《甘苦上海 324話&325話》

 タクシーはハイアット・リージェンシーに入る。
「ここでお茶を飲んで戻ってきますから、待っててくれる? それともここで支払いましょうか」
 運転手は待っているという。
 わたしはロビーに入っていく。
「何か、お飲み物でも」
「青島ビールと西瓜ジュース、それと別にグラスを一つ下さい」
 言ったとたんに、深い後悔が湧いた。昨夜京と一緒に飲んだ紅子スペシャルを、なぜここで注文してしまったのか。
 運ばれてきたビールと西瓜ジュースをミックスすると、手元が震えてテーブルを汚した。マドラーで掻き混ぜた後、一息に飲んだ。こんな妙な味だったっけ。甘みと苦みがわたしの喉を攻撃してくる。
 わたしはケータイを取り出す。松本の名前を電話帳から探して、発信した。
「はい」
 仕事中の畏まった声だ。また後ほど掛け直します、と言って切る。

 十分後に松本から返信が入った。
「さっきは失礼。会議終わったとこやった」
「…参ってるの。援けて欲しくて。…今ね、杭州にいるの」
「紅子さんが、なんでそんなとこにおるんや…」
「京と来たの、昨日」
「ほんで?」
「雨が降った」
「こっちは晴れやで」
「…夕立が来たの。でも傘が無かった」
「…石井はどこにいるんや、いま」
「消えたの」
「ま、ようあるこっちゃ」
「ありません、こんなこと、フツウはありません」
「ほな、石井はそこにおらんのやな」
「こんな電話、松本さんにしてるなんて、どうかしてる。切ってもいいよ」
「ほな、切ります」
 前にも、そんなやり取りがあった。どこでだったか忘れた。
「ようわからんけど、喧嘩したんやな?」
「そんなんじゃないです。黙って姿を消しただけです」
「…酷い男やな」
「松本さん、いま、ニヤっと笑ったでしょう」
「当たり前や、嬉しうて涙が出るわ」
 松本は笑ってなどいない。表情を取り落として呆然としているのが判る。













 以前、紅子は、松本に向かって、「京とは終わる」って言ってたじゃん…。
 自分が言った通りのことが起こっただけなのに、なんで紅子はうろたえてんの?

「どっちみち終わる…だから終える、それしかない」
「出来るんか」
「出来ないけど、それしかない。出来ても出来なくても、終わるのは確かだから」
「そやな、どうやっても終わるな」
第298話より)


 この会話って、「京との仲が終わることは覚悟ができている」ってことじゃなかったの?
 紅子も松本も、第298話の会話を忘れちゃったんですかねぇ…。