更紗のタペストリー(L)

auoneblogから引っ越してきました。 主に、アート・書籍・音楽・映画などについて語ってるブログです。 もうひとつのブログ(http://sarasata.seesaa.net/)では、日経新聞の連載小説の感想を綴っています。

2009年05月

『甘苦上海』(237話)

《甘苦上海237話》
 
 金持ちのオンナは金で男を買うのが上手い…わたしへの当てつけか攻撃か、それとも甘えか自虐か。
「わたしも今夜、阿樹菩で千元使ったわ。おなじ時、京さんはヒルトンホテルでオンナを抱いていた…ねえ、どうしてここに来たの? なぜわたしを待っていたの?」
「…嘘の方が良かったですか」
「なぜ怒るか聞きたい? 自分が情けないのよ。こんな気分を捨てたい、捨てられるような気がした…阿樹菩で印を結んで、ムスクの香りに浸っているときはね…でもそのとき京さんは何をしていた?」
「…二十秒…たったの二十秒です」
 何を言っているのか。
「どうしてそんな話を、わざわざここまできてするの? わたしにどんな恨みがあって、傷つけるの?」
「…死ぬときは、二十秒でカタがつくのかな。もって長く苦しむのかな…あのオンナを抱いているとき、時間を測ってました…それが二十秒」
「何を測ったって?」
「快楽」
「…二十秒だから構わないの?」
「…紅子さんを待った時間は一時間十五分でした」
「なぜ来たの? どうしてここにいるのよ」
「…紅子さんは、自分の身体の半分が死んで、生きてる半分がじっとそれを見ている感覚がわかりますか…紅子さんに会いたい僕がいた…半分だけの僕が紅子さんに会いたかった…」
 わたしは見苦しい自分を打ちのめすために、京の頬を平手で叩いた。
















 紅子が「わたしにどんな恨みがあって…」って言ってますけど、まさか紅子って京から恨まれることは何もしていないと思い込んでいるのでしょうか?


 アポなし訪問で黄蓉とのセッ●スを邪魔したり(1話~8話のあたり)、お金で人の気持ちを支配しようとしたり(21話~23話のあたり)、論文の執筆を邪魔したり(54話)、譲ってもらった猫を元の飼い主の承諾もなく第三者に渡したり(120話)、電動歯ブラシオ●ニーを手伝わせたり(123話)、小賢しい策略で周敏と別れさせて優越感に浸ったり(136話)、松本とフタマタをかけていることを自慢げに話したり(124話)、酒くさい息で深夜に突撃したり(147話)、裏でコソコソと過去を調べたり(173話)…



 ここまでしておいて、京から恨まれる筋合いは無いと思ってるのでしょうか?

 そういえば、春火の居所を突き止めてくれた件に関して、紅子が京に感謝の意を示したことってありましたっけ?
 不夜には205話で「ありがとう」とお礼を言ってますけど、京にはまだ言っていないような気が…。
 




『甘苦上海』(236話)

《甘苦上海236話》
 
 京とわたしは床に転がる。大理石は冷たい。触れた片腕が心地よい。
「何度も電話したのよ。あのジャズバーからも」
「…誰と一緒だったんですか」
「一人よ。その前に、阿樹菩に行ったの。春火ちゃんのお礼に、絵を買ってあげようと思ってね」
 それからひとしきり、わたしは阿樹菩でのことを話す。
「電源を切ってたのは、なぜ?」
「…紅子さん、どうしてそんなことを訊くんですか。嘘つきましょうか。嘘は良くないですね。オンナと一緒だった」
 やっぱりだ、最悪の想像が現実だったのだ。
「どこのオンナ? 周敏さん?」
「名前なんか知りませんよ。聞いたかも知れないけれど、忘れた」
「小姐?」
「音大生だと言ってた…復旦大学病院の前で呼び止められて、連れている犬を貰って下さいと言われたんで、なぜかと聞いたら、これから入院して多分死ぬから、犬を貰ってくれそうな優しそうな日本人をここで探している…」
「それで」
「ヒルトンホテルのコンシェルジュに犬を預けて、そのオンナと寝ました。犬の世話代にと寄越した千元は、ホテル代になりました。それだけですよ。オンナはまた犬を連れてどこかに消えた。金持ちのオンナは、金で男を買うのが上手いんです」














 犬の世話代が千元…? また千元ですか
 「なんちゃって密教画」とそのレンタルスペース代が千元。上玉クラスの小姐の一晩のお値段も千元。そんでもって、ホテル代も千元…。なんだかなぁ…

 犬をナンパに利用する方法というのは、以前、『週刊プレイボーイ』に載ってたことがありますけど、紹介されていたテクニックは「散歩の途中に出会った女性をナンパ」とか「犬の話題で盛り上がって高感度をアップさせる」とかで、「犬を貰って下さい」というのはさすがに無かったなぁ…。普通、初対面の人を相手に「ペットを貰って下さい」なんて言わないもんなぁ

 この小説は猫の扱いもぞんざいだったけど、犬の扱いも似たようなものですね。動物好きの読者を怒らせたくて、わざとこういう描写をしているのでしょうか?

 この小説って、信仰心に対する敬意もなければ、美術品やペットに対する愛情もないんですよね。まぁ、それは「主人公が自己愛の塊だから」という理由で押し通すことは可能ですけど、上海を舞台にしているのに上海を愛している登場人物が一人も出てこないのはどういうことなのでしょうか? 上海生まれの上海育ち(のはず)の周敏というキャラからも、上海への愛情が感じ取れませんし…。普通、異国を舞台にしている小説なら、その国(あるいは土地)を愛している登場人物が一人くらいは出てくるものでしょう。
 今読んでいる最中の『ナポリ 魔の風』にも、今のところ、ナポリへの愛情を感じられる登場人物が出てきていません。まさか、作者は、異国を舞台にした小説を書くときは、いつもこんな調子なのでしょうか? 

『ナポリ 魔の風』(高樹のぶ子著)について・その①

 アマゾンでたまたま高樹センセの『ナポリ 魔の風』という本のカスタマーレビューを見たら、「宗教がなんであるか、とくにキリスト教の教えが何であるかを全然理解していません」と酷評されていました。
 一体どれくらい酷いのか確かめたくなり、思わずブックオフで105円で買ってしまったのですが……確かにこれは酷いです
 まだ50ページくらいしか読んでいないのですが、突っ込み所がありすぎるので、忘れないうちに記事にしておきます。

 序盤に「ルオータ」(教会に設置されている回転式の装置で、今の日本でいうところの「赤ちゃんポスト」に相当するシステム)に関して主人公の恵美子が色々と思いを馳せるシーンがあるのですが、ここを読めば、高樹センセがキリスト教というものを全く理解していないことが分かります。


【貧困と私生児への世間の残酷な目が赤ん坊を抱いた女たちをルオータに向かわせたのだろうが、放っておけば死ぬ命を救済するのだから福祉の一環でもある。ルオータのある教会は大抵病院や修道院と隣同士で建っているから、病院で手当てを受けて病いが治れば修道院へ送り込まれたそうだ。】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』13ページより)



