更紗のタペストリー(L)

auoneblogから引っ越してきました。 主に、アート・書籍・音楽・映画などについて語ってるブログです。 もうひとつのブログ(http://sarasata.seesaa.net/)では、日経新聞の連載小説の感想を綴っています。

日経新聞で2月21日から『太陽の門』が連載開始

 伊集院先生の病気療養のため、日経新聞で連載中の『ミチクサ先生』は休載となり、2月21日からは『太陽の門』がスタートします。
新しい連載小説
太陽の門
 赤神 諒 静 
 安藤 巨樹 画  

本紙朝刊連載小説「ミチクサ先生」は作者、伊集院静氏の病気療養のため2月20日をもって休載します。21日から赤神諒氏の「太陽の門」を掲載します。(作者の言葉を文化面に)  

 赤神氏は1972年京都市生まれ。2017年に九州・豊後の戦国大名のお家騒動を描いた「義と愛と」(単行本化に際し7「大友二階崩れ」に改題)で第9回日経小説大賞を受賞しデビュー。その後も戦国大名や武将が主人公の歴史小説を発表している新進気鋭の作家です。
 「太陽の門」の主人公は、スペイン内戦(1936~39年)で一般市民側に加わり軍部に抵抗した米国人の義勇兵。映画「カサブランカ」の主人公がかつて義勇軍だったという設定から作者が着想した物語です。外国人の主人公を通して、常に劣勢でも誇りを失わないスペインの市民たちが何を求めて戦っていたかに迫ります。
 挿絵は映画のワンシーンのような風景画、人物画を得意とするイラストレーターの安藤巨樹(なおき)氏が担当します。

 新しい連載小説
太陽の門

 2月21日から新しい連載小説「太陽の門」(赤神諒作、安藤巨樹挿絵)が始まります。(1面参照)

<作者の言葉>
 映画史上に燦然と輝く「カサブランカ」。
 役者、脚本、音楽、さらに時代が生み出した奇跡の傑作を、私は何度見返したか知れません。若かりし日、ハンフリー・ボガード演じるリックに憧れ、渋すぎる彼の生き方を真似ようとしたのは、私だけでしょうか。
 作中では、リックがパリでイルザと出会うに、スペイン内戦(1936年7月~39年3月)で、義勇軍として共和国(人民戦線)側で戦っていた事実が明らかにされています。
 自由と民主を守るために、ごく普通の一般市民が銃を取って立ち上がり、そして敗れた悲劇の戦争は、ピカソの「ゲルニカ」をも産みました。リックはあの戦争にどう関わり、いかなる思いを抱いたのか。
 どうしても知りたくなったので、前日譚を書くことにしました。
 3年弱続いたスペイン戦争の後、欧州全土にファシズムの嵐が吹き荒れました。マドリード陥落からパリ陥落まで、約1年です。
 世界は今も平和まで辿り着けませんが、この小説は、日本人が当然のように謳歌してきた<自由と民主主義>のかけがえのない価値観を、歴史を通じて見つめ直すささやかな試みでもあります。
 


 

 『ミチクサ先生』は、中村不折がいつ登場するか楽しみにしていたのですが、一度も出ないうちに休載となってしまったので残念です。(中村不折に関しては2008年6月2日の記事を参照して下さい。)
 伊集院先生のお仕事は、日経新聞の連載小説だけでなく、ダイナースクラブ会員誌の『SIGNATURE(シグネチャー)』のコラムも楽しみにしていたので、一日も早い回復をお祈りしつつ、小説とコラムの続きをお待ちしております。

 新連載の『太陽の門』は、映画『カサブランカ』の前日譚だとのことですが、あいにく私は『カサブランカ』は全く観たことがないので、これはもう観るしかないですね…。
 既存の映画の前日譚を商業作家が書いて良いものなのかな?…と不思議に思ったのですが、ウィキペディアによると、映画の著作権が消失している状態とのことなので、商業的にスピンオフ作品を作っても著作権的には問題がないようです。

 日経新聞の連載小説は、Seesaaブログの方で扱っているので、興味のある方はどうぞ。  

 Seesaaブログ→http://sarasata.seesaa.net/

『あなたことはそれほど』(いくえみ綾・著)

