以前、学年誌絡みの記事をまだ書いていた頃、姫川明先生の『556(ココロ)ラボ』という漫画を一年間追っていたことがあり、当時、同じ著者による『ぼくらの翼―国境なき路上の子供たち』という単行本がすごく気になっていたのですが、当時は絶版本だったため、読むのを諦めていました。(2002年に出版された本なのに、6年しか経っていない2008年には絶版で入手困難になっていたところに、いかに小学館が学年誌漫画のマーケティングに力を入れていないか分かりますね…。)




 …ところが最近、電子書籍化され、「漫画図書館Z(旧・Jコミ)」(http://www.mangaz.com/)やauブックパス(https://bookpass.auone.jp/)で読むことができるようになりました。


「漫画図書館Z」内の『ぼくらの翼―国境なき路上の子供たち』のページ→http://www.mangaz.com/book/detail/121661
(※無料)

「auブックパス」内の『ぼくらの翼―国境なき路上の子供たち』のページ→
https://bookpass.auone.jp/pack/detail/?iid=LT000090311000733815&skip_flag=true
(※有料(この記事を書いている段階では読み放題プランの対象になっています)


 なぜこの本が気になっていたのかというと、私は元々は姫川先生の漫画には悪い印象を全く持っていなかったのに、『556(ココロ)ラボ』の内容が「小学生の読者を舐めている」&「本来読者として想定されていない“ネットユーザーのおっさん”に媚びている(『ないしょのつぼみ』のように)」としか思えない内容だったためにものすごく印象が悪くなり、たまたま『556(ココロ)ラボ』の出来が酷かっただけなのか、あるいは「子供の読者」の方向に意識を向けないで漫画を描いている方なのか、見極めたいと思っていたからです。

 …で、『ぼくらの翼』を読んでみた感想ですが…。
 テーマが「フィリピンとベトナムのストリート・チルドレンと、アフガニスタンの戦乱の中で生きる子供たち」という、とても社会性が高いものとなっており、「ためになる作品を作ろう」という作者の編集部の意気込みがとても伝わってきて、「この頃はまだまともな編集方針が残っていたんだなぁ」と思わせられる内容になっています。

 …ですが、「子供に分かりやすく&共感しやすく」という方針があだとなり、貧困や戦争が生じる社会システムや、当事国や関連国の政治的な責任がまるきり見えないストーリーになっている上に、「本来なら関心を持たなければいけないのは大人の方」という前提も見えてこないため、元々問題意識の高い子供や、色々な本を読み慣れている子供なら、モヤモヤしたりムッしたりするであろうことが容易に想像できる内容となってしまっています。

 敢えて厳しい言い方をすれば、子供の読者を舐めています。(作者の方と、当時の編集の方には申し訳なく思いますが、子供の読者を想定とした漫画であり、テーマが重いからこそ、敢えて厳しい意見を書かせていただきます。)
 学年誌という性質上、高い要求は酷だという意見もあるでしょうが、仮に私が小学五年生の時にこの漫画を読んだらモヤモヤしたことは確実ですし(そのモヤモヤを言葉で説明することは小学生の自分には到底無理ですが)、これが学年誌の限界なのだとしたら、廃刊への道を辿ったのは必然だったと考えるよりほかありません。

 物語の構成上、主人公の男の子を海外に連れて行くシチュエーションが「お父さんが連れて行く」以外になく、そのお父さんを「立派な人」という設定にしなければならないという事情は分かるのですが、その「立派なお父さん」の描写がかなりのくせものとなってしまっています。

 「息子に父親がやっていることを理解させるためにろくに知識も与えないままいきなり現場(外国)に連れていく」などという行動は、パターナリズムに他なりません。(注:パターナリズムとは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして干渉することです。マンネリという意味ではありません。)
 しかも、お父さんが「自分のやりたいことを」を思う存分やれるのは妻のサポート(特に収入面)があってのことですから、「息子をいきなり現場(外国)に連れて行く」という行動と相まって、よりパターナリズムを補強する形になってしまっています。

 お父さんのやっている活動がどんなに人道的に立派であっても、家族に迷惑をかけていい理由にはなりません。このお父さんは確かに立派ですが、その立派なお父さんを、日本という社会は一体どのくらい評価し、支援しているというのでしょうか?
 まずはお父さんを評価すべきなのは、息子ではなく「日本という社会」であるべきなのに、ストーリーを「父親に対する息子の理解」から始めて「子供同士の友情」でオチをつけてしまっているため、本質的なテーマが完全にぶれてしまっており、結果的に社会や国家の責任から読者の目を逸らさせる結果に繋がっています。

 おそらく、姫川先生にも編集部にもそんな意図はなく、単に、子供向けの「ためになる話」のテンプレを守ったら自動的にそうなってしまっただけだと思われますが、社会問題を扱っておきながら「社会や国家の責任を問う」という目的がごっそり抜け落ちているような物語がテンプレ化しているという状況が日本の出版業界の現状なのだとしたら、その間違った状況に対してクリエイターや編集部が疑問を持てないのは大問題です。
 もちろん、疑問を持ってもそれを創作物に活かせなければ意味がないですし、その創作物に込められた意図を読み取れるだけの読者側のリテラシーも必要です。

 昭和の時代から連綿と続いてきた子供向けの「ためになる話」のテンプレが、出版社・クリエイター・読者を麻痺させてしまい、「そのテンプレはそもそも間違っているのでは…?」との疑問を持たせないようにしてしまっているのだとしたら、その問題は「個人の読書」のレベルではなく「日本の教育」というレベルにまで及びます。

 姫川先生の創作スタンスとして、『556(ココロ)ラボ』の酷さだけが特別なものだったのか、あるいはそもそも「子供の読者」の方向に意識を向けないで漫画を描いている(厳しい言い方をすれば、読者を舐めている)のか…という私の疑問の結論は、「子供にとって“ためになる話”を描こうという意思はそれなりに感じるけれど、社会問題を描く力量はない」というものです。
 その力量のなさは、姫川先生個人の問題に帰結するのではなく、日本の教育の在り方にまで繋がっているのであり、小学館の学年誌が『小学一年生』を残して廃刊になってしまったことを「ニーズの多様化」と「少子化」だけで済ますことに、私は強い危機感を覚えます。それは、「日本の教育の在り方」の問題点を隠すことに繋がってしまうのですから…。