更紗のタペストリー(L)

auoneblogから引っ越してきました。 主に、アート・書籍・音楽・映画などについて語ってるブログです。 もうひとつのブログ(http://sarasata.seesaa.net/)では、日経新聞の連載小説の感想を綴っています。

『少年の名はジルベール』(竹宮恵子・著)

 竹宮恵子先生といえば、萩尾望都先生と並び称される時が多い漫画家さんですが、『少年の名はジルベール』という半生記を読んで、あることに気付きました。
 …それは、 

 竹宮先生は、竹宮先生は資料(取材対象)を「見る」ことだけに集中しており、「読む」とか「調査する」ということをしておらず、情報をビジュアル的に取り入れることしかしていない

 …ということです。

  163ページに、それを象徴する記述があります。

45日間の旅は、その意味でも貴重だった。見ること、観ること、触ること。
(163ページより)

 以前から私は、竹宮先生の作品で歴史モノ要素を含むものは、物足りなさがあるなぁ…と感じていたのですが、その理由が、上記の記述ではっきりしました。竹宮先生は、資料(取材対象)を「見る」ことしかしていないため、「見る」だけでは理解できないもの(政治・経済・思想など)が必然的になおざりになってしまうわけです。

(これと対照的な漫画家さんは青池保子先生で、『「エロイカより愛をこめて」の創りかた』というエッセイ集を読むと、いかに資料(取材対象)を「読み」込んだり「調査」したりすることが「お好きかが、よく分かります。)

 竹宮先生が、御自分のそういうところについて、自覚的なのか、そうでないのかは分かりませんが、少なくとも、竹宮先生の御友人の増山のりえ氏が、竹宮先生のそういうところを「改善善すべき点」とは全く思っていなかったことは確かです。

 『少年の名はジルベール』では、いかに増山氏の“個人的な厳しい感想”(あえてアドバイスとは書きません)が竹宮先生の作品に強く影響を与えてきたかが語られていますが、その増山氏の“お眼鏡に敵う形”で世に出てきた竹宮先生の作品が、政治・経済・思想のジャンルにおいて薄っぺらいということは、増山氏は政治・経済・思想というジャンルが苦手か、もしくはそういったジャンルに冷笑的で、「漫画作品には必要ない」と決めつけ、竹宮作品の弱点としてフォローする必要ナシと判断していたということになります。

 好意的に解釈すれば、増山氏の“友人としての思いやり”から、「描き手に理解できないことは、無理して作品に取り入れなくてもいい」と判断していた可能性もありますが、『少年の名はジルベール』に内容からは、そういう判断をする人とは到底思えませんし、むしろで「どうせ読者はバカだから政治・経済・思想なんか入れたらドン引きするに決まってるから止めといた方がいい」という方向性での判断の方が、よっぽどありそうに思えます。(これはかなり悪意を込めた解釈ですが。)

 …ですが、青池保子先生、池田理代子先生、里中満智子先生のように、硬質な歴史モノを描いて人気を博している漫画家さんはいるわけですから、マーケティング上の狙いで敢えて政治・経済・思想を排除したとは考えにくく、単純に増山氏がそういったジャンルを嫌っていることから竹宮作品から自動的に排除されてきたという解釈が、個人的には一番妥当な気がします。

 …もちろん、漫画業界内での「棲み分け」として、政治・経済・思想が重視されていない作風というのは当然「あり」だと思っているので、竹宮作品の価値が低いと主張するつもりは毛頭なく、竹宮作品には竹宮作品特有の素晴らしさがあり、私だって竹宮作品はとても好きです。だからこそ、『少年の名はジルベール』を読んだわけですが、ただ、どうしてもこの本の内容で気になったのは、増山氏への過大評価であり、これは「友人としての欲目」を明らかに逸しています。

