2013年03月10日
自民党外交と右翼・ヤクザ
1956年
4月
鳩山一郎政権の河野一郎農相が、ソ連との漁業権交渉の際に、北方領土に関する密約を結んだという疑惑が浮上し、右翼が河野への抗議を開始。
鳩山政権の生みの親で、河野の支援者であった児玉誉士夫は、側近の高橋正義を各右翼団体に派遣し、河野への抗議を止めるよう働きかけた。
9月
児玉が、ソ連との国交回復交渉のため、鳩山首相らとモスクワ入りすることになった河野の壮行会を開く。
壮行会には、関根賢ら関東の親分衆が出席。児玉は河野に、「ここにいる親分衆は、いわば大臣の護衛隊だ」と呼びかけた。
河野に対する右翼の反発は根深く、壮行会の数週間前には、河野訪ソ機体への爆破未遂事件が起きていた。
10月
鳩山と河野がモスクワ入り。
病身の鳩山に代わって交渉の前線に立った河野は、自分たちが危険を冒して訪ソしたことをソ連側に強調し、北方領土問題での譲歩を迫ったとされる。
19日、鳩山が日ソ共同宣言に調印し、ソ連との国交が回復。
1963年
憂国同志会の野村秋介が河野邸を焼き打ち。
野村は、河野が北方領土問題や金権問題で疑惑をかけられる度に、児玉が仲介に乗り出し、話を収めることに不満を持っていたとされる。
また、児玉や関東のヤクザが進めていた任侠右翼の連合体構想にも反対していた。
1971年
公明党委員長の竹入義勝が中国を訪問し、周恩来首相と会談。
竹入は帰国後に、公明党本部前で暴漢に襲撃され重傷を負う。
中国側は、竹入が事件後も親中的な姿勢を貫いたことを評価し、翌年に政権に就く田中角栄とのパイプ役として厚遇する。
1972年
田中角栄首相と大平正芳外相が、中国との国交正常化と台湾との国交断絶を表明。
田中と大平は、台湾の国民党政府や自民党親台派の反発を抑えるため、自民党副総裁の椎名悦三郎を政府特使として台湾に送った。
椎名が持参した蒋介石総統への親書の添削を行ったのは、漢学者で政界フィクサーとして知られた安岡正篤だった。
蒋介石や何応欽将軍らと関係が深かった安岡は、田中の指示で添削を依頼してきた外務省幹部に対し、「台湾の人たちがけしからんと思いながらも、しかしうまいこと言いやがるなと思われるような文章にしましょう」と語り、「公式関係の断絶」など直接的な表現を避けて、親書を完成させた。
田中と大平に対する右翼の抗議は非常に激しく、二人は死を覚悟し、遺書を用意していたともいれる。
大平は、椎名の官房長官時代の秘書である、フジインターナショナルアート社長の福本邦雄に、右翼対策を依頼したという。
福本は晩年、朝日新聞の記者に対し、「外相の大平が『君から話してくれ』と言うから住吉会の会長に私が頼んだ」と語り、ヤクザを通じて尖閣問題で騒ぐ右翼を抑えたことを認めた。
1990年
自民党の実力者である金丸信が北朝鮮を訪問し、金日成国家主席と会談した。
金丸が団長を務める訪朝団と北朝鮮政府は、日本による植民地支配の謝罪と賠償を明記した、共同宣言を発表した。
自民党国防族の重鎮で、親韓・親台派としても知られた金丸の「豹変」に右翼は反発(金丸は同時期に中国を初訪問し、厚遇を受けていた)。帰国直後から、元麻布の金丸邸に街宣車が押しかける事態になった。
金丸と関係の深い東京佐川急便社長の渡辺広康は、皇民党のほめ殺し事件を解決した、稲川会の石井進会長に右翼対策を依頼。石井と稲川会系の右翼団体が、各右翼団体の説得に当たったという。
昭和維新連盟を主宰する西山広喜も石井から、「金丸さん攻撃の件、何とかしていただけないだろうか」と抗議の中止を依頼されたという。
1991年
石井が死去し、右翼の攻撃が再開される。金丸邸は二度にわたって右翼の襲撃を受け、翌年には金丸への発砲事件が起きる。
1993年
金丸が大量の金塊を隠し持っていたして、脱税容疑で逮捕される。政治不信が高まり、自民党は38年ぶりに政権を失った。
『児玉誉士夫・巨魁の昭和史』『評伝・赤尾敏』『日中国交正常化・田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』『中南海の100日 秘録・日中国交正常化と周恩来 』『クレムリン秘密文書は語る・闇の日ソ関係史』『昭和の教祖・安岡正篤』『朝日新聞・2010年12月1日 惜別・政界最後のフィクサーと呼ばれた福本邦雄さん』『組織暴力を追う』より