佐々木順一日誌

言葉に責任を持つ、約束を果たす、それが政治だ!

2011年04月

岩手県議会各会派代表者会議

岩手県議会各会派代表者会議に出席。
今月27日招集予定の臨時議会の在り方、災害対策特別委員会の在り方などについて協議。

防災を考える

「天災は忘れた頃にやってくる」。

この五七五調の警句は、寺田寅彦博士の言葉といわれている。
また、「防災」という言葉の命名者は同博士である。

宮古市重茂姉吉地区に建つ津波記念碑には、

「高き住居は 児孫の和楽
  想いへ惨禍の 大津波
  此処より下に 家を建てるな
  明治二十九年にも 昭和八年にも津波は此処まで来て
  部落は全滅し、生存者、僅かに前に二人後に四人のみ
  幾歳 経るとも 要心あれ」

と刻まれている。

また、大船渡市綾里白浜地区には、消防団によって下記の日が建立されている。

 明治29年6月15日(旧暦5月5日)午後8時7分頃襲来、綾里村は被害戸数296戸溺死1350人を数え、この地にて本州津波史上最高の38.2mの波高を記録する。
 「白浜は真口の太平洋に直面せるをもって水勢を遮る何物もなきによるべく、野を越え山を走りて道合に至り両湾の海水連絡せるに至る。所謂水合か」(『綾里村誌』)
 〔綾里村の惨状〕綾里村の如きは死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ、尋常小学校、駐在所みな流失して片影止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告)
 「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。晩暮帰潮に随って湾上に揚るもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸を抱き慟哭 するものあり、多くは死体変化し、父子だも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり」(『綾里村誌』)
 
 「不忘」こそソフト面の災害対策であることを改めて教えさせられる言葉である。

自治会活動

地域住民の一人として自治会活動(空缶拾い、堰の泥上げなど)に参加。
石鳥谷町第9区自治公民館定期総会に出席。 
必要以上に非被災地が萎縮することは、被災地支援の力が細ることになる。
そろそろ自粛意識から通常意識にもどさなければならない。

被害調査

去る4月7日、午後11時30分過ぎに発生した余震と思われる地震は、奥州市、一関市地域を中心に家屋や農地、橋などに大きな被害をもたらしたことから、藤原良信参議院議員、黄川田徹衆議院議員、民主党所属県議会議員らとともに現地調査を実施した。
奥州市前沢総合支所で小沢市長などから被害状況と要望を受けた後、前沢区内の住家の被害を調査、その後一関市へ。
一関市山目地区など民家の倒壊状況、北上川に架かる柵の瀬橋の橋梁の破損状況、須川パイロット農地被害状況などを視察するとともに、勝部一関市、須川土地改良区などから要望書を受けた。
一関市における農地農業用施設の被害状況だけでも、農地が448ヶ所、農業用施設が262箇所で約8億円弱に上っている。家屋の倒壊も奥州市、一関市を 中心にかなりの件数に上っていることから、被災者生活再建支援法のかさ上げ、拡大や公費による瓦礫の処理費用の適用などを検討する必要がある。

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震災から1ヶ月の筋目

震災から1ヶ月の節目に当たり、4月11日、岩手県民を代表して達増知事が「がんばろう岩手」を宣言した。
その中で、「明治、昭和の三陸津波、アイオン、カスリン台風、チリ地震津波、岩手・宮城内陸地震等の自然災害に見舞われながらも、先人は決してくじけ ず、苦難を乗り切ってきた。今回の大災害も自立と共生の心があれば必ず乗り切ることができる」とつづりながら、宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならない うちは個人の幸福はあり得ない」という農民芸術概論の言葉を引用し「県民みんなで力をあわせ希望に向って一歩ずつ復興に取り組んでいくことを誓う」と宣言 している。

さて宮沢賢治は、明治29年に生まれ、昭和8年に没している。
この明治29年は明治の三陸津波が押し寄せた年である。
また、昭和8年は、昭和の三陸津波が三陸沿岸を襲った年である。
大津波の時に生まれ、大津波の年に没し、そして今回の平成の大津波では復興に向けての精神の支柱として、「がんばろう岩手」宣言に再登場した。
時空を超えて、宮沢賢治の魂は現代でもしっかりと生きづいている。
それにしても、、科学では割り切れない、歴史の不思議さ、めぐり合わせというものを改めて感じさせられた宮沢賢治と今回の大震災である。
岩手県議会議員 佐々木順一
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