2018年04月12日

川上弘美『森へ行きましょう』で読む多彩な人生

1bebb9e3.jpg川上弘美さんの『森へ行きましょう』(日本経済出版社、2017)を一気に読み終えました。

不思議な構成で作り上げられている作品です。主人公は、二人の女性、それぞれ「留津」と「ルツ」と名付けられています。生年月日も同じ、母親の名も同じなのですが、生活環境が微妙に違っています。交互に、二人の物語が年代を追ってつづられているのですが、登場人物が重なっていることも多く、一気に読まないとかなり混乱します。実験的な構成ですが、どう受け止めるかはもちろん、読者の自由なのでしょうが、作中にヒントとなる記述も出てきます。
  
「無数の岐路があり、無数の選択がなされる、そのことを「運命」というらしいけれど、果して「運命」は一本道なのか。・・・・ルツは知らない。ルツがそうであったかもしれないもう一人の自分が、こことは異なる世界のどこかにいるかもしれない、ということを。」

人生の岐路で選択をした結果しか私たちは知れないわけですが、違う選択をしたとして、どのような人生が待っているかを、この作品の中では横目に見ることもできるということになります。パラレルワールドとしてこの作品が描かれていると示唆されています。

「留津」にとって、小学校はコワイ場所で居心地が悪く友達が出来なかったのですが、私立の中高一貫の女子校に通いことができ、そして父親の薦めていた女子大の文学部に入学することになります。あるきっかけで出会った林昌樹くんと親しくなります。卒業後は中堅の薬品会社に一般職で入社しますが、「会社は働くところであって、友達をつくるところではない」ことを知らされます。そして、しばらくぶりで林昌樹くんとコンタクトを取りますが、結婚対象として意識して行動したところ、驚きの告白をされて打ちのめされます。その衝撃もあり、友人の木村巴に紹介された神原俊郎と結婚することを選びます。姑となるタキ乃の希望もあって、専業主婦になる道を選んだのでした。

もう一人の主人公である「ルツ」にとって、小学校は面倒くさいけれど面白い場所でした。視力が悪くなりますが、あこがれの眼鏡をかけるまでにはなりませんでした。区立中学に入ると、クラスメートの森くんと林くんという男の子がいて、関心を持ちます。仲良しの山田あかねちゃんが好きだった林くんから、卒業式の三日前に交際を求められます。あかねちゃんには伝えることができないまま、林くんとは同じ高校に入学して交際が始まったのですが、いつしか疎遠になってしまいました。その後、第一志望の大学の理学部に入学、オリエンテーションで渡辺幸宏と出会います。その頃には、ルツも眼鏡をかけていましたが、渡辺幸宏の印象を「眼鏡ともだち」としてメモします。

ルツは考えます。「選ぶ、ということは、なんて難しいことなのだろうと、ルツはめまいのようなものを覚える。選ぶ。判断する。突き進む。後悔する。また選ぶ。判断する。生きている限り、あらゆる瞬間に選択の機会はやってくる。」

「ルツは知らない。ルツがそうであったかもしれないもう一人の自分が、こことは異なる世界のどこかにいるかもしれない、ということを。」
ルツは卒業後、研究所に勤める技官の職を選択します。

二人は違う人生を生きていますが、二人に親しい友として、林昌樹のように同姓同名で性格もよく似ている人物が登場しています。二つの世界で、彼等もまた、違う人生を生きているわけです。

留津は、親しく付き合うことになった林昌樹から助言を受けます。「一つの場所は、たくさんいる自分の中の一人しか満足させてくれないもんだよ。」

留津は林昌樹のことが好きでしたが、上述した通り、いわば驚きの告白とともに「ごめん」されてしまいます。留津が林昌樹に会ったのは、さまざまな学生が参加するサークルの新歓コンパの帰りでした。一方、ルツの人生にはすでに中学のクラスメートとして登場していた林昌樹でしたが、ジュリアナ東京で再会することになります。バブルと言われていた時代を象徴する場所でのエピソードとして描かれます。こちらの林昌樹は、偶然にも山田あかねと同じ会社に勤めていたのです。

留津とルツに、このように出会い方に違いがあるのですが、林昌樹は、二人の「るつ」の人生の歩みに影響を与え続けていることがわかってきます。読み手としては、この林昌樹がややこしい存在でした。ルツにとっては幼なじみと言える存在ですが、留津にとっては思春期に出会った存在でダイレクトに恋愛対象になったわけです。ただ、結果としては友達としての関係は続いていきますので、特に後半のストーリー展開を読み解くには、かなり紛らわしいのですが、二つの世界を往来しているかのように思えました。村上春樹の『1Q84』のパラレルワールドを思わず意識しました。

終盤になると、何人かの「るつ」が登場するので、さまざまの可能性が人生にはひそんでいるとあらためて示唆されているとも思えますが、実際には人はひとつの人生しか生きられないので、あくまで仮定のこととしてしか考えられないのですが、小説を書くことに喜びを見出した「留津」のように、別人生を構想することは可能だと告げられます。

「森へ行きましょう」というタイトルですが、留津が書いた小説のタイトルとして紹介されています。森へ行くのは、人生の深みへ進むことの象徴のようです。学生のころに参加した文芸サークルで書いた小説は、林だけには評価してもらったのです。しかし恋心をいだいた留津は見事に「失恋」して、思ったのです。「森の奥へ、さらに奥へと、行ってしまいたかった。」

森の奥は深いけれど、味わい深い・・・!

sawarabiblog at 14:36|PermalinkComments(0)

