2018年01月16日

帚木蓬生『守教』が伝える信仰の姿

791a43bb.jpg帚木蓬生さんの最新作といっても『守教』上下巻(新潮社2017年9月刊)を読みました。キリスト教の受容と迫害の歴史を生活者の視点で描いています。フィクションならではの、生き生きとした会話が楽しめます。人びとが新しい教えの到来に、耳目をそばだてていた様子が丹念に描かれているのですが、300年に及ぶ庄屋の家族は江戸時代の迫害の時期を潜伏キリシタンとして乗り越え、信仰を伝え抜いた歴史の重みを味わうことができました。

キリスト教伝来によって、生活者には生きる希望と目的が明らかになったという思いが伝わります。象徴する人物は、アルメイダ修道士です。実在の人物が次々に登場しますが、キリスト教はあえて「イエズス教」と名称を変えています。史実とはくいちがいもありますので、虚構の世界といっても、パレレルワールドとして読むと面白いかもしれません。福岡県三井郡大刀洗町にある今村天主堂が建設されている地が、主要な舞台になっていたことがわかりました。今村はキリシタン大名、大友宗麟の領地でした。この作品の中で「大殿」と呼称されていますが、その大殿の夢の実現の一端を担う人物として、一万田右馬助がまず登場します。

主要な登場人物のひとり、平田久米蔵は捨て子です。彼は、アルメイダ修道士が作り上げたミゼルコルディア(慈悲の家)で養育されました。その捨て子を養子として迎えたのは、大殿の家臣である右馬助でした。一万田家はもともと大殿の重臣でしたが、その一族が豊後の領主となった大殿に反逆した際にあって、唯一その誘いに乗らなかったのが右馬助でした。そのため、大殿の信頼は厚かったのです。

実際に、大友宗麟が領主になるにあたっても後継問題の内紛があり、大友宗麟は結果的に勝利できたので、キリスト教信仰に近づく死生観はその時から、芽生えていたのかもしれません。

さて、作品のストーリーに戻りますが、大殿の夢とは、九州一円をイエズス教(キリスト教)の王国とすること、戦乱の時代が終わり、領民が穏やかに暮らせることだというのです。大殿の命によって、右馬助は日田から西に十里の地、筑後領の高橋村の大庄屋として後半生を生きることになります。大殿はザビエル師から授かったという金色の刺繍が施された紺地の絹の布を右馬助に与えた。金色の刺繍は3つの文字であり中央に十字架が描かれているというのですが、イエズス会の紋章のIHSのことでしょうか。

博多の商人、コスメ興善がアルメイダを助け秋月に教会を立てた人物として登場します。アルメイダ修道士はもともと南蛮貿易で財を成した商人でした。コスメ興善から書簡で、アルメイダと筑前国古処山の城主である秋月種実への仲介を、原田善左衛門に依頼します。

秋月氏の始祖は、原田種雄という人で鎌倉将軍から筑前秋月荘を与えられたことを機に秋月氏を名乗ります。作中の原田善左衛門は、祖父の代に商人となったという設定です。善左衛門は秋月の忠臣、板井源四郎に種実への取り次ぎを依頼します。そして、アルメイダ修道士が種実の城中で説教をすることができたのです。「人間はデウスと言う神から創られ、神のように正しい振る舞いをしてこそ、その霊魂は生き続けるのだ」という教えを善左衛門も聞きました。この教えは、病弱なコスメ興善が、いつも笑顔を忘れず、死を恐れない態度の信仰心のよりどころではないかと善左衛門は思い至るのです。

大庄屋となった右馬助は、高橋組の村々にイエズスの王国を築こうと働きます。かつて、いくさで百姓から種もみを奪ったことを、悔いるのです。村々をまわる右馬助と平蔵の前に、アルメイダ修道士が現われます。ヴィヴァ・ローダ(生ける車輪)と称されるほどの、アルメイダの健脚ぶりを伝えていることは、興味をそそられます。大庄屋の一家全員が洗礼を受けることになります。右馬助はフランシスコ、妻の麻はカテリナ、久米蔵はトマスの洗礼名を授かると共に、ロザリオの祈りも教えられたのでした。

さらに数か月後、アルメイダは高橋村に再びやってきまときは、トレス神父に代わり新たに布教長となったカブラル神父、およびクラスト修道士を伴っていました。翌朝、ミサを立てるという。夕餉の際、神父は畳に座れないので、腰掛を用意した箸も使えず、自ら用意したスプーン、フォーク、ナイフを使って食事をした。作者はアルメイダの行動と対比しながら、記述していますので、この場面でカブラル神父の尊大さを表現したかったのでしょうか。ミサには多くの村人が、自作のロザリオを手に持ち集まった。神父は、自らの人生と行いをデウス・イエズスの教えに添うようにと説いた。20人を超える村人が洗礼を受けた。使徒信経、主の祈り、天使祝詞が唱えられます。ファチマの聖母の祈りも伝えられたということになっていますが、聖母の出現は今から100年前の出来事ですので、この記述は勇み足かもしれません。

さらに数年後、カブラル神父は、アルメイダ修道士、モンテ神父と共に高橋村を再訪します。モンテ神父から大殿の近況が知らされます。正室の奈多夫人の権勢が高まり、大殿との確執が明らかになっていた。『日本史』を書いたフロイスですが、奈多夫人を「イザベル」と呼んでいます。旧約聖書・列王記に登場するイスラエルの王アハブの王妃で預言者エリアを迫害した女性に、なぞらえているわけです。

モンテ神父がミサの司式をし、拙いながら日本語による説教をします。新たな受洗者が名乗り出てきたので、用意した竹筒の水に指を浸して神父が洗礼を授け、「コンタツ」をしましょうと呼びかけると、村人たちの大半が祈りの言葉を覚えていたのでした。なお、「コンタツ」については、「ロザリオを繰りながら祈るしぐさ」と書かれていますが、一般的には信心具であるロザリオのことをさしますが、この作品では祈りをも表現しているようです。

