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夏が来ると飛火野耀を思い出す!
ってことで、過去に書いた記事を採録、ではなく一部だけ妙録。

2005年の2月頃に書いた「消えたライトノベル作家 飛火野耀(とびひのあきら)」という記事があるんですが、ライブドアブログじゃないところに書いていたせいで、そのあたりのログが微妙に散逸してしまっています。中には意図的に消してしまったのもあるんだけれど、これは一部抜粋して残しておこうと思ったので、以下にぺたっとはりつけます。

その前にまず、飛火野耀というのは1988年から96年まで活動したライトノベル作家です。以下はその全著作。

『イース 失われた王国』 1988.03 角川スニーカー文庫
『もうひとつの夏へ(上)』 1990.03 角川スニーカー文庫
『もうひとつの夏へ(下)』 1990.06 角川スニーカー文庫
『UFOと猫とゲームの規則』 1991.09 角川スニーカー文庫
『イース2 異界からの挑戦』 1992.03 角川スニーカー文庫
『エメラルドドラゴン(上)』 1994.09 電撃文庫(メディアワークス)
『エメラルドドラゴン(下)』 1994.12 電撃文庫(メディアワークス)
『神様が降りてくる夏』 1996.07 単行本(メディアワークス)


『イース』や『エメラルドドラゴン』というゲーム原作のファンタジーでは、超文明の栄華やドラゴンの伝説が事実として受け継がれていながら、しかし同時にすべてが失われてしまった世界に生きる人間を描いている。

『もうひとつの夏へ』『UFOと猫とゲームの規則』『神様が降りてくる夏』というオリジナル小説では、“自分は確かに体験したけれども、今では失われてしまっていてその存在が証明できないもの”を描いている。

すでにすべてが失われてしまった世界から、確かにあった“なにか”にむかってもどかしく手を伸ばす。
飛火野耀の小説では、そうしたストーリーが繰り返し繰り返し再生されている。
氏の作品を読んだときに私が感じる“透明な寂寥感と漠然とした焦燥感”は、それが原因だったのではないだろうか。

そして飛火野耀は、死にゆくひとつの時代と添い遂げるかのように姿を消し、今年で丸10年が経つ。氏の作品はすべて絶版となり、いずれも入手困難な状況だ。

だから私が今しているのは、あのとき確かにあった“なにか”にむかってもどかしく手を伸ばす行為に他ならない。
つまり、飛火野耀が消えてしまうことによって、氏の描き続けたテーマは真に影響力を持つことになった。皮肉なことに。
そして私は、いまだその影響力の下にあるひとり、あるいはグリッドのはざまにとりのこされたひとり、というわけなのだ。

個人的に一番の名作だと思っている『もうひとつの夏へ』は、SF小説という体裁をとりながらも、80年代の日本の空気をリアルに描くことに成功していて、それがなによりの美点になっています。しかしその80年代というのは、一般的にイメージされるような「狂騒の80年代」ではありません。むしろ、その影ともいうべき、冷ややかな手触り。

60年代半ばから70年代の政治の季節に間に合わず、バブル経済のピークにも報われない時代を過ごしであろう著者が、世界の終わりを夢想した青春の残滓。飛火野耀の作品には、そういった色が強く出ていて、たまらない味わいになっています。

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もうひとつの夏へ〈上〉 (角川文庫―スニーカー文庫)
もうひとつの夏へ〈下〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

アマゾンのマーケットプレイスでどうぞ。


追記 2015.3.3


『忍耐の祭』 山科 春樹 (1980年)
『血まみれ学園とショートケーキ・プリンセス』 真行寺のぞみ (1994)


この2作品も、飛火野耀の別名義の作品だということが判明しているようです。
祭谷一斗さんから情報をいただきました。
http://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-category-42.html