更紗のタペストリー(L)

auoneblogから引っ越してきました。 主に、アート・書籍・音楽・映画などについて語ってるブログです。 もうひとつのブログ(http://sarasata.seesaa.net/)では、日経新聞の連載小説の感想を綴っています。

2008年03月

日経朝刊「現代文学にラテンアメリカの流れ 地方の姿、神話仕立て」

 3月29日の日経新聞の朝刊の文化欄に、「現代文学にラテンアメリカの流れ 地方の姿、神話仕立て」というコラムを発見し、「ラテンアメリカの文学といえば、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が載っているかも…」と思い、期待して読んでみました。

 ガルシア=マルケスは、ちょっと不思議な経緯で読み始めた作家です。近所の古本屋でなんとなく『エレンディラ』という本を買ったら、暫くして、染井夜紫野さんのブログで「ガルシア=マルケスのバッグが…」という文章を発見。この時、私はてっきりブランド名と作家の名前が偶然同じなだけなのかと思ったのですが、後になって「いや、それは偶然ではない」と聞いて、ちょっとびっくり。「実は、『百年の孤独』という本がなかなか見つからなくて…」とおっしゃってたので、ダメモトで『エレンディラ』が置いてあった古本屋で探してみたら、なんと、『百年の孤独』がバッチリ置いてあり、二度びっくり。
 『エレンディラ』は文庫で出ていますが、『百年の孤独』は物凄く分厚いハードカバー版しかないので、染井さんの記事を読まなかったら『百年の孤独』を読むことはなかっただろうと思います。

 さて、日経朝刊のコラムの話に戻りますが、期待通り、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が紹介されていました。

 …ただし、桜庭一樹の名と一緒に、ですが。

 桜庭一樹の名は、以前にも日経で見かけたことがあったのですが(2月21日の記事参照)、この時読んだ記事のせいで、私の中に「桜庭一樹は倉橋由美子をパクったんじゃないのか?」という疑惑が生まれてしまいました。
 ただでさえ私の中では「疑惑の作家」なのに、今度はガルシア=マルケスとくるとは…。
 この作家さんには、オリジナリティというものはないのでしょうか?

【桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」はガルシア=マルケスの代表作「百年の孤独」を本歌取りした長編。非日常的な出来事とともに山陰の旧家の歴史が語られる。「田舎なら都会ではできないファンタジックな表現が可能になる。そんな書き方で一族の歴史を書いてみたかった」と桜庭氏は語る。】

 もしかしたら、この作家さんは、パクリ元を自分から先に言ってしまえば、「インスパイア」ってことにできると思っているのでは…と疑ってしまいます。
 倉橋由美子の『聖少女』にしてもガルシア=マルケスの『百年の孤独』にしても、その時代にそういう本を書いたからこそ重要性が高いのであって、今更形式だけ真似た本を違う作家が出したところで、一体何の価値が生まれるというのでしょうか?わけがわかりません。

 倉橋由美子にガルシア=マルケスときたら、お次の「インスパイア」の元はホルヘ・ルイス・ボルヘスあたりでしょうか?それとも、アポリネール?リラダン?ユイスマンス?バタイユ?ホフマン?ポー?

 桜庭一樹が書いた近親相姦ネタ&「架空の閉鎖的な土地の神話的な物語」ネタなら、とっくの昔に、野坂昭如が『骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)』でいっぺんにやっちゃってるんですよ。しかも、短編で。(2005年8月5日の記事参照。)
 『骨餓身峠死人葛』は既存の小説のパクリでもなんでもないオリジナリティ溢れる小説である上に、話の密度が異様に濃いせいで読後は長編小説を読んだかのような気分に陥ります。

 2005年8月5日の記事にも書きましたが、私は「優れた小説は、小説でしか表現出来ない内容を描いていなければならない」と思っています。私が幻想的な小説が好きなのはそのためです。
 『聖少女』も『百年の孤独』も、小説でしか表現出来ない内容だからこそ私は好きなんです。ビジュアル化することは一応は可能ですが、原作の持ち味を正確に再現することは不可能です。だからこそ、文学としての価値が生まれる、と私は思っているんです。
 私がライトノベルを文学の一種と認めたくないのは、ビジュアル化が前提だからです。最初からビジュアル化を意識して書かれた小説では、小説ならではの魅力を感じないんです。

 桜庭一樹は、一体、どんなポリシーで「いかにも特定の作品からインスパイアされました」的な小説を書いているのでしょうか?一度聞いてみたいものです。

『望郷の道』(321)

<第七章 長い坂(二)─4>

 それから、バナナとマンゴーの話になった。台湾では砂糖黍も穫れるが、本土から工場が進出してきて、すでに砂糖を作っている。
「バナナもパイナップルも、青いうちに運ばんといかん。いまの汽船会社が、高速船ば就航させるて言うけん、なんとか商売のできるかもしれんよ」
 基隆と台北の汽車は、一日五本になって、仕事の途中で基隆に出かける、ということもできるようになった。
 店の役割りも決まってきて、三十二歳になる長井妙が店長になった。下働きの長は二十二歳の済麗香で、賄方の長は三十六歳の久地たみである。
 正太は、城内に小さな家を借りて仙吉を住ませ、女中の老女をひとりつけた。放っておけば仙吉はいつまでも店の二階で暮らしかねない。
 あっという間に、その年も終った。



 バナナといえば、母から、「昔はバナナといえば台湾バナナだった」と聞いたことがあったのですが、私は台湾産のバナナはほとんど見たことがありません。
 調べてみたら、昭和37年に台湾でコレラが流行ったのをきっかけに台湾産バナナのシェアが落ち込み、代わりに中南米や南太平洋産のバナナがシェアを伸ばしたのだとか。
 その後、一旦台湾産バナナが巻き返したものの、フィリピン産バナナのシェアが急激に伸び、昭和49年以降は7割のシェアを維持しているのだそうです。

『望郷の道』(230)

<第七章 長い坂(二)─3>

 浜商会は基隆の港のそばにあり、浜修二のほかに社員がひとりいた。
 扱っているのは小豆ばかりではなく、小麦粉をかなりの量、入れるようになっていた。同時に、台湾からバナナを中心とした果物を本土へ運ぶ。
 小豆は、島原だけでなく、本州の農村のいくつかとも契約し、集荷もうまくいっているようだった。
 和菓子を出すならどういうものにするか、島田、大久保、土屋と話し合いをした時、正太は流しという言葉をはじめて聞いた。
 大久保がそれをやりたいと言った。必要な材料は寒天なのだという。大久保は棒寒天ではなく、天草がほしいとこだわったが、台湾の海にはないらしい。
 大久保は心太というところてんのようなものを作るところからはじめたがっていた。
「天草は、俺の故郷の名のつけられた海草たい。正太さんが、それの欲しかて言うなら、手ば尽くしてみるたい」
 土屋が欲しがったのは葛粉で、それを手に入れるのは難しくないらしい。



