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1月29日(水)

 党派の起源

 明治の近代化に伴い民衆運動の一環として明治7年(1874)板垣退助らが「愛国党」を結成、民選議員の設立建白書を左院に提出した。これが日本における最初の政党といわれている。

これを受け政府は各府県に公選の府県会を設置し、さらに国会の開設を宣言することになった。以降、結社が各地に誕生、その連合体として明治14年(1881)自由党(板垣退助)が、明治15年(1882)には立憲改進党(大隈重信)が結成された。

この両党は、政権の獲得を目標として掲げ、全国規模の組織を持ったわが国で最初の政党となった。

両党は、後に憲政党としていったん統一されるが、再び分裂、大正末期から昭和初期にかけての二大政党である立憲政友会と立憲民政党へとつながっいく。  

 さて、この「党」であるが、元来は「派閥」を表す言葉であった。この言葉が日本の文献に最初に現れたのは、聖徳太子の手によるといわれている「十七条憲法」である。

 すなわち第一条=「和をもって貴しとなし、さからうこと無きを宗とす」ではじまっているものの、この後の文章はあまり引用されず、それほど有名ではないが「人みな党あり。また達(さと)る者少なし」と続いている。

「人みな党あり」とは、何人か集まれば必ず派閥ができるという意味であり、「達(さと)る者少なし」とは、派閥の利益でなく、全体の利益を考えて達観しているものは少ない、ということである。

 歴史をさかのぼってみると、卑弥呼の時代以来、蘇我VS物部、源平の対立、豊臣VS徳川、幕末の勤皇派と佐幕派の対立、戦後の改憲派と護憲派の対立に至るまで、日本の歴史は様々な党派の対立によって彩られてきた。

いわば明治初頭以前の党派は「一党一派」の「党利党略」のみを追求する「党弊」にみちた「徒党」であり、禁止されるべき陰謀者の集団であった。

ちなみに徳川幕府は武家諸法度で「新義を企て、徒党を結び、誓約を成すの儀、制禁の事」と記されており、人々が党派を結成すること自体を禁止していた。

戦前における実質的初の政党内閣の誕生は原敬の登場を待たなければならなかった。