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高橋正義

青思会議長・高橋正義 年表と語録




1920年、北海道で生まれる。






46年、兄の義人が新日本義人党を結成。50年に解散するが、52年に再結成。


「わたしには学歴はない。喧嘩と博打に明け暮れていたが10年前に児玉先生にひろわれてから初めて目を開き、博打、競輪、競馬、麻雀は一切断った」






56年、児玉誉士夫の指示で、右翼から攻撃を受けていた河野一郎を擁護。河野は日ソ交渉で密約を結んだといわれていた。






59年、義人党の若手を集め日の丸青年隊を結成。全学連大会に殴りこむ。






60年5月、日米新安保条約が強行採決される。日の丸青年隊と義人党は国会内の警備にあたる。自民党が傍聴券や弁当を用意したという。


「全学連の連中が乱入してきたら、叩き出してやろうと、みんなポケットにコーラ瓶を忍ばせていた」






61年、青年思想研究会を創立し、議長に就任。児玉は顧問に就任。朴正煕が来日した際には、民団関係者らと日韓交渉の促進を訴えた。






青思会は60年代後半から軍事訓練を行い話題を集めた。済州島での訓練では、韓国軍特殊部隊の指導を受けた。






71年、児玉を追及した『ブラックマネー』の著者を脅迫したとして逮捕される。






76年、ロッキード事件が発覚。高橋は児玉邸の警備に当たる。小佐野賢治にもボディーガードを付けた。


「児玉先生を師と仰ぐ一家一門は、世をあげての糾弾に胸の煮えたぎる思いだ」






ロッキード事件で、児玉を厳しく批判した赤尾敏とは絶交状態となったが、事件から十数年後に和解したという。


「赤尾さんところのが(抗議に)来たら、みんなぶっ叩いてやれ。立てなくしちゃえと、若い連中に命令しちゃったんだ」






81年、弟の信義(義人党・日の丸青年隊総裁)が、日本テコンドー協会を創設。自民党親韓派の安井謙や加藤六月などが会長を務めた。






82年、柳川次郎の長女の結婚式に出席。柳川が名誉会長を務めていた亜細亜民族同盟は、児玉系右翼と関係が深かった。






88年、義兄弟であった台湾のフィクサー・蔡金塗の葬儀で弔辞を読む。葬儀には、台湾の国会議員や日台の暴力団関係者が参列した。






92年、国民総連合の代表推薦人を務める。同年、義人党が解散。






93年、心筋梗塞で死去。







高橋義人(1914〜1975)
義人党初代総裁。武蔵屋一家六代目。小千鳥一家の若い衆だったが、武蔵屋一家にスカウトされ、1944年に六代目を襲名。

高橋正義(1920〜1993)
青年思想研究会議長。武蔵屋一家七代名。児玉誉士夫の側近。

高橋信義(1923〜2001)
義人党二代目総裁。武蔵屋一家八代目。






1946年2月
武蔵屋一家六代目の高橋義人が、新日本義人党を結成。

1950年8月
傷害や銃砲所持を理由に、新日本義人党が強制解散させられる。

1952年7月
高橋義人が反共政治結社として、日本義人党を再建。

1954年
義人党が上野公園でチクロパンの密売を始める。他に手形詐欺などを資金源とした。

1959年3月
高橋正義が義人党の若手を集めて日乃丸青年隊を結成。児玉誉士夫が最高顧問に、岡村吾一が顧問に就任。






義人党
1946年に新日本義人党として結成され、50年に一旦解散。52年に日本義人党として再建された。有力幹部に、菊池茂、柴山仁、長谷益雄などがいた。党規は厳しく、薬物に手を出した党員には、丸刈り、指詰めが科された。主な資金源は人夫供給業、手形詐欺、パチンコ景品買い、薬物の密売。63年、関東ヤクザの連合体である関東会に加盟。66年、関東会の後継団体である関東二十日会に加盟。91年の夏頃から、義人党系椛沢組がパチンコ景品交換新方式導入に反発して世田谷区内で発砲事件などを起こす。警視庁は捜査本部を設置し、義人党の徹底取り締まりを行う。92年、暴力団対策法施行直前に解散。武蔵屋一家は再建され、住吉会に加入した。



日乃丸青年隊
1959年に義人党のメンバーを中心に結成された右翼団体。児玉誉士夫が最高顧問を務めた。



児玉誉士夫
戦後最大の黒幕。60年安保騒動では、左翼学生運動に対抗するために、暴力団や右翼の動員を計画。62年頃から韓国朴正煕政権と関係を深め日韓基本条約の成立に貢献。70年、朴正煕から勲章を受けた。




青年思想研究会(青思会)
児玉誉士夫の実働部隊といわれた右翼の連合体。日乃丸青年隊、防共挺身隊、昭和維新連盟、日本青年社などが加盟していた。毎年夏に、大規模な武闘訓練を行い注目を集めた。高橋正義が議長を務めていた。



高橋信義
日本テコンドー協会創設者。義人党総裁。日乃丸青年隊総裁。青年思想研究会相談役。中央大学法学部卒。実兄の高橋義人、高橋正義と共に「三義」といわれた。1989年に帝国ホテルで行われた高橋信義の長男の結婚披露宴には、複数の自民党親韓派議員が出席した。2001年に死去した際は、「日本テコンドーの父」などとスポーツ紙で報じられた。



日本テコンドー協会
1981年設立。後に日本テコンドー連盟に改称。初代会長は高橋信義。二代目会長は自民党参議院議員で、参議院議長や日韓議員連盟会長を務めた安井謙。三代目会長は自民党衆議院議員で、農水相や日韓議員連盟幹事長を務めた加藤六月(加藤勝信の岳父)。加藤六月の会長就任を後押ししたのは安倍晋太郎だとされる。















『組織暴力を追う』『闇の支配者』『暴力新地図』『勃発!関東ヤクザ戦争』『右翼辞典』『戦後の右翼勢力』『評伝・赤尾敏』『暴対法下のやくざ』『ヤクザと過激派が棲む街』『コリアウオッチャー』『田中角栄研究』『見えざる政府』より


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