 「流し」という言葉は私も始めて聞きましたが、調べてみたら、どうやら羊羹や外郎のように寒天を使って型に流し込んだ和菓子のことのようです。

竹久夢二美術館『夢二と謎の画家・小林かいち展』

 ちょっと間が開いてしまいましたが、3月6日の記事の続きです。

 「小林かいち」は大正~昭和初期に活躍した画家ですが、その人物像は謎に包まれており、この展覧会でも詳しいことはほとんど何も記されておらず、ただ竹久夢二の作品と一緒に展示されているだけという状態でした。

 …が なんと

 先程、竹久夢二美術館のHPを見てみたら、

《小林かいちについて新たな事実が判明しました。
京都新聞2008年2月9日付夕刊に、「小林かいちの遺族発見」の記事が掲載され、生没年等の情報が判明いたしました。》


 …との「お知らせ」がぁっ

 ネットで検索してみたところ、2007年の6月に刊行された『小林かいちの世界―まぼろしの京都アール・デコ』(出版:国書刊行会)という本がきっかけで2008年に御遺族の方が判明されただそうです。

 詳細は京都新聞電子版に乗っているので、パソコンをお持ちの方はこちらのサイトをご覧下さい。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020900099&genre=M1&area=K30


 京都新聞の記事によると、判明した御遺族の方は小林かいちの二男にあたる方で、小林かいちの展覧会が京都精華大で開かれていたことがきっかけで、「小林嘉一」の名で仕事をしていた父が「小林かいち」と同一人物であることが判明したのだそうです。

 戸籍謄本によると、かいちの本名は小林嘉一郎で、1896年に旧家の長男として生まれ、1968年に72歳で亡くなったそうです。
 染色会社などに勤務し、着物の図案などを描いて生計を立てていたらしく、22年発行の「京都図案家銘鑑」には「小林歌治」の名があることから、26歳ごろには図案家として身を立てていたそうことです。
 …ということは、絵葉書や絵封筒の仕事は本職ではなく、アルバイトとか趣味のようなものだった…ということなのでしょうか…。 とてもそうとは思えないデザインなんですが

絵葉書『灰色のカーテン』より
(大正後期~昭和初期)


絵葉書『彼女の青春』より
(大正後期~昭和初期)

 当時はこういう「女向けの商売」は軟弱者のイメージがあったらしく、高畠華宵も「画家になる」と言ったら兄から勘当されてしまったそうなので、もしかしたらかいちにとってはこういう絵は「恥ずべき仕事」だったのかもしれません。(私の勝手な想像ですが。)

 ところで、先日、とある場所で、こういう絵を見つけたのですが…


昭和期の広告マッチラベル

 これ、小林かいちの絵葉書そっくりなんですけど…小林かいち自身の作品なのか、それとも誰かの手によるパクリなのか、どちらなのでしょうか?


(マッチラベルに関しては、近いうちに詳しい記事を書きます。)
 
 

『望郷の道』(229)

<第七章 長い坂(二)─2>

「菓子屋で、仲居はなかろうが」
「だけん、五日だけたい。七富士の店員は、躾のよか者が揃うとる。そがんこつも、噂になりよる」
 仕事が終ってからの一時間で、全員、いらっしゃいませ、と声を出すところから、礼儀の勉強がはじまり、五日で見違えるようになった。
「帳場におる者は、金ば扱うとるけん、愛想ば振りまいちゃいかん」
「そがんこつまで、俺は考えとらんかった」
「あたしは、川瀬の奥さんでん岩村さんの奥さんでん、どんどん店に来て貰うて、感じたこつば言うて貰うとるよ」
 和菓子の製造に合わせて、工場を立て直そう、と正太は考え、しばしば基隆へ行った。和菓子を作るなら、本土から入れた方がいい材料も、いくつかあった。



 岩村って、あの、銀行員の岩村…?
 いつのまに瑠韋は岩村の奥さんと仲良くなっていたのでしょうか

映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』

 本当は『ケロロ軍曹』と『魔法にかけられて』の方の感想を先に書くつもりでいたのですが、あまりにも『ドラえもん』の出来が酷かったので、こちらを先に書くことにしました。

 『ゲド戦記』と全く同じ方向性でつまらない映画でした。

 絵柄がジブリ臭いのは『のび太の恐竜2006』からのことなので、絵柄に関してはもう慣れたのですが、演出やストーリーやキャラクターまでジブリ臭プンプンです。
 ジブリっぽくても面白ければ文句はないのですが、面白いとか面白くないとかいう問題以前に、話の意味が全く分からないんです。

 テーマが環境問題なのは予告の段階で明白になっているので、オチが「自然を大切に」になるのは子供でも予想がついていることなんです。オチが「お約束」であるのなら、そこに行き着くまでのストーリーをきちっとしないと、「自然は大切だぁ?んなこたぁ分かってるんだよ」ってことになってしまうわけですよ、あの『アース』のように。

 原作の方は、ただ単に「自然を大切に」ではなく、「なぜ自然を大切にしないといけないのか」まできちっと説明されているんです。しかも、自然を「守る」という考え方が、本当はエゴイズムであることも、遠まわしに伝わってくるんです。たった25ページ(表紙含む)しかない作品でありながら、藤子・F・不二雄先生のSF漫画に特有の、柔らかなニヒリズム(ちょっと変な表現ですが)が発揮されている傑作なんです。

 それなのに、映画版は、「なぜ自然を大切にしないといけないのか」が全く説明されていませんし、自然を破壊するエゴは強調されていても自然を「守る」ことのエゴが全く伝わってきません。

 25ページしかない原作を無理矢理長編映画に作り変えること自体にそもそもの無理があったのかもしれませんけど、それにしたって、話を引き伸ばすためにジブリのメソッドをそのまんま利用するなんて、芸がなさ過ぎます。

 何の必然性もなく出てくる飛行シーン。(道具を使わず、自力で飛んでます。)
 笑顔がこぎたねぇガキ。(既に映画を観た人なら、どのキャラか分かりますよね?)
 ツンデレなヒロイン。(しずかちゃんではありません、念のため。)
 地表を覆いつくす、わけわかんないデロデロしたモノ。
 制御不能のオーバーテクノロジー。

 個人的に一番イタいと思ったのは、SFの部分が全然ダメなことです。
 これが正真正銘のジブリ映画だったらSFっぽさなんて全く期待しないのですが、よりによって『ドラえもん』でSFの部分がダメだなんて、致命的です。

 ジブリ映画は基本的には科学文明を批判するスタンスで作られているので、SFとは相性が悪いんです。(『風の谷のナウシカ』をSFだと思っている人が多いかもしれませんが、あれは未来を舞台としたファンタジーであって、SFではありません。)
 「自然VS科学文明」という対立構図で子供向け映画を作れば当然のように「自然=善」「科学文明=悪」ということになりますが、あいにくこの映画の原作(『さよならキー坊』)はそんな単純な善悪二元論的な話ではないんです。
 おそらく、脚本を書いた人は、ジブリ的な善悪二元論を強引に『さよならキー坊』に当てはめようとしてしまったのではないでしょうか。ジブリ的な善悪二元論でいけば、科学文明の賜物であるドラえもんの便利グッズで世界を救うわけにはいかず(とはいっても、ある道具のおかげで人類は誰一人死なずに済んでいます)、結果的に愛だか奇跡だかで世界を「浄化」するというオチで話をまとめる以外に方法がなくなってしまったのではないでしょうか。
 愛や奇跡でオチをつけることを否定するつもりはないのですが、それだったら「ドラえもんワールド」を使う必要性は全くないんです。キテレツ大百科でもエスパー魔美でもパーマンでも応用可能なんですから。

