2016年11月14日

沖縄の基地に思う

40b0b359.jpg船橋学習センターガリラヤで、沖縄学習講座・パネルディスカッション「沖縄に触れて思うこと」が11月11日(土)に実施されました。思いのほか参加者が少なかったのは残念でしたが、沖縄体験学習の集いをふり返るには得がたい機会となりました。

旅の3日目は現代の沖縄を知る学習です。最初に向かったのは宜野湾市の嘉数高台公園です。ここは沖縄戦の激戦地で、1945年4月、この嘉数高台をめぐり16日間にわたる戦いの跡が刻まれている場所なのだそうです。同年、4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、読谷・嘉手納を制圧し、さらに部隊を南北に分けて進軍したのです。日本軍が反撃に転じたのが7日頃からだったようです。嘉数高台をめぐる攻防は本当に熾烈を極めたと聞いていますが、必ずしも米軍の一方的な攻勢だったわけではなかったことを知ることができます。

現在は公園として整備されており、公園内には世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があり、普天間基地を一望できるビューポイントになっています。公園内において日本軍が使用したトーチカ、陣地壕などを見ることができました。

さて、この沖縄戦こそが現状に引き継がれる原因であることも思い起こすべきでしょう。
バスの中からでしたが、沖縄国際大学に米軍機が墜落した現場を見ました。米軍のヘリコプターが落ちたのは、2004年8月13日のこと。事故直後、消火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・消防・行政・大学関係者が現場に立ち入ることが妨げられました。これは、日米地位協定に基づいた対応なのですが、あくまで日本国内の出来事なのにもかかわらず、米軍が優先されるのは、巧妙なからくりによって、「米軍は何も制約されない。日本国内で、ただ自由に行動できる」仕掛けになっているからです。(詳細は、前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』参照)

住民の日常生活を脅かし続ける普天間基地は、写真で見るようにオスプレイも配備されていて危険性はさらに増していることがわかります。普天間の所属機や同飛行場を使った米軍航空機による事故が、今なお絶えないこともガイドさんから教えていただきました。

普天間基地をのぞんだ後、佐真下ゲートから基地内をさらに近距離で見ることになりました。市街地の真ん中にある基地だからこそ危険と隣りあわせです。道路を横断するのに、この地では、「右見て、左見て、そして上を見て」と交通安全の確認が必要らしい。

普天間基地返還と引き換えに辺野古基地建設を日本の政府は約束しました。ところが、考えてみれば、おかしな話です。占領状態ではないのですから、基地を日本に返還すれば済むことです。植民地でもない日本領土から、外国軍隊は撤退することが当然と思うのが素直な国民感情ではないでしょうか。

辺野古の基地建設は、基地の永続化につながるだけでなく国民負担が膨大になることも予想されています。これは安全保障と米軍に依存する体制を選択したということの最大の弊害なのだと思います。「世界一危険な基地」と称されるほどの普天間基地の現況は、よくわかりますが、基地の負担を沖縄だけに押し付けて良いのか、そもそも基地の存在は必要なのか問いかける必要を感じます。

「県外移設」を具体的に問題提起したのは2009年民主党の鳩山政権でした。日米関係勢力、とりわけ日本の官僚の抵抗にあって鳩山首相の思いは実現せず、結果的に、沖縄県民の願いは打ち砕かれましたが、その願いは翁長知事誕生に引き継がれています。
実は「県外移設を阻んでいるのは「本土」の日本人であるという高橋哲哉氏の指摘にも耳を傾けたい。「本土」と沖縄とが引き裂かれている「日本」の本当の姿を映し出している構図なのではないか、と自省を迫るものです。(高橋哲哉『沖縄の米軍基地』集英社新書、2015)

旅のガイドをしてくださったYさんもしばしば言及されていましたが、1947年9月に発せられたという「天皇メッセージ」の重みもあらためて刻んでおきましょう。
「天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年ないしそれ以上の―という擬制に基づいてなされるべきだと考えている。」(同上書から「天皇メッセージ」の一部を引用しました。詳細は同書を参照してください。)

日曜日の訪問だったので工事も休日で、辺野古の海は静かでした。監視小屋のテントを訪問して説明していただきました。辺野古の浜を分断するキャンプシュワブの固定フェンスが設置されている場所も見てきました。鉄条網ならまだしも、固定フェンスは生態系を破壊してしまいました。ここには監視カメラが設置されていましたので、私たちは新たな危険グループとして認識されたかもしれません。
理不尽な思いをいだかされ続けた旅でした。沖縄の方々に寄り添う思いを新たにしました。

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2016年10月26日

糸数アブチラガマで思ったこと

5537e378.jpg10月7日から10日まで沖縄を訪ねました。習志野教会の信徒、とりわけ青年グループを中心とした団体旅行に参加させていただいたのです。平和学習が目的の旅ですが、現地で沖縄の現状をつぶさに拝見し、体験することがとても大切だと痛感しました。

沖縄は1972年に「本土復帰」するまでは、アメリカの施政権下に置かれていました。その遠因は、沖縄戦にあります。1945年、アジア太平洋戦争末期、沖縄に上陸したアメリカ軍は軍事力で日本軍を圧倒します。5月末には首里司令部が陥落し、日本軍は南部に撤退しますが、組織的戦力を失い6月23日には牛島司令官らが自決に追い込まれます。戦闘の終結を意味していないのですが、この6月23日は沖縄では条例で「慰霊の日」と定められています。その後もアメリカ軍による掃討戦が続いたのです。北部への避難ができなかった住民は、避難壕に逃れますが、集団自決の悲劇も知られています。

平和学習の最初の見学地「糸数アブチラガマ」は強烈な印象を与えてくれました。ガマを出た途端、「70数年生きてきて、これほどの体験は初めてです。」とおっしゃった方がおられました。それほど衝撃的だったわけです。