 この小説はイタリアを舞台にしています。イタリアなら、宗派は当然カトリックです。
 カトリックは、避妊と堕胎を禁止しています。女性は一旦妊娠したら産むしかないんです。(ちなみに、現在ではオギノ式による避妊は認められています。)
 教会がルオータのようなシステムを作ったのは、女性に避妊と堕胎をさせないため、及び、避妊と堕胎を認めない代わりのせめてもの「思いやり」なんです。ただの「福祉の一環」だと思ったら大間違いです。


【それを聞いて、何と素晴らしいシステムだろうと感心した。すべての人間は原罪を背負った生きものだと見なしているところはやはりキリスト教の国だわと思い、また一方で赤ん坊の生命をキャベツやトマトのように扱うことでしか成立も運用も難しいシステムなのだと考え、だったら是非一度この目で見たいと考えたのだ。】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』13~14ページより)



 一体、高樹センセは、「原罪」を何だと思ってらっしゃるのでしょうか? 渡辺先生との対談では、「セッ●スによる快楽」ってことになってたのに、この小説では「子供を捨てること」もしくは「望まない妊娠をすること」になっちゃってるみたいなんですけど…。
 にも書きましたけど、神がアダムとイブを怒ったのは、「食べちゃいけないと言われたものを食べたから(=神の教えに逆らったから)」もしくは「知恵をつけてしまったから(=神に近い存在になろうとしたから)」ですよ? これが「原罪」なのに、なんでここに「セッ●スによる快楽」とか「子供を捨てること」とか「望まない妊娠をすること」が出てくるのでしょうか?


 この小説では、「ドニ鈴木」という登場人物が、自分を「250年前のカストラートの生まれ変わり」と称しているんですけど、キリスト教には「輪廻転生」の概念はありません。人間一人一人は神によって創られた、ということになっているからです。キリスト教徒にとって「輪廻転生(リインカーネーション)」は、神の教えに反する概念なんです。
 ですから、日本人と外国人では、「輪廻転生(リインカーネーション)」という言葉に対して抱いているイメージはかなり違います。日本人にとってはなんとなく自然に受け入れている概念ではあっても、キリスト教を信じている外国人にとってはオカルトとか擬似科学の範疇なんです。良くてもせいぜい「自己啓発」とか「ヒーリング」の手段の一つという扱いです。
 まだ50ページしか読んでいないので「ドニ鈴木」がどんな人物なのかはまだはっきり分からないのですが、イタリア人の血が1/4、ドイツ人の血が1/4、日本人の血が1/2という設定になっています。ドニの母親は、「ミチコ」という名前の登場人物とは従姉妹の関係なので、恐らくは日本人の血は母親のものなのでしょう。幼い頃に母親に連れられてドイツからイタリアに来たことになっているので、どうやら、子供時代はイタリアで育ったようです。【注】
 ということは、ドニが、日々の生活の中で自然に「日本人的な輪廻転生観」を身に付ける機会などほとんどなかったはずなので、カストラートの記憶を持って生まれたからといってすぐさま「自分はカストラートの生まれ変わりだ」と”悟る”のはかなり不自然です。母親が日常的に「日本人的な輪廻転生観」をドニの前で話して聞かせていた可能性がなきにしもあらずですけど、そんな母親が果たしているのでしょうか?
 今のところ、「生まれ変わり」という言葉を、主人公(=恵美子)もドニも、全く同じニュアンスで使っているような描写になっていて、私にはどうにもひっかかります。話が進むにつれて、何かしらのフォローが出てくるんですかねぇ…。

 あと、この小説は、なんでもかんでも「ここはナポリだから」で済ませようとする部分もひっかかります。


【ここはナポリよ。彼女は私と会っている間に数回は口にする言葉を、優越感をもってまたしても吐き出すに違いない。】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』10ページより)

【「ここはナポリよ、聖ジェンナーロの都よ。哲学なんてどこにもないわ」】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』20ページより)

【「ここはナポリよ。怒るわけないでしょ」】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』26ページより)

【「まだいいでしょう、ここはナポリです。へんなことを言うと思われても仕方がない」】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』44ページより)

【「いいんですよ別に、気が狂ってると思っても。馴れてますからね、ここは何でもアリのナポリですし」】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』47ページより)

【ここはナポリである。何度か同じ言葉を自分に言い聞かせたが、足元と腹部と顔に温度差のある風を受けているような理不尽さは消えてくれない。】
(文春文庫版『ナポリ 魔の風』51ページより)



 なんか、『甘苦上海』における「上海」の扱いと同じ匂いがプンプンしますね…


その②に続く)


【注】この記事を書いた後、しばらく経ってから、ドニは日本で育った可能性があることが分かりました。ドニが母親に連れられてドイツからやってきたのはイタリアではなく日本の可能性があります。この件につきましては「その④」の記事をご覧になってください。もし、ドニが日本で育ったのであれば、ドニが日本人的な輪廻転生観を身につけていることは不自然なことではないということになります。申し訳ありません

『甘苦上海』(235話)

《甘苦上海235話》
 
 タクシーがバックで戻って行くのを見送り、上体だけで泳ぐように玄関に動いているとき、左側の木犀の植え込みの奥から、白い仏がひらりと現れた。
 悲鳴をあげそうになったのは、玄関の明かりで京の顔がはっきりと見えたときだ。
 手にしていた鍵がコンクリートの上に落ちる。京が拾い上げて鍵穴に入れる。
 一階のアヘンベッドに乗せられる。
 目の前にいるのは京ではなくて、やっぱり阿樹菩の白い仏なのだ。どんな仏より京の方がいい。京のままでいてほしい。
「…何度も電話したのよ。でも通じなかった…あなたは誰? いつから待っていたの?」
 抱きしめて欲しくて、胡乱な目を泳がす。けれど京はそうしない。
「…生きているのが面倒になりました」
 京はわたしを抱きしめ、頬に頬を押しつけ、それから耳に口を当てると、また同じことを言う。


















 よくもまぁ、京は、酒臭い紅子を抱きしめる気になりますねぇ…。
 なんか、紅子が京に会う時って、大抵は酒臭い息をしてますね。たまにお酒を飲まない状態で京に会っても、結局はどこかの店に入って2人でお酒を飲みますし。
 「オトナのレンアイ小説」のアイテムにはアルコールは欠かせないってことなんですかねぇ。いくらアイテムにオトナの風格があっても、登場人物の精神年齢がガキ同然だったら意味ないんですけど
 

『ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊』

 ここ一ヶ月ほど、DSの『ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊』をやっています。

 シナリオは前作の『時の探検隊』『闇の探検隊』とほとんど変わりませんが、「スペシャルエピソード」でサイドストーリーが楽しめるようになったり、アイテムをリサイクルするシステムができたり、紛らわしい名前のアイテムが登場したり、他のプレイヤーに救助してもらえないダンジョンが追加されたりしています。

 このゲーム、とにかくアイテムがどんどん増えていくので、倉庫のシステムは変えてほしかったのですが、これは前作と同じままです。もっとアイテムを管理しやすいシステムにしてほしかったのですが…
 あと、保存できるアイテムの数をもっと多くしてほしかったです。最終的には1000個まで預けられるようにはなるんですけど、結局これでも足りなくなってしまうんです。ポケモンの種類がやたらに多いので、「特定のポケモンの専用アイテム」も当然多くなり、これがどんどん増えてしまうんですよねぇ…。