 今回の映画を観て、唯一感動したのは、次回作の予告です。どうやら来年は私が大好きだった作品のリメイクをやるようです。
 どうか来年はちゃんとした内容でありますように



『望郷の道』(228)

<第七章 長い坂(二)─1>

 女ばかり十五人が揃った時、正太はちょっと圧倒されるような気分になった。
「賃金は、同じたい。働く時間も、同じたい。ばってん、働き方ばよう見て、長を付けるけん。長のついたら、賃金ば増やす。
長のつく者は、なんでん、はじめにやる。手ば洗うとも、昼めしば食うとも、長がはじめるばい。
客に、どがんふうにむかい合えばよかか、あたしにはわからん。だけん、それを教える人を雇う」
 庭に並んで立った女たちは総じて若く、三十を越えたと思えるのは二人だけだ。
 解散し、十五人がそれぞれ帰ると、瑠韋は店の柱に時計をつけた。出勤簿のようなものもある。
「なんか、おまえ、礼儀ば教える人の来らすとか?そがん人ば、どこで捜してきたと?」
「川瀬の奥さんの紹介たい。あん人も、仲居ば育てんといかんけんな」


■注■
瑠韋の「韋」の字は本当は「王」+「韋」。



 さすが任侠の世界で生きてきた瑠韋、人を使うのは馴れているようですね。
 それにしても、瑠韋も正太も、九州弁を止める気は全くないんですね…。使用人の言葉遣いにはうるさいのに…。

『望郷の道』(227)

<第七章 長い坂(一)─7>

 店が開いてからの忙しさは正太の想像を越えていたが、時が過ぎれば馴れ、瑠韋はこれから先のことまでようやく考えることができるようになった。
「工場のこつも、店の経営のこつも、ようわからんばってんが、人の少なかよ。人にもっと金ば遣うた方がよかじゃなかね」
「俺は、人ば厳しゅう見過ぎる。だけん、なかなか雇えん」
「金のこつは、あんたの差配たい。店の人のこつは、あたしに任せてみんね。人ば見る眼の、間違ったて思うこつは、あんまりなかよ」
 女を、同じ条件で十五人雇う。その中で、店に合う者を七人、下働きを三人、厨房を三人、仙吉の助手をひとり、家事をひとり。それに公礼華が自分につく。頭の中で、瑠韋はそう計算した。 


■注■
瑠韋の「韋」の字は本当は「王」+「韋」。



 3人の子供の面倒を見ながら人事管理もやるとは…。瑠韋、大変ですね
 3人目の子が夜泣きとかしてたら、寝る暇ないんじゃ…

小学館の『小学六年生』4月号(その5)

 本当は昨日書いた「その4」の記事で今月の学年誌ネタは終わらせるはずだったのですが…あまりにも呆れたことがあったので、記事にすることにしました。

 近所の古本屋で漫画のセールをやっていたので物色していたら、見覚えのある漫画家の名前を発見。
 その漫画家の名が「小学六年生」に載っている小説の挿絵を描いている人だということを思い出し、なんとなく手にとって読んでみたら…

 エロ漫画じゃねーかよ、これ

 過去にも、何気に手に取った兄崎先生の漫画がエロ漫画だったという出来事があったのですが、兄崎先生のエロ漫画の場合は明らかに「そういう経験がない女の子向けに描かれた漫画」であり、エロ行為そのものよりも「エロいシチュエーション」を楽しむことを目的として描かれた漫画でした。

 エロ漫画なんていうのは妄想漫画に他ならないわけですが、その「作者の妄想」をいかに「さも現実であるかのように見せかけることができるかどうか」はその作者の表現力にかかっています。そして、その「作者の妄想(=ウソ)」を、「ウソをウソと認識したまま楽しむ」か「ウソだと分かっているけど敢えて眼を瞑って楽しむ」か「現実だと思い込む」かは読者の判断力次第です。

 兄崎先生のエロ漫画は、そういう経験がない女の子ならそれなりに興奮できるエロ漫画ではありましたが、そういう経験がある女の子であれば鼻で笑ってしまうタイプの漫画でした。つまり、「ウソをウソと認識したまま楽しむ」か、もしくは「ウソだと分かっているけど敢えて眼を瞑って楽しむ」タイプの漫画だったんです。
 
 しかし、私が今日見つけた漫画はそういうタイプの漫画ではなく、「エロ描写のためのエロ漫画」でした。つまり、リアルさを売りとするエロ漫画だったんです。
 リアルさを売りとしている、と言っても所詮はエロ漫画ですから、作者の妄想の産物です。多少の実体験も含んではいるのでしょうけど、実体験をそのまんま漫画にしたところで面白いストーリーになんてなりようがないので、脚色が入っているのは明らかです。この漫画はドキュメンタリーではないんですから。

 さて、今日、私が古本屋で見つけた漫画というのは、『南Q太傑作選① かみさまお願い』というタイトルでした。作者の名前は、もちろん「南Q太」先生といいます。
(『①』となっていますが、『②』以降は置いてありませんでした。)

 『小学六年生』の方に載っている南先生の挿絵は、こんな感じです。

タイトル『25M』
文:伊藤たかみ
絵:南Q太


 伊藤たかみ先生とはどういう方なのか全く知りませんが、プロフィールに「第三回12歳の文学賞の審査員を務める」と書いてあるので、それなりにお偉い先生なのだろうと思います。

 南先生の方のプロフィールには、エロ漫画である『かみさまお願い』などもちろん書かれていなくて、『スクナヒコナ』『こどものあそび』『さよならみどりちゃん』などのタイトルが挙げられています。

 なにせ南先生の作品を見かけたのは今日が最初ですから、この先生のエロ漫画以外の力量は全く分からないのですが、『かみさまお願い』だけに関して言えば、内田春菊の漫画に似すぎている印象を受けました。絵柄も似ているし、エロ描写もよく似ています。男を見下している点もそっくりです。ストーリーが似ているわけじゃないからパクリと言うつもりはありませんけど(そもそも「エロ描写のためのエロ漫画」にストーリーもへったくれもないわけですけど)、コマの割り振り方とか、セリフの雰囲気とか、モノローグを入れるタイミングなどの、漫画の「雰囲気」を作り出す要素が、偶然にしてはあまりにも似すぎているのが気になりました。パクッてはいないにしても、影響を受けていることは、ほぼ間違いないように思えます。

