11月16日(月)
 議会へ。12月定例県議会提出議案等説明会に出席。終了後「3月11日に関する条例制定について」意見交換を行うために開かれた総務委員会(非公式協議)に出席


11月17日(火)

 党務のため立憲民主党岩手県連事務局へ


11月18日(水)

 存亡の危機に立たされた社民党、戦後の歩み

「社民党」が11月14日の臨時党大会で「立憲民主党に合流するため国会議員や地方組織が個別に党を離れることを容認する」議案を可決した。国会議員は4人いるが、福島党首を除き三人の国会議員は離党の方向にあり事実上の分裂となった。

 戦後の社民党の原点は終戦直後の戦前の合法無産政党各派を糾合して結成された「日本社会党」(昭和20年11月2日=委員長・片山哲)である。

 昭和22年4月の総選挙(総司令部解散・初めての中選挙区単記制)で衆議院に143議席を占め第一党となった。

 これにより民主・国民協同の両党と連立して日本社会党首班(片山内閣)の内閣を発足させながらも、党内左派の突き上げによって一年足らずで崩壊、昭和26年10月サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の賛否を巡って左右に分裂(左派委員長・鈴木茂三郎、右派委員長・浅沼稲次郎)した。

 左派は講和・安保両案に反対、右派は分裂時には左派を上回る議席を持っていたが、選挙のたびに議席を減らしたことから昭和30年10月13日左右の社会党は再び統一(委員長・鈴木茂三郎、書記長・浅沼稲次郎)された。自由民主党結党より約1ヶ月前である。

 参考までに、当時の日本民主党(総裁・鳩山一郎首相)と自由党(総裁・緒方竹虎)による自由民主党の結成は昭和30年11月15日、「自由民主党岩手県支部連合会」と「日本社会党岩手県支部連合会」の発足は奇しくも昭和30年12月18日である。

 昭和38年6月9日「日本社会党岩手県連」は「日本社会党岩手県本部」に名称を改めた。以降、55年体制下の野党第一の立場を維持してきた。

 平成時代に入ると非自民・非共産の細川・羽田連立政権で与党となるものの、羽田孜氏の首班指名直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発し羽田連立内閣から離脱した。

 平成6年、自社さ三党による社会党首班の村山政権を誕生させたが、平成7年の村山内閣総辞職後「社会民主党」に改称し今日に至っている。平成21年9月には民主、社民、国民新の3党連立による鳩山内閣を与党として支えた。

 55年体制の一翼を担うなど、旧社会党時代をとあわせて首相を二人出しながらも結党75年を迎えた「護憲と平和主義の老舗政党」は存亡の危機に立たされている。


11月19日(木)

 事務所において資料整理・来客対応


11月20日(金)

 第7回岩手県競馬組合議会11月定例会(盛岡競馬場内会議室)に出席


11月21日(土)

 休暇


11月22日(日)

 大迫町外川目落合集落収穫感謝祭に出席


11月23日(月)

 立憲民主党岩手県連事務局で党務に従事