2018年04月04日

窪 美澄『やめるときも、すこやかなるときも』を読んで

3da58904.jpg入院前のことなのですが、図書館で窪 美澄さんの『やめるときも、すこやかなるときも』(集英社、2017)を借りてきました。何気なくタイトルに惹かれて手に取ったのですが、一気に読んでしまいました。

主人公である二人の出会いは、結婚式のパーティーの会場でした。少々、女癖のわるい須藤壱晴は、深酒が過ぎたのか記憶が定かでないままその翌朝、女性を自宅に連れ込んだことに気づきます。彼には一緒に寝ている女性の身体を、親指と人差し指を使って測る癖があって、この日も自然とそうしていました。壱晴は寝ている女性をそのままに、仕事場に向かいます。彼は家具職人、師匠から譲り受けた工房で作業をしています。この女性がもう一人の主人公です。物話は、交互にそれぞれの思いが交錯しながら進行します。

そして翌日、仕事場に訪ねてきた女性は個展のパンフレットの製作を依頼した会社の営業担当者、本橋桜子が訪れます。壱晴は全く気付いていませんでしたが、偶然にも桜子は一昨日、自宅で寝ていた女性だったのでした。彼女の脚の付け根から膝の裏まで、そして膝の裏からかかとまで指で長さを測ったことを思い出します。彼女をイメージして椅子を作るのなら素材は無垢の木だろうと思うのです。

少し品性を描く人物かなと思いきや、実は、壱晴は毎年、身体に不思議な症状があらわれるのです。「記念日反応」と名付けられているようですが、それは特定の時期に起こります。今年は、桜子と話している最中にそれが起こってしまったのでした。

物語では、お互いの人生が、その歩みの中で何らかの傷みを伴っていることに気づき、ましかしたら、単なる行きがかりかと思われるほど、一種の勢いを伴って結婚を前提にした付き合いが始,里任后

壱晴が毎年声を出せなくなったのには、どんな体験が起因になっているのでしょう。

桜子は声が出ないという症状は、ストレスや心的外傷で起こることを知ります。桜子はいまの自分の家庭環境を受け入れています。経営する会社が倒産してから父親は暴力をふるう存在になり、桜子は家計を支えるための勤めを続けなくてはならない。急に声が出なくなった壱晴のことが気になります。

出会ったきっかけは、特に桜子にとっては二度と会いたいとは思えないような関係性と思えますが、偶然とはいえ仕事の付き合いがこの関係を、真摯なものへと少しづつ変えてくれます。実人生で、このようにうまく進むとは思えませんが、お互いの痛みを慰め合いでもなく、寄り添える関係になっていけることが、関係性の構築にとってひとつの分岐点になるのかな、と思いました。嫌な思いを感じさせることなく、最後まで読み通せました。

sawarabiblog at 16:39|PermalinkComments(0)

2018年04月03日

治療が一段落しました(ご報告)

4e483105.jpg3月28日手術の予定で、前日27日に佐倉市の病院で入院、治療を受けていましたが昨日(4月2日)退院しました。今回は、一昨年の大腸がん手術時から数えて5回目の入院生活となりましたが、術後の経過が思っていたよりも順調で、考えていたよりも早期に自宅に戻れました。

抗がん剤による治療の過程で胆石が見つかり、総胆管結石の治療などを行っていただきましたが、最終的な治療として勧められた胆嚢切除を選択しました。事前説明では開腹する可能性もあるとのお話もあったのですが、腹腔鏡下で施術されたと知りました。

妻は自らの病気と向き合いながら、介護施設に入居している母親のケアや、入居に伴って引き継いだ愛犬の世話などもこなしながら、あわただしい日々を送っていますが、さらに私の入院でその生活リズムのあわただしさには拍車がかかったと思われるのですが、ためらいもなく私の手術には立ち会ってくれました。感謝しています。そして、お疲れ様でした。

病棟を歩きながら、外を見やると満開の桜を見ることもできました。ひたすら術後の回復を願って日々を過ごしました。入院生活に慣れたというわけでもありませんが、体験をふまえて術後の身体へのダメージや、回復スピードなど、いわばおさらいしながらの日々を送りました。入院中、看護師の方から胆石を見せられ、さらに「お持ちになりますか」と問われ思わず「ハイ」と返事をしました。考えていた以上に大きな塊でした。胆のう炎など症状に至らなかった幸いをかみしめました。点滴もすべて終わり、身体を動かすことが自由になっていた術後5日目にあたる日曜日、朝の回診児でしたが、執刀していいただいた主治医の先生にそろそろシャワー浴の許可をと希望を述べたところ、「もう退院ですよ」とさりげなく告げられ、びっくりしました。思いのほか、経過は順調な回復を示していたようです。

長くなる入院生活を予想して3冊の本を持参しましましたが、読了したのはそのうちの1冊、桐野夏生『水の眠り 灰の夢』(文春文庫、新装版2016)でした。たまたま図書館で手に取り借りたものですが、昨年10月の入院中に読んだのが桐野夏生『顔に降りかかる雨』(講談社文庫)だったことを思い出しました。『水の眠り 灰の夢』は、後者の作品の主人公の村野ミロの義父である村野善三が主人公のミステリー作品でした。60年安保闘争後の東京が舞台になっていることが、私に興味をいだかせてくれました。週刊誌のトップ記事のために軍団化していたフリーランスの物書きグループ、彼らはトップ屋と名付けられていました。その一人が主人公の村野で、草加次郎事件を追いかけているという設定になっています。桐野さんの作品は主人公が妥協なく突き進む一方、自省を忘れないところに惹かれます。さらには、現在にも通じる家庭崩壊や格差を背景に見事に描いてくれています。気分転換に貢献してくれました。