 
 お礼でレアなアイテムが貰える依頼をご紹介しますが、メインのシナリオが終了した後にしか行けないダンジョンが多いので、ご注意下さい。 



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『甘苦上海』(234話)

《甘苦上海234話》

 福州路から乗ったタクシーが延安路をスムーズに来て、古北路に入ったとき、わたしはいつもと違う酔い方をしているのに気付いた。
 胃のむかつきは無いけれど、目を閉じれば千元で買った二枚の絵が、暗い空間を稲妻のように飛び交ってわたしにぶつかって来た。
 酔っているのは身体ではなく、精神だ。五感の歯車が、空回りしている。
 京に電話が通じないことも、悪酔いの原因だと解っている。
 ただ話したい、聞いてほしい、そしてあの夜阿樹菩の奥の部屋にあったアブナイ本は、今夜は消えていたのよと、伝えたい。
 もう遅い時間だから、今夜は会えないけれど、せめて次に会う予定を決めたい。それも京の口から会いたいと言わせたあとで、すかさず決めたい。いえ、京に言わせるのではなく、わたしの方から言おう。
 京さんの書いた記事のせいで、大阪で人が死んだとしても、京さんの書誌学のおかげで、春火を探し当てることができたのよ。
 それがどうしたの、いい歳をして若い娘のように男に狂って、見えるはずのものが見えなくなってるだけじゃないの。
 門衛がバーを持ち上げ、その下をくぐり抜けたタクシーがメゾネットの入り口に着く。
 


















 いつもなら京の部屋に突撃しているところですが、今日は止めておくみたいですね。「なんちゃって密教画」とインチキ瞑想のおかげで、少しは常識をわきまえるようになったようで、喜ばしい限りです。パチモンでもそれなりに役に立つことがあるってことですね。これがいわゆるプラシーボ効果ってやつですかね。

 「京さんの書いた記事のせいで、大阪で人が死んだとしても、京さんの書誌学のおかげで、春火を探し当てることができたのよ」……って、あたかも春火の件は解決済みのような口ぶりになっちゃってますけど、春火は行方不明ですよねぇ…。春火は京を褒めるための道具ですかい

映画『超・電王&ディケイド 鬼ヶ島の戦艦』

 前作のタイトルが『さらば仮面ライダー電王』だったので、劇場版の電王があれが最後か思っていたのですが、まさかの新作です。

 パンフレットを見たら、

【今回より始動する新たな電王世界の冒険譚は、その名も「超・電王シリーズ」。】

 …と書いてあったので、ただの「電王」は前作で終わりで、これからは「超・電王」が始まるらしいです。う~ん、なんて強引な理屈。

【「電王」とは《少年が時の列車に乗り、仮面ライダーとなって自分を見いだし、列車を降りるまでの冒険物語》。】

 …いつのまに、「電王」という言葉に、そんな定義が…
 まぁ、面白けりゃもう何でもいいですけど

 相変わらず、ファンへのサービスがテンコ盛りで、凄く楽しめましたが、欲を言わせてもらえれば、『仮面ライダー響鬼』を出してほしかったなぁ、と…。
 鬼がどーのこーのという内容だから『響鬼』が出てくることを期待していた人って、結構いたんじゃないかと思うんですけどねぇ…。





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『甘苦上海』(233話)

《甘苦上海233話》

 中国のお金持ちは、いつも上機嫌だ。エネルギーを力強く放散しながら、憶することなく自分を押しつけてくる。
「先生も、ジャズがお好きでしたか?」
 彼女は昔日本語の教師をしていたはずで、わたしには日本語で話しかける。
「ときどき、来ます。貴女も?」
「良いところでお会いしました。あそこで歌っているのは娘です。今度の旗袍(チーパオ)会の案内、届きましたか?」
「ええ、ありがとうございます」
「先生、是非来て下さいね。娘は旗袍会でも歌いますよ」
 娘の為の営業だったのか。
 なりふり構わず笑顔で身内を売り込める強さが、上海女性にはある。
 旗袍会というのはチャイナドレス愛好会のようなものだが、そこにはかつての特権的な租界文化の匂いが残る。日本軍に蹂躙される前、華やかな夜会文化を彩った女たちの旗袍は、その後ブルジョア的だと遠ざけられ、文化大革命でいったんは消えたけれど、今また復活し、上海モダン再興を匂わす。
 けれどエラ・フィッツジェラルドの歌をチャイナドレスで歌って欲しくはないんですが…
「先生、約束ですよ、娘は日本の音楽雑誌でもインタビューされたんですよ」
 握手をして一階に戻っていく丸い身体は、人生で一番美しい時期を人民服で過ごした世代だ。自分が叶えることが出来なかった華やかな夢を、娘に託しているのだろう。
 耐えて生き抜いて、母親になって娘にバトンタッチする。わたしはただ、仕事だけをしてきた。オンナを託す娘はいない。
 京に電話を掛けるが電源を切っているらしく繋がらない。

 


















 「オンナを託す」って、どういう意味なんでしょうか? 私には理解できない概念です。
 自分の人生は自分の人生、娘の人生は娘の人生なんだから、自分が叶えられなかった夢を押し付けるのは酷でしょう。
 ていうか、朱さんの娘が歌手だからって、それを勝手に「かつての朱さんの夢」って決め付けるなよ もしかしたら、朱さんは若い頃は毛沢東に心酔していて、喜んで共産主義思想に染まっていたのかもしれないじゃん。そうだとしたら、文化大革命時代を人民服で過ごしたことを、不幸とは思ってないんじゃないの?
 もし、朱さんがブルジョア階級の家柄だったら、生きているだけでもめっけもんです。

 紅子はチャイナドレス(旗袍)に「特権的な租界文化のイメージ」を持っているようですけど、チャイナドレスは元々は満州民族の衣装です。
 清の時代は、チャイナドレスは身分の高い女性の着る服だったので、確かに清の頃の価値観なら「ブルジョア的な服」ということになりますけど、中華民国になってからはそこそこの身分の女性も着る「オシャレ服」になりました。しかも、デザインもずいぶん変わってしまい、現在のチャイナドレスは清時代とは全くの別物です。
 旗袍会とやらは、いつの頃のデザインのチャイナドレスを愛好しているのでしょうか?

