<「朕は災難である」 3>

 ニシャプールに数週間滞在したムハンマドは、モンゴルの先遣隊がアム川を越えると中央イランへと逃走し、イスファハンからバグダードを目指すつもりでしたが教皇ナシールの敵意を知ってイラン北部のライへと走りました。
 しかしそこにもジェベとスボダイが追って来たので、ムハンマドはコーカサス方面のクルド人やルス(ロシア)人土侯を頼りましたが、既にその身体は病に冒されており、カスピ海の小島の寒村で死亡しました。
………続く。


 逃げ回った挙句に病死…。悲惨な皇帝だなぁ
 この頃のロシアって「ルス」と呼ばれていたのでしょうか?ノフ朝以前のロシアはイメージが湧きません