3月29日の日経新聞の朝刊の文化欄に、「現代文学にラテンアメリカの流れ 地方の姿、神話仕立て」というコラムを発見し、「ラテンアメリカの文学といえば、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が載っているかも…」と思い、期待して読んでみました。

 ガルシア=マルケスは、ちょっと不思議な経緯で読み始めた作家です。近所の古本屋でなんとなく『エレンディラ』という本を買ったら、暫くして、染井夜紫野さんのブログで「ガルシア=マルケスのバッグが…」という文章を発見。この時、私はてっきりブランド名と作家の名前が偶然同じなだけなのかと思ったのですが、後になって「いや、それは偶然ではない」と聞いて、ちょっとびっくり。「実は、『百年の孤独』という本がなかなか見つからなくて…」とおっしゃってたので、ダメモトで『エレンディラ』が置いてあった古本屋で探してみたら、なんと、『百年の孤独』がバッチリ置いてあり、二度びっくり。
 『エレンディラ』は文庫で出ていますが、『百年の孤独』は物凄く分厚いハードカバー版しかないので、染井さんの記事を読まなかったら『百年の孤独』を読むことはなかっただろうと思います。

 さて、日経朝刊のコラムの話に戻りますが、期待通り、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が紹介されていました。

 …ただし、桜庭一樹の名と一緒に、ですが。

 桜庭一樹の名は、以前にも日経で見かけたことがあったのですが(2月21日の記事参照)、この時読んだ記事のせいで、私の中に「桜庭一樹は倉橋由美子をパクったんじゃないのか?」という疑惑が生まれてしまいました。
 ただでさえ私の中では「疑惑の作家」なのに、今度はガルシア=マルケスとくるとは…。
 この作家さんには、オリジナリティというものはないのでしょうか?

【桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」はガルシア=マルケスの代表作「百年の孤独」を本歌取りした長編。非日常的な出来事とともに山陰の旧家の歴史が語られる。「田舎なら都会ではできないファンタジックな表現が可能になる。そんな書き方で一族の歴史を書いてみたかった」と桜庭氏は語る。】

 もしかしたら、この作家さんは、パクリ元を自分から先に言ってしまえば、「インスパイア」ってことにできると思っているのでは…と疑ってしまいます。
 倉橋由美子の『聖少女』にしてもガルシア=マルケスの『百年の孤独』にしても、その時代にそういう本を書いたからこそ重要性が高いのであって、今更形式だけ真似た本を違う作家が出したところで、一体何の価値が生まれるというのでしょうか?わけがわかりません。

 倉橋由美子にガルシア=マルケスときたら、お次の「インスパイア」の元はホルヘ・ルイス・ボルヘスあたりでしょうか?それとも、アポリネール?リラダン?ユイスマンス?バタイユ?ホフマン?ポー?

 桜庭一樹が書いた近親相姦ネタ&「架空の閉鎖的な土地の神話的な物語」ネタなら、とっくの昔に、野坂昭如が『骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)』でいっぺんにやっちゃってるんですよ。しかも、短編で。(2005年8月5日の記事参照。)
 『骨餓身峠死人葛』は既存の小説のパクリでもなんでもないオリジナリティ溢れる小説である上に、話の密度が異様に濃いせいで読後は長編小説を読んだかのような気分に陥ります。

 2005年8月5日の記事にも書きましたが、私は「優れた小説は、小説でしか表現出来ない内容を描いていなければならない」と思っています。私が幻想的な小説が好きなのはそのためです。
 『聖少女』も『百年の孤独』も、小説でしか表現出来ない内容だからこそ私は好きなんです。ビジュアル化することは一応は可能ですが、原作の持ち味を正確に再現することは不可能です。だからこそ、文学としての価値が生まれる、と私は思っているんです。
 私がライトノベルを文学の一種と認めたくないのは、ビジュアル化が前提だからです。最初からビジュアル化を意識して書かれた小説では、小説ならではの魅力を感じないんです。

 桜庭一樹は、一体、どんなポリシーで「いかにも特定の作品からインスパイアされました」的な小説を書いているのでしょうか?一度聞いてみたいものです。