3人の聖職者を秋月に送った久米蔵は原田善左衛門に伴われ、博多まで出向くことになった。博多の教会はかつて焼き討ちされていまだ再建されていなかった。コスメ興善からはユリウス暦をいただくことができた。ところが、博多からの帰り道、カブラル神父について、アルメイダ修道士の不満を聞いた。カブラル神父は日本人が同宿から修道士になることに反対だという。

博多の教会が再建された天正3年(1575)にフィゲイレド神父が、さらに天正6年(1578)にはモウラ神父が高橋村を訪れます。そしてミサには500人近くの村人が集まり、大庄屋の屋敷はまるで教会のようだったと表現されています。信仰の実りのある時代が、生き生きと描かれているのです。

その後、日田からの親書でカブラル神父により大殿が受洗したことを知ります。しかし、大友氏はこの年、耳川の戦いで島津氏に追い詰められ敗戦、大友宗麟も務志賀の本陣を引き払い豊後へ陸路で敗走したという史実が示していることは、その後の信徒たちの受難を予告しているかもしれません。

この物語はさらに続きます。浦上四番崩れの時代まで描かれていますが、右馬助の時代から数世代に及び、信仰を守り伝えた歴史の重みをあらためて感じました。

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2018年01月12日

『わたしたちが孤児だったころ』を読んで

cf81f7a6.jpg真生会館の講座のひとつ、森司教との読書会に参加しました。今回の課題図書は、カズオ・イシグロ著『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫)、ノーベル文学賞作家となった同氏の作品を読むのは、初めての体験です。多作ではないと聞いていますが、そのことで丁寧な作品つくりとなって表れているようのではないでしょうか。全体として、手際よく構成がなされていると感じました。作品を通じて、記憶という人間の精神的な営みについて、問いかけられています。人の記憶は実は、正確に出来事を記録するというよりも、自分に都合よく再構成されていることも多々あるのではないかと思わされます。読みながら感じたことですが、極端な言い方になりますが、自分に都合よく解釈された記憶という可能性もあります。

この作品は、7章で構成され、それぞれに日付と場所が表示されています。例えばPART1は1930年7月24日ロンドンと記されています。この日時、場所がどんな意味があるのか、読み始めた当初は、わかりませんでした。しかも、文章が、「1923年の夏のことだった。」から始まっています。どうも、この記録は、時間をかけてつづられたものであり、記述した日が記されているのですが、それはその日だけでなく数日間の出来事に及んでいます。最初の章に書かれていた1923年はケンブリッジを卒業した年のことで、寄宿学校時代の古い友人のオズボーンに出会ったことがきっかけになって出来事を伝えようとしています。通読したあとで読み直してみたのですが、もしかしたらこの出会いは偶然ではなかったのかもしれないと、考えさせられます。しかし、あくまでも一人称で語られるこの箇所は、1930年7月24日時点における書き手である「名探偵クリストファー・バンクス」の認識を記すもののようです。時代が幾重にも入れ子状態になっていることが、この最初の章を読んでいるとわかってきます。オズボーンの出会いは、過去の記憶を呼び覚ますとともに、将来において重要な関係性が生じるサラとの出会いを演出します。サラとは、当初はぎくしゃくした関係が続きますが、両親の庇護を受けていなかった共通点があることは、二人の関係における縁と言えるのでしょう。

PART2は、1931年5月15日 ロンドンとあります。この作品と直接関係はしていませんが、日本と中国の歴史上、記憶にとどめたいのは1931年9月18日に柳条湖事件(関東軍による南満洲鉄道の線路爆破)が起きていることです。作品では、上海時代の思い出が綴られます。我が家の思い出と隣に住む日本人「アキラ」との交流です。主人公クリストファーの住む家は、父親の勤めるモーガンブルック&バイアット社の社宅でした。時折、会社によって衛生検査が行われていたのですが、検査に対して批判的だった母の行動を主人公は思い出しています。検査官は山東省出身の中国人従業員を監視しており、それに対して母は従業員たちを守り抜こうとしていました。山東省はアヘン汚染地域だというのが、検査官の言い分です。それに対し母は「こんなおぞましい冨の配分を受けていながら、どうして良心を安らかに保てるの?」と詰問したのです。実はモーガンブルック&バイアット社こそがアヘンの輸入で利益を上げている会社であり、そのことでは父は母から責められていたと記憶していました。両親のいさかい、母がとても美人であったこと、などが語られていますが、クリストファーの両親は、父そして母の順に失踪してしまいました。記述の中に、真実を示すヒントが含まれていますが、読んでのお楽しみです。とにかく、語りが上手なので読みごたえがあります。

PART3は1937年4月12日 ロンドン この日付に意味があるかはわかりませんが、歴史の事実として認識していることは、この年7月7日、日中戦争の導火線となったといわれる盧溝橋事件が勃発しています。バンクスには養女ジェニファーと暮らしていることがわかります。孤児となったジェニファーを引き取った経緯が語られています。ジェニファーは気丈な娘でした。カナダから船便で送られたトランクが紛失したというのに、あきらめが早いということをクリストファーは気にしています。しかしこの時、ずいぶんジェニファーを気遣ったクリストファーは、今、ジェニファーをロンドンに残して、上海に向かおうとしていました。両親を探すために。それは、クリストファー自身が望んでいるというより、背中を押されるように周囲から求められているように感じられていたからです。サラも上海に行くことを知ります。世界中に緊張が高まっているというのに、自分はロンドンでぐずぐずしていていいのだろうか。ついに、“大蛇を滅ぼすために”、上海に行くのだという使命感に燃えた瞬間がやってきたのでした。

PART4〜7については省略します。現実なのかクリストファーの幻想が含まれているか、不明な記述も続きますが、最終的に両親の失踪の謎は解き明かされます。以前、『また、桜の国で』の感想を書きましたが、ワルシャワ蜂起の渦中に飛び込んでいく主人公と違って、両親を探してほぼ無防備のまま戦闘地域を進むクリストファーが、帰還できたのは奇跡のようです。