 ちなみに、文化大革命の時代は、チャイナドレスに限らず、中国の衣服の文化そのものが衰退しています。チャイナドレスの禁止の理由には、「ブルジョアゆるすまじ」という気持ちもあったでしょうけど、それだけでなく、国民全員に同じようなデザインの服を着せることによって、共産主義思想を浸透させるという目的もあったのではないでしょうか?
 当時の中国では、人民服を「強制」したわけではなく、かたちの上では、国民に人民服を「提供」していたことになっています。国民全員に同じ服を「提供」することにより、中国共産党が国民の平等な生活を「保障」していたことになっているんです。(もちろん、こんなのは詭弁に過ぎないんですけど。)
 チャイナドレス以外の衣服まで衰退してしまったのは、このためです。


『甘苦上海』(232話)

《甘苦上海232話》

 不夜に手を引かれて階段を降り、阿樹菩の外に出た。すでに路地は夜だ。
 白人グループが下りたタクシーにタイミング良く乗り込むことが出来た。
「外灘」
 と言ったものの行く当てを決めてはいなかった。京に会いたいとだけ感じていた。今日、阿樹菩の不夜と会った話をしたかった。
「…福州路、四川中路」
 そこに行けば、もしかしたら京がいるかもしれない。
 何が降魔だ、わたしの魔物はしぶとい。
 ジャズバーにはいる。女性のハスキーな声がIt's all right withを歌っている。ステージに立っているのは、何と若い中国女性だった。
 バンドはピアノが黒人でベースとドラムスは日本人か台湾人。
 マイクを放し、クラリネットを持ってベニーグッドマンになった。Memories of you…歌もクラリネットも両方上手い。
 けれど上手ければいいってもんじゃない。
 京ならどう言うだろう。
 二階の席に上がって見たけれど、やはり京はいなくて、一階から見上げている中国女性と目が会った。とっさに片手を挙げて挨拶する。名前が思い出せない。王(ワン)さんだったか朱(ジュー)さんだったか。そうだ、朱さんだ。
 月に一、二度はLadies SPA紅にやってきて、気前良くお金を払うお得意客だ。


















 上手ければいいってもんじゃないのは仏教絵画の方だろ
 「なんちゃって密教画」は有り難がるくせに、若い中国人女性が歌うジャズに文句つけてんじゃねーよ
 「肌が綺麗になったと錯覚する裏技」(第145話参照)なんぞ使ってボッタクリ商売をしているヤツに、中国人女性が歌うジャズをあーだこーだ言う筋合いなんかないわ

 京に会いたいんなら、携帯で連絡とればいいだけの話です。相手が京だろうと松本だろうと、時間に関係なく電話をかけまくっている非常識女のくせに、今さら遠慮? これが「なんちゃって密教画」とインチキ瞑想の御利益ですかねぇ~

 そういえば、先日、2007年度版の「まっぷるマガジン・中国」の記事を書きましたが(5月13日5月14日の記事参照)、実は、この雑誌には、チベット仏教の仏像を写した写真が掲載されていました。
 記事を書いた時は上海のページしかチェックしていなかったので、麗江を紹介するページに掲載されていたこの写真には全く気付いていませんでした。

 その写真というのは……これです。



 この写真は、玉峰寺(ユーフォンスー)という寺院を紹介するコーナーで使われています。
 …どう考えても、ニセモノですね、これ こんなものを「チベット仏教の仏像」として紹介されてしまうなんて、チベット仏教のお坊さんたちがお気の毒で仕方ありません
 しかも、解説には「チベット仏教ならではの色使い」なんて書かれてるし…。この記事を書いたライターは、チベット仏教美術がどういうものかも知らなければ、文化大革命の時に多くの仏教寺院が破壊されたことも知らないのでしょうね。

 紅子みたいな人は、こんなパチモンの仏像でも、「これぞ本物のチベット仏教美術」と勘違いしてしまうのでしょうね…


汐留ミュージアム『ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』展

 パナソニック電工・汐留ミュージアムで開催中の『ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』展に行ってきました。
 ヴォーリズは、日本で多くの西洋建築の設計を手掛けた建築家です。




 ヴォーリズはアメリカの中流家庭に生まれ、キリスト教の教会活動に熱心な両親の元で育てられました。
 建築の勉強をするためにマサチューセッツ工科大学への入学許可を得ましたが、一般教養を身に付けるために入学したコロラド大学で学生YMCA活動を通じて海外伝道を志すことに決めます。
 明治38年(1905年)に来日し、滋賀県立八幡商業学校で英語教師を務めましたが、学生に与える宗教的な影響力があまりにも大きかったために解職されてしまいます。そのまま伝道活動を続けたヴォーリズでしたが、明治41年(1908年)に京都YMCA会館建設の工事現場において建築設計事務所を開設し、当初の夢であった建築家への道を歩み出すことになります。
 ヴォーリズの仕事はミッションスクール、教会、商業施設、個人住宅など多岐に渡っており、日本の近代建築に多大な影響を与えました。
 チラシに使われているのは、神戸女学院の図書館本館で、昭和8年(1933年)に造られたものです。

 この展覧会では、ヴォーリズが手掛けた浮田山荘(旧ヴォーリズ山荘)の原寸大の模型や、ヴォーリズの設計した階段が再現されていて、ヴォーリズ建築を「体感」できるようになっています。
 模型の中に入ったり、階段を上り下りしたりしてみると、ヴォーリズが「住みごこち」や「使い心地」を考えて設計していることが分かり、とても興味深いです。

『甘苦上海』(231話)

《甘苦上海231話》

「…わたし、この父母仏と曼荼羅の絵、二枚とも買いたい…売ってほしいの」
 不夜がため息をつく。値段を聞いても教えてくれないだろう。引き戸の奥にしまわれていたということは、売り物ではないのかも知れない。
「でも心配しないで。買ってもここに置いていくわ。我が家にこの絵を置く場所はないの。家事手伝いの女性を驚かす気もない。だから、ここに置かせてもらって、そのかわり時々ここに来て、こうして眺めていたい…わたしが来るのは、迷惑?」
 不夜は、何の意識表示をしない。
「不夜さんは何も言わないけれど、言いたいことが沢山あるんでしょうね。きっと辛いと思う。
…チベットから上海に来ているのはなぜ? お店の店員としてではなさそうね。売れたお金はどこに行くの? 不夜さん、声が出なくて良かったね。不夜さんのことも、チベット密教のことも、そのほかの政治的な問題も、わたしには解らないけど、ここでこうして二枚の絵を見ていると、本当に降魔印の魔法が効いてくるみたい。カラダの奥の魔物が静かになるの。いえ、魔物は退治できないけれど、それでいいんだ、それでいいんだって、不思議な安心感がある。
…だからね、この二枚の絵を買いたいの。ときどき、ここに来て、こうして見ててもよければ」
 不夜は紙に鉛筆を走らせる。没問題(メィウェンチィー)は構いません、という意味。わたしは小切手を取り出して、不夜に書き込ませる。五百元。わたしはその小切手を破り捨て、一千元の数字を書き込んで不夜に渡す。
 これは二枚の絵の値段ではない、この場所に来て絵を見るためのお金だ。いえ、春火をたすけてもらったお礼だった。


















 紅子は、第228話で不夜に「今夜、ラマ僧の絵を買うつもりだけど、一番高い絵はどれ?」って言ってたんだぞ それなのに、なんで売り物ではない絵を出してくるんだよ不夜はぁ 
 紅子の中国語が下手すぎて不夜が聞き取れなかったのか
 それとも、値段を吊り上げるために、わざと「これは売り物じゃないんだけど…」ともったいぶってんのか

 「自宅に絵を置く場所がないから、買ってもここに置かせてくれ」って、どんだけずうずうしいんだよ紅子はぁ 人の住まいをレンタルスペース扱いかよ お前の自宅には壁がないのかよ