 おそらくは竹宮先生は増山氏を「漫画業界で名を残すべき人」と思っており、「恩を受けた友人に対する個人的な感謝の念」などという狭い人間関係の範囲での問題で済ませたくはないのでしょうけれど、どう考えても『少年の名はジルベール』を読んだ限りでは、増山氏は「親しい立場から“個人的な厳しい感想”を言ってるだけの人」でしかなく、もっと言ってしまえば、現在の価値観からすれば「ネットがない時代に情報収集能力に長けていたことを鼻にかけて同好の士相手にマウントをとっていたイキリオタク」です。



     
【追記】
 この記事は、1月下旬に一旦書いて、内容がちょっとキツいなぁ…と思ってマイルドに書き換えようか迷って下書きのまま放置していたのですが、グズグズとそのままにしていたら萩尾望都先生の『一度きりの大泉の話』が出版されてしまいました。
 結局、読後すぐの自分の感覚がそのまま記録されていることを重視し、マイルドに書き換えるのはやめて、手付かずの文章のままでアップすることにしました。
 読書メーターで感想をアップしたのが1月13日なので、『少年の名はジルベール』を読んだのは『一度きりの大泉の話』の発売(4月21日)よりも前であり、『一度きりの大泉の話』を読んだことで竹宮先生(&増山氏)への心証が悪くなったわけではなく、純粋に(という表現は変ですが)『少年の名はジルベール』を読んだことで生じた「ネガティブな感想」であることをご了承下さい。

自己紹介&コメント箱(パート18)&新年のごあいさつ

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 ただでさえこちらのブログの更新頻度はここ数年めっきり少なくなっていますが、それに加えて去年はコロナ禍で家族がリモートワーク&リモート授業になり、私がパソコンを使える時間が一日のうちのほんの僅かしかないという状況だったという理由があります。
 おそらく今年も去年並の頻度か、もしくはそれを下回るかと思いますが、今年も宜しくお願いしたします。    

 下の画像は『ミノトール』というシュルレアリスム雑誌の創刊号の表紙で、パブロ・ピカソによるものです。(1933年)

ミノトール



ハンドルネームさらさ 

年齢48

性別女 

最近読んだ本石垣綾子『スペインに死す』

最近読んだ漫画山本英夫『HIKARI-MAN』(全8巻)

最近観た映画(or動画)『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』
(Netflixの配信で観ました)

最近よく聞くアルバムハニャ・ラニ『HOME』
(ポーランドのピアニストです)




 日経新聞の連載小説の感想をアップしているSeesaaブログの方は、定期的に更新しています。 

 読んだ本(漫画含む)の簡単な感想は「読書メーター」の方でアップしているので、そちらの方も宜しくお願いします。 

読書メーターhttp://bookmeter.com/u/247008

11月11日から日経朝刊で『ミチクサ先生』再開

 伊集院静先生の病気療養のため、2月21日から休載していた日経新聞朝刊の連載小説「ミチクサ先生」が、11月11日(159回)から再開されているので、11月6日に掲載された<作者の言葉>をアップします。
 (最近、ブログの更新をする時間がなくて、遅れた情報ですみません。本当は連載再開前にアップしたかったのでしたかったのですが…)
<作者の言葉>
 今年の初めに緊急で入院し、手術、その後の安静の日々。そして退院。自宅の周りを散策できるようになり、桜の花がこれほど印象の強い花であったのかと感心しました。
 同時にリハビリテーション病院にも通い、そこで同じ病いの人々を目にして、自分はつくづく幸運に恵まれたのだナと思い、あらたまって家族の力を知りました。
 大勢の人々にご心配をおかけし、連載を休載にして頂き、再起を待ち望んで下さった人々にようやく、“ミチクサ先生”の再開の一文をお届けできるようになりました。
 夏目金之助は熊本五高へ赴き、鏡子という美しい伴侶を得て、新婚生活がはじまりました。漱石三十歳、鏡子二十歳。なにしろ何も知らない二人がてんやわんやの新婚生活をスタートします。
 江戸っ子、金之助は相変わらずのマイペース。新居には学生たちが来るし、同僚教師も居候して賑やかです。夢と希望にあふれた明治の学生や若い先生たちを、どこからともなくやってきた一匹の猫が興味深そうに観察しています。十一月十一日に、ミャーオ。
(日経新聞の連載小説に関しては、Seesaaブログの方で感想をアップしています→http://sarasata.seesaa.net/



