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町井久之

町井久之と在日団体




1945年

(8月22日)在日朝鮮人の全国組織として、在日本朝鮮人連盟(朝連)準備会が結成される。町井久之と関係の深い、親日派の権逸が副委員長に選出される。


(10月15日)朝連の結成集会で、日本共産党幹部の金天海が最高顧問に選出される。金天海は、権逸などの親日派や民族主義者を朝連から追放する。


(11月16日)朝連の左傾化に反発する在日青年らが、在日本朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成。学生時代から町井と関係が深い、李禧元が副委員長に就任。建青はGHQから資金援助や、特別配給を受けることになる。


(11月29日〜30日)神田で建青と朝連が乱闘(神田市街戦)。町井は建青の助っ人として乱闘に加わる。建青体育部長を務めていた大山倍達も参加。事件後、GHQは建青側の健闘を賞賛。



1946年

(1月頃)建青東京本部発足。町井が副委員長に就任。


(2月10日)権逸が、無政府主義者の朴烈らと新朝鮮建設同盟(建同)を結成し、朝鮮と日本の融和を主張。


(10月3日)建同と建青の一部が合同して、在日本朝鮮(のちに韓国)居留民団(民団)を結成。



1947年

(4月26日)建青中央本部で、町井と関係が深い金光宣(坂本)が撲殺される。特別配給物資の分配を巡る争いが背景にあったとされる。事件後、町井が報復に乗り出す。



1948年

(8月15日)大韓民国が建国される。李承晩が大統領に就任。民団は大韓民国の支持を表明したが、南北統一派が影響力を持っていた建青は明確な支持を表明しなかった。


(10月)李承晩が来日。町井は民団幹部の権逸の依頼で、李承晩の警備責任者を務める。



1949年

(9月8日)GHQの意向で朝連が解散。金天海は公職追放となる。



1950年

(8月29日)建青が発展的に解散し、在日本大韓青年団(韓青)が結成される。民団の傘下組織となり、李承晩政権支持を明確にする。団長には、町井に東亜聯盟思想を説いた椎柱が就任。町井は翌年に監察委員長に就任。韓青は朝鮮戦争に在日義勇兵を派遣。



1951年

(1月9日)元朝連幹部らが、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成。朝鮮戦争を祖国解放戦争として、日韓米に対抗。


1954年

(6月)町井がパチンコ景品買い業の中央商会を設立。東京で民戦系の景品買い業者を排除していく。



1955年

(5月25日)民戦が発展的解消し、在日本朝鮮人総連合会(総連)が発足。日共から離脱し、北朝鮮の従属組織となる。



1957年

(1月)町井が、権逸や椎柱の助言を受けたうえで、総連に対抗する反共団体として東声会を結成。



1961年

(5月16日)朴正煕が軍事クーデターで実権握る。同日、権逸が町井の支援を受けて民団団長に当選。権逸は翌月に訪韓し、朴正煕支持を明確にする。










『猛牛と呼ばれた男』『在日コリアンの戦後史』『日本の中の三十八度線』より


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安倍晋太郎関連人物






町井久之
1969年に、下関と釜山を結ぶ関釜フェリーを設立。安倍晋太郎は岸信介と共に、フェリー就航式に参加した。安倍は、大坂と釜山を結ぶ国際フェリー構想が浮上した際、町井への配慮から反対に回った。







勝田龍夫
日本不動産銀行頭取。70年に、安倍から福島交通会長の小針暦二を紹介される。翌年から、福島交通を通じて安倍ら自民党幹部に資金提供を行う。日本不動産銀行の設立には、岸や佐藤栄作らが関わっていた。日本不動産銀行と福島交通は、町井や児玉誉士夫とも関係が深く、東亜相互企業にも融資していた。







西山広喜
安倍父子、岸、佐藤と関係が深かった。町井らと神戸製鋼の内紛に介入するが、児玉との関係が悪化し、引退に追い込まれる。安倍晋太郎は西山の引退パーティーに出席。その後復帰。安倍と同和対策事業の延長について交渉したこともあった。