 「京の棒の使用料」は十二万元だったのに、仏教絵画の購入費とレンタルスペース代は一千元…。あまりの安さに、読んでて涙がちょちょ切れそうになりました。上玉クラスの小姐の一晩のお値段と同じじゃん第220話参照) まさにお土産レベル。

 先日、ブックオフで、また上海のガイドブックを買ったんですけど(『るるぶ 上海・蘇州・桂林』の2003年度版です)、この本のだと、「現代画壇の最高峰の一人、王宏喜」の作品の値段が「2万3000元~」になっています。


王宏喜の作品
(2003年の時点で、お値段は最低でも2万3000元)



 「阿樹菩」の絵の中で一番高いのが500元(日本円だと7000円くらい?)ということは、他の絵は平均いくらで売られているのでしょうか?
 日本のインドカレー屋さんの中で売られている曼荼羅ですら、9800円だというのに(第228話参照)、「ラマ僧の手描き」ということになっている絵が7000円以下って…

 販売価格がこの値段ということは、仕入れ値はいくらなのでしょうか? 不夜曰く、阿樹菩の絵は、チベットから上海まで運んできたものなんですよね? で、その間隔は、三ヶ月に一度なんですよね?(第226話参照) チベットから上海に運んでくるコストと仕入れの間隔を考えたら、一枚数千円で売っていたのでは、採算が取れないような気がするのですが…。薄利多売で稼ぐにしても、曼荼羅が上海土産として人気があるとはとても思えません。しかも、前に一度来たことがある紅子ですら、道に迷うような場所で店を開いているのに…。
 不夜がパソコンを持っていることを考えると、ネット通販でもやっているのでしょうか? 店舗では数千円で売っているけど、通販では数万円で売っているとか…。

 不夜と紅子のやりとりの描写を見る限り、不夜はまともな僧侶でもなければ商売人でもありません。(下手したらチベット人ですらありません。)
 前に紅子がここに来た時、匂いを嗅いだだけでクラクラしたり体が軽くなったりするお香が焚かれていた(第202話参照)ことを考えると、阿樹菩はチベット仏教への間違ったイメージを隠れ蓑にして違法な薬物を販売しているお店だという結論しか出てきません。

 でも、第205話の記事にも書きましたけど、この小説は「オピウム香には麻薬成分がある」という勘違いを前提に話が進んでいる可能性があんですよね…。
 前提が間違っているんじゃ、描かれている文章からまともに物語を分析することができません。

 前提が間違っているせいで、物語をまともに分析できないなんて、この小説はダメ小説の典型例です。
 おかげで、突っ込みを入れるのが、『愛の流刑地』の何倍も面倒くさいです

『甘苦上海』(230話)

《甘苦上海230話》

 不夜がわたしの背後に回り、両脇から手が伸びてきた。わたしの両手を取り、指を重ねて印相をつくる。わたしがその格好を保っていると、背後からの抱擁を解いて紙に鉛筆を走らせた。
「降魔印」
 魔物を退散させるおまじないだろうか。
 わたしの魔物って何だろう。京だろうか、松本だろうか。それとも上海という巨大な都会のことか。
 わたしが日々格闘しているのは、お金というより数字だ。手を伸ばしたのも男と性。性と愛が一緒になって性愛と呼ばれるけれど、どちらが欲しかったのかも今となっては解らない。性が大きかった気もする。いや、もっと欲しかったのは、自分がまだ女であることの証明。
 貴女は僕にとって女ですよ。
 そう言われたら、そしてその言葉を信じられたら、それだけで満足できたのかも知れない。
 けれど今は、諦めていた性に再度目覚めてしまった。
 空高く飛んでいるつもりが、死角錘のピラミッドの中央めがけて、真っ直ぐに落下していく…意味不明な声が喉から飛び出して来そうになり、不夜に手を伸ばすと、不夜は細い手指で握り返して、わたしを中空に繋ぎ止めてくれた。



















 「性と愛が一緒になって性愛と呼ばれるけれど(略)」

 「性愛」って、高樹センセと渡辺センセの大好きな単語ですよね。私はこんな単語は使わないし、普段目にすることも耳にすることもありませんけれど。
 私が最後にこの単語を見かけたのは、『婦人公論』に載っていたお二人の対談です。(2009年1月15日の記事参照。)この対談を読んだ後、「性愛」という単語を見かけた記憶はありません。

 性愛って、便利な単語ですよね。この単語を使うと、なんとなく格調高い雰囲気が出ますから。「セッ●スシーンは性愛を描写するための手段だから、自分の描いている小説はポルノではない」。ほら、なんとなく、説得力があるような気がしますよね。実際にはそんな「気」がするだけの話で、全然説得力なんてありませんけど。


 紅子は「なんちゃって瞑想」のおかげで自分が欲しかったのは性でも愛でもなく「女であることの証明」だと悟ったようですけど、そんなの読者にとっては「今さら」ですよ。その程度の結論を出すために、ダラダラと半年もかけるなんて…。これが「オトナのレンアイ小説」なんですか?

 しかも、その結論を出すための方法が、インチキ僧侶から教えてもらったインチキ瞑想。
 ただポーズだけ真似てお香の匂いを嗅ぎながら曼荼羅の前でボーっとするだけで「瞑想」が完成するなんて、何ともお手軽な瞑想ですね。宗教に従事する者が積んでいる修行を何だと思っているのでしょうか。

 阿樹菩での紅子と不夜のやりとりの描写には、宗教への敬意と美術品への愛情がかけらも感じられません。
 「気に入った美術品のためならお金は惜しまない」というわけではなく、ただ「高い絵をくれ」だなんて言われて、美術に携わる人が嬉しいと思いますか?
 信仰心があるわけでも教義への理解があるわけでもない人に、宗教的価値の高いアイテムを持っていて欲しいと思う宗教関係者がいると思いますか?

 生活の厳しいチベット人が、チベット仏教を利用してお金を稼ぐこともあるでしょうけど、それは信仰心が厚ければ厚いほど屈辱的な行為です。高樹先生には、それが分からないのでしょうか?