写真の案内板には次のように書かれています。

「このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていた。
地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者が置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。
このガマで亡くなられた方々の遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって蒐集され、「魂魄塔」に合祀された。」

ガマというのは、沖縄独特の石灰岩でできた自然洞窟を指します。アブは深い縦の洞穴、チラは崖を意味しているそうです。沖縄戦においてもともとは糸数集落の避難指定壕だったものが、後に日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、南風原陸軍病院の分室となったものです。さらに 軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属されてきます。

見学するには、ヘルメット、懐中電灯の携帯は必須で、足元に注意しながらゆっくり歩き始めした。入り口付近は天井が低く足元もでこぼこしていますので、慣れるまで注意深く歩きます。壕の中は整備されていますので、病室もあるし当時のトイレの場所も表示されています。しかし、病院ばかりでなく、生活空間出もあったわけでれほど不便な生活を強いられたことでしょう。

敵が入りにくいように、中世の城のように曲りくねった構造になっているということですが、内部施設を作るために、当時の壮年男性は兵隊にとられていたこともあり、高齢の男性や朝鮮軍夫と言われる人々が使役されたと知りました。

平和学習のガイドのYさんに解説していただきながら進みましたが、滑らないように足元を注意することばかり気をとられてあまり覚えていません。病人が寝かされていた場所で全員が集まりました。証言者のお一人、日比野勝廣さんの手記を読みました。

「仰向け寝ている背の下にムズムズしたものを感じ、それらが、やがて首筋、お尻の下にも感じられる。手さぐりでつまんだら、それは、大きな「うじ」で群をなしていた。どこからきたものか、あたりを見まわした時、ふと隣りの吉田君が、いつの間にか死んでいた。そして、すでに腐り始め、そこからはい出していることが分かる。死臭鼻をつき吐き気さえ感じていたが、まさか一番元気だったこの人が死んでいるとは意外だった。そういえば自分をなぐらなくなっていた。
悪臭と「うじ」に悩まされつつも白骨化していく友の傍らから離れるだけの体力もなく、「今にこの姿になるのか」と恐ろしい戦傑の時が続いた。それでも水を求める私は、手近なところに水のあることを思いついた。「小便を飲もう」私はいっしんに放尿に励んだ。しかし、この妙案も効き目はなかった。小便になるような水分は体の中には残っていない。ある日、向う側の上部にある空気穴から黄燐弾が投入され、大音響と共に跳ね飛ばされた。気を失ってしまった。気づくと棚の上から落ちていた。他の者も幾人か吹き飛んだらしい。しばらくしてから、正気に戻り、「ああまだ生きていたか」と辺りを見ると、ここは五メートルばかり下の水たまりの傍らであった。爆風で飛ばされた時、奇跡的に地下水の流れへ運良く行ったものとみえる。私の切望した水が得られたことに、喜びを感ずる暇も惜しく、一気に飲み続けた。痛みも忘れ、とにかく腹いっぱいになるまで飲み続けたことは、今でも覚えている。水腹であっても満腹感は、私に「生命力」を与えてくれたのか、眠りを誘い、起きてはまた、飲みして、少しずつ動くことができるようになった。」
(後日、公式ホームページに手記が掲載されていたので、引用しました。嘉数の激戦地で負傷した兵士の方でした。)

インパクトがあったのは、そのあと、すべての灯りを消すようにと、Yさんから指示があり一斉に懐中電灯を消すと、本当の暗闇を体験することになりました。沖縄戦の当時は、これほど真っ暗だったというわけではないそうですが、Yさんは、人間にとって希望とは何かを考えようと話し始めました。

ここにもし一週間いてくださいと言われて、皆さん耐えられますか?・・・実は期限付きならば人は耐えることができるのだそうです。戦争のように、いつ終わるかわからない状況は、希望を持ちえないので、精神に異常をきたすことにつながるという。

それでは、自分の手さえ見えない状況の中で何を希望とすればよいのでしょう。
私たち、キリスト者にとって、世の光・地の塩となる役割を与えられていると言われました。復活祭における一筋の光は、希望の光なのです。

同行された、神父様の声が響きました。「キリストの光、神に感謝」

得難い体験をして、出口に向かいます。出口付近には土砂が流れ込んだ跡が残されています。アメリカ軍が、流し込んだものだそうです。生き埋めにならず、救出された人びとを思いながら、上ります。私たちの暗闇体験は、1時間だけでしたが、無事に地上の光を浴びることができました。

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2016年10月03日

『ムーンナイト・ダイバー』を読んで

384f7982.jpg天童荒太さん『ムーンナイト・ダイバー』(文藝春秋、2016)を読みました。津浪被害だけでなく、放射能汚染によるダメージは私たちの想像力の限りを超えているとも思えます。この小説で、焦点があてられているのは、生存にわずかな望みを託す家族の思いと、失ったものへの果てしない追憶ではないでしょうか。次の一歩が踏み出せないものへの、本当の支援は行政事務の遂行では決して果たしえないことを教えてくれます。

物語には場所の特定はありませんが、津波に襲われたとともに、放射能汚染の影響で、5年目経過した今なお立入り禁止となっている海辺の町が舞台です。晴れ渡った日の夜更け、満月から2日目の立待月が、照らしています。主人公の瀬名舟作が小型トラックを走らせて向かうのは漁港、そして闇に紛れて、ボートを浮かべダイバーとして海中に潜るのです。小型ボートは父親の同窓生の文平が用意したもの、舟作が潜る海の底には、瓦礫やゴミが大量に沈んでいます。それは、津波以前の生活を彩っていた、それを失った人々にとってはかけがえのない品々の断片でした。実は、舟作たちはある遺族グループの依頼を請け負って、これらの品々を少しずつ回収していたのでした。