宅見勝
92年、肝臓病治療のためフランスに出国。安倍は、清和会顧問弁護士の田中森一の依頼で、治療病院を手配した。田中はリクルート事件の際、安倍ら清和会議員の摘発を狙う特捜部と対峙。







四元義隆
87年の中曽根後継争いで安倍を支援。中曽根に安倍の指名を進言。安倍には安竹連合の解消を進言したという。宅見とも関係があった。











『猛牛と呼ばれた男』『昭和激流』『政界陰の仕掛人』『反転』『暗殺までの15328日』『許永中・日本の闇を背負い続けた男』『水平記』『月刊タイムス2005年5月』より


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ロッキード事件と赤尾敏、町井久之







ロッキード事件発覚後、赤尾敏は児玉誉士夫に対する糾弾活動を行なう。






赤尾は児玉事務所がある数寄屋橋公園前でも糾弾演説を行った。






またロッキード事件調査のために渡米し、米政府関係者に対して、自民党や児玉をかばうなと助言した。






高橋正義は「なんで自分のところ(建国会)にいた人間にこういうことをするのか」と、赤尾に反発した。






赤尾は逆に、「僕でなければ、児玉君を批判する人がいない。児玉君はかつて僕の所にいた人間だからね」と話した。






高橋は、児玉邸を警備する門下生たちに「赤尾さんところのが(抗議に)来たら、みんなぶっ叩いてやれ」と指示したという。






町井久之は、九段会館で開かれた赤尾の渡米壮行会に出席した。






驚いた赤尾は、「あなたは児玉派でしょう」と町井に問いかけたという。






町井はロッキード事件をきっかけに児玉と袂を分かった。






町井は周囲に、「もう児玉先生とは二度と会わねえ」と話していたともいわれる。






赤尾と町井は、北朝鮮帰国事業に対する抗議運動で協力したこともあったという。






赤尾は田中角栄に対する批判も強めた。警察からは「お前らが田中打倒だとか、自民党攻撃とは何事だ」といわれたという。














『評伝・赤尾敏』『猛牛と呼ばれた男』『平成元年の右翼』『文藝春秋88年8月』より


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重光武雄語録





1965年の日韓国交正常化を機に、韓国投資を本格化。重光は、「菓子には将来性がない。どうしてもリーディング産業にはなれない」として、工業部門への進出を目指した。







しかし、「朴正煕大統領じきじきのお声がかり」によりホテル事業を手掛けることになった。朴正煕から「国際的なホテルをつくるよう要請された」重光は、ソウルでホテルロッテを開業した。重光は開館式で「立派な芸術作品を祖国に残したかった」と語った。







韓国での重光の後見人は、首相や経済企画院長官を務めた劉彰順だった。劉彰順は50年代前半に東京で重光と知り合い、重光と李承晩大統領を結びつけたともいわれる。60年代半ばからは韓国ロッテの会長を務めた。重光は、「劉さんがうちにおられたので、私も安心して韓国の事業をやってこれた」と語っている。







韓国内ではロッテに対して『日本資本の韓国再侵略の象徴』という批判もあった。重光は「(韓国での)利益は一円も日本に持ち帰ってない。韓国民の感情からして、そんなことをしたらよろしくない」と語っている。







1969年、岸信介の仲介で東京オリオンズとネーミングライツ契約を結ぶ。当時の重光の心配事は、「オリオンズがあまり強いチームになって優勝する、ジャイアンツをやっつけてしまったとなるとですね。ジャイアンツのファンがうちの製品を買わなくなるんじゃないか」だった。







岸信介との関係については、「ゴルフをいっしょにやったり、碁をうったり、他愛のないことばかりです」としている。オリオンズ支援は、岸によるガム関税引き上げに対する見返りともいわれた。