 しかし、私がここで問題にしているのは、南先生がエグいエロ漫画を描いていることではなく、なんで学年誌の編集者は、よりによって、こういう作品を描いている漫画家に、学年誌の小説の挿絵を描かせたのかってことです。
 単なる挿絵なら、誰が描いたって同じでしょう?画像を見ても分かる通り、特別に絵がお上手ってわけではないんですから。(『かみさまお願い』の方ではもっと上手い絵を描いているので、挿絵の方は明らかに手抜きです。)
 誰が描いたって同じ(いや、もっと上手い漫画家は大勢います)なのに、なんでわざわざ、エロ漫画を描いている人に依頼したのでしょうか?編集部は…。

 「数ある作品のうちのごく一部だけがエグいエロ漫画」というだけなのかもしれませんけど、よりによって、『傑作選①』がエロですよ?他の作品だってだいたい想像がつくってものです。

 エグさでいえば内田先生のエロ漫画だって相当エグいものがありますが、内田先生は学年誌で挿絵なんて描いてないし、子供の目に触れる範囲でのお仕事といえば東京電力のイメージキャラクターの「でんこちゃん」くらいのものでしょう。CMで「でんこちゃん」を見たからといって、『シーラカンス・ロマンス』や『水物語』を読もうとする子供が出てくるとは到底思えません。

 しかし、南先生の場合は、学年誌の中でわざわざプロフィールが堂々と書かれてしまっています。たかが「挿絵を描いているだけの人」に過ぎないのに、です。挿絵を描いている人のプロフィールなんて通常は載らないのに、なんでまた、わざわざ載せたのかといえば、やはり、編集部が、南先生の漫画を小学生にアピールしたかった、と考えるより他ありません。

 偶然に偶然が重なり、「私がたまたま南Q太という名前を覚えていて、たまたま古本屋で手に取った本が、たまたまエグいエロ漫画だった」という状況だったのかもしれませんけど、私に起こった偶然が、小学生に起きないとは言い切れません。というか、むしろ、小学生の方に起きる確率の方が高いでしょう。学年誌が想定している本来の読者は小学生なんですから。

 南先生以外の漫画家でこの仕事を引き受ける人がいなかったのだとしても、ペンネームを変えればすむだけの話です。エロ漫画とそうでない漫画でペンネームを使い分ける漫画家って珍しくないんですから、南先生だって、「子供向けの小説のイラストレーター」として別のペンネームを使うことは難しくもなんともないでしょう。たとえ南先生が「南Q太」というペンネームにご執心だったのだとしても、わざわざプロフィールなんぞ載せなければいいだけの話だったんです。絵のインパクトで言えば、兄崎先生とか姫川先生の方がずっと強いんですから。手抜き気味の挿絵なんぞ印象に残りゃしなかったんです。

 「たまたま学年誌で見かけて覚えていた漫画家の名前を、たまたま古本屋でみかけたので手にとってみたら、たまたまエロ漫画だった」だなんていう偶然、一回だけならまだしも、二回もあるなんて、考えられますか?そうでなくても、『ないしょのつぼみ』のせいで、ロリオタの間では「学年誌=エロ」という印象なのに…。

 なんかもう、読めば読むほどこの雑誌に嫌気がさしてくるんですけど、こういう雑誌を野放しにしておいてもいいものなんですかねぇ…。「どうせ人気がないから」ってことで編集部が好き勝手にやっているのかもしれませんけど、だったら潔く廃刊すればいいだけの話だし、4年~6年を合併させるって手もあるのに…。
 編集を手抜きするのは別に構いませんけど、小学生に悪影響を与えるような誌面作りだけはやめていただきたいものです。つまらない「だけ」の雑誌なら、読者に悪影響を与えることはないんですから。

『望郷の道』(226)

<第七章 長い坂(一)─6>

 正太には、やり通そうという意思が、異常なほど強い。普通の人間が挫けるようなところは、何事もなかったように跳び越える。これは駄目だろうと思うような壁も、くり返しぶつかり、いつか破っている。
 開店したばかりのころの慌しさが過ぎると、瑠韋の眼は子供たちにむきはじめた。
「もう少ししたら、加世は学校に行くようになるとよ」
「そがん歳になったか」
 台北には、日本人がさらに増えた。学校も、きちんとしたものがある。日本人に対してもそうだが、台湾人のための学校もあった。
「家が、小さかな。次の家は、家族のようけおって、みんなゆったり暮せるとの欲しかな」



 加世もいよいよ小学校ですか…。
 当時の小学校ってどんなものだったのでしょうか?あまり想像がつきません。
 寺子屋ならイメージが湧くんですけど…。

小学館の『小学六年生』4月号(その4)

 『小学六年生』の全体的な感想を書いていなかったので、今更ですがまた学年誌ネタです。スミマセン

 『小学六年生』の全体的な印象は、「薄い!!」です。なんつーか…記事の密度が異様に薄いんです。『小学一年生』~『小学五年生』だって、まぁ、ほとんど広告か「広告まがいの記事」ばっかりで、大した内容ではなかったわけですが、『小学六年生』はそれに輪をかけて薄いです。

 お笑い芸人の紹介ページなんて、こんなです。

 1ページに一芸人。

 内容が濃ければ「小学館って太っ腹!!」てことになるんですけど、あいにく超薄いんですよね…。文字数が少な過ぎる上に、写真がデカすぎ。

 懸賞ページは7ページ使っていて、一見大放出に見えるんですけど、プレゼントは94種類。つまり、平均すれば1ページにつき13~14種類しか載ってません。懸賞ページとしてはかなりの密度の薄さです。

 おやつのレシピのページなんて、こんなんです。

 ケーキの写真だけで丸々1ページ。

 え~と、これ、お菓子のグラビアページっすか?
 
 全てのページのレイアウトがこの調子なんです。学校関係の広報誌を作っているPTA役員のお母さんだって、もっとマシなレイアウトのセンスを持っていると思うんですけどねぇ…

 さて、漫画の方ですが、掲載されているのは『風の棋士ショウ』『ヒミツのわん・タッチ』『トホホな犬』『セ・ラ・ヴィ~世界一になるために~』『ゼルダの伝説 夢幻の砂時計』『どうぶつ村 ホヒンダ村だより』『ポケットモンスター D・P編』の7本です。

 7本中3本がゲームとのコラボ…

 うん…まぁ…いいですけどね、面白ければ…。いくらオリジナリティがあっても、『ないしょのつぼみ』とか『556ラボ』とか『空色のエプロン』みたいな馬鹿漫画じゃあ、百害あって一利なしですから…。ゲームとのコラボで面白い漫画の方がよっぽどいいです。

 でも、第一話を読んだ限りでは、『風の棋士ショウ』は害もないけど利もなさそうな感じだし(突っ込みの入れ甲斐を「利」ととることは可能だけど、果たして小学生はそういう視点でこの漫画を読むのかな?)、『ヒミツのわん・タッチ』は偏った恋愛思考を小学生に植え付けかねない漫画だし…。