 旧約聖書の「創世記」の知識が全くない(2008年11月21日の記事参照)ことを考えると、恐らくは、宗教全般に対する知識が欠落しているのでしょう。宗教を「オトナのレンアイ小説」を彩るためのオシャレアイテムくらいにしか捉えていないのでしょうね。
 

『甘苦上海』(229話)

《甘苦上海229話》

 不夜は引き戸を開けて、一枚の絵を取り出した。他の絵と同じように金色の額縁に入っている。
 二体の仏像が向き合っている。お互いに顔を接するまでに近付いて口を開き、いがみ合っているようにも怒りを噴出しているようにも見えるけれど、下半身は繋がっている。
 背中に広がるのは、雲海に沈む山々やその中に浮かぶ小さな仏達や宝冠や花や樹木。
 わたしが見とれていると、不夜がわたしの手の平に、指で書い。父、母、仏…
 父母仏(ふもぶつ)という言葉をどこかで聞いたことがあるけれど、歓喜仏の意味なのか。
「…この仏様はつまり父と母なの?」
 不夜は説明に困って眉間に皺をよせるので、わたしは、いいの、いいのよ、と言う。
「この絵、幾らなの?」
 引き戸の奥から、もう一枚の絵が出てくる。今度は曼荼羅絵だった。
 曼荼羅絵というのは、立体的宇宙の姿を上から見た図だと、以前聞いたことがある。この世の成り立ちを、ピラミッドを上空から見下ろすように、平面図として描かれたのが曼荼羅絵だと。
 とすれば、空を飛んでいるのは、この絵を見下ろしているわたしと不夜ということになる。




















 売り物に描かれている「父母仏」の説明を求められているのに答えられない不夜は、商売人としてもお坊さんとしても失格ですね 早く阿樹菩が「なんちゃって密教画店」だと気付けよ紅子

 密教画といえば男女合体像という日本人の発想って、立川流の影響ですよね、多分。
 「高い絵をくれ」と言って男女合体像が出てきて、で、紅子は「確かにこれは高そうな絵だ」と納得したわけ? どういう人が、いつ描いたもので、何を現している絵なのか、全然分からないというのに?

 日本では一人で数人分の働きをすることを「三面六臂の活躍」とか「八面六臂の活躍」などと表現したりしますが、今日の『甘苦上海』の挿絵を見る限り、不夜が紅子に見せた絵は四面六臂像のようですね。


本日の挿絵


 私が持っているチベット仏教美術の本には、四面十二臂像、九面十八臂像、二十一面四十二臂像などの絵が載っています。
 こちらの絵(チェチョク・ヘールカ)は、九面十八臂像です。



 こちらはネパール人がシェフをしているインドカレー屋さんの入り口に飾られていた絵(昨日の記事に付けた画像と同じもの)です。


 
 見比べてみると、今日の『甘苦上海』の挿絵に描かれている男尊仏の顔が妙に日本っぽい感じがします。
 もしかしたら、資料がなくて、やむなく日本の仏教美術を参考にしたのかもしれませんね。
 チベットの仏教がインドから直接来たのと違い、日本の仏教は中国経由で来たため、仏教絵画にもその影響が現れているということですね。




映画『天使と悪魔』

 週プレの懸賞で当たったタダ券で観てきました。

 なんか、大部分が「手の込んだ殺人」をダラダラ追っていくだけのストーリーだったので、前半はちょっと眠くなってしまいました。「手が込んでいる」って言ってもトリックの話ではなく、シチュエーションが凝っているだけなんです。

 犯人が面倒くさい殺し方をしていることには、一応、それなりに意味があるんですけど、その「意味」に気が付いているのはトム・ハンクス演じる主人公だけ。でも、主人公が一連の事件に関わるようになったのは、犯人の想定外なんです。
 ということは、もし、主人公がこの事件に関わらなかったら、犯人の意図は誰も気が付かないということになるんですよね。主人公がいて初めて犯人の意図が理解できるのに、主人公がこの事件に関わるようになったのは犯人の想定外だなんて、なんだか間の抜けた話です。

 でも、クライマックスで話が二転三転して、『天使と悪魔』というタイトルの解釈が観客の中でも二転三転するのは、凄く良かったと思います。
 あと、キリスト教の宗教建築とか宗教美術が堪能できるのもすごく楽しかったです。

 気になったのは、犯人がわざわざ「反物質」を利用して爆破をたくらむこと。これはあまりにも手間がかかりすぎる行為です。犯人自身はともかく、加担させられていた人はたまったものではありません。盗むのも盗んだ後の処置も、さぞかし面倒くさかったでしょうね。(そういえば、加担させられていた人の属している組織って、一体何だったのでしょうか? 私はてっきりモサドあたりかと思っていたのですが…)
 「宗教も科学も、解釈によっては毒にもなるし薬にもなる」ということを強調するために、「科学」の象徴として「反物質」を出した意図は分かります。(研究者は次世代エネルギーとして反物質を研究していたのに、犯人は破壊兵器として利用しようとしたわけですから。)
 中世の科学者の研究対象が「四大元素」だったのに対し、現代の科学者の研究対象が「反物質」、というのも、面白い対比だったと思います。
 でも、あの犯人が、わざわざ手間をかけて「反物質」を利用しようとする流れが、解せないというか、なんというか…。物語のテーマを明確にするためのアイテムとしては申し分ないんですけど、ストーリー的には、ちょっと強引すぎる気がしました。
 まぁ、それを言ったら、この映画は、あっちもこっちも強引すぎるところばかりなんですけどね

『甘苦上海』(228話)

《甘苦上海228話》

「…わたしも生まれ変わりたい」
 不夜の目を見ているうち、声が出た。
「いえ、ちょっと言ってみただけ…でも、いま本当にそう思った。不夜さんも、生まれ変わりたい?」
 彼はただ、微笑みだけを返す。美しい青年だ。これまでもこれからも、一生女性の身体を知らずに生きて行くのかも知れない、などと想像が動く。それが苦痛ではない男がこの世にいるとしたら、目の前の不夜だろう。
 けれど真反対の姿があるのかも知れない。一番近い絵に描かれている仏は、正面の他に左右にも顔を持っていて、別々の表情を浮かべている。
 彼はまた、パソコンに向き直った。
「今が好きですから、生まれ変わりたくない」
「わたし、今度生まれ変わるときは、太平洋の島のウミガメがいい。二百年以上ゆったりと生きて、お金の心配もしなくていい」
 不夜は無邪気に同意した。
「…今夜、ラマ僧の絵を買うつもりだけど、一番高い絵はどれ?」
 少し考えて、不夜は着いて来るように言う。廊下の奥まったところの階段からさらに上階へと上がる。
 その部屋の中央には敷物があり、天井から下がった朝顔型の照明にも見覚えがある。
「…ここに在った本、どこに消えたの? あの本のおかげで、石井さんはこの阿樹菩に辿り着けたのよ」
 不夜は両手の指を組み合わせる格好で、人差し指だけを伸ばして自分の口に当てた。それは言えないという意味なのか。その子供じみた仕草で、わたしに親愛の気持を伝えただけなのか。


















 紅子の中では不夜は完全に「チベットのお坊さん」ということになっちゃってるんですね。はぁ~
 普段は疑り深いくせに、なんで観光スポットで観光客相手に出どころのはっきりしないウソ臭い仏教アイテムを売っている「自称・チベットのお坊さん」の話を真に受けちゃうんですかねぇ…。

 大体、不夜が本当にお坊さんだったら、「一番高い絵を下さい」なんて失礼でしょーが 高い絵っていったら「高僧が描いた絵」ってことになるんだから
 信仰心から「宗教的価値の高い絵が欲しい」と言っているのわけではなく、ただ「値段が高い絵なら何でもいい」というニュアンスで交渉するなんて、失礼極まりないわ 仏教美術を何だと思ってるんだよ
 不夜が正真正銘チベットのお坊さんだったら、価値の分からない客なんぞに高僧の描いた絵を渡さないわ