ともあれ、無事我が家に戻り、スッキリと一夜を明かせました。体力全般の回復に努めます。

sawarabiblog at 18:04|PermalinkComments(0)

2018年03月19日

瀬戸内寂聴『いのち』を読む

f49b0f75.jpg瀬戸内寂聴『いのち』(講談社、2017)を読みました。寂聴さんは、現在95歳、高齢であることは今日ではさほど珍しいことではありません。しかし胆道がんを宣告され、手術を受けられたという体力にびっくりさせられます。ガンの告知を受けたとき、宇野千代さんのことがを思い出したということですが、98歳という高齢で、病気というより老衰で亡くなった作家を思い出したのはなぜだったのでしょう。さらに、思い出したのは、宇野さんの秘書だった藤江さんが急逝したときに、彼女が言ったひとことでした。

「人の死というものは・・・人間の思考を倫理的にするものですね」

寂聴さんが50歳代で、くも膜下出血に罹ったときのことでした。そのとき見舞ってくれた男性が「小説を書けないなら死ねばいい」と言ったことを思い返したのです。その男は数年後、ガンになって、死にたくないと訴えたのですが、「執念で宣告された余命の何倍も生き抜き、繊細に美しく寂(しず)かな顔で亡くなった」のでした。このように回想するのは、自らの死を意識してのことなのでしょう。

秘書のモナは「センセってほんとに運が強い」と告げます。見つけにくい胆のうがんが初期で見つかったのは幸運だということを伝えてくれるのでした。

寂聴さんの最新作『いのち』はこの書き出しから、引き込まれます。老いと病に向き合っている現在を立ち位置にしながら、永年に及んだ作家生活の日々を回想していきます。創作した物語のモデルとなった人びとや、かかわりの深かった作家たちとの思い出を幾重にも積み重ねながら、つづられていきます。若い秘書との会話は、効果的なアクセントとして、対照的に生きている喜びを伝えます。

退院して寂庵に帰宅して湯船に身を委ねます。反射的思い出されるのは、湯船で亡くなった岡本太郎の秘書で愛人でもあったとし子さんのことでした。もとより岡本太郎さんとの思い出も蘇ってきます。

河野多恵子と大庭みな子、この二人の作家との交友について語られていきます。

「私は一度友情を結んだら、人が呆れるくらい長くつきあえる。男との仲はどうも全うしきれなくて、無惨な別れ方を繰返してきたけれど、女との友情は、女学校時代や女子大の頃から今も続いている人が数人はいる。」

周知のことだとおもいますが、瀬戸内晴美さん時代には、小田仁二郎氏と不倫の関係になったばかりでなく、複雑な三角関係にもなっています。あけすけに書いてもいますね。ところが、親しい付き合いになった河野多恵子さんの過去を、学生運動家の名残と自称する女性から知らされます。意外なことに、学生運動のリーダーとかつて恋愛関係にあったというのです。知らなかった寂聴さんは、そのことを本人に確認しようとした矢先、画家の卵との結婚話を切り出されました。

河野多恵子さんとは、長電話する関係だったようで、懐かしくつづられるのですが、それほど親交の深かった河野から受けた仕打ちはひどかったとも忌憚なく書かれているのです。寂聴さんが、出家する決意が伝わって、円地文子からの叱責と破門宣言を受けた後、女流文学全集を実現を置き土産にしたいと出版にこぎつけるための努力をしたのですが、それをすべて知っていたはずの河野多恵子が、全く弁明してくれなかったというのです。

取りとめなく、語られ続けているようですが、今は会えなくなった友人との思い出を確かめているようです。それにしても生臭い。河野多恵子その対極の存在として大庭みな子さんが、さっそうと登場します。寂聴さんは、次のような好意のこもった批評を記しています。

「河野多惠子の小説は、読後、「りっぱだな」という感想があるが、大庭みな子の小説は、読んでいる最中から胸が熱くなり幸福感が満ちてくる。どの作品も詩情があふれていて読後、美味しい御馳走を食べた後のような満足感が、腹ではなく胸を満たすのだった。」

その大庭さんがサイデンステッカーさんとの電話中に脳出血で倒れたときのエピソードや、見舞った際に聴いた、大庭さんから放たれた言葉のすさまじさにも驚かされます。

年齢を重ねて人を受け入れる度量が広がったせいなのか、それとも良くも悪くもすべてを書くことで、今生の未練を残さないおつもりか・・・この作品につづられている寂聴さんが体験された人間関係の深みに、一読者として興味が尽きません。

sawarabiblog at 18:21|PermalinkComments(0)

2018年03月08日

中島京子さんの短編集『ゴースト』から戦争を考える

808caa51.jpg昨年(2017年)は、大腸がんの手術後の体調管理を気遣いながらの日々を過ごしました。現在もなお、手術の後遺症はありますが、比較的元気に過ごせています。飼い犬がいることで、朝夕2回の散歩を日課にしているので引きこもりになることは、避けられています。とはいえ、外出機会は手術前よりは減っています。多少、読書の機会が増えたかもしれません。

中島京子さんの短編集『ゴースト』(朝日新聞出版、2017)を読みましたが、さわやかな読後感が楽しめる作品群でした。「きららの紙飛行機」という作品を、例にしましょう。

幽霊のケンタは、自分がこの世に現れることができるのが、いつなのか自分ではわからないのですが、出現したあるとき自分の姿を見ることができた一人の女の子と出会います。それは、育児放棄した母親から、わずかな小遣いをもらって生き延びていた少女でした。ケンタは、その少女に向かって思いっきり仁義を切ります。「お控えなすって!手前生国と発しますは、東京でござんす。東京は神田でござんす。・・・」ここから、二人のたった一日だけの交流が始まります。紙飛行機はキャラメルの紙を器用に折って、ケンタが作って飛ばします。女の子にも作り方を教えます。