ストーリーは、思いがけない形で展開します。ある日のことでした。舟作が、遺品を探すダイバーであると推察した遺族グループの1人の女性から、「行方不明の夫の指輪を見つけないでほしい」と頼まれるのです。この女性が人生の岐路と向き合っていることがわかってくるのですが、舟作にとっても次のステップに踏み出すきっかけとなります。

肉親を失った者たちが、法を犯してまでも海に沈んだ思い出の品を回収するという設定は、やや無理があるかとも思いましたが、死を受け入れるためには、それだけ切実な思いがあることを作者は伝えたかったのだと感じました。主人公の舟作は津波で両親と兄を失っています。遺族グループからの依頼に応答したのは、共感の思いが重なるからにほかなりません。実は、津波当日たまたま体調が悪く兄に仕事を代わってもらったことから、舟作には兄が自分の代わりに死んだという「負い目」があるのでした。

「漁船内で作業をしていた両親と兄は、陸上で横倒しとなった漁船内で、塩が強く香る泥を全身にかぶった状態で発見された。被災後の、故郷の村を、舟作はよろめくように歩き、ときに四つん這いになって進んだ。」

呆然としてばかりはいられず、この時ばかりは、何かを求め続けるしかないのです。唐突な別れが不条理としか考えられない精神状態での行動です。そして、時間の経過とともに贖罪意識が新たな行動になったのでしょう。作中、主人公が「神」の不在を思う場面あるのですが、気にかかりました。舟作の娘が、「神様がいて、みんなのこと見てるでしょ」と無邪気に問いかけたとき、不愛想に「いない」と答えてしまう場面です。舟作は、神が不在だったのではないかと、真剣に問いかけているからでした。・・・もし神が見ているのなら、どうしてあんなひといことを放置したのか、と・・・・

この問いかけに反論するかのように、妻の満恵が、舟作がその日仕事を休んだことで、流されてしまった保育園も休んでいた娘のいのちも守れたことになったことを感謝している描写もあります。もしかして、神様は、いのちに対して不公平なのでしょうか。亡くなったお兄さんにも家族はあるのです。

『福音と世界』9月号に宮下規久朗さんが「祈りの力と聖書への疑念」と題するエッセイを書いておられます。聖書を信じ祈り続けても、娘さんがガンからの生還を果たせなかったことをふまえて、疑いを表明しています。先日、宮下先生と、短い時間でしたがお話しさせていただく機会がありましたが、問い続けておられることが伝わりました。まだ、答えを探しておられるのだと思います。もし信じていた神への信頼が揺らいでいることにもつながっているとしたら、2月のブログに書いた「『あなたにとって神とは?』に学ぶ」の結論とも、もう一度向き合う必要が出てきたように感じました。

神が手を差し伸べるのは、自然の脅威を見せつけることでもなく具体的な人々の営みを見守りながら、あわれみをさしのべることだと答えを出しました。人は、誰もが苦しみもがき生きている。その日々の生き様の中で、希望をつかみとるしかありませんが、出会いはとても大切な要因であり、『ムーンナイト・ダイバー』から、知ることができます。もっとも私たちには、このような劇的な出会いはありませんが、必ずしも無縁とは言えません。

作者の天童荒太さんへのインタビュー記事によると、執筆のためにダイビングも初めて体験したとありました。体験そのままではないでしょうが、次の箇所が印象に残りました。
「あえてヘッドライトを点けず、暗闇の中に自分を置く。沈んでいるのか浮かんでいるのか、瞬時にはわからない。自分で自分の空だが思うにまかせない浮遊感のみを感じる。見るという肉体的な行為も、いまは無意味だ。自分の湯簿さえ見えない闇のなかにいて、人間という限られた存在から解放されているのを意識する。意識としてのみ、自分はいま存在する。」

生と死の境界について、以前カトリック作家の高橋たか子さんのエッセイ『境に居て』を読んでいて、共感したことを思い出しました。

「人はみな、あの世とこの世の境にいるのに、それに気づかぬ大多数の人は、この世へこの世へと、欲望とともに出ていく。欲望が消えかかると、無理に掻き立てて。欲望いっぱいの状態、希望だとか、前向きだとか名付けて。そうではないのに。とはいっても、この私も、そのことに気づくのに、長い時間がかかった。」

こういう境地になることで、実は「希望」も見えてくるのではないかというのが、私の思いです。天童荒太さんの作品は、さまざまな刺激を私に与えてくれます。

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2016年09月19日

「大人のための心理童話」から得たもの

05be870d.jpg久しぶりに森司教との読書会に出席しました。

今回の課題図書は『大人のための心理童話―心の危機に処方する16の物語(上)(下)』(早川書房、1995)、その中の2つの物語を読みながら、参加者が次々に思いを述べました。

この本の中身ですが、アラン・B・チネンというユング派の心理学者が世界の童話からピックアップした物語を素材に、その童話から導きだされる中年男女の心の危機を分析しているものでした。読みやすい心理学の本という理解も可能です。
上巻の「まえがき」に「物語は人間の無意識を解明」と述べていますし、また「一人の大人として人生のさまざまな問題を乗り切ろうとするとき、中年童話は大いに役立ってくれるだろう」と、著者は童話が持つ力を評価しています。精神分析医ということですので、童話が患者の処方に役立つものであることも伝えているわけです。

読書会で取り上げられた物語は、上巻と嵬椶痢嵬魍笋竜嫖勝廚函同じく上巻番目の「死と心の旅」の2つでした。

まずぁ嵬魍笋竜嫖勝廚里話しです。夫婦げんかの絶えない中年夫婦が子牛の世話を見る、見ないでまた喧嘩になり、どちらか先に口を聞いた方が負けとなり、罰として働くことと決めます。すると妻が外出、留守番する夫のところに乞食、巡回床屋、老女、泥棒が次々に現われます。夫は、これは妻のはかりごとだと思い、口を聞かず何もしないでいます。すると彼らは食べ尽くし、髭を剃り、男の顔に化粧を施し、財産を奪って逃げてしまいます。戻ってきた妻は、夫を責め、そればかりか、泥棒たちを追いかけ、彼らを騙しながら財産を取り戻すというお話です。おのれの非を悔い改めたのでしょうか、それから夫は妻の仕事を率先して行うというハッピーエンドの結末です。