73年、金田正一が重光に監督採用を直訴。金田から「もし採用されたらオリオンズを一流球団に育てあげる。男としてこの金田の言葉を信じてくれ」と呼びかけられた重光は「君が男なら、わしも男」と応じ、金田の採用を決めた。







77年、ロッテなどから資金援助を受けていた東亜相互企業が倒産。重光は、町井久之の採算を度外視した経営について、「義理人情の世界に住んできた人だから、考えが違うんでしょうね。だけど、商売をやるなら商売に徹しなきゃ」と批判した。







77年、日韓癒着問題が浮上。岸信介などにも批判が集まった。重光は翌年に行われたインタビューで、「日本ほど人種差別の激しい国はありません。(略)あたかも日本人が韓国やアジアの国々にただでシコタマ助けている様な印象を与えたりする。また、ことさら血税の無駄使いとか、癒着だとかいって憤慨してみたりしますね」と、差別的な報道を批判した。







85年、重光の次男・昭夫が結婚。披露宴には中曽根康弘首相や岸信介などが出席した。重光は、後継者とみなされていた昭夫について、「まだまだ未熟だから、それは本人のこれからの意志と能力次第」と語った。







2004年、後継者問題や日韓ロッテの関係性が不安視される中で、「夢は持ってるんですよ、今でも」と、日本でのテーマパーク構想や、中国や東南アジアへの進出について語った。