味わいは、作品そのものにありますが、石井光大さんの『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』(新潮社、2014)がノンフィクションとして描いた時代を、ちょっと切ないおとぎ話として色付けしてくれました。

ちなみに石井光大さんの本で、戦後の混乱期に「浮浪児」としてしか生きることができなかった戦争孤児の姿が見えてきます。上野駅の地下道に、生活拠点としたのは1945年3月の東京大空襲だったとのこと、彼らが上野で生きられたのは、炊き出しもあったけれど、親族を探しに食糧を携えてやってきた人々が分け与えた食べ物が、有効に活用されたことがわかります。

もう一篇、「亡霊たち」という作品の主人公である千夏の曽祖父はフィリピンへの出征経験があり、あるときから「リョウユー」と会ってくるようになります。千夏は、母から曾祖父戦地でマラリヤにかかった身体で終戦の年の冬に帰国したことを知らされます。その曾祖父が亡くなってから、千夏は、大岡昇平の『レイテ戦記』などを読んで、日本が戦争をしていた時代のことを勉強します。そして、曾祖父が「リョウユー」と会っていたとき、どんな気持ちだったのかを想像してみます。いつの間にか、千夏にも「リョウユー」が見えるようになります。・・・・ここまでは、戦争の追体験のような切なさが残りますが、ぞっとさせられるのは、現代社会の景色がさりげなく描かれている場面です。「リョーユー」たちと同じ服装をした人たちが、外国人を追い出せと話しています。この人たちはおじいちゃんのいっていた「リョーユー」ではなく、「亡霊」なのかもしれないと千夏は思います。

戦争体験を引き継ぐというテーマこそ、現代社会にとって重要なのだを感じさせられます。

戦争の体験をベースにした作品として感銘を受けたのは、浅田次郎『帰郷』(集英社、2016)という短編集も同様です。戦争にまつわるさまざまな人生模様が描かれていて、心に刻まれる作品群でした。

例えば、「鉄の沈黙」という作品です。清田吾市は、野戦高射砲を修理の命令を受け、途中で魚雷艇に出くわしながらも船舶工兵によってニューギニアの瓢箪岬という前線砲兵陣地に送り届けられた。師団の主力部隊はすでに転進しており、この砲兵陣地は敵の追撃を阻止するためにだけ残されており、連日の空爆にさらされていた。吾市は大阪の造兵廠に勤務していた技術者であり、故障の原因を突き止め、高射砲は再び作動する。分隊長の青木軍曹は、修理の済んだ吾市に陣地を去るように命ずるのですが、吾市は、陣地に残って戦うことを選択するのでした。その思いは、こうです。

「大工や左官や、旋盤工や自転車屋が、工場で造った砲をこんなに大切にしてくれているのに、工場からの給金で養われ、大学の工学部まで進ませてもらった専門技術者が、砲に背を向けて立ち去ることなどできるはずはなかった。」

いのちを懸けて吾一が高射砲を修理する行為は、その結果が見えているだけに悲しいですが、空しいと思うこともできません。

sawarabiblog at 17:29|PermalinkComments(0)

2018年02月09日

唯川恵『淳子のてっぺん』に感動

bd19fe52.jpg「田部井淳子さんをモデルに書き上げた、渾身の長篇小説」というキャッチコピーを目に留め、唯川恵さんの『淳子のてっぺん』(幻冬舎、2017)を一気に読みました。

女性初のエベレスト登頂で著名な田部井さんの、幼少時からの足跡をたどっています。海外遠征に女性だけのパーティで挑みますが、互いの嫉妬感情なども困難をきわめた出来事も赤裸々に描かれていました。実在の人物なので、書きにくいこともあったかと思うのですが、あまり脚色めいたところも感じられず、すがすがしい思いが残ったのは、モデルとなった田部井さんご夫妻の人柄そのものの反映なのでしょう。

「東北の高校生の富士登山」の一場面を描写したプロローグは印象的です。昨年12月に、NHKで「田部井淳子 人生のしまいかた」という番組の放映があり、高校生を励ます田部井さんの姿も映されていましたので、イメージしやすかったこともあり、興味に拍車をかけけてくれました。

作品では作品では石坂順子→田名部淳子として登場しますが、「病気になっても病人にはならない。」という気持ちで富士登山に臨んでいます。ガン宣告を受けて、一度はうろたえ、絶望感に包まれたものの、おたおたした自分の気持ちを立て直し、「この年まで好きに山に登って来たではないか。思い切り生きてきたではないか。」と応援いただいている人々の思いをも乗せて、富士登山プロジェクトの成功に願いをかけます。

女の子が一人、登山道から外れて岩に腰かけているのをみつけて、淳子は声をかけます。どうやら軽い高山病の様子です。深呼吸し、水を飲ませ、話してみるのです。震災の体験を話しながらてうちとけたその女の子は、淳子に「なぜ病気なのに苦しい思いをして山に登るんですか」と問いかけます。答えを自分自身で探って欲しいと考えた淳子は、その女の子に富士登山に参加した目的を問い返します。「もしかしたら自分が買われるかもしれないって思ったんです。」という答えを引き出します。淳子の伝えたのは「踏み出すその一歩が、生きてる証なんだから」という言葉です。