 信仰心なんてカケラもなく、ただ「高い絵」を所望する紅子にホイホイと対応するということは、阿樹菩の仏教絵画は取るに足らない物であることを証明しています。
 そんな物を、さも霊験あらたかな由緒正しいアイテムのようにみせかけて販売している不夜は、当然まともな人間ではありません。どう考えても、お坊さんの格好をしているのは観光客を喜ばせるためのパフォーマンスです。
 
 ちなみに、今日、ネパール人がシェフをしているインドカレー屋さんに行ったのですが、このお店の中にはネパールグッズを販売しているコーナーがあって、曼荼羅が9800円で売られていました。




入り口にはこういう絵が飾られていました。(こちらは売り物ではありません。)



 阿樹菩で売られている絵も、きっとこーゆーのですよね。

『甘苦上海』(227話)

《甘苦上海227話》

 これらの絵が売れた代金も、チベットに戻って行くのだろうか。そのお金が何のために使われるのかは、見当もつかない。
 チベット問題は複雑で、幾つにも分かれた宗派や寺院は、中国政府と親和な関係にあるもの、表立って反発の意識を表すもの、あるいは表向きは恭順の意を表明しながら独立の気運を窺うものなど、分散していて根が深い。決してダライラマだけが抵抗者ではないのだ。
 もちろんこれらの仏画や曼荼羅絵を小遣い稼ぎに描いているラマ僧もいるだろうし、別の目的を持って絵をお金に替えている僧もいるはずだ。
 不夜はわたしを上の階へと誘う。
 三階の部屋に入ると、カーテン越しに低く落ちた夕陽が赤い影を作っている。
「あれから春火ちゃんは来ましたか?」
 不夜は首を横に振る。
「春火ちゃんのケータイには電話はかかってこないけれど、わたしへの未送信メールが入っていました。送信するつもりだったのか、それともわたしへのメッセージを残したかっただけなのか…」
 不夜はパソコンのキーボードに向かって、指を動かす。
「春火は生まれ変わる」
「…春火ちゃんのケータイにあった日本語のメール、訳しましょうか?」
「春火は生まれ変わる」
 放っておいても大丈夫。そう言いたいらしい。
























 「決してダライラマだけが抵抗者ではないのだ」…って、ダライ・ラマだけを抵抗者だと思っている人なんているのでしょうか? ていうか、ダライ・ラマ(14世)を”抵抗者”と見做している人がいるんですか???
 ダライ・ラマ(14世)が”抵抗”と取れるような意見を表に出したことなんてないと思うのですが…。(内心はどうあれ。)
 むしろ、抵抗しているのは中国政府の方でしょう。ダライ・ラマは対話による解決を求めているのに、中国政府はそれを撥ね付けているんですから。自治を認めて欲しいと主張しているだけの側からすれば、中国政府の方こそ抵抗者です。

 チベット人の中でも中国政府に大して恭順な人がいたり反発したりする人がいるのは、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの政治的な対立を中国政府がうまく利用しているからです。これは清朝時代から行われていることで、中国(あるいは清)政府は自分たちの都合のいいようにダライ・ラマを支援したりパンチェン・ラマを支援したりして、チベットを裏でうまく支配してきたんです。
 現在の中国政府はパンチェン・ラマを支援していますが、中国政府が勝手に11世を指名したため、11世が2人いるという状態になっています。そのせいで、パンチェン・ラマ派の中でも対立が起こる結果になっています。チベット問題が複雑で根が深いのは、中国政府の干渉のせいにほかなりません。

 なぜ、中国政府がチベットの自治を認めたくないのかというと、要するにチベットの土地を自由に使いたいからです。工業用地にしたり、核実験をしたり、産業廃棄物の捨て場にしたり、鉱物を採掘したり、森林を伐採したり、希少動物を捕獲したり、観光地にしたりしたいんです。(さんざっぱら仏教施設を破壊しておきながら、後になって大事にしたり再建したりした理由の一つは、観光で儲けられるかもしれないと踏んだからで、要するに上海レトロを復活させた事情と同じです。もう一つの理由は、「中国はチベットを弾圧していませんよ」というアピールなのはいわずもがなです。)
 あと、チベットは中国とインドの間にありますから、地政学的な面においても、中国はチベットを支配下に置いておきたいんです。

 チベット人の中でも中国に恭順な人がいるのは、先ほど述べた宗教的・政治的な理由以外にも、経済的な理由もあります。チベットは元々自給自足でやってきた国だったのに、中国政府が勝手に「農奴開放」をしたため、独立しても元の自給自足に戻れなくなってしまっているんです。

 チベット問題が、単なるナショナリズムから発しているわけではないことを、紅子はちゃんと分かっているのでしょうか? 上海暮らしが長いせいで、中国にとって都合の良い情報しか耳に入っていないのでは?
 

小学館の『小学三年生』6月号(その5)

 劇場版の『ROOKIES』が公開が近いということで、今月の「小学三年生」には、『ROOKIES』を宣伝する記事が載っていました。



 「ルーキーズメンバーが小学生のころの夢を教えてくれたよ! みんなもでっかい夢を見て、ルーキーズみたいにアツくなろう!」と書いてあるんですけど、約一名、「夢はなかった」と、正直すぎるコメントをしている人がいます。


センター関川秀太役・中尾明慶「夢はケーキ屋さんやパイロット、そしてTVに出ることだったよ。」

セカンド御子柴徹役・小出恵介「アナウンサーになるのが夢で、当時歯のきょうせいまでしたんだ。」

野球部監督川藤幸一役・佐藤隆太「ボクはTVの世界にあこがれてたよ。夢は信じ続ければかなう!」

ピッチャー安仁屋恵壹役・市原隼人「水泳選手や器械体操の選手、やることすべての夢が無限大だった。」

サード新庄慶役・城田優「歌を歌ったり、ドラマや映画に出て、有名人になるのが夢だった」

ファースト湯舟哲郎役・五十嵐隼士「なぜかばくぜんと『お金持ちになりたい』と思ってたな。」

ひかえ平塚平役・桐谷健太「幼ち園のころからTVの中で活やくしたい…と思ってたよ。」

キャッチャー若菜智哉役・高岡蒼甫「ボクは少年野球をやってたから、野球選手になるのが夢だったよ」

レフト岡田優也役・佐藤健「小学生のころは特に夢はなかったけど、学校がすごく楽しかった。」

新メンバー濱中太陽役・石田卓也「小学校の時は『大工』に、中学校のときは『美容師』にあこがれてたな。」

ライト今岡忍役・尾上寛之「小学校の文集に『夢は俳優』って書いてて、実現できて良かったっす。」

ショート桧山清起役・川村陽介「サッカー選手と考古学者とさんまさんに会うというのが夢だった。」

新メンバー赤星奨志役・山本裕典「幼ち園のときからサッカーにむ中で、サッカー選手が夢だったよ。」




 『仮面ライダー電王』の影響で小学生からの人気が高いのに、こんなに夢のないコメントをしてもいいんですかねぇ…。ま、正直なのはいいことですけど


『甘苦上海』(226話)