このおかしみのあるペルシャの物語について著者は、父権制の強力なイスラム文化から生まれたことに着目しつつ、世界中に男女の逆転の物語は多いとも言っています。それゆえ、男女の役割の逆転は中年には重要な問題だというわけです。世界の民俗例も引き合いに出して、同様なテーマに満ち溢れていることを伝えています。

この物語では、男女の逆転は屈辱を伴っています。夫は化粧され、すべての財産を失ってしまう存在になっています。男性にとって男女の逆転はトラウマになりかねない、と著者は書いています。実は、女らしさに対する拒絶は、さまざまな文化にまたがり、男性心理の奥底に存在するからだということです。

男性は「男性らしさ」、女性の「女性らしさ」とは何か、いわゆるジェンダー(=社会的、文化的に形成された男女の違い)について言及したくなりますが、物語の前提としては、男女の役割分担が、決まっていることが必要です。役割分担が固定している場合、男は外に出て仕事、女は家事に専念するということになるでしょう。
著者は、自身の執筆体験から、欠けている女性的要素を取り入れたということです。その女性的要素とは「情緒、感情、個人的反応、人間関係」と書かれています。このあたりは、著者の保守的見解ではないかと批判も可能かもしれませんが、この表現をとりあえず

心理学的分析として理解することにします。
さらに面白いことに、物語の主人公である妻の行動を評して、「妻は冒険心があり、独立心旺盛で、積極的だが、男になったわけではない。彼女はたんに彼女自身になったのだ」と解釈しているところが独特です。

男にとって、耳が痛くなる指摘もあります。「意識するしないにかかわらず、多くの夫族は卑劣にも、当初、中年での妻の成長を阻止しようとしているのである。」
夫のもとに帰るという物語の結論に、著者は積極的な評価を与えています。イスラム社会特有の父権主義の制約以上に、妻は「自発的に、意気揚々としてもどってゆく。」しかも、女性的要素を失うことないことは、子牛を連れて家を出て行ったことに明らかだとも言っています。財産を取り戻して帰宅した妻は、夫が生き方を変えたことにも気づきます。

中年童話では、不愉快な登場人物たちは改心する、言い換えれば自己改革する。中年は、自分の欠点を受け入れて、生き方を変えてしまうという。この転換ができない人は、きっと苦難の人生が続くことになるのでしょう。中年には柔軟性という美徳が与えられるらしい。青年時代には、「粘り強さ」が求められている。
最後に面白い指摘があります。中年童話には魔法が欠けているということ、魔法ではなく人間的英知で問題解決をしていくのだという。年を重ねるのも悪くはないかな、と少しばかり思わされます。

もう一つの物語は、─峪爐反瓦領后
億万長者の男は、「わたしはどうしても死にたくないんです。」と如来に頼みます。如来から渡された紙の鶴に乗って、男は不老不死の国に行きます。ところが、数年するとあきてしまい、故郷に帰りたくなった男は、またの鶴に乗って戻ろうとします、その途中で、嵐に襲われ、鶴は海におち、溺れそうになると「助けて!死にたくない!」と叫びます。そこへ如来が現われ、これは如来が見せてくれた夢であることを告げられ、「お前には忍耐強さも信念もない。不老不死と不滅の秘密は、おまえには授けられない。お前は自分の運命に満足しなさい。」と諭します。男は、もとにもどって安穏な生活を送るようになりますが、如来は億万長者に自分だけの不老不死を求める変わりに、子供たちを養い、隣人を助けよ、と諭されたのです。

ここでは人生にとって大きな問い、死について論じられます。不老不死を求めて実現すると、今度はその生活に飽き飽きしてしまうというのは、皮肉です。変わらない生活にうんざりして、死を願います。それでも、死が目前に迫ると思わず助けを乞うので、如来から大いに叱られてしまうのですが、知恵を授けられます。それは、いわば当たり前の処世訓です。

著者はこの物語の二つのテーマに言及します。その一つは「生殖性」です。自分自身の不老不死を求める代わりに、「子供たちを養い、隣人を助けよ」と告げます、物語が示唆しているのは、盗賊の存在だと解釈しています。人のものを盗むというのは自分の正当な所有物ではないものを所有することであり、それと同様に男は自己中心的であって、資格がないのにもかかわらず「不老不死」を得るようとしたのだということ、物語の説得性の由縁を教えてくれます。なかなか含蓄が深い。テーマを補強するものとして「折り鶴」の登場に言及しています。折り鶴は生殖性の象徴(鶴は生涯一夫一婦制と言われる)なので、物語に登場する必然性があるというのです。

「億万長者は自己中心的だから、まず生殖性を身につけなくてはならない」と著者は、述べていますが、物語の主人公には家族もあるのに、人生の楽しみをどこに見つけていたのでしょうか。死にたくない理由は妻子との幸せな暮らしを持続したいということではないようです。根っからの、風来坊の自己満足とでもいえるのでしょうか。

二つ目のテーマは実用主義であると著者は指摘します。如来の知恵の書こそが、実用主義を伝えていると指摘しています。「死ぬべき運命は、中年の男女を高邁な精神活動や世界を救うことに傾倒させるのではなく、世俗の秩序に立ち返らせる」と言うのです。これは、意味深い指摘です。生きている日常の大切さに気付かせられるということでしょう。例示したのは、エイズ患者のガイという人物です。彼は、過去のトラウマと向き合い、克服し人生を楽しむようになったというのです。「逆接的だが、死は生きることに対して実際的な知恵を与えてくれるのである。」
私の経験上では、そのような見事な死生観に出会ったことはありませんし、死につながる病を受け入れることは決してたやすいことではないように思っています。