森司教は、この作品からいくつかのポイントを読み解かれました。主人公クリストファーが友人から送られた拡大鏡が象徴しているのは、心の奥に隠されているものを明確に整理することで、心が解放されるということでしょう。人は知らず知らず、自分自身ではつかみきれない過去を背負っていますが、ありのままの自分が見えてくることで、他人と対等に向き合えるようになるということです。また、登場人物の一人であるサラは、有名人を追いかけてはパートナーにするという生き方をしてきたわけですが、必ずしも満たされないで、次々に相手を変えていくことになりました。ついにはクリストファーが、救いを求められたのですが、結果として取り込まれないままに終わります。この作品は、誰しもが体験する生きづらさを、丁寧に描いていると言えます。クリストファーの母親はアヘンに対する批判を社会運動=イデオロギーとして、行動していますが、このことで夫婦関係は壊れてしまっています。ところが、最後には、イデオロギーを貫き通すことではなく、クリストファーへの愛を優先したということが描かれています。森司教の作品解説をうかがって、イシグロ作品をさらに読んでみたくなりました。

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2017年12月28日

日常生活のささやかな変化

77d99071.jpg昨年の同時期は、病院生活でした。今年は幸いなことに、12月は自宅で生活を続けています。大腸がん手術から1年、抗がん剤治療はひとまず10月で一段落しましたが、胆石治療は続いています。治療にあたっては、佐倉市に所在する聖隷佐倉市民病院にお願いすることにして、今月初めに内視鏡による総胆管結石の除去の治療を受けました。今回は4日間の入院生活でしたが、来年あらためて胆のうの外科的処置をお願いすることになりそうです。

実は、近隣でひとり暮らしを続けていた義母が、ある日、突然身体の不調を訴え動けなくなり、妻だけでは介助しきれない状態になりました。奇しくも私も患者となったばかりの聖隷佐倉市民病院に緊急入院したのが11月10日のことでした。

義母はそのまま入院生活を続けていたのですが、入院直後から相談していた介護付き有料老人ホームへの入居が運よく早めに決まり、12月中旬に引っ越しが完了しました。

義母の入院は、その飼い犬を我が家で引き取ることを余儀なくされました。7歳のペキニーズの牝犬です(写真)。義母の愛犬としては3代目にあたるのですが、2代目のペキニーズが老齢で亡くなったあと、ペットロス状態が続いていた義母を思いやり、妻と義弟、ならびに孫からの贈り物としたのがこの犬でした。ホームセンターのペットショップに、亡くなった愛犬と同じ真白なペキニーズが売れ残っているのに妻が目を付けていました。その犬が、私たち夫婦とも十分「顔なじみ」だったおかげで、あまり抵抗なく家族の一員となりました。これもご縁であり、恵みだと感謝しています。

朝夕の犬の散歩が日課になりました。ストーマ除去後の、体調回復がいまだ十分とは言えないのが現状ですが、毎日の暮らしに新たなリズムが出来ました。感謝すべきでしょう。
妻は、まだ抗がん剤治療を続けていますが、突然訪れた実母の介護にも直面しつつ頑張っています。その間、私の入院もありました。病気の妻に負担をかけすぎていることを、気にしつつも甘えているのです。病気と向き合いながらも、いつも前向きに日々を送ることができれば、とても幸せなことだと感じています。 

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2017年11月29日

シューマンを「読む」

6f3fc476.jpg体調は相変わらず不安定ですが、外出をためらわないように努めることにしました。その矢先、近隣で一人住まいの義母が緊急入院することになり、可愛がっていた犬(ペキニーズ 7歳)を、我が家で引き取ることになりました。幸い、義母は快方に向かっていますので一安心ですが、いきなりペットと暮らすことになり、日常生活も変わりました。朝夕の散歩のおかげで、運動不足がいささか解消したかもしれません。

『シューマンの指』(奥泉光著、集英社、2003)、図書館で借りで、面白く読みました。
全編を通じて、シューマンのピアノ曲が流れています。音楽を読むという体験は、『蜜蜂と遠雷』にも言えることですが、不思議なときめきを味わうことができます。

物語は、里橋優という人物の手記としてつづられています。

里橋が初めて永嶺修人と出会ったのは、音大進学を目指していた高校生だった頃でした。30年前のことです。2歳年下の永嶺はピアニストの藤田玲子の息子であるとともに、小学4年生の時には新聞社が主催する権威あるコンクールで入賞するほどの才能に恵まれていました。永嶺との交流は「僕らのダヴィッド同盟」を立ち上げます。同盟には、もう一人、鹿内堅一郎が加わります。

里橋はピアニストを目指し、音楽大学に進学することができたものの、断念せざるを得なくなり医学部に入り直したのですが、その3年目のことでした。

事故で指を失い二度と演奏することができないはずの永峰修人が、シューマンの故郷ツヴィッカウでピアノ協奏曲を弾いたのを見たという、友人の鹿内堅一郎から便りをもらったのでした。それが1984年12月のこと。そして翌年には、音大時代の知人からもたらされたシカゴ交響楽団のコンサートを報じた新聞記事の切り抜きによって、シカゴ交響楽団のコンサートで永峰修人が演奏したことを知ったのです。演目はシューマンの《ダヴィッド同盟舞曲集Op6》でした。

永嶺の指が再生されて、ピアノを弾くことができたことを疑えないという、思わせぶりな出来事を記すところから、手記は始まっています。物語はミステリーであり、女子高校生が殺されるという事件が起こるのですが、謎ときにはシューマンの楽曲を理解することが求められていました。

「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃない。音楽を心に想うことで、僕たちは音楽を聴ける。音楽は想像のなかで一番くっきりと姿を現す。」という永嶺の持論も再三、語られます。演奏しなくても音楽は聞こえるという。