 芸能ニュースにはほとんど興味がないのですが、一時期、あまりにも東出昌大氏の不倫ニュースが大きく取り上げられすぎていて、「そういえば、不倫がテーマのドラマに出てたなぁ」なんてことを思い出したので、東出氏が出演していたドラマの原作漫画の感想を書くことにしました。

 実はドラマの方が全く観ていなくて、原作漫画が完結した時に原作を一気読みし、その時に「ドラマ版はどんなだったのかなぁ」と気になって配役をチェックしたので、知っているのは配役だけです。ドラマ版の方のストーリーは本当に全く知らないので、ご了承下さい。






 この作品は、主人公の「美都」が、元彼の「光軌」と再会し、W不倫の関係になってしまう…というストーリーで、ドラマ版で東出氏が演じていたのは美都の夫の「涼太」であり、つまり、妻に浮気をされてしまう夫の役なので、のちに私生活の方で不倫をやらかしてしまうとは、何とも皮肉な話です。

 のっけから「不倫に何の罪悪感も湧かない不誠実さ」を前面に出したシチュエーションであるため、美都にも光軌にも同情できない流れとなっており、特に私が嫌悪感を持ったのは、W不倫という状況よりも、「出産は命懸けの行為という認識がない美都と光軌の無知蒙昧さと想像力の欠如」の方でした。
 光軌が妻帯者であり、妻が出産で里帰り中であることを美都が知るのは、二人が肉体関係を持ってしまった後なのですが、光軌が「妻の里帰り中に浮気するようクズ」だと判明しても、「自らも既婚者であることを隠していたのだから対等な関係(=共犯関係)」と考えて嬉しがり、それに加え、「自分には子供がいないから恋愛においてはアドバンテージがある(=自分は子供の存在や妊娠をダシにして男を縛らない女である)」と思っているようなところもあり、かなり意図的に美都というキャラは「読者から嫌われること」を前提にした描写がなされています。

 美都が徹底的に「嫌われキャラ」として一貫性のある描かれ方をされているのであれば、一種の「悪女モノ」として割り切って読むこともできるのですが、問題は、美都の夫の涼太の描写です。
 中盤で、美都が光軌の子を妊娠したと思い込む(実際にはただ生理が遅れていただけですが)という展開があるのですが、美都の妊娠に対して涼太は怒るどころか、美都の全てを赦し、お腹の子供を愛せると断言し、離婚を拒否します。
 涼太の母親はクリスチャンで、父親も洗礼を受けているので、涼太の「赦し」はキリスト教の「無償の愛」の概念の影響を受けたものだと解釈すれば、何らおかしな行動ではないのですが、漫画表現的には涼太の「寛容さ」は「狂気」のような扱いになっており、美都は涼太の価値観を理解できずに「拒否感」を抱きます。
 ここの部分で、読者が美都に僅かながらにでも同情するようにリードされているのは明らかで、つまりは美都を「嫌われキャラ」として一貫性を持たせることを放棄してしまっています。
 「涼太の母親はクリスチャンで、父親も洗礼を受けている」という設定など入れなければ、涼太の「ヤンデレ」っぷりはもっと徹底できたのに、なぜ、余計な設定を入れてしまったのか、理解に苦しみます。「涼太のキリスト教的価値観を理解できない美都の愚かさ」を強調することで美都の「嫌われキャラ」度を強化する方向性ならともかく、読者が美都に同情するようにリードする演出にしてしまったのは、私には失敗としか思えません。

 もう一つ、この作品で解せなのは、ラストで光軌が「子供への愛」を盾にして「離婚の回避」に成功してしまっていることです。美都の方は涼太とは結局離婚してしまうので、これで光軌まで離婚してしまうと物語の後味があまりにも悪くなってしまうという判断があったのかもしれませんが、「子供への愛」を盾にして「離婚を回避」するのを「卑怯者」というニュアンスではなく「娘を溺愛する健気なお父さん」として描いてしまうのは、あまりにも「やったもん勝ち」すぎます。そもそもそんなに娘を溺愛しているのなら、最初から娘に顔向けできないこと(=不倫)なんかすんなよって話です。
 「子供への愛」を盾にすれば「離婚を回避」できると「学んで」しまった光軌は、もはや恐いものなしで、いくらでも浮気を繰り返せるということになってしまいます。物語の冒頭から「子供の誕生」が「浮気心のストッパー」になっていないというのに、「子供への愛」で「浮気の罪」を相殺できることにしてしまうというオチは、私には矛盾としか思えないのですが、「光軌が父親としての自覚を持つようになる成長物語」という解釈にすれば、ギリギリ評価できなくもないとはいえ、仮にそういうことにすると子供のいない美都は何の成長もないわけで(実際に何も成長していません)、物語としての完成度はやはり「残念な出来」という感想にしかなりません。
 ドラマ版の方の完成度は、果たしてどうだったのでしょうか…?