余談になりますが、人が死ぬとどこに行くのか、という問いに答えはあるのでしょうか。神様のみもとへと、私などは素直に考えているカトリック信者であり、「死の恐怖」は信者になる以前より軽減していますが、誰も見たことのないですし、そのありかも不明な「天国」の存在については正直なところ、疑問もないわけではありません。答えの不明な死後のことよりも、今の暮らしをどれだけ充実させられるかの方に、関心があります。「天国」は死者との再会の場だと、漠然と考えています。

物語で、男性が主人公になっていることにも理由があると著者は指摘しています。女性は、出産等で、死の意識させられる機会が多いけれど、男性は戦争がない平和な時代には死すべき運命を否定することが可能なのだということです。「権力と栄光に慣れている男にとって死すべき運命は衝撃的だし屈辱なのである。」
死とともに夢の重要性がテーマになっているとのことです。著者は夢にまつわる二つの物語を紹介します。中国の『夢』は使用人を酷使する金持ちが、夢では自分が働かされる立場になることで、夢の意味を理解し現実世界の投機を控えめにし熟睡できるようになった。ユダヤの『王様の夢』は、残酷なお触れで国民を処刑した王が、囚人となって拷問される夢を見てこれまた悔い改める。

ここで、ユングとフロイトの夢理解の違いも伝えています。
「ユングはこの夢の機能を強調し、夢は意識下の思考の限界を補い、抑圧または否定されている問題を提起すると述べている。」
フロイトの研究対象は若者であり、彼らはつらい問題を否定したり避けたりするので、夢は抑圧を反映している。年長者になると、若いころ抑圧されていた問題が出現するという。従って、両者の夢理解の違いは対象者(若者と年長者)の違いであり、夢は中年になると抑圧から啓示になることを示しているという。
「夢を変化の使者として利用することで、中年童話は現実的なトーンを保っている。」

夢か現実か境目のしれない放浪の旅に出た中年はその経験を経て、より精神的な健康と幸福を得ることができるらしい。
読書会で取りあげられたこの2つの物語以外にも、含蓄深い解釈を読むことができます。

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2016年08月09日

長篠の戦いと落合左平次道次背旗

e1c41d0d.jpg5か月前のことになりますが、3月12日、明治大学博物館友の会主催の講演会『織田信長と長篠の戦い』を聴講しました。講師は、東大史料編纂所准教授の金子拓氏です。

長篠の戦いはよく知られていることですが、、天正3年(1575)5月21日、長篠城をめぐる信長・家康連合軍と武田勝頼軍との戦いを指すのですが、講師の金子先生は、なぜその戦いが起こったか、そしてその結果、何があったかを述べたいと、前置きされ史料を駆使してのお話でした。ポイントだけを記しておきます。

信長と武田信玄とはもともとは同盟関係にあったのですが、突然信玄の方から破棄されたことで、信長は大激怒し「信玄の所業、前代未聞」とののしっています。元亀4年=天正元年(1573)、信玄は亡くなり勝頼へと家督継承されます。長篠城は信玄の時代には、武田の手にあったのですが、家康に奪われてしまいます。天正2年、城を奪い返すため勝頼は遠江の高天神城を奪うなど攻撃をしてきます。ところが、なぜか信長の動静が不明、空白期間があってなかなか援軍を出していないのです。その理由として、これまで信長軍としては、兵糧や兵の招集遅れがあったのではないかと推測されていました。
次いで天正3年、武田軍による足助口攻撃の報を受けた際にも、信長は河内攻めをおこなっていて、すぐに援軍を出していません。やはり空白期間があるのです。
このように2年にわたって、信長が慎重な行動だったのは、実は勝頼をおそれていたのではないかと『甲陽軍鑑』が伝えています。信玄側の記録ですので、すべて正しいとは言えませんが、考えられないでもないようです。信長の基本方針は、まず自軍を敵方へ見えざるように配置し、出来る限り武田軍との全面対決や消耗戦は避けたい考えだったように見えます。
当日の戦いは、勝頼軍が「有海原」に進軍したのを好機とし、酒井忠次率いる徳川軍による蔦の巣山砦攻撃が挙行されています。長篠城を囲んでいた勝頼がここで動いたのは、信長の兵力を少なく見積もったか、臆していると考えたためではないかと、考えられます。いずれにせよ、長篠の戦いにおける信長・家康連合軍の勝利は、勝頼の判断ミスと信長の決断が重なった結果であったと言えるようです。

お話しの最後に、金子先生が、鳥居強右衛門の磔図の修復による新発見について語られたことに興味を持ちました。この日のお話は、長篠の戦の共同研究の成果を述べられたのですが、この共同研究の一環として東京大学史料編纂所が所蔵する「落合左平次道次背旗(おちあいさへいじみちつぐせばた)」の研究も行われたそうです。

かつて、歴博では2000年に開催された「天下統一と城」という企画展において、この背旗を頭が下で足が上になるという「逆磔図」説を有力であるとして、展示していました。それがとても印象深く記憶に残っていました。

「長篠の戦い」の直前、武田軍に包囲されていた長篠城から脱出し、信長・家康の援軍が来ることを確認した鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という武士が主役ですが、強右衛門は、来援を確認して長篠城に戻ろうとしたとき武田軍に捕らえられ、味方に援軍が来ることを伝えたため、磔にされたと伝えられています。落合佐平次という人物は、武田方か徳川方かは目下のところ不明の人物だそうですが、鳥居強右衛門の義に感じてこの旗を作ったと言われています。落合家は、のちに紀州徳川家に仕え、子孫もおられるということです。その落合家を調査したところ、2代目、3代目も同様の旗を作っていたことが分かったのだそうです。歴博の展示では、これらの史料も展示されていました。ご子孫の所蔵する旗を見ると、逆さ磔ではなかったようです。史実はどうあれ、磔図として作成されていたことは間違いないようです。旗には血痕も残っていて、実際に戦場に臨んだものだという生々しさを感じることができます。これまで掛け軸の形にされていたのですが、今回修理され裏面も見られるようになり、合わせて科学的な調査も行われたということです。