 ちなみに、うちの娘は「もうこの雑誌買わなくていいよ。つまらないから。」と言ってます。
 『ポケットモンスター』の漫画はコミックスを買えばいいだけだし、情報関係の記事は内容が古いし、イケメンアイドルのインタビューには興味ねーし…ってことのようです。

 私にしても、『風の棋士ショウ』のトンデモっぷり(っつっても、この程度のトンデモレベルじゃ『コロコロコミック』には勝てないんだよなぁ)以外は特に注目してないので、いつまで『小学六年生』を買うことになるのかは分かりません。

 私が『小学六年生』を買い続けるかどうかは、『風の棋士ショウ』の内容次第ってことですね。武村勇治先生、頑張って下さいね 私も頑張って突っ込み記事書きますから

『望郷の道』(225)

<第七章 長い坂(一)─5>

 五日後には、罔象女の絵を描き、『みずは饅頭』と白地に黒で書かれた箱が、見本として届いていた。
 正太は、自分が彫った罔象女の船飾りを、そのまま神棚に置いた。
 ひと月はあっという間に過ぎ、気づくと三月目に入り、台北にも秋の気配が漂いはじめた。
 いま正太が店でやっているのは、店員たちの言葉遣いである。一日一時間、対応の稽古をさせたが、居残りの分の払いがちゃんとしているので、女たちは文句を言わなかった。
 仙吉はいろいろな客を演じるのがびっくりするほどうまかった。女たちにも人気があり、公礼華など、お父さんと呼んでいた。
 七富士軒は、うまくいきそうだった。いまは生産を増やさず、しっかりと腰を据える時なのだろう。



 対応の稽古に一日一時間って、結構長いですね…。「いらっしゃいませ~」の合唱を何十回もやったりとかするのかな

『望郷の道』(224)

<第七章 長い坂(一)─4>

 二日目は、饅頭を五百個売った。
 店を閉めるのは六時で、それまでに饅頭は売り切っていた。
 賄いの女が二人雇われていて、工場も店も一緒に食事になる。その女たちの監督も、瑠韋がしなければならなくなった。
 瑠韋は、献立の表を作り、材料の買物などは女たちに任せた。
 五日目になると、売る饅頭は千個になり、それも四時には売り切っていた。
「よし、箱詰を売るぞ。四個入り、八個入り、十二個入りたい。それぞれ、十個ずつにするけん」
 裏庭の倉の小豆は、いつも五噸ほど蓄えられ、古い物から使って黴が出ないように注意した。
「このまんま、しばらく商いばして、それから和菓子ばはじめようて思うとる」
「これ」
 瑠韋は、正太に箱をひとつ出した。中は罔象女(みずはのめ)の像があった。
「捨てんで、持っとったんか?」
「あたしは、こいばお守りにしとったよ」
「そうか、お守りね。瑠韋、こいば絵にして、箱に刷るちゅうのはどがんかな」
 和菓子と正太が言った時、なぜか瑠韋は罔象女を思い出したのだった。



 いつかは出てくると思っていた「罔象女の像」が、ここでやっと再登場
 この二人にとっての「罔象女の像」の意味を知っている人物って、ここでは仙吉だけってことになるのでしょうか?

『望郷の道』(223)

<第七章 長い坂(一)─3>

 下働きの者も必要で、台湾人の主婦を三人雇ってあった。
「女たちの監督ば、おまえにやって欲しか。馴れたら、店もおまえに任せしたか」
「女の監督はするばってんが、店はやりきらんとよ。帳簿ひとつ、つけきらんもん」
「いや、できる。きちんと銭ば金庫に入れる。帳簿は、俺がつけるけん、心配はなか」
 そのまま、一家五人で、座敷の蚊帳の中で寝た。虎太には、夜中に乳もやらなければならない。
 翌朝になると、働く女たちを瑠韋は集めた。
「手ば、洗え。仕事のはじめは、手ば洗うことたい。饅頭は、竹の挟み道具ば遣え。金は、あたしが帳場で出し入れするけん、キャラメルひと箱でん、自分のとこに持っとったらいかん」
 開店すると、胸が押しつ潰されるような気分になったが、素ぶりには出さなかった。
 客が入ってくると、キャラメルをふた箱買って。金が届けられると、瑠韋は帳面に小さな棒を引いた。五つで正の字になる。
 明日からは饅頭も同じである。
 小さな箱の饅頭を貰った客は、面食らっていた。




 「手を洗え」「挟み使え」って言わないと、手は洗わないし食べ物は手掴みってことなのでしょうか…。それはちょっと…

「しつけ」について考えてみる

 『犬と私の10の約束』の記事で犬のしつけについて触れたので、ついでに、人間の子供の方のしつけについても個人的な意見を述べてみたいと思います。

 「人間の子供と犬を同列に扱うなんて…」と不快に思われるかたもおられるかもしれませんし、実際、私自身も子供を持つ前は「子供のしつけと犬のしつけは同じ!」と断言する年配の方のセリフに違和感を持っていたのですが…。

 自分の子供の振る舞いが、結婚前に実家で飼っていた犬とソックリだったので、物凄い衝撃を受けました。(トータルすると4匹の犬を飼ったのですが、この記事で取り上げる犬は3匹目の犬です。)


《昔飼っていた犬の特徴》

・家の外に出すと、夜鳴きしまくる。(側にいて撫でてあげると鳴き止むのに、離れると鳴きまくる。我が家は室内で犬を飼える状態ではなかったので、必死になって室外に慣れさせました。)

・散歩していて疲れてくると、抱っこをせがむ。(抱っこしてもらえないときは、地べたに寝そべり、歩くことを体全体で拒否)

・なかなか歩こうとしないくせに、ちょっとテンションが上がってくるといきなり走り出す。

・口まで運んであげないと、食べ物を食べようとしない。(トレーに入れた食べ物を食べたがらない)

・偏食が激しく、嫌いな物(特定のメーカーのペットフードとか)は意地でも食べない。嫌いな物を食べるくらいなら、空腹でいる方を選ぶ。



 これは全部飼い初めの頃の状態なので、ずっとこうだったわけではありません。最初のうちだけです。
 この犬が家に来たときは既にある程度成長してしまっていたせいでききわけが悪かったということもあるのですが、もともとの性質も意地っ張りな上に甘えん坊だったようで、しつけにはかなり苦労しました。

 さて、長女の小さかった頃の特徴ですが、これが、上記の犬の特徴そのまんまでした。


・夜はほとんど寝てくれない。抱っこしている間は大人しいのに、布団に下ろすと泣きまくる。

・歩けるようになっても、抱っこをせがむ。抱っこしてあげないと、座り込む。

・歩くのを嫌う割には、テンションが上がるといきなり走り出す。

・「あ~ん」してあげると食べるくせに、スプーンを使って自分で食べたがらない。

・偏食が激しく、嫌いな食べ物(緑黄色野菜とか)は意地でも食べない。嫌いな物を食べるくらいなら、空腹でいる方を選ぶ。



 あまりにも実家の犬と同じ態度をとるので、「犬は飼い主に似るっていうし…娘が私の遺伝子を引いていることを考えると、私自身がこういう人間だということか!?」と本気でヘコみました。 (犬にしても娘にしても、ききわけがなかったのは僅かな期間でしたが…)