自己紹介&コメント箱(パート17)&新年のごあいさつ

 あけましておめでとうございます。 
 ここ数年、こちらのブログの更新頻度はめっきり少なくなっていますが、ぼちぼちやっていきますので、今年も宜しくお願いしたします。  

 下の画像は伊藤若冲の『鼠婚礼図』(1974年/寛政6)です。

鼠婚礼図


ハンドルネームさらさ 


年齢47

性別女 

最近読んだ本フィリップ・フーズ『ナチスに挑戦した少年たち』

最近読んだ漫画所十三『COMIC恐竜物語』(全4巻)

最近観た映画『Diner』
(ビデオパスの配信で観ました)

最近よく聞く曲Ivoriy7 chord『fire works』
(昨年はロリーナ・マッケニット、the HIATUS、高野寛と、
待ちに待ったニューアルバムが立て続けにリリースされたのですが、
一番聞き込んだのは数年間活動が止まっている(実質解散)の、このバンドでした。)




 日経新聞の連載小説の感想をアップしているSeesaaブログの方は、定期的に更新しています。 

 読んだ本(漫画含む)の簡単な感想は「読書メーター」の方でアップしているので、そちらの方も宜しくお願いします。 

読書メーターhttp://bookmeter.com/u/247008

『写真集 下町や東京昭和遠ざかる』(村岡秀男・著)

 前回の記事では、「傲慢なもったいない精神」ということで、少々厳しめのレビューを書きましたが、今回も似た方向性でかなり厳しめのレビューを書きます。





 写真集に厳しめのレビューというのもおかしな話ですが、この本で指摘しておきたいポイントは

・昭和という時代を知る上で誤解しかねない表現(あえてモノクロ)をしている
・かつてボツにした写真の有効活用するために、後付けでコンセプトを打ち出している
・「東京下町」を前面に出す必然性が弱すぎる 


 …の3点です。

 まず1点目ですが、この本は昭和56~58年に撮影した商店の写真と、同じ場所を2000年代に撮り直した写真を上下に並べて掲載しており、1ページの中で20年という歳月を感じられるような構成になっっているのですが、昭和50年代といえばカラー写真が主流なのに、敢えてモノクロ写真になっているため、平成生まれ以降の世代は「昭和50年代はモノクロ写真が主流だった」と誤解しかねません。
 なぜ、あえてモノクロ写真なのかといえば、もちろん、「昭和50年代でもまだこんな懐かしい建物が残っていました」とのメッセージを込め、郷愁を誘うという狙いなのは明白なのですが、その狙いが伝わらず、純粋にただの記録写真としか認識できない世代がこれからどんどん増えてきます。
 「昭和50年代」も「戦前」もひとくくりで「昭和」という認識で、「懐かしさ」など感じようもない世代の読者がはたしてこの本をどう認識するかを考慮していないのは、本が長く残るメディアだということをあまり意識していないのかな…?と感じます。

 次に2点目です。
 あとがきによると、この写真集に収録されている写真は、『下町残照』という写真集で取り上げなかった写真なのだそうで、つまり、意地悪な言い方をすれば、「かつてボツにした写真を有効活用する上手いアイデアを思いついた」から出版したということです。
 撮影者側のこういう事情が透けて見えるのは、「被写体側の目線」(そこを生活の場にしている住民)を持つ読者には不快ですし、作者の言う下町が品川・荒川・隅田・中央・千代田・文京・港・足立・台東区の9区であり、江東区・葛飾区・江戸川区が抜け落ちているあたり、著者の「ご都合」が優先される何らかの事情(おそらくは単に交通の便である可能性が大)があり、「失われてゆくこと・忘れ去られてゆくことの危機感」の本気度があまり感じられません。
 2000年代ならまだこの手の商店は小岩や金町あたりなら残っていましたが、その時にきちんと危機感を持って撮影しておいたのでしょうか? 仮に撮影してあるとして、その「記録」は現在、どうなっているのでしょうか? 2020年以降、同じコンセプトでまた「再利用」するために、「とりあえず保管」なのでしょうか?
 後になって「失われてゆく物・忘れ去られてゆく物」へ想いを馳せたい…なんていう事情は、「見る側」にとってはエンタメですが、「見られる側」にとっては失礼極まりないわけで、たとえ写真の中に自分が写り込んでいるわけではなくても、撮影場所が「自分の郷土」だと感じる人にとっては、「他人を懐かしがらせるためにそこで生活しているわけじゃない」と言いたくもなります。
 もちろん、写真に写ることが嬉しい人もいるでしょうけど、もし、撮影者が「写真に写してもらえれば誰もが嬉しく思うに違いない」と当然のように思っているとしたら、その考え方にはかなり問題があるでしょう。