この「落合左平次道次背旗」は今日から、歴博で展示されていますので、さっそく見てきました。ギャラリートークが行われていて、調査についてお話を聴くこともできました。

「もの」からみる近世「戦国の兜と旗」(第3展示室)は9月19日(月・祝)まで開催。旗と共に、調査結果もパネルで展示されています。歴博所蔵の変わり兜の展示もあり、興味は尽きません。なお、背旗の実物の展示は8月21日(日)まで。その後は複製品の展示に切り替わるそうです。実物をご覧になりたい方はお早めに。(東京大学史料編纂所所蔵資料は、写真撮影ができませんので、パンフレットの一部を載せました。)

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2016年07月23日

『ミケランジェロ展 ルネサンス建築の至宝』に思う

df6da6e9.jpg現在、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の『ミケランジェロ展 ルネサンス建築の至宝』(8月28日まで)を見てきました。ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともに、彫刻、絵画、建築を手がけたルネサンス期イタリアに特有の「万能の天才」の一人と言われますが、主要な活動の舞台であったフィレンツェとローマには、彼の手がけた建築が、残されているそうです。先日のイタリア旅行中にも、ミケランジョロがかかわった建築を見る機会がありました。
さて、この展覧会の見どころのひとつは、フィレンツェのカーサ・ブオナローティ美術館の所蔵する作品を中心に、ミケランジェロ本人による真筆の素描および書簡が35点、展示されていることです。システィーナ礼拝堂の天井画のための素描とされる習作などを拝見していますと、地味な展示ですがミケランジェロの制作過程を知ることができる貴重なものであり、興味をそそられました。旅行中、システィーナ礼拝堂でミケランジェロの作品を目の前に豊かな時間を過ごしたことも思い出され、制作中のミケランジェロの苦闘を想像しました。本来は、彫刻家であったミケランジェロが絵画、そして建築と新たに学びながら超一流の仕事を成し遂げたことに驚嘆します。
写真は、ミケランジェロ展カタログ表紙にもなっているシスティーナ礼拝堂天井画《クマエの巫女》のための頭部習作です。そのほかに、有名なスケッチですが、友人あての手紙に添えられたシスティーナ礼拝堂天井画を描いてる自画像が描かれたものも展示されています。こんなに窮屈な姿勢で苦労して描いていると自作のソネットにつづられていて、苦労がしのばれますが、このような肉体的な損傷を受けたことは理解できるんものも、ほほえましくも感じてしまいます。ミケランジェロ展はその人物像を知るために、よい機会といえるでしょう。


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2016年07月22日

映画『シアター・プノンペン』

c321c148.jpg映画を見る機会は少ないのですが、御茶ノ水での用事が終わり、都合のいい上映時間だったこともあって久しぶりに岩波ホールに出向きました。上映されていたのは、カンボジア映画の『シアター・プノンペン』
物語の主人公は、女子大生ですが、授業をさぼって遊んでいる日々を送っています。荒んでいるのは、病気がちの母親や軍人の父親の干渉から逃げているためのようです。特に、父親が決めた将軍の息子との結婚話には、気が進まないか。ある日、ボーイフレンドからはぐれて、偶然辿り着いた映画館(シアター・プノンペン)で、自分の母親の若き姿を目にします。スクリーンに映し出されたのは、クメール王国を舞台にしたラブストーリー。
この映画は、クメール・ルージュがカンボジアを支配する前年1974年に製作されたものでしたが、内戦の混乱の中で、最終巻が紛失したためにエンディングを見ることができないのだという。・・・・
物語は、この女子学生が主役を受け継いで、映画を完成しようと試みるという展開になるのですが、実は驚きの真実が明かされることになります。
カンボジアの現代が描かれていて興味深いですが、娘の結婚相手を決めてしまうような父親の権威主義は一般的なのでしょうか。プノンペンは、現代にしてはかなり古びた建物が多いように感じましたが、戦禍の爪あととして残されているものなのでしょうか。
映画のロケ地として描かれた、蓮の花に満ち溢れた風景の美しさにいやされますが、残酷な過去の出来事によって、今なお人々が沈黙を強いられていたことを知らされます真実も突きつけられます。
多くの人命が犠牲にされ、多くの映画人も標的にされた時代があったということを、知らされました。


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2016年06月29日

イタリア旅行の思い出

83c6af6e.jpg6月3日(金)〜14日(火)の12日間、イタリア旅行に出かけました。船橋学習センター・ガリラヤでアンドレア神父の美術講座を学んでいるグループが中心の巡礼の旅です。主要な見学地は、ミラノ、ヴェネティア、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマです。記憶に残る体験のいくつかを記します。

(1) 旅の始まりは、ミラノ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に対面できたことに感動しました。損傷が著しく、かつレオナルドの原画に上塗りされたことで、修復前は改ざんともいえる状態だったそうです。部屋に入るために複数の扉を通ることで外気との接触を減らす工夫をしています。一回に入場する人数を限定し、15分間という時間制限もありました。幸運だったのは写真撮影が可能になっていましたので、この目で見た実物を載せておきます。もともと、サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会の食堂だったところ、修道士たちが席についてこの壁画のもとでパンと葡萄酒を味わっていた光景も想像します。とはいえ、それが壁画の保存とってはマイナス要因のひとつでもありました。イエスの足元が描かれていたかもしれない箇所は、ドアを作る為に破壊され残っていないのですから、受難を象徴するかのような存在といっていいのかも知れません。

