7月には二見剛史氏の縁で大隅国『高松城』に縄張図を掲載させていただく機会があり、45年来の友人で県文化財功労者表彰を受けた大山勇作氏に民宿「花ごよみ」でお話を伺い、宮之浦区長日高忍氏、本村区長林信昭氏、金岳小中学校長宇都修氏に各地の現況を聞かせていただき「口永良部博物館」を見学し、一湊の永里岡氏の労作『屋久島の地名考』、「屋久島の古城跡」を書庫から探し出せました。

こういう機会を与えていただいたのは、口永良部の城に関心を寄せる、「へきんこの会」代表で口永良部島ひょうたんじまプロジェクト代表の山地竜馬氏です。
お世話になりました。




 口永良部島から八王子に戻って早速、島関連の資料を整理しました。
これは長年、取り組むべき仕事と考えてきましたが、チャンスがありませんでした。
すると1984年に編纂を終えた『上屋久町郷土誌』をきっかけに、86年度に実施した「上屋久町城郭跡調査」(『昭和61(1986)年度上屋久町城郭跡調査の報告』を1987年3月31日に町教委に提出)や、87年3月4日上屋久町「屋久島離島開発総合センター」において上屋久町ふるさと文化講座で講演させていただいた「屋久島の山城」の講演会資料が出てきました。
手を入れなくてはと思いつつ、いつかいつかで今日になってしまったものです。
遠回りしていますが、まとめたい仕事です。
それだけでなく、同87年11月24~28日に大山純一・山本秀雄・河野治雄・松永守道・永里岡・大山勇作・松下・川口・藤原各氏らと民宿富田に泊まって、富田原・湯向・平家(赤崎)・日高各城を踏査し略測調査し(須恵器陶磁器片が散乱していたのが印象的でした)写真撮影し、各部局にお願いして収集した字集成図、国調図、地形図等資料が出てきましたし、88年1月4、6日に鹿児島市荒田町、栗野国衛氏宅にお邪魔し、日高城で発見した寛永通宝を手にした資料も出てきました。
このときは長女を連れて行き、お土産をいただいたのですが、82年以降、言い訳ではありますが、職務に追われていて、見直す時間がなかったのです。
気になっていなかったというのは事実ではないのですが、すっかり忘れていました。
担当した者としては報告書を出していて義務を果たすことで精一杯というところでした。



 その後奄美沖縄調査に力を注いだ南文研で、同88年1月16日「上屋久町城郭調査余話」の報告、89年8月5日第6回全国城郭研究者セミナーで「口永良部島日高城の調査」の報告、92年5月13日宮之浦等で「中世社会の楽しみ方―城郭を中心に」の報告、その前後に、「屋久島(北部)・口永良部島の城郭」の報告、93年3月1日楠川公民館平成4年度郷土を知る文化財学習講座で「楠川城を探るー楠川城の過去・現在・未来―」の報告、96年3月『南日本文化29号』に「屋久島における中世城郭の研究―中世社会の変遷と、楠川城の築城を主にして」を発表する等々と取り組んできました。
その資料も合わせて出てきました。貴重な資料が含まれています。これから整理していこうと思っています。
先ずは大和様式の山城としては、最南端の日高城(地もとでは津城と言うことが多いいのですが)のまとめに取り組みますが、そのためには現地踏査が不可欠で、多くの方に又お世話にならなくてはなりません。
続いては平家落人伝承にかかわる城が気になります。



 前述の寛永通宝等は、近世島津藩政下の密貿易関連の遺物であろうと思われ、史上有名な銭屋五兵衛という、金沢前田藩の御用商人の関与がささやかれています。
五兵衛は1773年に誕生してから1852年の獄死に至る生涯に、千石積み北前船を20隻艘所持した豪商です。
口永良部の歴史に密接に絡んでいると思っています。
そして日高城は、その舞台だったのではないでしょうか。大雪のなかを金沢に行って銭屋五兵衛の資料を調べたことも思い出しました。
銭屋五兵衛も気になっています。


   
 



 

 


日高城 大手口
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日高城の石碑
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於空堀
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