 犬と人間の子供で共通しているのは、「最初は何も分からないけれど、教えれば覚える」ということです。「こういう時はこうすべき」「こういう時はこうしちゃダメ」と、一つ一つ、具体的に、じっくり教えていくしかないんです。

 さて、『犬と私の10の約束』の感想で「しつけと調教は違う」と書きましたが、どう違うのかは具体的に説明していなかったので、こちらで説明します。

 「しつけ」の方は、飼い主が命令しなくても自分の意思でやれるようにするのが最終目標ですが、「調教」の方は、飼い主(または調教師)の言うことだけに忠実に従うようにしなければいけません。しつけに必要とされるのは「自主性」であるのに対し、調教の方に必要とされるのは「従属心」なのです。

 人間の子供に対するしつけも同じで、最終的には子供が自分からやれるようにしなければ意味がありません。親に言われた時だけ嫌々やっているようでは、しつけができているとは言えないのです。
 分かりやすい例として、「親の前ではいい子ちゃんなのに、親がいない所では悪さばっかりするガキンチョ」を挙げてみましょう。こういう子は、犬に例えれば「調教はされているけど、しつけはできていない」という状態なのです。「親の言うことだけきいていればいい」と思ってしまっているわけですから。

 「しつけとは他者へのマナー」というようなことを映画の感想に書きましたが、他者とはミクロな目で見れば「家族」であり、マクロな目で見れば「社会にいる人間の全て」です。
 「家庭内におけるしつけ」の例としては、人間であれば「TVを観ながらご飯を食べない」「自分の部屋は自分で掃除をする」などであり、犬であれば「家の中に上がらない(室外飼育の場合)」「テーブルに乗らない」「うんちやおしっこは決まった場所で」などがあります。
 「社会におけるしつけ」の例としては、人間であれば「人の話をちゃんと聞く」「ゴミのポイ捨てはしない」などであり、犬であれば「無駄吠えしない」「好き勝手な場所に行かない」などがあります。
 「家庭内におけるしつけ」はその家庭でしか通じないルールですが、「自分以外の人間と円滑に生活を送るための知恵」という点に関しては、「社会におけるしつけ」と同じです。

 ただ、犬にとっては、人間の決めた社会のルールなど、人間の勝手以外の何物でもありません。犬にとっては、本来は知ったこっちゃないのです。
 しかし、映画の感想にも書きました通り、犬と人間の生活範囲はどうしても被ってしまうのです。社会にいる人間全員が犬が好きなわけではない以上、犬に人間のルールを従わせることは、「飼い主に課せられた人間社会への義務」なのです。
 人間の勝手なルールに犬を従わせざるをえない代わりとして、飼い主が犬へ示さなければならない最低限の礼節を説いたのが、『犬の10戒』なのです。

 映画の中で、主人公が犬を勝手に病院や寮に連れ込むシーンがありましたが、これは、人間に例えれば、赤ん坊を高級レストランやクラシックコンサートに連れてくるのに等しい行為です。「大人しくしてりゃあ、文句はないんでしょう!?」と言われて、はい、そうですね、と社会が納得しますか?
 多分、あの映画を観て感動したという人は、あのシーンを観て「主人公はホントに犬を愛しているんだね~」と微笑ましく感じたのでしょうけど、犬を赤ん坊に、病院や寮を高級レストランやコンサート会場に置き換えたとしても、果たして「微笑ましい」で済ましてくれるのでしょうか…。いつ泣き出すかもわからないし、うんちをして悪臭を漂わせる可能性もあるというのに…。

 色んな事情があって、本来なら子供を連れて行くべきではない場所に連れて行かざるをえない場合も、もちろんあります。でも、その場合は、親は周囲にせいいっぱい気を遣いますし、子供が何かしでかせば謝りっぱなしになります。
 しかし、映画の中では、主人公は犬を連れて行けない場所に連れて行って、いけしゃあしゃあとしていました。監督や脚本家にしてみれば、「犬を愛しているんだからいーじゃない」ってことなのでしょうけど、これが人間の親子であった場合、「親は子供を愛しているんだから、公共のマナーを破ったとしても、いけしゃあしゃあとしていて問題ナシ!!」ということにしてくれるのでしょうか?

 結局のところ、「子犬は誰が見てもかわいいけど、人間の子供はそうじゃない」ってことなんです。犬のかわいさで、映画の出来の悪さが相当カバーされちゃってるってことです。
 この映画のテーマが、「犬ってかわいいね」だけであったなら、私はあんなにメッタ斬りな感想など書きませんでした。私だって、犬はかわいいと思ってますから。


『望郷の道』(222)

<第七章 長い坂(一)─2>

 酒は、小型の貨物船で、樽ごと灘から運ばれてくる。大型船よりも時間がかかるが、運賃を値切ることができた。ただ、水を混ぜて売る者もいるので、ひと樽ごとに、瑠韋自身が味見をして買う。
「お瑠韋さんの酒の買い方、俺は感心したとよ」
 川瀬はかなり酔っていた。
「なんで、富士が七つなんね、正太さん?」
 浜が言った。瑠韋には、それはわかった。結婚して七年目なのだ。
「俺は、七という字の好いとるとたい」
 宴会は三時過ぎにはじまり十時ごろお開きとなった。
「今夜は、ここに泊まるとよ。明日から、店ば開く準備ばするとたい」
 店員が、明日から三人来る。日本人の女がひとりと、台湾人の女が二人である。


■注■
瑠韋の「韋」の字は本当は「王」+「韋」。



 酒に水を混ぜて売る業者ですか…。当時から食品の偽装はあったんですね。
 
 私は記念日とかって全然気にしないたちなのですが(自分の誕生日すらどーでもいい)、正太は結構気にするタイプなようですね。

『望郷の道』(221)

<第七章 長い坂(一)─1>

 男の子が、生まれた。
「虎じゃ、こん子は、俺が虎になっとる時に、この世に出てきたとよ。だけん、虎太ちゅう名にする」
 この半年、正太にはまったく迷いはなかった。借金を返してしまうと、新たな借金をして母屋を取り壊し、石造りの新しい家を建てている。一階は、菓子の店で、二階は職人たちの部屋にするという。
 屋号は、七富士軒に迷わず決めた。藤の家の音ともかけてあるようだ。
 落成式は夏になり、瑠韋も出ることができた。
 招かれたのは、島田をはじめとする従業員全員、それに浜修二、銀行の岩村仙一、楊荀芳、鄭万里など直接仕事に関係ある者たちと、川瀬夫妻だけだった。淡水館という、有力日本人の集まりからは、ひとりも呼ばなかった。
 二階には大広間があり、そこで宴会になった。料理はすべて、川瀬の店からの仕出しである。