事件の夜、里橋は永嶺の演奏するピアノ曲を聴いています。それは、シューマンの《幻想曲ハ長調》Op.17でした。

この作品は、当初ソナタとして構想され、各楽章に標題が付されている予定でしたが、出版された際には、シュレーゲルの詩句だけがモットーとして冒頭に置かれています。

   色彩々の大地の夢の中で
   あらゆる音をつらぬいて
   ひとつの静かな調べが
   密かに耳を澄ます者に響いている
        (小説の中で引用されている詩句の訳文)

まさにこの音楽こそが、「色彩々の大地の夢」のなかから生まれた密やかな調べであり、シューマンは、自身の一番内奥に隠された秘密を、ここで明らかにして見せていると感じると、里橋の思いを伝えています。

シューマンの生涯に、少しふれておきます。手を痛めたことでピアニストになることは断念したものの、作曲家、そして音楽評論家への道を選びとります。ピアノの師であったヴィークの娘で、ピアニストとして有名だったクララと恋に落ちたことはよく知られています。結婚までには、父親の反対もあり険しい道のりでした。

若きブラームスがシューマン夫妻と出会い、シューマンはこの青年の才能を認めます。ブラームスの出現は、妻クララとの仲を疑う原因ともなります。こうした状況は、シューマンの精神にダメージを与えたと言われています。ライン川に投身自殺を図りますが、一命をとりとめたものの、精神病院で最後の時を迎えたのです。作品の陰影を象徴する生涯です。

この物語はシューマンの実人生と重ねるかのように登場人物たちの活動が、心象風景とともにが描かれています。

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2017年11月13日

堀田善衛『路上の人』が伝える中世ヨーロッパ

afaf7a95.jpg入院中にカタリ派を題材にした物語を読みましたが、同じカタリ派を題材にした小説があることに気づきました。30年以上前に堀田義衛さんが書かれた作品『路上の人』(新潮社、1985)です。今日では、読む人も少なくなっていると思いますが、堀田さんが、ピレニーに近いカタルーニャに住まいを移して執筆に取り組んだというほど思い入れのある作品です。滅びし者たちへの敬意を感じることができます。
 
主人公のヨナは北イタリアの高寒な山の中で生まれ、17歳くらいの頃に、生まれた村を出たらしい。彼が育った村の言葉は、どこへ行っても通じず、いつしかヨナは、自らの言葉を持たないと同時に、すべての言葉を持つものになっていました。相手に合わせて話すテクニックを身につけたのです。路上生活者であるヨナは、ヨーロッパ各地を往来する僧侶や騎士の従者となることで暮らしているのですが、少し足を引きずって歩いています。、障害者である振りをするために、左脚を折り曲げていた暮らしをしていた時の後遺症でした。
 

従者の生活は騎士とではなく、僧侶との方が自らの教養も固まり刺激的ではあったようです。しかし僧侶との日々は、時には処刑される危険を伴うものでもありました。なぜなのでしょうか。

ヨナが知ったかぶりの知識でうかつに、「不法なれど有効なり」と言ったり、わざと水を自分にかけて、「これは洗礼でなく、洗濯です」と笑わせるための冗談話をしたりすることは、当時の宗教論争に関わりがあり、異端者として疑われかねないものことだったのです。 話のしめくくりに「心のまずしいもののもたらす笑いは、人の心のしこりを解き、奢れる者の笑いは人を傷つけるのです。」と話したことがその筋にまで伝わり、危険視されるようになります。

ヨナは、懐かしく思い出しました。トレドで客死した一人の僧、フランシスコ会のセギリウスのことです。彼が属する会派が、祖師フランシスコの考えていたのとは違うものに変貌してしまっていることに怒っていたことを、ヨナは覚えていました。もし自分が死んだら、書き綴っていた羊皮紙をローマに届けてもらいたいと、セギリウスは話していたのですが、死んだあとで気づいたことには、小間物箱の底に隠してあったはずのその羊皮紙が消えてしまっていました。ヨナは、セギリウスが毒殺されたのではないかと思いながら、かつて一緒に訪ねたことのあるシトー会のミレトの僧院を再訪しようと思い立ちます。

ヨナは、その僧院に雇われることになりました。僧院の副院長から呼び出されたヨナは、従者であったときにセギリウスの秘密をどれだけ知り得たのかを調べられます。どうにか、話を切り上げることができたものの、ヨナに向けた「好奇の心は、ときとして罪を生む」との副院長の言葉は、ヨナの背筋が寒くさせます。

ヨナは、この僧院で堂々たる偉丈夫の騎士と出会い、従者になるように命じられます。その騎士とは、アントン・マリア・デ・コンコルディア伯爵といい、物語の展開につれて徐々に明らかになってきますが、アルビジョワ十字軍には批判的な人であり、カタリ派の人びととの間を仲介することを、自らの任としているようなのです。

さてその後のヨナの運命は・・・・

モンセギュールの戦いまで続く物語ですが、著者の堀田さんはキリスト教会の現状に対して、かなり辛辣なお考えの持ち主のようです。それは、騎士アントン・マリアの言葉としてしばしば表現されています。例えば、アッシジを評して、「托鉢と労働によって生きる筈のフランチェスコ会の本拠はまるでアラビアのバザールの如きことになっていた。」
であるとか、伯爵の思いが、カタリ派の人たちに語りかける言葉にも表れています。

「山を越えてアラゴンへ行け、迫害はあってもここほどではない。・・・アラゴン王の下でということが望ましくないとあれば、もっと南へ下って、イスラム教徒の支配するコルドバか、グラナダへ行け、もっと寛容である」と言ったのです。

異端審問が制度化されつつあったこの時代の、異端審問官の不寛容は、多少こっけいとも思えることまで行っています。聖別された墓地に埋葬するわけにはいかないという理由で、異端者の墓を掘り起し、遺体を火刑に処するという出来事もあったのです。