『韓国財閥25時』『猛牛と呼ばれた男』『週刊ダイヤモンド04年9月11日』『宝石69年5月』『財界78年11月15日』より


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神戸製鋼所の内紛





1965年、神戸製鋼と尼崎製鉄が合併。





神戸系の外島健吉が社長、尼崎系の曾我部秀雄が副社長にそれぞれ就任。





68年、曾我部の意向で、経営難に陥っていた尼崎スチール物産の株買い増しが行なわれる。





尼崎スチール物産は、尼崎系の子会社で、曾我部の遠戚が社長を務めていた。





外島は、倒産寸前といわれていた尼崎スチール物産の救済に反発し、曾我部に辞任を迫った。





これに対し曾我部は児玉誉士夫に支援を要請。児玉は外島に退陣を迫った。





69年、尼崎スチール物産が倒産。児玉は外島側に寝返る。





70年、曾我部が副社長を辞任。





神戸製鋼は、児玉への謝礼として、東亜相互企業が那須白河高原に所有していた土地を約30億円で買い取った。





白河土地の実際価値は5億〜10億円であった。





総会屋の木島力也は児玉の代理として、神戸系と尼崎系の折衝や、土地取引の交渉に当たった。





木島は、神戸製鋼所有の競走馬牧場を入手し、名馬ハイセイコーの馬主として知られていく。また長男を神戸製鋼に入社させた。





木島の影響力は、神戸系を支援していた第一銀行(後の第一勧銀)にも及んでいく。





当時、第一銀行神戸支店次長を務めていたのが宮崎邦次だった。





木島は神戸製鋼を通じて、第一銀行会長の井上薫とも関係を深めていく。





90年に行われた木島の長男の結婚式には、神戸製鋼の歴代社長や、宮崎ら第一勧銀の幹部が出席した。





式を取り仕切ったのは、木島の後継者とみなされていた小池隆一だった。木島と小池の用心棒的存在だった町井久之も出席した。





97年、第一勧銀による小池への利益供与が発覚した。











『戦後60年史・九つの闇』『会長はなぜ自殺したか』『見えざる政府』より


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福地曠昭襲撃事件





1967年3月29日、沖縄教職員会政経部長の福地曠昭が、東亜友愛事業協同組合沖縄支部の会員二名に襲撃された。





福地は67年1〜2月に起きた、教公二法案反対運動の指導者であった。





教公二法案は教職員の政治活動を制限する法案で、教職員会の反対運動により廃案に追い込まれた。





廃案が決定的となった67年2月下旬以降、教職員会に対する保守右翼勢力の反発が強まっていく。





教職員会は反基地闘争や祖国復帰運動の中核とみなされていた。





67年3月半ば、右翼団体の沖縄政治研究会が教職員会本部に押しかけ、福地ら幹部職員を威嚇した。





沖縄政治研究会は東亜組合系の団体で、沖縄の保守系与党である民主党から資金援助を受けていた。





東亜組合員による福地襲撃事件は沖縄初の政治テロであったが、背後関係は明らかにされなかった。





東亜組合沖縄支部長の宜保俊夫は事件への関与を否定した。





後年、実行犯の野原林一が、東亜組合の名誉理事長であった町井久之の関与を示唆した。





野原は刑期を終えたのちに、宜保と共に上京し、池上本門寺で町井に会ったという。





宜保は68年に、沖縄政治研究会の幹部らと日本民族思想普及会を結成し、活動をさらに活発化させていく。





宜保は72年に、東亜組合の本部理事に取り立てられた。












『沖縄・誰にも書かれたくなかった戦後史』『追想・宜保俊夫』『沖縄ヤクザ50年戦争』『沖縄史を駆け抜けた男』より


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沖縄進撃作戦と宜保俊夫





映画シナリオ『沖縄進撃作戦』に登場する小波本信永のモデルは宜保俊夫。





小波本は愛国同盟沖縄支部長で、空手道場・琉心館の師範。





小波本の関連シーン



(シーン24)小波本が石川健吉を辻決闘で打ち負かす。石川のモデルは上原勇吉。




(26)石川が琉信館で修行を始める。小波本は「今こそ、空手道と愛国精神の普及が大事だ」などと説く。




(27)石川と愛国同盟の伊波義孝が、朝鮮戦争で戦死した米兵の死体処理を行う。伊波「小波本先生から、アメリカさんの協力をしてやれと言われて....」。伊波のモデルは平良長裕。




(61)米軍基地の拡張を巡って、愛国同盟と国上英雄が対立。国上は石川の兄貴分で、モデルは新城喜文。新城は反基地運動に理解を示していたという。




(64)愛国同盟との関係を巡って、国上と石川が口論。国上「愛国同盟がやっとることは沖縄人の土をアメリカに売る手伝いだ」。石川「小波本先生は、本土復帰を早める為に、今はジッと辛抱してアメリカと争わんようにと努めておられるんだ」。




(77)ベトナム戦争の影響で反米闘争が激化。沖縄連合琉栄会が結成される。国上は理事長、石川は理事にそれぞれ就任。琉栄会のモデルは沖縄連合旭琉会。




(78〜79)来沖した関西侠友会系白川組が琉栄会に襲撃される。1973年に那覇で起きた、山口組西脇組と旭琉会の衝突事件がモデル。




(84〜85)小波本が、侠友会と琉栄会の仲裁に動く。宜保は田岡一雄の依頼で、山口組と旭琉会の仲裁役となった。




(86)小波本のすすめで、石川と伊波が縁組み。小波本「琉栄会と愛国同盟が手を携えて働けば、復帰後も秩序正しく本土との一体化が達成される」。上原と平良は74年に縁組みしているが、宜保は関与を否定している。