■注■
瑠韋の「韋」の字は本当は「王」+「韋」。



 長男は正一だったけど次男は正二ではないんですね。ちょっと意外でした。

 虎といえば、中学生の時に転校してきた双子の兄弟の名前に、それぞれ「虎」と「龍」の字が入っていて、ものすごいインパクトがありました。しかも、名前のゴツさに似合わない可愛らしい外見の兄弟だったので、なおさらインパクトがありました。

映画『犬と私の10の約束』(その②)

その①からの続き)


 その①の方で、「あかりの精神年齢が幼すぎる」と書きましたが、 どれくらい幼いのかというと『マリと子犬の物語』の彩と同じレベルです。14歳の中学生のくせに、幼稚園児並のメンタリティなんです。

 自分の誕生日にお父さんがなかなか帰ってこないからってふてくされるわ(残業の多い仕事をしているのなら、11時帰宅なんてよくあるレベルなんじゃないの)、犬を飼うことの覚悟が全くできてないわ(「10の約束」ちゃんと理解してないじゃん)、犬を入れちゃいけない場所(病院と寮)に入れておいてなんの後ろめたさも感じてないわ(「犬は家族だからペットじゃない」?はぁ?他人から見たら犬は犬でしかないよ)、家事をほとんど父親任せにするわ(せめて半分は分担しろよ)、父親の仕事を全く理解しようとしないわ(誰に食わせてもらってるんだか分かってんの)、見ていてイラつくことこの上ないです。

 あかりが幼稚園児か小学校低学年という設定なら無理のないストーリーになったはずなに、なぜ、14歳の中学生という設定にしてしまったのでしょうか?答えは、おそらく、田中麗奈と福田麻由子をセットで使いたかったからという、ただそれだけの理由なのではないかと思っています。(私の単なる想像に過ぎませんが…。)大事なのは、大人時代の主人公を田中麗奈、子供時代の主人公を福田麻由子にキャスティングすることであり、内容なんてどうでも良かったってことなのではないでしょうか。
 福田麻由子を使うと決まった時点で、「あかりは中学生」という設定にならざるをえまん。田中麗奈は、メイクによっては10代後半で充分通用するわけですから、子供時代のあかりを8歳くらい、ソックスが死ぬ頃の年齢を18歳くらいにしておけば、無理のない映画になったのに…もったいないことをしたものです。

 田中麗奈も、福田麻由子も、演技は文句無しに上手いんです。演技は。でも、あのキャラの精神年齢に対する田中麗奈と福田麻由子の実年齢に、ギャップがありすぎたんです。もし、脚本がある程度先にできていて、後からキャスティングが決まったのだとしたら、これは完全にミスキャストです。(逆に、最初からキャスティングが決まっていて、後から脚本を書いたのだとしたら、脚本家がダメすぎます。)

 もう一人ミスキャストに感じたのが、あかりのボーイフレンド(=星)役の加瀬亮。

 どう見ても田中麗奈と同い年には見えません

 いったい星くんはどんだけフランスで苦労したんですか あの老け方は半端じゃありません 再会した幼馴染があんな老け方をしていたら、懐かしがるより先に、健康状態が心配になります

 あと、気になったのが、あかりの友達(=ゆうこ)役の、池脇千鶴。

 脇役なのに存在感ありすぎ

 田中麗奈と一緒に歩いているシーンだけ見た人がいたら、かなりの確率で池脇千鶴の方を主人公だと思っちゃいますよ

 脇役なのに存在感がありすぎな人といえば、他にも岸辺一徳とか笹野高史とかピエール瀧なんかもいます。ピエール瀧は、ラストで面白いことをやらかしてくれるからまだいいんですけど、岸辺一徳と笹野高史は、「後で何かでっかいことをしてくれるんじゃ…」と期待させておきながらナンも無し。ならもっと存在感のない俳優さんをキャスティングすればいいのに…。『マリと子犬の物語』に出ていた脇役の人達は、いい具合に存在感がなかったのになぁ褒めてます、一応…)

 俳優さんたちには、全く落ち度はないんです。演技は抜群に上手いんです。でも、キャスティングがストーリーにマッチしてないんです。あかりの父親役の豊川悦司はバッチリはまってたし、だんだん老けてゆく様は見ものなんですけどねぇ…。

 あと、演出上、大ポカをやらかしているシーンが一箇所あります。あるシーンから次のシーンに切り替わった途端に、ソックス(子犬の方)が成長して大きくなってしまっているんです。それなのに、次のシーンでは、また元の大きさに戻っているという…。
 おそらく、この3つのシーンの真ん中だけロケを後回ししたか、もしくは別の個体の子犬を使っていたのでしょう。犬が好きな人にはかなりガッカリなシーンです。この程度の違いならバレないとでも思ったのでしょうけど…
 ロケの順番は俳優さんのスケジュールとか天候の都合があるから仕方ないにしても、あのシーンなら、カメラワークとか編集をちょっと工夫すれば、犬の大きさくらいごまかせたはずなのに…。手を抜くにもほどがあります

 あと、犬が好きな人にはがっかりな部分といえば、見過ごせないのは、この映画は「犬をかわいがること」と「甘やかすこと」の区別が全くついていないことです。そのせいで、ソックスのしつけというものが全くできていないんです。
 日本は「犬のしつけ」と「調教」の区別がいまいちついていないせいで、どうしても「しつけ=犬がかわいそう」というイメージが働きがちなのですが、しつけと調教は全然別物です。
 あかりがソックスに一張羅を汚されたシーンであかりがやたらに怒っていましたが、これはソックスが悪いわけではなく、ちゃんとしつけていない飼い主のせいです。ソックスがテーブルに足をかけているシーンもそう。悪いのはソックスではなく、ちゃんとしつけていない飼い主の方です。
 あかりが自分の気分だけでソックスを家の中に入れたり庭に追い出したりしていましたが、これは、犬のしつけとしては最悪です。一度外で飼うと決めたなら、ずっと外で飼うべきです。

 「犬は友達(あるいは家族)だから、しつけなんていらない」という主義の飼い主の方ももちろん世の中にはおられます。当人がそれで納得しているのであれば、それを否定するつもりは毛頭ありません。 
 ですが、この映画では、あかりとソックスは同等ではないのです。「ハウス!」と命令しているシーンが、それを如実に表しています。自分の機嫌の悪いときだけ「外に行け!」と命令するなんて、友達でも家族でもありません。主従関係以外の何物でもありません。
 あかりとソックスが同等であるのなら、ソックスが何をしでかしても、あかりは怒るべきではありません。家に上がりこもうと、テーブルにあるものを勝手に食べようと、服を汚そうと、一切怒るべきではありません。だって、しつけてないんですから。

 犬のしつけというのは、「人間と一緒に暮らす上での最低限のマナーを犬に守らせる」ということです。金魚やハムスターのように完全に隔離されて飼われているペットと違い、犬と人間は生活範囲がどうしても被ってしまうわけですから、共同生活する上でのマナーを守ることは、重要です。犬にとっても、人間にとっても、です。

 「犬が人間に対して守るべきマナー」を覚えさせるのが「しつけ」であるのに対し、「人間が犬に対して守るべきマナー」を教えてくれているのが『犬の10戒』なんです。そのことが、この映画では完全に無視されているんです。