また、異端審問の時代への関心が高まってきました。学び続ける必要を感じます。

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2017年10月31日

須賀しのぶ『また、桜の国で』に学ぶ

494613b2.jpg須賀しのぶさんの『また、桜の国で』(祥伝社、2016)を読み終えました。ずっしりとした手ごたえを感じる力作で、生きることの意味を問い直させてくれました。観光旅行でしたが、2008年にポーランドに行きました。その旅でアウシュビッツを訪ねる機会もあって、大国の狭間で翻弄されたポーランドの歴史を顧みる必要を思い知らされましたが、この作品を読んで、あらためて重要な歴史的出来事を想起させられました。タイトルは、登場人物たちが、圧政とのたたかいの中で培った友情を確かめつつ、生きのびて日本での再会を願い、誓った言葉でした。
主人公の棚倉 慎(まこと)は、日本大使館の外務書記生ですが、当時の大使が実名で登場するので、緊迫した外交関係がリアルに思われます。主人公がなぜ、ここまでポーランドへの思い入れを持ち、生死をかけた行動に結びつけるのだろうか、それほどまで追い込まれたのだろうかという疑問がないではありませんが、ストーリーとして迫力満点です。ワルシャワ蜂起に至るポーランドでの日々は、とりわけ痛ましい歴史的事実を伝えてくれます。

1938年9月30日、ミュンヘン会談によって、ドイツ系住民が多数を占めていたズデーテンをチェコスロバキアからドイツ割譲を承認する報道があった日のことでした。日本大使館に着任するため棚倉がベルリンからワルシャワに向かう列車の中で、後に生涯の友となるヤンとの縁になった事件が起こります。ヤンは、列車内のコンパートメントで同室だった医師と酒の上でのいさかいから、自らがユダヤ人であると名乗ったことで騒ぎになります。SS隊員までが介入してくるのですが、乗り合わせた棚倉はドイツと防共協定を結ぶ日本の大使館員であることを伝え、その医師とSS隊員の怒りを鎮めます。棚倉はヤンを自分のコンパートメントに招き入れ、お互いの身の上話を語ることになるのです。この出だしは、偶然の出会いとしても、かなり都合のいいストーリー展開にも思えますが、見て見ぬふりが出来ないという、棚倉の性分を伝えるシーンです。

慎がポーランドにあこがれることになった理由がありました。それは少年時代のある出会いから生まれました。読者である私たちも、当時の歴史的な背景を知る必要に迫られます。かつて、日本ではいわばポーランドブームとなった出来事があったようです。

1920(大正9)年夏、慎は自宅の庭に潜んでいたポーランドの少年を見つけました。声をかけて、わかったことは、その少年がロシアからやってきて、日本の仏教系の孤児院に預けられていたポーランド孤児の一人だということです。当時のロシアは1917年の革命後の混乱で内戦状態にあり、シベリアにはロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や内戦の混乱を逃れてきた人たちが多数いて、とりわけ親と死別した子供たちはかなり悲惨な状況にありました。赤十字の求めに応じて、日本政府はその窮状に応え、子供たちを受け入れます。彼らをポーランドに帰国させるまでの有効な手段として、日本には多くの孤児たちが滞在していたのです。

慎と出会ったその少年の名は、カミル。孤児院から脱走してきたことがわかりました。カミルは、大きな秘密をかかえていました。孤児となった理由もその秘密に隠されていました。話を聞いた慎にも、心に秘めた思いがありました。父親がロシア人であることから、容貌が日本人離れしているために、親しいと思っていた友人からも違和感を持たれるという心の傷を持っていました。慎とカミルはお互いの境遇を理解し、秘密を分かち合うことになったのです。

この時期のポーランドですが、1918年の第一次世界大戦の実質的終結によって、独立を回復しました。そして翌年、ヴェルサイユ条約によりポーランド共和国が成立します。二人が出会った1920年から翌年にかけては、ロシア革命後の内戦状態に乗じたともいえるのですが、ポーランドはソビエト=ロシアとの戦争になっていました。

ポーランドの政治状況は、歴史的にも複雑なのですが、大国間の利害に振り回され分断と再生を繰り返していました。『また、桜の国で』の舞台となるのは、ロシア(当時はソ連)とドイツに分断された第2次大戦の時代ですが、独立を失っていた時代はそれ以前にもありました。1830年、パリの7月革命に影響された11月蜂起と称される民族蜂起が起こります。当時のポーランドはロシア皇帝を統治者とする王国で、一定の自治も認められていたのですが、デカブリストの乱以降、皇帝による反動政治が行われていました。そこでロシアによる支配に対抗して、士官候補生から成る秘密結社が決起したのが11月蜂起でした。(渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』2017、中公新書 参照)

この蜂起は翌年、ロシア軍に鎮圧され、以後は言語も含めロシア化を強制されることになります。しかし、ポーランドの人びとは、決して自らのアイデンティティを失わなかったのです。周辺国が圧倒的にロシア正教であるのに対して、カトリック国であることも、その証明になるだろうと、記されている箇所は興味深く読みました。ポーランドの人びとの頑迷さともいえる心根が、示されていますね。ちなみに、ショパンの「革命のエチュード」が出版されたのは、この時期だったようです。蜂起の挫折が投影されているとも言われています。

ポーランドを象徴するショパンですが、このエチュードにまつわる、棚倉家のエピソードが綴られる場面が描かれています。慎がポーランドに向かう前の、親子の対話ですが、慎の父親セルゲイは、この曲を聞くと責められる思いになるというのです。セルゲイは植物学者、渡航してきた日本で伴侶を得たのですが、革命によって祖国ロシアに戻れなくなっていました。白系ロシア人を救済する組織で働きながら、家族を優先して、その志を貫けなかったことを悔やんでいます。さらにセルゲイが負い目を感じるのは、ポーランドに対する、ロシア側のむごい仕打ちです。親子の対話は読み応えがありました。