(91)石川と伊波の縁組みを知った国上が激怒。国上「二度と俺を兄貴と呼ぶな」。新城も、上原と平良の縁組みに激怒したという。




(99)小波本がプロモートする本土民謡祭を国上一派が襲撃。




(105)伊波が石川に、国上の殺害を教唆。伊波「小波本先生と和解する道はただ一つだ・・・国上の首だ」。




(120)国上が石川の子分に射殺される。小波本は伊波を義絶。新城は74年10月に上原一家組員に射殺されている。宜保は上原一家との連携を否定し、平良と絶縁した。







・宜保は笠原和夫の取材を受けている。




・笠原は、沖縄の反共基地化を目指す宜保が旭琉会を分裂させたとみなしていた。宜保の背後には、岸信介、朴正煕、マルコス比大統領などがいたという。




・宜保も町井久之も、上原一家との関係を否定している。




・ラストシーンでは、反共基地化の象徴として、皇太子来沖、海洋博開催、自衛隊沖縄配備などが描かれている。




・東映会長の岡田茂の意向で映画化は見送られた。宜保は東映系の映画館主で、町井も映画界に影響力を持っていたという。




・76年、笠原のシナリオを改編して『沖縄やくざ戦争』が制作される。平良と上原の縁組みは描かれなかった。




宜保が社長を務める琉球映画貿易は、制作協力を拒否し、沖縄ロケの中止を求めた。














『映画はやくざなり』『破滅の美学』『昭和の劇』『追想・宜保俊夫』『無法地帯』『遊撃の美学』より


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山中貞則エピソード




佐藤栄作内閣の総務長官に就任した際、「私は佐藤総理から、沖縄問題の一切をまかされた」と発言。




初代沖縄開発庁長官として、沖縄振興の基礎を築いた。また離島振興にも尽力した。




2002年には、オリオンビールとアサヒビールの業務提携を仲介した。




1972年頃から、日韓議員懇親会を主宰。町井久之と関係の深い、権逸も参加することがあったという。




73年、町井が経営する湯島秘苑で、韓国首相の金泌鐘を歓待した。同年7月、懇親会参加者の一部が青嵐会を結成した。




山中は、町井だけでなく児玉誉士夫とも関係が深かったという。




金大中事件が起きた際は、防衛庁長官を務めていた。野党からは、事件と自衛隊の関係について追及を受けた。











『幻想の島・沖縄』『沖縄・誰にも書かれたくなかった戦後史』『猛牛と呼ばれた男』『資料日韓関係2』『金大中事件・最後のスクープ』より


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朴東宣エピソード



1936年3月に韓国平安南道で生まれる。





50年代に米国に留学。60年代にワシントンで社交クラブを開き、米政界関係者と関係を深める。





67年、リチャード・ハンナ下院議員や、金炯旭KCIA部長の後押しを受けて、韓米間のコメ取引の代理人となる。




朴東宣は代理人報酬を、ハンナ下院議員らに献金した。




76年、ワシントンポストが、朴正煕政権が朴東宣を通じて、米国会議員約九十名を買収していると報じる。




米議会やFBIなどが調査に乗り出したが、買収工作の証拠は出なかった。収賄容疑で有罪判決を受けたのは、ハンナ議員だけだった。




しかし、一連の騒動で韓米関係が悪化し、在韓米軍に関する政策も停滞した。日本と韓国の癒着問題にも注目が集まった。





町井久之やケネス・ロスも、朴東宣との関係を取り沙汰された。町井と関係が深かった朴鐘圭とは犬猿の仲だったという。





兄の朴健硯は、タンカー会社の経営者。日韓協力委員会のメンバーで、岸信介や笹川良一と関係があった。






『実録KCIA』『青瓦台の陰謀』『二つのコリア』より


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韓国大統領と暴力団




韓国初代大統領の李承晩は、「カンペ」といわれる暴力団を、野党議員の弾圧や不正選挙に利用した。1948年に日本を訪問した際は、町井久之の警護を受けた。



暴力団テロの黒幕といわれた李起鵬副大統領は、在日本大韓体育会(副会長・町井)の活動を支援したこともあった。



60年に起きた四月学生革命では、暴力団組織の粉砕がスローガンの一つに掲げられた。群衆に自宅を襲撃された李起鵬は一家心中を遂げた。



61年に軍事クーデターで実権を握った朴正煕は、「旧悪の一掃」を掲げて、暴力団の取締りに乗り出した。町井も当初は冷遇されたが、60年代の半ば頃からは日本とのパイプ役として重用された。



81年に大統領に就任した全斗煥も、社会悪を一掃するとして、暴力団員や社会運動家を軍に送りこんで、虐待を加えた。









『猛牛と呼ばれた男』『韓国現代史』『韓国・民主化への道』『朴正煕・その知られざる思想と生涯』より


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