フィクションを交えていますが、淳子さんの、人生の歩みが語られます。子供の頃から活発で負けず嫌いの淳子は、幼馴染の勇太が登った岩にかじりつき落ちてしまいます。幸いにも大事には至らなかったものの、「女のくせにあんな岩に登るなんてどうかしてる」とからかわれるほどでした。夏休み、担任の先生が提案した一泊二日の那須岳登山に参加した淳子は、登山の魅力に開眼します。先生は、世界でいちばん高い山を教えてくれます。当時は前人未踏だったエベレスト(標高8848メートル)にヒラリー隊が発登頂に成功したのは淳子14歳、1953年の出来事でした。

大学生になった淳子に訃報が届きます。印刷業を営む父親の急逝です。東京生活で御岳山に登ったことがきっかけで山の魅力に引き寄せられた淳子は、故郷で淳子の帰郷をのぞむ母への思いを振り切り東京で就職します。そして母が期待していた帰郷を裏切ったばかりでなく、週末は山登りの日々という、心配性の母が聞いたら卒倒しかねない生活をし始めていました。山の魅力は、そのうしろめたさを超えていたのでした。山岳仲間は男ばかりの世界でした。居心地の悪い思いを経て退会したこともあり、別の登山仲間とも出会います。それが同士のパートナーとなる「マリエ」でした。偶然に、「サスケ」と呼ばれていた名物山屋との出会い、いつしか人生のパートナーになっていきました。田名部正之は高校生の頃結核性カリエスに罹り、当時は歩けなかったという。病と闘いながら登山できる喜びを味わうという人生にいつしか、淳子の何かが共振したようです。

そしていよいよ海外遠征のお話しへとつながってきます。最初に挑戦したのは夫の正之さん、モデルの田部井正伸さんは本田技研にお勤めだったようで、本田宗一郎の心意気を感じさせてくれる場面も登場しています。長期休暇を申請した、正之に「そんなに好きなら行って来い。好きなことがあるから、仕事も頑張れるんだ。」とオヤジさんとよばれる社長はキップの良さを見せてくれています。

次にチャンスが巡ってきたのは、淳子です。最初の目標はアンナプルナでした。ところが、この海外遠征は世間の無理解による資金集めの困難ばかりではなく、女性隊員同士の嫉妬から生じるもめごとから、一部の隊員が脱落するなど苦労が絶えなかったのです。山に登ることの、むずかしさは意外なところにあったのでした。女性同士のやり取りは、思いのほか激しいものです。それだけ登頂することは、プライドをかけた戦いだったとも言えるのでしょう。

ハイライトはエベレストですが、タイトルの『淳子のてっぺん』の意味は意外なところにありました。それは、読んでのお楽しみです。

田部井淳子さんが遺された著作から引用します。

「エベレスト当時のことを私は今も克明に覚えている。・・・・・シェルパたちも本当によくやってくれた。雪崩で酸素や食糧などが少なくなっても、最後のアタック隊を出そうと全員が力を出し合ったその努力のおかげで、私は8500メートルという最終テントにいたのだ。降りてゆくシェルパ一人ひとりに私は本当にありがとうと心から感謝した。」(『再発!それでもわたしは山にのぼる』文藝春秋、2016 より)

sawarabiblog at 13:57|PermalinkComments(0)

2018年01月16日

帚木蓬生『守教』が伝える信仰の姿

791a43bb.jpg帚木蓬生さんの最新作『守教』上下巻(新潮社2017年9月刊)を読みました。キリスト教の受容と迫害の歴史を生活者の視点で描いています。フィクションならではの、生き生きとした会話が楽しめます。人びとが新しい教えの到来に、耳目をそばだてていた様子が丹念に描かれています。物語の中心となるのは300年に及ぶ庄屋の家族の歴史ですが、江戸時代の禁教の時代を潜伏キリシタンとして乗り越え、信仰を守り、そして伝えぬいた事実の重みをじっくりと味わうことができました。

キリスト教伝来によって、生活者には生きる希望と目的が明らかになったという思いが伝わります。象徴する人物は、アルメイダ修道士です。実在の人物が次々に登場しますが、キリスト教はあえて「イエズス教」と名称を変えています。史実とはくいちがいもありますので、虚構の世界といっても、パレレルワールドとして読むと面白いかもしれません。福岡県三井郡大刀洗町にある今村天主堂が建設されている地が、主要な舞台になっていたことがわかりました。今村はキリシタン大名、大友宗麟の領地でした。この作品の中で「大殿」と呼称されていますが、その大殿の夢の実現の一端を担う人物として、一万田右馬助がまず登場します。

平田久米蔵は捨て子です。彼は、アルメイダ修道士が作り上げたミゼルコルディア(慈悲の家)で養育されました。その捨て子を養子として迎えたのが、大殿の家臣である右馬助でした。一万田家はもともと大殿の重臣でしたが、その一族が豊後の領主となった大殿に反逆した際にあって、唯一その誘いに乗らなかったのが右馬助でした。そのため、大殿の信頼は厚かったのです。

実際に、大友宗麟が領主になるにあたっても後継問題の内紛があり、大友宗麟は結果的に勝利できたので、キリスト教信仰に近づく死生観はその時から、芽生えていたのかもしれません。

さて、作品のストーリーに戻りますが、大殿の夢とは、九州一円をイエズス教(キリスト教)の王国とすること、戦乱の時代が終わり、領民が穏やかに暮らせることだというのです。大殿の命によって、右馬助は日田から西に十里の地、筑後領の高橋村の大庄屋として後半生を生きることになります。大殿はザビエル師から授かったという金色の刺繍が施された紺地の絹の布を右馬助に与えた。金色の刺繍は3つの文字であり中央に十字架が描かれているというのですが、イエズス会の紋章のIHSのことでしょうか。

博多の商人、コスメ興善がアルメイダを助け秋月に教会を立てた人物として登場します。アルメイダ修道士はもともと南蛮貿易で財を成した商人でした。コスメ興善から書簡で、アルメイダと筑前国古処山の城主である秋月種実への仲介を、原田善左衛門に依頼します。

