皐月 海央 ~エクトプラズム 日常的断煙図~

書きたいという『欲望』は、僕の躯の中で決して止まることのない血流であり、書くという『行動』は、噴火口へと向かうマグマのようなものです。 僕自身が僕自身に向かって書き記していることが、もし誰かの心の琴線に触れ傍読していただけたら、嬉しさはこの上ありません。

2012年11月

good-bye good-friend good-night

一つの作品、所謂、歌が出来上がると、人の前で歌いたくなる衝動にかられるのは、一概に二五年も歌ってきた習性から派生してくるものなのだろうか?

ここ最近は、自分でも作風に変化が感じられる。
うまくは言えないが、より客観的な視線から表現をチョイスできるようになってきたのかもしれない。

それは小説を書くことで習得したものでもあるが、ある種の成熟を果たそうとしている感性の(現時点での)成果なのではないか、などと(自画自賛に聞こえるかもしれないが)思ってしまうのだ。

わたしは常々創作にあたるとき念頭に置いているのは、客観的な「眼」である。
この「眼」がぼやけてしまったり、亦は偏ってしまうと、作品に致命的な損傷を与えてしまう。敢えてそこを狙って、偏った視線から創作した曲もわたしには多々あるが、それを跳ね返す心根とパワーを身に付けていなければ、酷く痛い目に遭う。

ここへきて、わたしにはその跳ね返す力が薄れてきているように感じてならない。

それは決して衰えではなく、様々な出来事が判ってきたことに対する「配慮」なのかもしれない。

それは、今回出来上がった歌を録音し、私自身が客観的に聴いてみて、一番感じたことだ。

こんな歌も俺には作れるのだ、と。

生憎、年内のライヴスケジュールはないが、年明けにはこの歌が身体に馴染んだ状態で唄えることであろう。

どうぞお楽しみに。

って、一番楽しみにしているのはわたしだったりして。

百鬼夜行ライヴを終えて

この度富士吉田のお店で企画ライヴをやらせてもらったのですが、企画を組むということの大変さを改めて感じました。
それも地方都市での企画ということで、その労力はより一層必要とされるものだった。

今回は河口湖マラソンとこの企画が被っていたために発生した、富士吉田界隈の宿がほぼ満室だった問題がその理由の一つでもありました。その為に宿の手配に奔走を余儀なくされた状況であったのです。

企画者として、身銭を切ってでも出演者たちに迷惑はかけてはならない。
そんな思いが共鳴したのか、出演するお店の店長さんやら、そこに出演する方の力添えもあって、すぐ傍に居を構える喫茶店の二階に宿泊することが出来ました。
悩みの種である宿泊問題が解決したわたしにとって、肩の荷が下りた気持ちでした。

ただ、暖がないとのことで新たな問題が発生。急遽、寝袋を用意させていただいたのですが、富士吉田の深夜の寒さは予想をはるかに超えていました。
いやはや、出演者のみなさんには本当に申し訳ないことをした。

正直言って、もう企画なんてやりたくない、と、少し投げ槍になっていたりしたのですが、皆さん口々に「来て良かった」と声をかけてくれたのがわたしの唯一の救いでした。

ま、終わってみると、やって良かった、と思えました。
徒労や奔走も、終わってみればすべていい想い出になる。
出演者の皆々様にとっても、そう思っていただければ幸いです。


そして何よりも今回は、母上が逝去され、翌日に通夜を控えているにも関わらず参加してくれた「新宿のミナミ」の、スケジュールに穴を空けたくない、という《プロ意識》に改めて感動感服しました。本当にありがとう。ライヴを終えて翌日通夜を賄わねばならないミナミの心中を察すれば、わたしの労力など足元にも及ばない。
ここに母上様の御冥福を心よりお祈りいたします。

そして、出演者の皆々様、本当にお疲れ様でした。素敵なステージをありがとう。

多謝。

加えて、今回の企画を終え、ひしひしとこの言葉が骨身に染みました。
確か宮沢賢治の言葉だったような気がします。

『アーティストは世界で一番信用できる人種である。
雨が降ろうが雪が降ろうが、喘息がでようがインフルエンザにかかろうが、どこかへ行くと言ったら必ず行く。たとえ病気でも。
なぜなら彼らは仕事も収入も信頼も、最も失いやすい人種だからだ』

こむら反りと激寒と、数体の巨大ミノムシと

目の前に露天風呂がある。
 
 
我々出演者たちは共に富士吉田のじゅげむという店でライヴを終え、そのあと宿へ向かうために寒風が吹き荒ぶ深夜の山道を三々五々歩いていた。
 
都内からやって来た我々にとって防寒具などは持ち合わせていない。各々が楽器を手に、寒さに震えながら宿へと歩いていた。
 
だがいくら歩けどそれらしき宿は一向に我々の眼前に現れてこない。それどころか、山はより深くなるばかりで、道を照らす月の明かりだけが道標となり、やがては不安と疲弊に襲われながら歩を進めていた。
 
そこへ、突如露天風呂が現れたのだ。
 
出演者の一人が、
「もうだめだ、この寒さには堪えられない」と言うや否や、衣服を脱ぎ捨てまっしぐらに露天風呂に飛び込んだ。そしてタガが外れたようにして、他の連中も同じくして飛び込んだ。
わたしも釣られて飛び込んだ。
 
「温ったけぇ~~~~」
男女を含めた我々全員、瞼を閉じて黙ったまま安堵の世界に浸っていた。
わたしは、このなんとも言えない幸福感に、湯船の中で力一杯両足を伸ばした。
 
