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河野一郎

自民党外交と右翼・ヤクザ

  
      


1956年

4月
鳩山一郎政権河野一郎農相が、ソ連との漁業権交渉の際に、北方領土に関する密約を結んだという疑惑が浮上し、右翼が河野への抗議を開始。


鳩山政権の生みの親で、河野の支援者であった児玉誉士夫は、側近の高橋正義を各右翼団体に派遣し、河野への抗議を止めるよう働きかけた。


9月
児玉が、ソ連との国交回復交渉のため、鳩山首相らとモスクワ入りすることになった河野の壮行会を開く。


壮行会には、関根賢ら関東の親分衆が出席。児玉は河野に、「ここにいる親分衆は、いわば大臣の護衛隊だ」と呼びかけた。


河野に対する右翼の反発は根深く、壮行会の数週間前には、河野訪ソ機体への爆破未遂事件が起きていた。


10月
鳩山と河野がモスクワ入り。


病身の鳩山に代わって交渉の前線に立った河野は、自分たちが危険を冒して訪ソしたことをソ連側に強調し、北方領土問題での譲歩を迫ったとされる。


19日、鳩山が日ソ共同宣言に調印し、ソ連との国交が回復。



1963年
憂国同志会野村秋介が河野邸を焼き打ち。


野村は、河野が北方領土問題や金権問題で疑惑をかけられる度に、児玉が仲介に乗り出し、話を収めることに不満を持っていたとされる。


また、児玉や関東のヤクザが進めていた任侠右翼の連合体構想にも反対していた。



1971年
公明党委員長竹入義勝中国を訪問し、周恩来首相と会談。


竹入は帰国後に、公明党本部前で暴漢に襲撃され重傷を負う。


中国側は、竹入が事件後も親中的な姿勢を貫いたことを評価し、翌年に政権に就く田中角栄とのパイプ役として厚遇する。



1972年
田中角栄首相大平正芳外相が、中国との国交正常化と台湾との国交断絶を表明。


田中と大平は、台湾の国民党政府自民党親台派の反発を抑えるため、自民党副総裁椎名悦三郎を政府特使として台湾に送った。

椎名が持参した蒋介石総統への親書の添削を行ったのは、漢学者で政界フィクサーとして知られた安岡正篤だった。


蒋介石や何応欽将軍らと関係が深かった安岡は、田中の指示で添削を依頼してきた外務省幹部に対し、「台湾の人たちがけしからんと思いながらも、しかしうまいこと言いやがるなと思われるような文章にしましょう」と語り、「公式関係の断絶」など直接的な表現を避けて、親書を完成させた。


田中と大平に対する右翼の抗議は非常に激しく、二人は死を覚悟し、遺書を用意していたともいれる。


大平は、椎名の官房長官時代の秘書である、フジインターナショナルアート社長福本邦雄に、右翼対策を依頼したという。


福本は晩年、朝日新聞の記者に対し、「外相の大平が『君から話してくれ』と言うから住吉会の会長に私が頼んだ」と語り、ヤクザを通じて尖閣問題で騒ぐ右翼を抑えたことを認めた。



1990年
自民党の実力者である金丸信北朝鮮を訪問し、金日成国家主席と会談した。


金丸が団長を務める訪朝団と北朝鮮政府は、日本による植民地支配の謝罪と賠償を明記した、共同宣言を発表した。


自民党国防族の重鎮で、親韓・親台派としても知られた金丸の「豹変」に右翼は反発(金丸は同時期に中国を初訪問し、厚遇を受けていた)。帰国直後から、元麻布の金丸邸に街宣車が押しかける事態になった。


金丸と関係の深い東京佐川急便社長渡辺広康は、皇民党のほめ殺し事件を解決した、稲川会石井進会長に右翼対策を依頼。石井と稲川会系の右翼団体が、各右翼団体の説得に当たったという。


昭和維新連盟を主宰する西山広喜も石井から、「金丸さん攻撃の件、何とかしていただけないだろうか」と抗議の中止を依頼されたという。


1991年
石井が死去し、右翼の攻撃が再開される。金丸邸は二度にわたって右翼の襲撃を受け、翌年には金丸への発砲事件が起きる。


1993年
金丸が大量の金塊を隠し持っていたして、脱税容疑で逮捕される。政治不信が高まり、自民党は38年ぶりに政権を失った。







児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (文春新書)

『児玉誉士夫・巨魁の昭和史』『評伝・赤尾敏』『日中国交正常化・田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』『中南海の100日 秘録・日中国交正常化と周恩来 』『クレムリン秘密文書は語る・闇の日ソ関係史』『昭和の教祖・安岡正篤』『朝日新聞・2010年12月1日 惜別・政界最後のフィクサーと呼ばれた福本邦雄さん』『組織暴力を追う』より

santama55santama55  at 13:56コメント(2) この記事をクリップ! 

児玉誉士夫・略年表(朝鮮半島関係)




1911年
福島県で生まれる。



1919年
朝鮮で結婚生活を送っていた姉を頼り渡鮮。1ヶ月後に帰日。



1923年
再び姉を頼って渡鮮。仁川の鉄工所に勤務したのち、京城(ソウル)の善隣商業に入学。



1926年
帰日。



1941年
上海で児玉機関を設立。京城に出張所を置き、朝鮮各地で砂金や真鍮の収集を行う。



1945年
終戦時、朝鮮銀行(後の日本不動産銀行、日本債券信用銀行)に、現在の価値で約100億円の預金を残す。同行の資産撤収に関与したとされる。



1959年
東声会の町井久之を側近とする。



1961年
韓国で軍事クーデターが起こり、朴正煕少将が実権を握る。朴は、KCIA(韓国中央情報部)を通じて、日本との国交正常化交渉に乗り出す。




1962年


3〜4月頃
KCIA幹部の崔英沢と会談。崔から、自民党の大野伴睦、河野一郎らの担ぎ出しを要請される。

崔に、読売新聞の渡邉恒雄、伊藤忠商事の瀬島龍三を紹介。


11月
赤坂の料亭で行われた、KCIA部長・金鍾泌と大野の会談に同席。その場で、大野の韓国訪問が決定。

金に、町井を紹介。


12月
大野、渡邉恒雄らと訪韓。その間、児玉も極秘で韓国に滞在。大野は、帰国後に池田勇人首相と会談し、請求権問題を決着させる。




1963年 2月
九段会館で、訪韓帰国演説会を行う。町井、崔、白井為雄らが出席。



1965年
河野一郎らの水面下交渉で、漁業権問題や領土問題が決着。日韓基本条約締結(6月)。

児玉と町井が訪韓。金鍾泌側近らによる、朴正煕批判を密告し、軍事政権からの信頼を得る。



1966年
再び町井と訪韓。韓国軍パレード観覧。丁一権副首相らと会談。



1970年
町井と、経済人視察団を連れて訪韓。朴正煕大統領らと会談。

主な参加者は、永田雅一(大映社長)、星野喜代治(日本不動産銀行相談役)、勝田龍夫(同頭取)、瀬川美能留(野村證券会長)。



1971年
韓国から二等樹交勲章を贈られる(2月)。

児玉の要請で、日本不動産銀行から東亜相互企業への融資が始まる。同融資は、韓国外換銀行の支払い保証のもとに行われた。


1972年
日本不動産銀行の割引債を購入。



2005年
韓国政府が公表した外交文書で、日韓交渉での児玉の政界工作が裏付けられる。




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