秋月氏の始祖は、原田種雄という人で鎌倉将軍から筑前秋月荘を与えられたことを機に秋月氏を名乗ります。作中の原田善左衛門は、祖父の代に商人となったという設定です。善左衛門は秋月の忠臣、板井源四郎に種実への取り次ぎを依頼します。そして、アルメイダ修道士が種実の城中で説教をすることができたのです。「人間はデウスと言う神から創られ、神のように正しい振る舞いをしてこそ、その霊魂は生き続けるのだ」という教えを善左衛門も聞きました。この教えは、病弱なコスメ興善が、いつも笑顔を忘れず、死を恐れない態度の信仰心のよりどころではないかと善左衛門は思い至るのです。

大庄屋となった右馬助は、高橋組の村々にイエズスの王国を築こうと働きます。かつて、いくさで百姓から種もみを奪ったことを、悔いるのです。村々をまわる右馬助と平蔵の前に、アルメイダ修道士が現われます。ヴィヴァ・ローダ(生ける車輪)と称されるほどの、アルメイダの健脚ぶりを伝えていることは、興味をそそられます。大庄屋の一家全員が洗礼を受けることになります。右馬助はフランシスコ、妻の麻はカテリナ、久米蔵はトマスの洗礼名を授かると共に、ロザリオの祈りも教えられたのでした。

さらに数か月後、アルメイダは高橋村に再びやってきたときは、トレス神父に代わり新たに布教長となったカブラル神父、およびクラスト修道士を伴っていました。夕餉の際、神父は畳に座れないので、腰掛を用意した箸も使えず、自ら用意したスプーン、フォーク、ナイフを使って食事をしたと書かれています。アルメイダの行動と対比しながら記述されているのですが、作者の帚木さんはこの場面でカブラル神父の尊大さを表現したかったようです。翌日のミサには多くの村人が、自作のロザリオを手に持ち集まってきます。神父は、自らの人生と行いをデウス・イエズスの教えに添うようにと説きます。20人を超える村人が洗礼を受け、使徒信経、主の祈り、天使祝詞が唱えられます。ファチマの聖母の祈りも伝えられたということになっていますが、聖母の出現は今から100年前の出来事ですので、この記述は勇み足のように思います。

さらに数年後、カブラル神父は、アルメイダ修道士、モンテ神父と共に高橋村を再訪します。モンテ神父から大殿の近況が知らされます。正室の奈多夫人の権勢が高まり、大殿との確執が明らかになっていた。『日本史』を書いたフロイスですが、奈多夫人を「イザベル」と呼んでいます。旧約聖書・列王記に登場するイスラエルの王アハブの王妃で預言者エリアを迫害した女性に、なぞらえているわけです。

モンテ神父がミサの司式をし、拙いながら日本語による説教をします。新たな受洗者が名乗り出てきたので、用意した竹筒の水に指を浸して神父が洗礼を授け、「コンタツ」をしましょうと呼びかけるのですが、村人たちの大半がすでに祈りの言葉を覚えていたのでした。なお、「コンタツ」については、「ロザリオを繰りながら祈るしぐさ」と書かれていますが、一般的には信心具であるロザリオのことをさしますが、この作品では祈りをも表現しているようです。

3人の聖職者を秋月に送った久米蔵は原田善左衛門に伴われ、博多まで出向きます。博多の教会はかつて焼き討ちされていまだ再建されていない状態でした。博多からの帰り道、カブラル神父について、アルメイダ修道士の不満を聞きます。カブラル神父は日本人が同宿から修道士になることに反対だというのです。日本人神父の誕生は少し先になります。

博多の教会が再建された天正3年(1575)にフィゲイレド神父が、さらに天正6年(1578)にはモウラ神父が高橋村を訪れます。そしてミサには500人近くの村人が集まり、大庄屋の屋敷はまるで教会のようだったと表現されています。信仰の実りのある時代が、生き生きと描かれているのです。

その後、日田からの親書でカブラル神父により大殿が受洗したことを知ります。しかし、大友氏はこの年、耳川の戦いで島津氏に追い詰められ敗戦、大友宗麟も務志賀の本陣を引き払い豊後へ陸路で敗走したという史実が示していることは、その後の信徒たちの受難を予告しているかもしれません。

この物語はさらに続きます。浦上四番崩れの時代まで描かれていますが、右馬助の時代から数世代に及び、信仰を守り伝えた歴史の重みをあらためて感じました。

sawarabiblog at 19:24|PermalinkComments(0)

2018年01月12日

『わたしたちが孤児だったころ』を読んで

cf81f7a6.jpg真生会館の講座のひとつ、森司教との読書会に参加しました。今回の課題図書は、カズオ・イシグロ著『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫)、ノーベル文学賞作家となった同氏の作品を読むのは、初めての体験です。多作ではないと聞いていますが、そのことで丁寧な作品つくりとなって表れているようのではないでしょうか。全体として、手際よく構成がなされていると感じました。作品を通じて、記憶という人間の精神的な営みについて、問いかけられています。人の記憶は実は、正確に出来事を記録するというよりも、自分に都合よく再構成されていることも多々あるのではないかと思わされます。読みながら感じたことですが、極端な言い方になりますが、自分に都合よく解釈された記憶という可能性もあります。