(2)旅行中にはたくさんのミケランジェロ作品と出会っています。ダビデ像を制作して評判の高まったミケランジェロには多くの注文が寄せられました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、十二使徒像の制作依頼があったのですが、さまざまな事情から「マタイ」を作りかけたところで中断を余儀なくされました。フィレンツェのアカデミア美術館で、圧倒的な迫力のダビデ像を見ましたが、制作途中のミケランジェロ作品を見ることが出来るということは、幸運な体験のひとつと言えます。シエナ大聖堂(後述)のピッコローミニ祭壇に4人の聖人像がありました。これもミケランジェロの作品かと言われています。「ダビデ」と「マタイ」の間の時期と考えられているようです。(木下長宏『ミケランジェロ』中公新書、2013 を参照しました。

(3)シエナはカンポ広場で年2回行われる競馬パリオが有名です。貝殻様の美しい姿の広場を埋め尽くす観衆の興奮した息遣いが伝わります。ここから坂を上がると大聖堂が現れます。感動です。私たちはバスが到着して、最初は聖ドメニコ聖堂、そして聖カテリーナの至聖所を訪ねました。カテリーナは1347年生まれ、裕福な家庭の23番目の子供で、普通の生活をという両親の願いと異なり修道生活に生涯を捧げます。キリストと同じ33歳で帰天しました。食が細く、自分が吐き出したものを食べたという驚きのエピソードも伝わります。教会分裂時代、教皇にアビニョンからローマに戻るよう伝える使者になったそうです。ご聖痕も受けたとのこと、アシジのフランシスコに通じますね。晴れ渡りすがすがしい日和にも満足して、大聖堂を訪れたあと昼食になりました。ところが、昼食後は雨模様、バスが駐車している場所まで戻るまでには、かなりの土砂降り!思いがけない試練でした。そしてアッシジに向かいました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に着くと、アンドレア神父を歓迎するご家族が、待っておられました。教会の中には、ボルチウンクラという小さなチャペルがあり、聖フランシスコの教会改革の思いを今に伝えています。特別のご配慮をいただいて、アンドレア神父とともに巡礼の皆で祈りの時を過ごすことも出来ました。アッシジは、どこも見ても美しいところです。宿泊先の修道院も心地よく、感謝の思いがこみ上げてきました。

(4)バチカンを背にでは教皇司式のミサに与る幸運を得て、昼食後はローマ市内をアンドレア神父の案内で散策しました。サンタンジェロ城がその存在感を示してくれました。テヴェレ川右岸にある城塞で、正面にはサンタンジェロ橋があります。もともとは、映画『テルマエ・ロマエ』に登場していることでおなじみのハドリアヌス帝の霊廟でした。この霊廟建設にあたって、皇帝自らが関与したといわれています。「五賢帝」のひとりであるハドリアヌスは、先帝の軍事作戦を中止、戦後処理を行い、軍部反対勢力を粛清、辺境の防備を固めることを優先しながら、防衛戦争や内覧鎮圧には武力行使をためらわなかったというのですが、その後、皇帝の性格を一変させる出来事が起こります。地方巡幸の旅において、謎の美少年アンティノオスを伴っていたのですが、この少年はナイル遡航の途中に、溺死してしまいます。ハドリアヌスは「弱々しい女のように泣き崩れた」と伝わります。このエピソードは、『テルマエ・ロマエ』にも描かれていて印象的でした。ハドリアヌス帝はパンテオンを甦らせています。今回は内部に入る機会はありませんでしたが、広々としたのびやかな空間に満たされています。後年、ブルネレスキが訪れ、研究した成果がフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋の設計に刻まれていることも、興味深いエピソードのひとつです。(藤沢道郎『物語イタリアの歴史供拊羝新書、2004 を参照しました。)

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2016年06月18日

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』に寄せて

bc8aa0bc.jpg前回、感想を記した『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』には、第殉教と宣教師のかかわりについて、見逃すことのできない視点を提示してくれていて興味深く読みました。

徳川家康の禁教令は、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して布告された。教会の破壊と布教の禁止が命じられたのです。宣教師たちは長崎に集められ、そこからマカオやマニラに向かうことを命じられた。慶長19年9月)追放された人びとが出帆した。マニラへの船には高山右近も載っていました。
ところが、帰国せず宣教を続けた宣教師たちもいました。その一人、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父(フランシスコ会)は、長崎に潜伏するのではなく司牧のために江戸に向かいます。この神父の生きざまを著者は描いています。ソテロ神父が建てた浅草の頼病院に身をひそめながら司牧を続けていた神父ですが、遂に、1615年4月とらえられてしまいます。1615年8月、スペイン国王フェリペ3世の親書を携えたサン・ファン・バウティスタ号が浦賀に入ります。親書の受取は拒絶されますが、交易をあきらめきれない向井将監の取りなしがあり、サン・フランシスコ神父はこのスペイン船の帰国に便乗することになりました。1616年9月、船は出帆しました。ところが、大村で宣教活動を続け捕縛されたファン・デ・サンタ・マルタ神父(日本205福者殉教者のひとり)は、この船に乗ることもなく殉教しています。サン・フランシスコ神父の処世を批判しているようにも受け取れる書簡が残されています。

その批判を受け止めたかのように、サン・フランシスコ神父は再び日本の地を踏みます。マニラ経由で長崎に渡来し、江戸でも活動、1630年代前半までの消息が知られています。著者の星野さんは、「自分が助命されたことへの贖罪意識が、彼を生き延びさせたのではないだろうか。」と記します。

宣教師一人一人の思いに、心を寄せることは難しいことですが、フランシスコ会士とはこのような方々であり、今でも同じ心でしょうか。先日、アッシジを訪問したばかりですので共感を覚えます。

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2016年05月26日

読みかけの本ですが・・・

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2015)を読んでいます。著者の星野博美さんは、写真家でノンフィクション作家。「キリシタンの世紀」に思いをはせて、自らの体験を重ねながら殉教の地を訪ねます。