《甘苦上海226話》

 阿樹菩の三文字が、小さな木の看板に書かれて店先に下げられている。
 扉を開けたとき、鈴が鳴ったような気がした。二階から人が下りて来るとともに証明のスイッチが入れられ、ぼうと壁際に光が落ちてきた。
 浮かび上がったのは幾つもの壁の絵だが、すべて金色の額縁に収まった極彩色なので、いきなり無数の人間に囲まれたようで慌てる。
 階段から姿を現したのは不夜だった。
 灰色の丸首半袖のセーターが、この前会ったときより、不夜の身体をさらに細く長く見せている。
「…今日は春火ちゃんのお礼に、絵を一枚、買わせて頂くつもりで来たの。ここに入ってきたとき、不夜さんが急に照明をつけたので、目眩がしましてしまったわ」
 よく見れば曼荼羅絵とチベットの仏を描いた仏画が半々で、青い肌の仏は台座の上で炎に包まれ、何十もの目と手を持つ赤い仏は、くびれたウエストとふっくら盛り上がる腰にどくろの飾りを巻き付けている。
 わたしが見とれているあいだに、不夜は入り口の扉に鍵をかけた。それからいつも使っているらしいメモ用紙に鉛筆を走らせ、わたしに見せる。
「すべて、チベットのラマ僧が描いたものです。三ヵ月に一度、運ばれて来ます」
 不夜は書いたメモをゴミ箱にではなく細かく千切って自分のズボンのポケットに入れた。



















 ”なんちゃって密教画店”の「阿樹菩」で売られている絵は、どうやら「ラマ僧による手描き」というのがセールスポイントになっているようですね。ま、そういうことにしておけば観光客は喜びますよね。

 いくらなんでも印刷と手描きの区別くらいは紅子にだってつくでしょうから、「阿樹菩」で売られている絵が手描きというのは本当なのでしょうけど、それがラマ僧の手によるものかどうかなんて証明できませんよね
 
 本来、曼荼羅や仏画の製作というのは修行の一貫として行われている行為なので、お土産にすることを前提に製作されているわけではありません。仏教絵画の修練を積んだ(あるいは修練を積んでいる最中の)ラマ僧の手による曼荼羅や仏画が、上海のお土産屋さんで定期的に売られているなんて、ちょっと考えにくいことです。
 「阿樹菩」が曼荼羅や仏画を定期的に仕入れているとしたら、それは明らかにお土産として製作されたものであり、つまりは粗悪品ということになります。職人さんやアーティストの手による作品でしょうね。

 粗悪な曼荼羅や仏画は、ネパールとかブータンのお土産屋さんでも出回っています。印刷されたものなら、買う方も「なんちゃって仏教アイテム」として割り切って買うわけですけど、手描きの作品だと、「ラマ僧によるもの」と言われてすぐに信じてしまう人もいます。でも、それを証明するものなど何もありません。(全部が全部贋物だと言っているわけではなく、本物と贋物の区別をつける方法がない、ということです。)
 こういったアイテムに宗教的価値があるかどうかを決めるのは、結局のところは、買った本人の気持次第ということになりますね。

映画『レッドクリフ パートⅡ』

 週プレの懸賞でタダ券が当たったので観てきました。(パートⅠの方はDVDで観賞。)

 実は、感想を書いていない映画が何本も溜まっているのですが、この映画がダントツで「苦笑い度」が高かったので、先に記事します。

 週プレがタダ券を配っているくらいなので、多分、アレな内容なんだろうなぁ…とは思っていましたが…やっぱりアレな出来栄えでした

 私が三国志の映像化作品に期待する部分は、「戦略をどういう風にビジュアル化するか」ということなので(孔明のトンチではなく、「軍VS軍」のちゃんとした戦闘の方)、パートⅠでは「八卦の陣」のシーンがものすごく楽しかったんです。
 逆に、全然楽しくなかったのが、周瑜と孔明がダラダラ映っているだけのシーン。
 私は三国志で好きな登場人物は荀イクとかホウ統とか徐庶あたりなので(これは多分『蒼天航路』と『SWEET三国志』の影響です)、周瑜と孔明には全然萌えないんです。(嫌いというわけではないのですが、特にお気に入りというわけでもないということです。)
 この二人に萌えられない観客には、三時間という上映時間は長すぎます



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『甘苦上海』(225話)

《甘苦上海225話》

  細い路地を入って行くと、間口の狭い画廊や中国茶を売る店、中国奥地の細工を土産に売る店などが続く。インド雑貨やアクセサリー店、工場中の竹の足場の横にパラソルを出して、椅子が並べられている。それらを避けながら行き交う観光客の中には白人もいる。黒人、インド人、マレーシアあたりの人間、それに上海以外の他の土地から来た中国人たち。
 ここは上海らしからぬ上海の観光地なのだとあらためて思う。
 細々とした賑わいが心地よくなってきたのは、わたしも上海の、ともかく広くて大きいことが力を象徴する生活感覚に疲れていたのかも知れない。東京にも無い正真正銘の路地に気持が和らいで来た。
 カフェのメニューをミニ黒板に書き付けている若い男に阿樹菩の場所を訊いたけれど、知らないと言う。
 仕方なくカフェのパラソルと椅子を避けながら進んでいくと、砂利混じりの煉瓦の壁に泰康路二四八弄というプレートを発見し、なんだそれなら、あの夜来たのがこの路地だったのだと気付いた。
 夜と夕方の違いはあるが、全く別の路地に見えて仕方ない。わたしはそんなに土地感覚や嗅覚が弱い人間ではないし、勘も鋭い方だがと、少しなさけなくなったとき、誰かが、もっともっと迷え、目的に真っ直ぐ着けるなんて思ってはいけないと言う。
 誰だろう。京でも松本でもない、となるとわたし自身の声だろう。















 「東京にも無い正真正銘の路地」って…
 正真正銘の路地とそうでないの路地の見分けが紅子にはつくんかい?
 ていうか、正真正銘の路地の定義って何?

 東京にだって路地くらいありますよ。田子坊ほどカオスじゃないだけの話で。
 東京の路地は偽物だけど上海の路地は本物だという根拠はどこにあるのでしょうか?

 紅子は新宿で長く仕事をしていたんですよね? 新宿区には路地がいっぱいありますよ? 四谷三丁目駅と曙橋駅の間あたりなんかはかなり入り組んでいて、地図を持っていても道に迷います。(以前、「東京おもちゃ美術館」を目指してこの付近を歩き回ったのですが、なかなか見つからなくてクタクタになりました
 まさか紅子は新宿といえば小奇麗なオフィスビルが立ち並んでいる場所しか知らないのでしょうか?


 2008年11月17日の日経新聞夕刊のコラムによると、上海の虹口区のレトロっぽい雰囲気は、政府が観光のためにわざと残したり、あるいは再現したりしたもののようなので、田子坊のアジアン・カオスな雰囲気も、観光客からのウケを狙ってわざと作り上げた可能性があるのではないですかねぇ…。

 アジアン・カオスといえば有名なのは九龍城砦ですけど、ここが一気に有名になったのは、取り壊しの直前でした。あと少しで無くなると分かった途端に、九龍城の解説本や九龍城をネタにした小説や漫画が相次いで出版され、知名度が上がったんです。
 多分、中国政府はこの時に、カオスな雰囲気を醸し出している場所には観光価値があると気付いたのではないでしょうか?


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