物語は進行します。1938年、慎はワルシャワに赴任してきます。ポーランドはヒトラー・ドイツからの要求と対峙していました。作品にも描かれていますが、グダンスク(ダンツィヒ)のドイツ併合などをはねつけていましたが、こうしたドイツともソ連とも等距離を保つというポーランド外交は、危機に瀕していました。1939年8月31日夜、ポーランドは総動員令をかけますが、時すでに遅く、ついに第二次大戦が幕開けになります。9月1日未明、グダンスク(ダンツィヒ)を親善訪問中のドイツ巡洋艦がポーランド守備隊に発砲、宣戦布告はありません。9月3日、英仏両国がドイツに宣戦布告、しかし両国は静観していました。ポーランドも自らの身で守りぬくしかありません。作品の、英仏両軍に対する辛辣な表現が印象に残ります。

「頼もしきフランス軍は、一度はドイツとの国境を超えたものの、十キロと行かぬうちに砲火を浴び、一発も反撃せずに逃げ帰った。イギリス軍はベルリンの上空に侵入したが、彼らが落としたのは爆弾ではなく、侵攻をやめよと訴えるビラだった。彼らがポーランドと結んだ条約に従って行った軍事支援は、これで全てである。」
 
ワルシャワ蜂起に至るすさまじい戦いの歴史をたどることになります。ポーランドの歴史に深く思いを寄せるとともに、充実した読後感が味わえる作品です。

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2017年10月22日

帚木蓬生『聖灰の暗号』は興味深い

67351932.jpg退院して1週間過ぎましたが、まだ体調が安定しません。ストーマを閉鎖したあとは苦労するという経験談を、事前にお聞きしていましたが、確かに回復までには時間がかかりそうです。

ところで、入院していた「がん研有明病院」には、外来のロビーの随所に単行本や文庫けられていて、自由に読むことができます。ボランティア活動の一環とのことですが、診察までの待ち時間が長くなることも多く、しばしば利用させていただいていました。同様に、入院病棟にも多くの図書が常備されていて、自由に借り出すことができますし、ボランティアの方が清潔な状態を保つように心がけておられます。昨年、同じフロアに入院していた体験から7階病棟のデイルームの書庫についても、認識していました。その充実した内容から、術後の回復期の読書には、困ることはないだろうと思っていました。

退院の数日前から読みだしたのが、帚木蓬生『聖灰の暗号』(新潮社、2007)。上下2冊本ですが、退院時には上巻の途中まで読み進んでいました。歴史ミステリーであり、興味深く、せっかくの機会だったので最後まで読み通せたらと、思わされました。退院後にあらためて近隣の図書館で文庫本を借り受け読了しました。

ストーリーは、次のように始まります。作中にベネディクト16世が選出された瞬間も、描かれていますので時期は2005年4月前後の出来事のようです。

主人公は、歴史学者の須貝彰。須貝にとって重要な歴史家であるフェルナン・ブローデルの墓参のために訪れたパリのペール・ラシュール墓地で、精神科医の女医クリスチーヌ・サンドルと出会います。クリスチーヌは近代精神医学の祖、フィリップ・ピネルの墓に花を供えようとしていました。この墓地は、有名人が多く眠っていることで知られているようです。二人の出会いが、物語を膨らませてくれることになります。

須貝は、カトリックから見れば異端であるカタリ派の研究のため、南仏のトゥルーズから帰ってきたばかりでした。トゥルーズでは大きな収獲があったのです。5日間通いつめた市立図書館で、偶然にも発見したわずか2枚の羊皮紙には、カタリ派弾圧を見聞した驚くべき記述があったのです。その文書は、オキシタン語という土地の言葉で記されていたのですが、須貝に読むことができる言語であったことが幸いしました。まさに発見されるのを待っていたかのようでした。古文書の筆者は、ドミニコ会修道士 レイモン・マルティ、1316年という年号も添えられています。

歴史的な背景を考えると、物語に奥行きが与えられますので、よりいっそう興味深く読めました。須貝が研究のために通ったこのトゥルーズには、かつてカタリ派を擁護してきた伯爵の居城があったのです。主に13世紀の出来事になります。当時のトゥルーズ伯であるレモン6世の下で、カタリ派は穏やかな信仰共同体を形成していたようです。レモン6世ですが、自らはカタリ派を信仰していたわけではなかったようですが、領民たちを弾圧することを望まなかったことで、破門されています。

このころは、異端審問を制度化しつつあった時期でもあり、当時のカトリック教会は、異端を厳しく取り締まっていたのです。教皇インノケンティウス3世の時代、サラセン帝国や東方教会を対象に十字軍を差し向けていますが、同時にカタリ派とその擁護者に対してはアルビジョア十字軍を、派遣しています。

カタリ派は、現在は消滅しているため実態がわからないようですが、キリスト教の色彩を伴っていた集団であることは間違いないようです。カトリック教会から見れば異端とせざるを得ない教義を持っていたと見られす。神は天、霊、魂を造り、地、肉体、物質は悪しき神が造ったという二元論の考え方です。肉体(物質世界)という悪しき牢獄を脱して真の故郷である天に還ることが人間の救いだと説いたとされます。

小説は、カタリ派に対する主人公の須貝彰の哀惜の念が、つづられます。トゥルーズでの発見を発表する学会報告においても、その思いが反映されています。新発見の古文書は、ドミニコ会の修道士が秘かに記したカタリ派弾圧の見聞ですが、須貝の発表をきっかけに、古文書そのものを封印しようとして行動を起こす人々があらわれます。殺人事件にまで及ぶその行動の背後には、ヴァチカンの意図があるようです。

カタリ派の思想は、須貝の言葉として記されています。

「仏教でも釈迦の死そのものより、教えのほうが大切なのは論をまたない。釈迦は人の常として当然死ぬ。ところがその教えと言葉こそは、真実を見透す光として、永遠に生き続ける。一方ローマ教会は、キリストの死までも利用する。その証拠に、現代においてもカトリック教会には必ずキリストの磔刑像がある。カタリ派はそうした偶像を徹底的に排除していた。」