この作品は、7章で構成され、それぞれに日付と場所が表示されています。例えばPART1は1930年7月24日ロンドンと記されています。この日時、場所がどんな意味があるのか、読み始めた当初は、わかりませんでした。しかも、文章が、「1923年の夏のことだった。」から始まっています。どうも、この記録は、時間をかけてつづられたものであり、記述した日が記されているのですが、それはその日だけでなく数日間の出来事に及んでいます。最初の章に書かれていた1923年はケンブリッジを卒業した年のことで、寄宿学校時代の古い友人のオズボーンに出会ったことがきっかけになって出来事を伝えようとしています。通読したあとで読み直してみたのですが、もしかしたらこの出会いは偶然ではなかったのかもしれないと、考えさせられます。しかし、あくまでも一人称で語られるこの箇所は、1930年7月24日時点における書き手である「名探偵クリストファー・バンクス」の認識を記すもののようです。時代が幾重にも入れ子状態になっていることが、この最初の章を読んでいるとわかってきます。オズボーンの出会いは、過去の記憶を呼び覚ますとともに、将来において重要な関係性が生じるサラとの出会いを演出します。サラとは、当初はぎくしゃくした関係が続きますが、両親の庇護を受けていなかった共通点があることは、二人の関係における縁と言えるのでしょう。

PART2は、1931年5月15日 ロンドンとあります。この作品と直接関係はしていませんが、日本と中国の歴史上、記憶にとどめたいのは1931年9月18日に柳条湖事件(関東軍による南満洲鉄道の線路爆破)が起きていることです。作品では、上海時代の思い出が綴られます。我が家の思い出と隣に住む日本人「アキラ」との交流です。主人公クリストファーの住む家は、父親の勤めるモーガンブルック&バイアット社の社宅でした。時折、会社によって衛生検査が行われていたのですが、検査に対して批判的だった母の行動を主人公は思い出しています。検査官は山東省出身の中国人従業員を監視しており、それに対して母は従業員たちを守り抜こうとしていました。山東省はアヘン汚染地域だというのが、検査官の言い分です。それに対し母は「こんなおぞましい冨の配分を受けていながら、どうして良心を安らかに保てるの?」と詰問したのです。実はモーガンブルック&バイアット社こそがアヘンの輸入で利益を上げている会社であり、そのことでは父は母から責められていたと記憶していました。両親のいさかい、母がとても美人であったこと、などが語られていますが、クリストファーの両親は、父そして母の順に失踪してしまいました。記述の中に、真実を示すヒントが含まれていますが、読んでのお楽しみです。とにかく、語りが上手なので読みごたえがあります。

PART3は1937年4月12日 ロンドン この日付に意味があるかはわかりませんが、歴史の事実として認識していることは、この年7月7日、日中戦争の導火線となったといわれる盧溝橋事件が勃発しています。バンクスには養女ジェニファーと暮らしていることがわかります。孤児となったジェニファーを引き取った経緯が語られています。ジェニファーは気丈な娘でした。カナダから船便で送られたトランクが紛失したというのに、あきらめが早いということをクリストファーは気にしています。しかしこの時、ずいぶんジェニファーを気遣ったクリストファーは、今、ジェニファーをロンドンに残して、上海に向かおうとしていました。両親を探すために。それは、クリストファー自身が望んでいるというより、背中を押されるように周囲から求められているように感じられていたからです。サラも上海に行くことを知ります。世界中に緊張が高まっているというのに、自分はロンドンでぐずぐずしていていいのだろうか。ついに、“大蛇を滅ぼすために”、上海に行くのだという使命感に燃えた瞬間がやってきたのでした。

PART4〜7については省略します。現実なのかクリストファーの幻想が含まれているか、不明な記述も続きますが、最終的に両親の失踪の謎は解き明かされます。以前、『また、桜の国で』の感想を書きましたが、ワルシャワ蜂起の渦中に飛び込んでいく主人公と違って、両親を探してほぼ無防備のまま戦闘地域を進むクリストファーが、帰還できたのは奇跡のようです。

森司教は、この作品からいくつかのポイントを読み解かれました。主人公クリストファーが友人から送られた拡大鏡を使って調査することが示しているのは、心の奥に隠されているものを明確に整理することで、心が解放されるということを意味しているようです。人は知らず知らず、自分自身ではつかみきれない過去を背負っているのですが、ありのままの自分が見えてくることで、他人と対等に向き合えるようになると理解できる。また、登場人物の一人であるサラについて言及されました。有名人を追いかけてはパートナーにするという生き方をしてきたわけですが、必ずしも満たされないで、次々に相手を変えていくことになっていきます。ついにはクリストファーが、救いを求められたのですが、結果としてサラに取り込まれないままに終わります。この作品は、誰しもが体験する生きづらさを、丁寧に描いていると評価されました。クリストファーの母親はアヘンに対する批判を社会運動=イデオロギーとして、行動していますが、このことで夫婦関係は壊れてしまっています。ところが、最後には、イデオロギーを貫き通すことではなく、クリストファーへの愛を優先したということが描かれています。森司教の作品解説をうかがって、イシグロ作品をさらに読んでみたくなりました。

sawarabiblog at 16:25|PermalinkComments(0)

2017年12月28日

日常生活のささやかな変化

77d99071.jpg昨年の同時期は、病院生活でした。今年は幸いなことに、12月は自宅で生活を続けています。大腸がん手術から1年、抗がん剤治療はひとまず10月で一段落しましたが、胆石治療は続いています。治療にあたっては、佐倉市に所在する聖隷佐倉市民病院にお願いすることにして、今月初めに内視鏡による総胆管結石の除去の治療を受けました。今回は4日間の入院生活でしたが、来年あらためて胆のうの外科的処置をお願いすることになりそうです。

実は、近隣でひとり暮らしを続けていた義母が、ある日、突然身体の不調を訴え動けなくなり、妻だけでは介助しきれない状態になりました。奇しくも私も患者となったばかりの聖隷佐倉市民病院に緊急入院したのが11月10日のことでした。