ミッション系の大学に進学するにあたり宗教欄に「キリスト教(求道中)」と書いたことを、宗教を利用したと告白するあたりの記述の好感が持てます。受洗者であるよりも、直にご自分の気持ちに向き合って歴史の跡をたどってくださっていることで、読み手としても肩の力を抜いて読んでいけます。キリスト教信仰についても、新鮮な驚きを随所に披露しているエピソードも面白い。たとえば、幼児洗礼をうけたクラスメートに出会い、「クリスチャンは世襲できるのか」と驚くのです。考えてみれば、キリスト教は特別な宗教という意識があったという思いを伝えていますが、それは日本人の平均的な意識なのでしょう。この本を勧めてくださったのは同じ教会に所属する信徒の方、その感動を共有できることにもなりました。まだ、読了していませんが、とりあえず感想を綴ります。

著者の関心には、楽器リュートへの憧憬から南蛮文化への興味が深まり、さらに一族の出身地である御宿・岩和田の歴史にも導かれて、キリスト教への関わりを探っていますが、あたかも同時代にタイムスリップしたかのような感覚を読み手である私たちにもたらしてくれます。若桑みどりさんの名著『クワトロ・ラガッツィ』に描かれた世界を、再認識させてくれるばかりはなく、若桑さんとは一味違ったキリシタン時代への感情移入の個人差の妙味を楽しむことにもなりました。著者はすでに、自らのルーツを訪ね歩いた『コンニャク屋漂流記』という作品を発表しておられることも知りました。この作品は、その延長線上にある作品ともいえるようです。

専門書では絶対に表現しない思いが綴られます。例えば、ポルトガル、スぺイン、オランダとの外交をめぐる交渉にあたる家康を評して、「彼はまるで、二股をかけて男を翻弄する小悪魔的な女のようだ。」と書いています。老獪な政治手腕を、こんな風に伝えるとは・・・

祖先の地岩和田での出来事、サンフランシスコ号の難破は1609年9月のこと。
「ロドリゴは幸運だった。漂着でなく、船が木端微塵に壊れる難破だったのも幸運だ。乗員全員が丸腰になったのはよかった。」
こんな感想を述べていおられますあまりにもみじめな姿だったので、日本人としては刈られに同情を禁じ得ない遭ほどの大変な遭難だったのでしょう。

ミッションスクールに通われたことで、キリスト教に対する好意的な思い入れがあるように感じます。著者は導かれるように「殉教」の現場に向かいます。原城の死者に思いをはせながら、私にとっても難問といえる「島原の乱」の犠牲者たちへの思いが素直に吐露されています。
「原城にはこうして仏式、神式、キリスト教式の教えが混在しているのだった。ここで命を落とした人々は、370年たってもいまだに引き裂かれている。・・・(中略)・・・四郎のみならず、ここに籠城した人々の振興は、超能力が求心力となったり、終末思想が強調されたりするなど、本来のキリスト教の教義からはかなり逸脱した精神世界に見える。神父不在の中で、いかに人々の心の中のキリスト教が変容していたかがわかる。」
そして、書き継いでいきます。
「原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。」

五野井隆史氏の『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館、2014)に以下の指摘がありますので参考までに引用します。

「「マルチリヨの心得」は1597年2月の26人の殉教事件直後に作成されたとされ、迫害弾圧が熾烈化していた1620、30年代にもキリシタンには重要な教えであり、信仰の支えとなっていた。島原において庄屋層が先頭に立って蜂起し、キリシタンたちも彼らに呼応して参加し原城に籠ることになった時に、彼らがマルチリヨの「勧め・心得」を顧慮しなかった」ことはなかった筈である。・・・(中略)・・・圧政と飢餓の厳しい現実が彼らに決断を迫ったのであり、このことが、積年にわたるキリシタン信仰弾圧へのわだかまりに火を点けることになったと考えられる。」

著者の星野さんは「原城を世界遺産に!」という幟に違和感というか、空虚感を表明しています。「殺された人たちが今なお、慰霊されていない」という実感、「弾圧された側の末裔がいない」という指摘は鋭く重いです。かつて、「お上」がキリシタンをなぶり殺しにしたことを、現代の公務員たちが世界にアピールする覚悟はあるか、と問いかけているのです。

「殉教」の定義について『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』(ドンボスコ社、2008)から引用したのち、「殉教は無抵抗、非暴力が必須条件であるため」、島原の乱の犠牲者が殉教者と認められないことに言及し、疑問を感じておられるようです。

それでも、この「ペトロ岐部と187殉教者」の列聖に関心をいだいた著者は、次のような思いも伝えてくれます。

「私個人はカトリック教会の教義にはついていけない部分がある。しかし、少なくともこの「あなたを忘れない」というすさまじいほどの執念には、目を見開かされる。・・・・・記憶するために、調査し、記録する。そして伝え続ける。それはそっくりそのまま、私たち日本人が最も不得意、あるいは意図的にやろうとしないことではないだろうか。」
思いがけない視点から、列福・列聖の大切な意味を教えいただきました。

『福音宣教』(オリエンス宗教研究所)5月号に著者の星野博美さんのインタビュー記事があり、次の発言などを興味深く読ませていただきました。

「聖人崇敬など、特にカトリックには温かみがあり、典礼を重んじる点など、日本人の心性に合っている部分があると思います。だから、遠藤周作氏の小説を読むと違和感を持つことがあります。遠藤氏が触れた当時の西洋キリスト教をもとに、自分の中にある東洋と西洋の葛藤をキリシタンの時代に投影してしまったのではないかという疑問を持っています。その西洋コンプレックスを軸にしてキリシタンの時代を見ると、」見間違えることがたくさんあると思う。これは世代差なのかも知れませんが、私たちの世代はもっとフラットに世界と向き合える気がします。」

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』は心に響く視座に満ちています。

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