あるいは、神は人間の罪の生贄としてキリストを地上に遣わした、これが神の愛だという教えに批判的な須貝の考えとしても記されています。

「人はいくつもの罪を犯すのは確かだ。しかしそれを日々償っていくのは自分たちであり、生贄などは必要としない。日々の生活が償いなのだ。この信仰を実践するには、特殊な場所、つまり大きな教会など必要としない。暮らしの場がそのまま信仰の場だった。」

さらに、興味深く読みましたが、異端審問のやり取りが、発見された古文書の中に記されています。(もちろん、この作品が創造した古文書の一節です。念のため。)

審問官の大司教の問いに、カタリ派の聖職者は答えます。

祈りは、教会の中ではなく、洞窟、小屋の中、森の空き地でなされるべきで、なぜなら「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18-20)からであり、「わたしを愛する人は、私の言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14-23)と福音書を引用しつつ、大司教に向かって権威の象徴である衣や帽子、さらに教会や大聖堂に神は宿っていないと諭します。(なお福音書は、作品からではなく新共同訳からの引用に変えました。)

こうした神学論争で挑むのではなく、当時のカトリック教会は武力弾圧を選択したわけです。私自身、一人のカトリック信者として、異端審問という歴史的事実に向き合う必要をあらためて感じました。

ミステリーですので、ストーリーの詳細は省きますが、最後までハラハラしながら読み終えることができました。作品に堪能するとともに、歴史への興味をさらに引き出してくれました。

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2017年10月13日

3回目の入院生活を終えて

08fc780d.jpg昨年12月に直腸がん手術を受けてから10ヶ月になります。退院後に、ブログで報告しましたが、切除手術と同時に一時的な人工肛門(ストーマ)を造設していただきました。この間、不自由なく生活してまいりましたが、9月29日から今日(10月13日)まで、当初の予定通りストーマの閉鎖手術のための入院していました。手術は10月2日、昨年の切除手術と比べれば、身体への負担も少なく手術時間も2時間ほどだったようです。

私のような直腸がんの場合、かつては肛門の出口の動きをつかさどる肛門括約筋も取り除く手術が一般的だったようで、永久人工肛門になるケースが多かったということです。手術していただいた「がん研有明病院」では、手術前に抗がん剤による化学療法や放射線療法を行う術前治療と、腹腔鏡による手術を組み合わせて、肛門温存手術を行っていると広く紹介されていました。私の妻は、その情報を重視して、手術する病院の選択をしてくれたのでした。妻には大感謝です。

今年8月に胆管結石治療のための入院をしていましたので、今回で3回目の入院生活となりました。今回の手術直後、目覚めた瞬間に激痛を覚えたことを記憶しています。オーバーな言い方になりますが、いきなり刺されたらこのような激痛なのかと、思わされるような痛みでした。痛み止めの点滴が効いてきて、しばらくするとその激しい痛みも和らいてきて、平静を取り戻してきました。傍らに妻が寄り添ってもらっていることに安堵したことを思い出します。
 
手術の負担が少なかったとはいえ、入院期間が長くなりました。血液検査やCT検査で炎症が見つかったとの説明をしていただいたのですが、その際、一時的に食事が中断したこともあってスケジュール通りには、入院生活は進みません。私にとって、一番困難を覚えたことは、食事が始まった途端、下痢のような症状に悩まされたことです。私と同様に、ストーマ閉鎖手術を受けた方の体験記を事前に読んでいたこともあり、予測はしていたのですが、かなりつらい体験でした。このまま永久にこの状態が続くのではないかという恐怖心すら覚えました。医師の方々からは、どなたも体験することですとか、時間がかかりますがよくなりますよ、といった言葉もかけていただき、多少は安堵したものの、不安な日々でした。しかしながら、懸念したほどではなく、退院直前にはある程度、体調管理ができるようになりました。

3度の入院生活を体験しましたが、その都度感じたのは、日常的に接することの多い看護師の方々のことです。延べ数十人の看護師の方々と出会ったと思いますが、どなたが担当されたとしても、情報が共有されていて、てきぱきとよどみなく接してくださったこと、今回の場合は特に汚れ物の処理をお願いせざるを得ませんでしたが、淡々と片づけてくださったことはありがたかったです。採血の際などは、技量の違いを感じられることもありましたが、どの方が担当になられても安心感を与えてくれました。

昨年12月の入院時とは別の病棟だったため、昨年12月の入院時にお世話になった看護師さんが担当になることはありませんでしたが、同じフロアでしたので、ご挨拶させていただくこともできました。多くの皆様にお世話になりました。がん研有明病院の、すべての関係者に感謝いたします。これからもお世話になります。(写真は退院直後、最寄の国際展示場駅前です。今朝は、あいにくの雨模様でした。)

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2017年09月15日

大河ドラマ『直虎』の史跡めぐり

200c94a5.jpg9月12〜13日、浜松市を訪ねました。NHKの大河ドラマ『直虎』の影響は大きく、浜松駅前には、井伊直虎ゆかりの地と書かれた幟が立ち並んでいます。活気を感じます。1泊2日の旅でしたが、現地を訪ねたことで見聞を深めることができました。初日は天候が不安定な為、博物館めぐりを中心して、雨上りの夕刻、奥山家(井伊直政の母の出身)のゆかりの寺である方広寺を訪ねてきました。まさに深山幽谷と言える景観に圧倒されました。

すでに江戸東京博物館では開催が終了していますが、特別展『戦国!井伊直虎から直政へ』を見て、機会があれば地元に足を運びたいと念願していました。さらに、辰巳和弘先生の『聖なる水の祀りと古代王権』(同成社、2006)に導かれ、「天白磐座遺跡」を是非この目で見ておきたいと念願していました。

さて、ドラマでもおなじみの龍潭寺ですが、多くの観光客を受け入れるために整備されています。2日目は、天候も回復し、午前中の早い時間に訪ねたのですが、すでに多くのボランティアガイドの方々の姿が見受けられ、案内されている観光客もウキウキしている様子です。もとより私たちも堕威がドラマに刺激されて訪問した観光客のその一員というわけですが、小堀遠州作の龍潭寺庭園など見どころも多く楽しめました。