ペット問題に付随するジェンダー問題

 図書館でたまたま古代魚の飼育の本を見つけ、飼うつもりはないものの、古代魚の写真が見たくてなんとなく借りたら、思いもかけず、ペット問題に付随するジェンダー問題について考えさせられてしまいました。(著者にはもちろんその意図はないでしょうから、まさかそんな感想を持たれようとは、夢にも思っていないでしょうけれど…。)




 元々古代魚を飼うつもりはないので、それほど真面目に読み通す気はなかったのですが、どうしても飼えなくなって引き取り手も見つからない場合は殺すしかない(ピラルクの場合はさらに解体して食べる)という記述を読んだ時、「ペットを殺さざるをえない飼い主の苦しみ」を想像してしまったのはもちろんなのですが、それと共に頭に浮かんだが、「飼い主が故人となった場合の遺族の負担」でした。
 故人と同居していた家族が、古代魚の世話を苦にしていないのであれば、そのまま飼い続ければいいということになりますけれど、古代魚を飼うことが金銭的にも精神的にも負担でしかない場合には、「飼い続ける金銭的・精神的負担」の代わりに「殺処分の心理的負担」を負うはめになるという、「結局はどう転んでも負担」という理不尽な状況に陥ります。

 故人と同居の家族がおらず、そしてその故人の住居を明け渡したり処分したりせねばならない場合は、甥とか姪とか従兄弟などの間柄の親族が古代魚を処分するはめになる可能性があり、仮にその親族が「ペットとして飼おう」と決意した場合には、古代魚を飼うための新たな設備費が発生するわけですから(古代魚を飼う設備はかなりの大きさになる上に、部屋の備え付けている場合もあり、水槽ごと引き取るのが困難だったり不可能だったりします)、古代魚を飼うための特殊な知識とテクニックを急遽身に付ける必要も出てきます。同居の家族がそのまま飼い続けるよりもはるかに負担が大きく、「引き取り手のいないペットが可哀相」とか「故人がそのペットを大事にしていたことを尊重したい」という気持ちがどんなに大きくても、その気持ちだけでは到底引き取れるものではありません。

  私は、この事に気づいた時、「ペットが捨てられる背景には、もしかしたら、飽きた飼い主による責任放棄の問題だけでなく、遺品整理(←ペットを遺品と呼んでいいのかどうかは分からないのですが、適切な言葉が思い浮かびませんでした)や相続の問題が絡んでいる場合があるのでは…?」と思うようになりました。


 そして、もう一つ気になったのが、「(餌の冷凍ムカデが)奥さんに発見されて大ひんしゅくをかことがあります」という記述です。私はこの記述に、「家族に負担をかけてまでペット飼うのは男性」という現実を突きつけられ(もちろん筆者が意識的にそういう記述をしているわけではありません)、先に挙げた「飼い主が故人となった場合の遺族の負担」の問題も含めて、「これは古代魚に限らず、ペットを飼う可能性のある家庭の全てに関わるジェンダー問題だ」と気付き、かなりのショックを受けました。
 冷凍庫に虫が保管されていることを不快に思うかどうかに、男女差なんかあるわけないのですから、つまりは「家族に負担をかけてまでペットを飼うのを強行するのは男(その家の主人)」という大前提があるからこそ、「文句を言ってくるのは女(妻)」という発想になるわけです。
 女性にだって古代魚好きはいるはずですが、家族に負担をかけてまで飼うなんてのは「夫の許し」が得られなければできないことなわけで、それはそのまま「社会通念上の規範」となり、女が「自らの意思で諦める」という選択を余儀なくされる…ということになります。


 ペット問題というと「動物保護」の観点で語られることが多いので、果たしてジェンダー問題と絡めた論点での問題提起がなされているのかどうか、私には分からないのですが、日本がどんどん高齢化社会と単身急増化社会になっていくことを考えると、避けては通れない問題になってくるのではないでしょうか…?