 最後に3点目です。
 昭和50年代に撮影された古い写真と、2000年代の新しい(今となってはそう新しくもないですが)写真を並べるという方法はいいとして、そこから導き出される「20年という歳月による変化」は、別段「東京下町ならでは」のものではありません。廃業した店舗の跡地が駐車場やビルやマンションになるのは、全国共通の傾向です。
 2000年代に撮影された建物が東京下町特有のものではないのは言わずもがなですが(ただし、遠くから街並を眺めている構図の写真なら別です)、昭和50年代に撮影されている建物(ほとんどは商店)のデザインが東京特有のもの(例えば、看板建築であるとか)であるのなら、建築学的に解説しなければ読者には「どのへんに東京っぽさがあるのか」が正確には伝わりません。
 昭和50年代に撮影されている建物(商店)のデザインに、なんとなく「東京っぽさ」を感じて懐かしがることができる読者というのは、「昭和50年代に地方と東京を行き来したことのある人」だけです。ずっと東京下町に住んでいる人はそこにある建物が「東京下町ならでは」とは思いませんし(超有名店なら別ですが)、ずっと東京以外に住んでいる人には「自分の中から自然と湧き上がってくる懐かしさ」などあるはずがなく、外因的に「ノスタルジア」が引き起こされているにすぎません。例えればそれは、竹久夢二の絵に現代人が「大正エレジー」を感じるのと同じような仕組みなわけで、その感情が大正生まれの人と同じということは決してありません。

 かなりきついレビューを書いてしまいましたが、私が言いたいのは、写真のクオリティに関することではなく、「写真集としてのコンセプト」です。一枚一枚の写真は好きでも、写真集としてのコンセプトに納得できない場合もある…ということで、厳しいレビューを書かせて頂きました。

『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 』(藤森晶子・著)

 6年程前、AKB48の峰岸みなみさんの「丸刈り謝罪」がYoutubeにアップされて物議をかもした時、Twitter上で「海外では女性の丸刈りはナチスを連想させる」との指摘があり、そのツイートを見て私は初めてナチスと丸刈りの関係を知りました。

 あの時の騒動から何年も経ち、偶然図書館で見つけて、再び「丸刈り謝罪」を思い出すきっかけとなったのが、『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 』という本でした。



 第二次大戦中にドイツ兵と通じたフランス人女性に対して行われた「丸刈り」というみせしめに対して、著者が留学中に色々と調べたことが述べられており、「女性の丸刈り=ナチス」という感覚に疎い日本人にとっては、とても意義のある本だと思いましたし、読んで良かったとも思いました。
 …が、気になった点がいくつかあったので、辛口になってしまいますが、指摘しておきたいと思います。


・構成がレポートとして中途半端。
・著者が研究者としての「欲目」を自覚していない。
・「丸刈り」という見せしめ行為は、「やられた側」ではなく「やった側」を追究すべきなのに、「やられた側」ばかり追究している。
・丸刈りにされたフランス人女性は「ドイツ兵と愛し合った」という不貞を咎められたパターンと、密告などの“売国”行為を咎められたパターンがあるのに、ほぼ前者しか扱っていない。



 それでは、個別に詳しく書いていきたいと思います。

【構成がレポートとして中途半端】
 この本はルポルタージュでも研究書でもなく、体裁としてはレポート風であり、滞在記に近い内容です。
 そのため、本のタイトルも『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅 』という微妙な表現になっており、このタイトルでは、ノンフィクションだということは察することはできても、ルポなのか研究書なのか滞在記なのかは、読んでみないと判断がつきません。
 私の個人的な印象としては、おそらく著者は構想段階ではルポか研究書にする意気込みがあったのではないかと感じるのですが、思ったように調査が進まず、しかし「自分の留学を意義のあるものにしたい」という著者の個人的な事情があるため、やむなく滞在記寄りの内容にして出版に踏み切ったのでは? …と思えました。
 タイトルに嘘はないので、良心的といえば良心的と言えますが…。