龍潭寺は井伊氏の菩提寺とされています。先祖の霊を祀る御霊屋には歴代当主の像が収められています。残念ながら、巡回されている特別展(現在は、静岡県立美術館で開催中)に出品されているため直盛、直親像はみることはできませんでしたが、先日拝見した江戸東京博物館(江戸博)の特別展では撮影コーナーに展示中でしたので、その際、撮影させていただいています。(写真は、江戸博に展示されていた直盛木像)

さて、龍潭寺から徒歩数分で辿り着きますが、田んぼの田の一角に井伊家の始祖共保が出生したと伝えられる井戸が残っています。龍潭寺の住職が江戸中期にまとめた『井伊家伝記』が、「この井戸から容姿端正な子が生まれ、井の水で産湯をつかり、のち共保となった」と伝えるところです。浜松市が保存する「引佐郡井伊谷村文間図」には、条里制地割などが残されていて、周囲と異なる地割が読み取れます。土塁と堀をめぐらせ主郭と副郭を持つ痕跡があり、郭内には「地蔵寺」という字名が見えるということです。この「地蔵時」は『井伊家伝記』が伝える自浄院が名を変えた寺で、龍潭寺の前身にあたるという。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで亡くなった井伊直盛は龍泰寺に葬られていますが、直盛の法号から龍潭寺と改められたと言われています。寺名は、このような変遷をたどっているらしい。

今回の旅の目的のひとつは、渭井神社本殿の裏山に現存する「天白磐座遺跡」を訪ねることでした。指示に従って、裏山を登ると眼前に、注連縄が張られた二つの巨岩があらわれます。巨岩の中間の足元には小さな祠が設あります。この空間に踏み入ると、さらに荘厳さが伝わってきます。
この遺跡の経緯は『聖なる水の祀りと古代王権』に、記されています。辰巳先生が学生たちと調査をした際、この巨岩の足元から、古代〜中世初頭ころの年代に比定される土師器や陶質土器を次々に発見することになりました。それは、国家的祭祀といえる沖ノ島祭祀遺跡とは規模が違うとはいえ、まさに彷彿させる発見ともいえるものでした。
やはり大河ドラマの影響で、遺跡の知名度も高まっているためでしょうか、私どもだけでなくいくつかのグループが次々に見学に訪れていました。

しばらく余韻に浸りながら、遺跡をあとにしました。なお、出土品の一部は、浜松地域遺産センターで展示されています。遺跡が大切に保存されることが望まれます。現地を探訪したことで、遺跡がより身近になりました。祭祀に託した人々の祈りに、自らの思いを重ねています。

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2017年08月24日

近況報告(二度目の入院生活)

c1ca2f16.jpg8月13日(日)から23日(水)まで、がん研有明病院に入院していました。

昨年、がん研有明病院で大腸がんの外科手術を行っていただきました。退院後、8クールに及ぶ抗がん剤治療終了にあたり、先日、MRI検査を受けました。再発がんは見つかりませんでしたが、胆石と胆管結石があることがわかりました。大腸がん手術に当たり、一時的にストーマを付けていただいておりましたが、抗がん剤治療終了に伴い閉鎖してもらうことになっていました。その手術の際に結石が胆管出口に降りてくるなどの原因で、さまざまな合併症が生じる危険がある懸念もあるらしく、閉鎖手術に先だって結石治療が必要との判断がなされました。今回の入院はその治療が目的です。

内視鏡を使った治療ですが、受診者はまず胃カメラを呑みます。その胃カメラが十二指腸の乳頭部(胆管の出口)まで挿入していきます。乳頭部が狭いため電気メスで切開して拡張した後に結石を除去する方法ということです。実施には、睡眠剤を使っていただいたので治療中の記憶は、ありません。14日午前中に始まった治療は、無事終了しました。目が覚めたのは午後1時ごろだったでしょうか。昨年12月の全身麻酔による手術と違って、大きな痛みもなく、自然な目覚めでした。見舞いに来た妻が、病室のベッドの脇に腰掛けていた姿が見えました。

異変はその夜に起きました。妻の見舞い中にも少し腹部の違和感を覚えてはいたのですが、内視鏡治療のため朝から食事をとっていないので空腹感に起因するものかな、といった思いでした。正確な時間は記録していないのですが、夕刻から強い痛みが生じてきました。看護師の方に訴えると、すぐに痛み止めの点滴処置をしていただき、痛みは治まってきました。ところが、しばらくするとパウチ(ストーマ装具)が異様にふくらんでいることに気づかされました。トイレで確認すると、黒い便・・・よく見ると赤いのです。紛れもなく出血していました。そのうち、吐き気も襲ってきます。最初は、少しの吐瀉物でしたが、二度目の嘔吐は真っ赤な血です。明らかの内視鏡治療の合併症、出欠はリスクがあると伝えられていた一つです。10時過ぎの緊急手術となりました。その手術は、無事成功して出血もおさまったようです。再度、目覚めたのは午前1時半ごろでした。一日に二度の内視鏡治療を受けたことで、炎症が生じたようで、とにかく喉の奥が腫れぼったいのが苦痛だったことを思い出します。

医師と看護師の方々が素早く対応していただいたことで、事なきを得ましたが、出血を抑えるために金属ステントを留置しているとのことから、容態が安定したころにもう一度内視鏡を使って、その金属ステントを除去することになるという説明をうかがいました。

一週間程度の予定で、入院したのですが期間が延長することになってしまいました。それは、予想外で予定していたイベントに参加できなくなることもあり、残念に思いました。
しかしその後は、腹痛もなく病院生活を過ごすことになりました。土日をゆっくり過ごし、20日(月)の午前中に内視鏡による除去処置も無事終了、特に痛みもなく22日(水)退院することができました。(写真は退院当日、10階の病室から見た東の空、久しぶりの好天)

Face Book等を通じて励ましていただいた皆様に感謝いたします。

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