『ときめきトゥナイト』(池野恋・著)

 『ときめきトゥナイト』は、小学生の時、アニメ版をリアルタイムで観ていて、アニメ版はそれなりに楽しんでいた記憶があるのに、『りぼん』で連載されていた原作の方はそこそこチェックはしていたものの展開が気になるということはなく、今も興味のなさは変わらないのですが(ファンの方には申し訳ありません)、電子書籍版が5巻まで無料配信されていた時に久々に読み返してみて、なぜ、自分がこの作品にあまり惹かれなかったのかが、今更ながらに分かりました。

 アニメ版はそれなりに楽しく観ていた理由は、あくまで「ドタバタコメディ」という認識で観ていたからで、原作にはいまいち入り込めなかった理由は、「ラブコメ」の部分が自分の中でどうにも引っかかっていたからです。
 今になって改めて蘭世というキャラの価値観をチェックしてみると、あまりにもルッキズムが酷く、真壁を好きなったきっかけが「一目惚れ」という安易さ(要するに“顔が好き”)なのは読者層に合わせてシンプルな設定にしたのだとは思いますけど、曜子の父親の顔を見て吐き気を催すのはあまりにも失礼すぎます。
 それでも、真壁という人間を理解していく“過程”に納得できればまだ良かったのですが、転校してきて間もないのに幼馴染の曜子を差し置いて速攻で「真壁の一番の理解者ポジション」に収まってしまうというスピード展開が、「いつ打ち切りになってもいいように」という作者側の事情は分かるとはいえ、どうにも納得できませんでした。

 そして、自分にとって決定的なのは、真壁が「ちょいワル気取りの男」であるということです。このタイプのキャラは80年代の少女漫画ではお約束だったので、当時の読者のニーズに合わせた結果なわけで、いわば「読者サービス」なのですけど、あいにく私はこのタイプのキャラが小学生の頃から嫌いなので、全く萌えられないのです。

 「アロンに比べて真壁は誠実」という感じの扱いになってはいますが、1巻で蘭世に水泳を教える真壁が、衆人環視の中で蘭世に向かって「(カエルと)同じような顔してるんだから」だの「やりゃーできるんだよバカ」だの言っているシーンはただの性格の悪い男にしか見えず、その真壁の言いぐさに「嬉恥ずかし気分」になってしまう蘭世の価値観には歪んだものを感じずにはいられません。
 「愛のムチ」とも「照れ隠し」とも解釈できるシーンではありますけど、はたから見れば完全に「羞恥プレイ」なわけで、意図的に蘭世をM気質のキャラとして計算して描いているのならともかく、明らかに「ほのぼのシーン」としてポジティブに演出してしまっているところに、どうしようもなく違和感を感じてしまいます。

 こうまで真壁の「チョイ悪気取りぶり」に自分がひっかかるのは、おそらくは、自分が小中学生時代に学校で男子に侮辱された悔しさがいまだに忘れられないことと関係している可能性があります。相手からすれば「コミュニケーション」程度の認識だったのかもしれませんが、こちらからすれば「辱め」以外の何物でもなく、今思い出しても許せないくらいトラウマになっています。

 自分の「ちょい悪ぶり」(別の言い方をすれば「ツンデレのツン」)の演出のために女の子を平気で侮辱するような男(=真壁)と、目的のためなら手段を選ばない男(=アロン)という究極の選択をせねばならないのなら、初対面で意気投合した女の子に普通に優しい態度を取れるアロンの方が人として断然マシなので(アロンは魔界の住人なので「人として」という表現は変ですが)、私は昔から「真壁かアロンか」を問われればアロン派なのですが、残念ながら同じ価値観の人はなかなかいません…。





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