【著者が研究者としての「欲目」を自覚していない】
 ここでいう「研究者としての欲目」とは、上記で指摘した「自分の留学を意義のあるものにしたい」という著者の個人的な事情を指します。
 著者としては、ルポでも研究書でもなく滞在記寄りのレポートという構成になってしまったのは、不本意であり苦肉の策だったろうとは思いますが、「思ったように調査が進まなかったけど、せっかくここまでリソースを割いたのだから、本にしなければもったいない」という考えだったのだとしたら、それは「傲慢なもったいない精神」であり、その「注いだリソースを無駄にしたくない」という気持ちはとてもよく分かるのですが、そこに内在する「研究者としての傲慢さ」を著者が自覚していないのであるとしたら、第二次世界大戦という「ごく最近の出来事」を研究している立場の者としては、ちょっと配慮が欠けているのでは…と感じざるをえません。
 なにせ著者が調査の対象としている「丸刈りの被害者」は存命中なのですから、調査対象としてターゲットにされる側から見れば、研究者がどんなに人間的に優れた人物であり、崇高な目的で研究をしていたとしても、「自分の研究を意義のあるものにしなければならない」という研究者の個人的な事情などというものは、傲慢さとしか感じないと思うのです。
 これは、良い悪いの話ではなく、研究者やジャーナリストやルポライターに必ず付随する問題であり、そういう立場の人が必ずぶつかることなので、立場上必然的に発生する「傲慢なもったいない精神」を完璧に消し去れなどという無茶な要望をするつもりは毛頭ないのですが、「自分は“傲慢なもったいない精神”がどうしても発生する立場である」という自覚は必要だと思うのです。…そして、私の個人的な印象としては、著者の藤森氏は、その自覚はあまりないように感じるのです。

【「丸刈り」という見せしめ行為は、「やられた側」ではなく「やった側」を追究すべきなのに、「やられた側」ばかり追究している】
 見せしめという行為の「加害者側の責任」よりも、「被害者」の方ばかり注目すれば、それは「可哀相な人が頑張って生き抜いた感動の物語」に集約されるに決まっているのですから、例えればそれは「感動ポルノ」における障害者のポジションに丸刈りの被害者を置き換えたようなものです。(あまりいい例えではなくて申し訳ありません。)
 被害者に会おうとして手紙を書きまくっている作者に対して否定的なフランス人が多かったのは、被害者の声を拾っても「感動ポルノ的なもの」にしかならないことが分かっているからだと思うのですが、作者は気に留めていません。
 一応、作者も「やった側」への追究の甘さは自覚しており、あとがきでちらっと触れているので、おそらくは構想段階ではちゃんと「やった側」を追究する意気込みはあったのだと思われますが、力が及ばず、それでも「自分の留学を意義のあるものにするため」に出版に踏み切ったということなのでしょう。
 そしてその判断は、先に指摘した「傲慢なもったいない精神」に繋がっています。

【丸刈りにされたフランス人女性は「ドイツ兵と愛し合った」という不貞を咎められたパターンと、密告などの“売国”行為を咎められたパターンがあるのに、ほぼ前者しか扱っていない】
 「不貞を咎められたパターン」と「“売国”行為を咎められたパターン」をきっちり分けた上で、それぞれを個別に論じるべきところを、ほぼ前者しか扱っていないため、結果的にごっちゃにしているのと変わりない印象になってしまっており、これでは双方の女性に対してあまりにも失礼です。
 前者(=不貞)を理由に丸刈りにされた女性からしてみれば「国家を裏切っていない」という誇りがあり、後者(=売国)を理由に丸刈りにされた女性にしてみれば「心は売り渡していない」という誇りがあるはずなわけで、ここはしっかりと配慮すべきところだったのではないでしょうか?

 あまりにも厳しい意見を書いてしまいましたが、読む価値がないということではなく、価値があるからこそ、残念な部分があることがとてつもなく惜しいと思い、このような長々とした記事を書くに至りましたことをご容赦下さい。
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