父親
「息子は生まれ育った日本を愛したんです。本当に愛してました」



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千代田区のホテルグランドパレス。新井将敬と野村秋介は、1986年11月に同ホテルで行われた、野村の出版パーティーで出会った。




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新井のポスターに貼られた「(昭和)41年・北朝鮮より帰化」と書かれた黒シール








『代議士の自決』『週刊現代04年3月・コリアン新井将敬代議士、7年目の真実』より

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