と、その瞬間、左足がこむら反った。
 
「アイタタタッ!!!」
 
 
・・・・・わたしは寝袋の中で、こむら反った左足の痛みに悶えながら目が覚めた。周囲を見ると、各々が寝袋に包った状態で眠っていた。
とある喫茶店の二階に泊めさせてもらった我々は、用意されていた寝袋で寝ていたのだ。
 
巨大な数体のミノムシ。
 
ある種異様な光景を他所に、往来へ出ると、真っ白に化粧を施した富士の山が眼前に座り込んでいた。

時間の番人

わたしは夕刻より控えている夜勤仕事に勤しむために、臨戦態勢を調えるべく定例のランチを近場のレストランに食しにやって来たのだが、食後の珈琲を飲みながらいつも考えてしまうことがある。

夕刻から始まり翌朝までの17時間の就労を所謂夜勤と呼ぶのだが、出勤するまでは、この17時間をとてつもなく長く感じたりなんかする。
だが、実際にバタバタと働いているうちにいつしか時刻は日付が変わる真夜中になり、そうこうしていると、うとうとしながら丑三つ時を向かえ、やがては早朝五時から起床離床のドタバタ劇に身を没している間に早出出勤者が出勤、という具合に、17時間という時が矢の如く過ぎ去ってしまう。

仮に同じ17時間を早朝七時に出勤したとして考えてみると、業務終了は深夜の零時になる。これは、考えただけでゾッとするほど冗長なる時間に感じる。

なぜなのだろうか?

お日様が天にあるかないかの感覚的な問題だけなのだろうか?

わたしは、人々が寝ている間に、《時間の番人》がこっそり時計の針を速めているように感じてならないのだが・・・・、んなことあるわけねーだろ!、と言われてしまいそうだが、時間の番人も仕事を終えて早く帰りたいがために、こっそり時計を速めていたって悪くはない話である。

誰だって、早く仕事を終えて、自分のために時間を使いたいのだからね。


わたしも、早くライヴに集中したい。

座標

閃いたというとき海原に錨を降ろさなければ、すぐに荒波の彼方へと消え失せてしまうもの。

だからわたしはペンを執る。ノートと言う未開の地図に、自らの座標を示すように。

紅葉を見に行って、しかも雨、してわたしが思うことは・・・・

af94a3ae.jpgわたしはひと昔前まで、この「白タク」という意味がまったくもって分からなかったのですが、ある時、すなわち旅客業に携わってからはじめて知ったのです。

要するに、白ナンバーのタクシー(国土交通省の運輸局から営業用として認可を受けていないタクシー)を略して白タクと呼んでいるのですが、この注意書、公共の場で所謂ところの略語を堂々表示しているわけでして、「なんのこっちゃ?」と思う青少年諸君もいらっしゃるのではなかろうかと、老婆心。
木村拓哉を「キムタク」、吉田拓郎を「よしたく」、石川啄木を「イシタク」、浅野内匠頭を「あさたく」と呼ぶ小生にすればこそ、尚、その感慨は深まるばかりなのである。

乗ってはならぬ、と言うのであれば正式名称である「白ナンバータクシー」と明確に表示するべきではなかろうか? 今市警察殿。

もし、なんらかの諸事情によって白をグレーにするべくして表現されたものなら、それはそれで許しがたいことでもあり、ユーモラスだったりするのだが。

おっといけない、グレーという色はあり得ないか。

白と緑の中間色って、なんだ?

兎にも角にも、このような曖昧模糊な表現を野放しにしておくのは、どうか。

なかなか楽しいではないか、そうだな、アハハハッ!!


補足・・・・国土交通省の運輸局から営業許可を受けた車輌のナンバーは緑である。因みに軽自動車は黒。

グレーもあるかぁ!!?


ってことで、今回は写真付きで更新也。ガハハッ!

風樹の嘆

婆ちゃん、御免。

俺は、なんも知らんかったよ。

誰も報せてくれんかったよ。

俺は、生まれて初めて後悔しちょるよ。

婆ちゃん、御免なぁ。

本当に、御免なぁ。

しっかり持って行くけんね。

あのあったかい婆ちゃんの面影、持って行くけんね。

許してくれねぇ。

もうちっと此処で頑張ってみるけん、
此処で両手一杯手を振るけん、

許してくれなぁ。

誰を憎んでも始まらん、

すべて俺が抱えて行くけん、

もうなんも言わんよ、

ゆっくり休んでくだしゃいねぇ。

勿体無い精神

一度、若しくは二度ばかり浸かったお風呂の水を追い焚きするよりも、直接お湯を張った方がガス料金が安い、と言う話を、事あるごとに細君から言い渡される。

確かに追い焚きは、お湯を張るよりも(外気の気温にもよるが)倍以上時間を要することもあり、理屈で考えてみれば、それだけガスを使用しているのだから、言われてみれば確かに証左に違いなかろう。

ただ、偏屈でおまけに変なところで吝嗇な小生としては、この何百リットルもの水を毎日放水してしまうには、どうにも「勿体無い」感じがしてならない。

我が国日本の対極に位置するオーストラリアでは、蛇口を捻っても雀の涙ほどの水しかでないと言うのに、こんな贅沢三昧な行為が許されて当然とは、どうにも腑に落ちないのである。

じゃ、洗濯に使えばいいじゃん。

まさに。
だが、我が家の場合そうもイカのきん○まなのである。
拙宅の洗濯機はバルコニーに設置されており、専用ホースを風呂場から伸ばしても到底届かないというお粗末。

多大なる聖水を放流し光熱費節減を選ぶか、「勿体無い」精神に則り、なんぼでも光熱費かかっても追い焚きしちゃるわぁ! と頑固一徹を通すか。

結句、二日に一編放流することに合意。

これを和解と呼ぶのであろう。

因みに、光熱費を支払っているのは小生である。
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