義母はそのまま入院生活を続けていたのですが、入院直後から相談していた介護付き有料老人ホームへの入居が運よく早めに決まり、12月中旬に引っ越しが完了しました。

義母の入院は、その飼い犬を我が家で引き取ることを余儀なくされました。7歳のペキニーズの牝犬です(写真)。義母の愛犬としては3代目にあたるのですが、2代目のペキニーズが老齢で亡くなったあと、ペットロス状態が続いていた義母を思いやり、妻と義弟、ならびに孫からの贈り物としたのがこの犬でした。ホームセンターのペットショップに、亡くなった愛犬と同じ真白なペキニーズが売れ残っているのに妻が目を付けていました。その犬が、私たち夫婦とも十分「顔なじみ」だったおかげで、あまり抵抗なく家族の一員となりました。これもご縁であり、恵みだと感謝しています。

朝夕の犬の散歩が日課になりました。ストーマ除去後の、体調回復がいまだ十分とは言えないのが現状ですが、毎日の暮らしに新たなリズムが出来ました。感謝すべきでしょう。
妻は、まだ抗がん剤治療を続けていますが、突然訪れた実母の介護にも直面しつつ頑張っています。その間、私の入院もありました。病気の妻に負担をかけすぎていることを、気にしつつも甘えているのです。病気と向き合いながらも、いつも前向きに日々を送ることができれば、とても幸せなことだと感じています。 

sawarabiblog at 16:50|PermalinkComments(0)

2017年11月29日

シューマンを「読む」

6f3fc476.jpg体調は相変わらず不安定ですが、外出をためらわないように努めることにしました。その矢先、近隣で一人住まいの義母が緊急入院することになり、可愛がっていた犬(ペキニーズ 7歳)を、我が家で引き取ることになりました。幸い、義母は快方に向かっていますので一安心ですが、いきなりペットと暮らすことになり、日常生活も変わりました。朝夕の散歩のおかげで、運動不足がいささか解消したかもしれません。

『シューマンの指』(奥泉光著、集英社、2003)、図書館で借りで、面白く読みました。
全編を通じて、シューマンのピアノ曲が流れています。音楽を読むという体験は、『蜜蜂と遠雷』にも言えることですが、不思議なときめきを味わうことができます。

物語は、里橋優という人物の手記としてつづられています。

里橋が初めて永嶺修人と出会ったのは、音大進学を目指していた高校生だった頃でした。30年前のことです。2歳年下の永嶺はピアニストの藤田玲子の息子であるとともに、小学4年生の時には新聞社が主催する権威あるコンクールで入賞するほどの才能に恵まれていました。永嶺との交流は「僕らのダヴィッド同盟」を立ち上げます。同盟には、もう一人、鹿内堅一郎が加わります。

里橋はピアニストを目指し、音楽大学に進学することができたものの、断念せざるを得なくなり医学部に入り直したのですが、その3年目のことでした。

事故で指を失い二度と演奏することができないはずの永峰修人が、シューマンの故郷ツヴィッカウでピアノ協奏曲を弾いたのを見たという、友人の鹿内堅一郎から便りをもらったのでした。それが1984年12月のこと。そして翌年には、音大時代の知人からもたらされたシカゴ交響楽団のコンサートを報じた新聞記事の切り抜きによって、シカゴ交響楽団のコンサートで永峰修人が演奏したことを知ったのです。演目はシューマンの《ダヴィッド同盟舞曲集Op6》でした。

永嶺の指が再生されて、ピアノを弾くことができたことを疑えないという、思わせぶりな出来事を記すところから、手記は始まっています。物語はミステリーであり、女子高校生が殺されるという事件が起こるのですが、謎ときにはシューマンの楽曲を理解することが求められていました。

「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃない。音楽を心に想うことで、僕たちは音楽を聴ける。音楽は想像のなかで一番くっきりと姿を現す。」という永嶺の持論も再三、語られます。演奏しなくても音楽は聞こえるという。

事件の夜、里橋は永嶺の演奏するピアノ曲を聴いています。それは、シューマンの《幻想曲ハ長調》Op.17でした。

この作品は、当初ソナタとして構想され、各楽章に標題が付されている予定でしたが、出版された際には、シュレーゲルの詩句だけがモットーとして冒頭に置かれています。

   色彩々の大地の夢の中で
   あらゆる音をつらぬいて
   ひとつの静かな調べが
   密かに耳を澄ます者に響いている
        (小説の中で引用されている詩句の訳文)

まさにこの音楽こそが、「色彩々の大地の夢」のなかから生まれた密やかな調べであり、シューマンは、自身の一番内奥に隠された秘密を、ここで明らかにして見せていると感じると、里橋の思いを伝えています。

シューマンの生涯に、少しふれておきます。手を痛めたことでピアニストになることは断念したものの、作曲家、そして音楽評論家への道を選びとります。ピアノの師であったヴィークの娘で、ピアニストとして有名だったクララと恋に落ちたことはよく知られています。結婚までには、父親の反対もあり険しい道のりでした。

若きブラームスがシューマン夫妻と出会い、シューマンはこの青年の才能を認めます。ブラームスの出現は、妻クララとの仲を疑う原因ともなります。こうした状況は、シューマンの精神にダメージを与えたと言われています。ライン川に投身自殺を図りますが、一命をとりとめたものの、精神病院で最後の時を迎えたのです。作品の陰影を象徴する生涯です。

この物語はシューマンの実人生と重ねるかのように登場人物たちの活動が、心象風景とともにが描かれています。

sawarabiblog at 19:33|PermalinkComments(0)