 映画の表向きのテーマが「犬を飼う上での約束」なのに、蓋を開けてみたら実際のテーマが「あかりの自立」になってしまっているのは、脚本家が『犬の10戒』というものの存在の意義を全く理解していないせいだと思います。


『望郷の道』(220)

<第六章 灼熱(七)─7>

 すでに、負けている。小さな博奕しかしていない。
 正太は土屋の襟首を掴んで外に出た。
「おい、おまえ、なんか身に覚えのあるとだろう?」
 土屋は、小柄で華奢である。正太が睨みつけると、何度も頭を下げた。
「誰のこつで、頭ば下げとる?」
 土屋が、二人の女の名前を言った。
「なんの関係もなかよ」
「なんなんだよ?」
「俺が、おまえの腕ば買う。明日から、おまえはうちで働け」
「俺はね」
 言いかけた土屋の頬を、正太は一発張った。
「おまえ、腕に自信のあるとか?」
「ある」
「なら、うちで働け。女のこつは、知っとる。卑怯なこつば、しちゃいかん。そいばしたら、馘にはせん。俺が、おまえば半殺しにするけん」
「誰なんだよ、あんたは?」
「藤正太っちゅう。菓子ば作っとる」
「藤。一番星キャラメルの?」



 ん?二人の女…?
 昨日の挿絵は、「小指に3人の女がぶら下がっている絵」だったので、てっきり最低でも三人以上の女に手を出しているのかとばかり…。まぁ、土屋が本当のことを言っているとは限らないか

 それにしても、正太ってば「半殺しにする」だなんて、物騒な…。正太が言うとシャレになんないよ 実際に過去に何人か半殺しにしてるんだから

映画『犬と私の10の約束』(その①)

 『犬の10戒』という詩を元にして作られた映画『犬と私の10の約束』を観てきました。

 『マリと子犬の物語』よりはマシだといいなぁ…と願いつつ観に行ったのですが…

 …違う方向性でダメな映画でした…

 まず、『犬と私の10の約束』というタイトルに偽りあり。正しくは『私とお母さんの10の約束』です。だって、ここでいう『10の約束』って、お母さんがあかり(=主人公)に対して言い出したことであり、あかりはお母さんに対してその「10の約束」を誓っているんですから。「10の約束」をするシーンには一応ソックス(=犬)がいるので(なぜか病院なのに犬を連れてきている)、パッと見はあかりがソックスに対して誓っているように見えなくもありませんが、実際にはお母さんに対して誓っているのが明白です。だって、ソックスが死ぬシーンであかりが号泣しているのは、純粋にソックスの死に対して泣いているわけではなく、お母さんのことを思い出して泣いている部分が大半なんですから。
 既に映画をご覧になった方は、試しに、お母さんが普通に生きていて、「10の約束」がそこら辺の本屋で買ってきた本だったと想像してみてください。あの「ソックスが死ぬシーン」で、あかりがあそこまで激しく泣くと思いますか?

 …泣きませんよね?(少なくとも、あんなに激しくは。)

 あのシーンは、結局、「あかりのお母さんが死んでいる」ことが前提となって、やっと「感動できるシーン」として成立しているんです。あかりの号泣には、「お母さんと約束していたのに、今まですっかり忘れていて、ごめんなさい!」というお母さんに対する謝罪の気持ちと後悔の念が込められているんです。

 では、この映画はお母さんと娘の絆がテーマになっているのか?というと…実はそうでもないんです。だって、お母さんが死ぬ所は、軽~く流されてしまっているんですから。
 お母さんが死ぬシーンをちゃんと描いていないので、あかりがお母さんの死を悲しんでいるシーンはほとんど描かれていません。「心理的な理由(=母の死)で首が動かなくなった」というシーンはありますけど、ソックスのおかげ(ということになってるけど単なる偶然)であっさり治ってしまっているので、大して印象に残りません。
 ソックスが死んでいるシーンはやたらに大袈裟な演出をしているくせに、お母さんが死んだ直後の描写がショボくさいので、母親の身である私としてはどうにも納得できませんでした

 納得できないといえば、生前の母親の行動もどうにも納得できません。自分の余命があと僅かだと分かっているのに、なんでまたよりによって、やっておくべきことの最優先事項が「犬を飼う上での約束」なのでしょうか?他にもっと大切な事が色々あるはずでしょーに…。
 「自分がいなくなったことで生じるあかりの心の空白をソックスに埋めてもらおう」という意図なのは分かるのですが、あかりを心理操作して、「母親のいない寂しさを犬で紛らわせるように仕向ける」のって、母親として何か間違ってないですか?
 あかり自身がそれを望んでいるのなら、まぁ、仕方ないですよ。『マリと子犬の物語』の彩や、『あらいぐまラスカル』のスターリングも、ペットで母がいない寂しさを紛らわせていましたよ。でも、彩とスターリングの場合は、そうすることを自分の意思で選んだのであって、母親がそうするように仕向けたわけでは決してありません。

 この記事をご覧になっている方で、お子さんをお持ちの方がいらっしゃいましたら、想像してみて下さい。自分は余命いくばくもなく、娘は14歳。さて、どうしますか?
 …普通なら、これから生活していくための知恵(家事とかお金のやりくりとか)をなるべくたくさん伝えようとするか、もしくは思い出作りに励みませんか?いくら子犬を貰ってきたばかりだとしても、「犬を飼う上での約束」なんて長々とやっている暇なんてないでしょう?しかも、娘を心理操作して「母親のいない寂しさを犬で紛らわせるように仕向ける」なんてこと、しませんよね?
 娘が幼児だったら、仕方がないなぁと思う部分もありますよ。心の拠り所を残してあげようとするのも分かりますよ。でも、娘は14歳ですよ?「母親のいない寂しさをペットで紛らわす」なんていう年齢ではないでしょう。どんだけ精神年齢が幼い娘なんですか、あかりは(この件に関しては「その②」の記事の方でも詳しく書きます。)

 あかりの母親が絵本(=『ソックスとの10の約束』)という形式で「犬を飼う上での約束」を記したのは、自分が生きた証をカタチとして残すためだった、と考えられますけど、あかりがその絵本を思い出すのはソックスの死のまぎわです。しかも、それを思い出させたのはお父さんです。それまで、あかりは絵本の存在なんかすっかり忘れていたんです。
 あかりって二度も引越しをしているのに、母親が残した絵本を全く目にしなかった上に思い出しもしなかったって、おかしくないですか?父親が大事にしまっておいたのかもしれませんけど、それにしたって、あかりがその絵本の所在を全く気にしていないのは、どういうことなのでしょうか?あかりがこの絵本を日頃から眺めていれば、ソックスを疎ましく思うことなんてなかったはずなのに…。(しかも、疎ましく思った理由ってのが、「男と旅行できなかった」だの「一張羅を汚された」だの、超くだらねぇ理由 犬の飼い始めにそのくらいの事態は予想つくだろ


(その②に続く)
 

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