2018年11月06日

『神に守られた島』が伝える戦争

IMG_5422 (870x1200)中脇初枝さんの新作『神に守られた島』(講談社、2018)を読みました。 「こういう戦争もあったということを知らせたくて、書きました」と、著者の中脇さんは述べています。おかげさまで、私たちが沖永良部島の歴史の一端を知る機会を与えていただきました。

島には守備隊の兵隊さんたちが駐屯して、住民を守っていました。主人公であり語り手のマチジョーのあちゃ(おとうさん)は徳之島の飛行場建設に徴用されていったっきり、まだ帰ってきません。マチジョーは、カミが通ったあとをたどって家まで行ったけれど、カミはいません。女の子は水汲みがすんだあとは、砂糖小屋に入るだろうと思って走って行きます。カミは水汲みが下手だから、ぽたぽたとこぼして歩くので、通ったあとがよくわかるのです。カミと話していると、マチジョーはなぜかじっとしていられなくなるのでした。

さて、シマ(集落)中では代掻きが始まりました。あちゃがまだ帰ってこないので、マチジョーはユニみー(兄さん)と二人で代掻きに出ます。カミも田んぼに出て、堆肥の蘇鉄の葉を撒いています。カミが転びそうなのでハラハラします。犂をつけた牛が歩きはじめたとき、山の上にグラマンが見えてきます。みんなが走り出したのですが、マチジョーは足をとられて動けません。幸いにも弾は当たらなかったが、カミはマチジョーをにらんでいました。

カミは「死んだらどうするの」と怒っていたのでした。カミのあちゃ(おとうさん)はブーゲンビルで、み―(兄さん)はフィリピンで戦死したからです。「ぼくは死なないよ」とマチジョーは言いますが、「カミのあちゃもみーも同じことを言った」と切り返されます。

田植えは草を背負って偽装して行いますが、男手も少ないうえに、飛行機が飛んでくるたびに隠れるので一向にはかどらなかったのですが、兵隊さんたちが来て手伝ってくれるのでした。

日常生活に戦争がじわじわと踏み込んできます。この作品の冒頭は、亡くなった日本兵の変わり果てた姿が海岸に流れ着いている場面でした。さらには、特攻機が集落内の芋畑に不時着するのです。幸いにも生き残った若い特攻隊員にカミのじゃーじゃ(おじいさん)が、志願した理由を尋ねる場面があります。息子と孫を戦場で死なせているので、死ななければならなかった理由を自らの胸にに刻みたかったからのようです。とりわけ孫はフィリピンで特攻隊に志願しての戦死でした。

答えは衝撃的です。フィリピンの場合はわからないが、自分の場合は決しては志願したわけではないけれど、選ばれてしまったというのです。意思の確認は建前で、実際には成績順で選ばれたことを正直に話してくれました。「死んで神になるはずだったのに」と隊員は頭をかかえます。カミは、「ここにいれば?」とさりげなく言うのです。神さまとたたえられた人は、決して神さまではなかったことを少年マチジョーは知ったのでした。

戦争の時代への抗議が、綴られています。味わい深い作品です。沖永良部島をふくむ奄美群島は、アメリカに帰属することになりますが、この作品の主人公たちは日本復帰を求める新たな「闘い」に加わることになるようです。続編が待ち遠しいです。

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2018年10月31日

島本理生『ファーストラブ』を読んで

a98bdc9a.jpg遅ればせながら島本理生さんの直木賞受賞作『ファーストラブ』(文藝春秋、2018)を、読みました。「なぜ娘は父親を殺さなければならなかったのか?」と帯にありますが、宣伝のためでしょうが、この作品を紹介するには適切ではないように思いました。確かに一人の人間が亡くなったことを題材にしていますが、読み終えてみると切なさが身に沁みます。

物語は、臨床心理士の真壁由紀がテレビ番組の収録のため深夜のスタジオにいた場面から始まります。番組の収録が終わり、帰宅のために司会の森屋敷と同乗したタクシーの中で、ある事件についての会話がなされました。アナウンサー志望の聖山環菜という女子大生が、面接の終わったあとに父親を刺殺したという事件です。実は由紀は出版社からこの事件を題材に、臨床心理士の立場からの執筆を依頼されていたのです。

夫の真壁我聞は結婚式場のカメラマンをしています。由紀が仕事を続けるために、報道写真家をやめて、主夫業を選択してくれた人でした。我聞には、弁護士の弟、庵野迦葉がいて、事件の当事者である環菜の国選弁護人を引き受けていました。兄弟と言っても苗字が違うのは、もともとは夫の母親の妹夫婦の子供で、その夫婦の離婚がきっかけで真壁家に預けられたという過去があります。さらに物語を読み進めると夫の我聞に出会う前に迦葉と由紀は大学で出会っていました。その事実を由紀は夫に伝えないままでいます。

さて、由紀は迦葉の勤める法律事務所を訪問してお互いの状況を確認します。環菜は逮捕されたあとに「動機はそちらで見つけてください」と言ったと伝わっています。由紀は、殺人の動機が判明しているかをあらためて迦葉に問い合わせるとともに、これからその解明に努めることになることを知ります。

拘置所の面会室で会った環菜は女子大生というより、大人びた少女と言う方が近い風貌でした。「正直に言えば、私、うそつきなんです。」と言った環菜に興味を持ちます。「正直」と「うそ」という対極にある単語を一文の中で使っていたからです。

「殺人犯」の由紀の動機の解明を進めるとともに、ときおり由紀の過去がフラッシュバックされて、物語にふくらみが出てきます。環菜の母親は、娘の弁護をするのではなく、検察側の証人として出廷することになります。そして、母親と娘が法廷で対立することになるような家庭環境がいかなるものだったのか、環奈の心が次第に開かれていくにつれ徐々に、謎が解明されていきます。少女に対する性的虐待があったことが見えてくるのですが、並行して、臨床心理士の由紀にも母親との折り合いがよくないことが、しばしば描かれているところに注目です。実は、由紀の父親が児童買春をしていたこと、それを母親から知らされたタイミングもあり、過干渉だった母親とは距離を置いている現実を読者に知らせてくれるています。

この作品で問いかけられているのは、親子関係です。誰しもがかかえている家族の関係における葛藤が、犯罪に結びつくか否かは、紙一重だということのように思えます。自己を傷つけることで、現実から逃れる方法を見出さなかった環菜ですが、その自傷行為がきっかけとなって、父親の死につながることが見えてきます。そうなる前に解決することが可能だったのか。臨床心理士の由紀のような存在と、違った形であったとしても出会えたならば悲劇は生じなかったかもしれないなどと、希望的な思いを伴いながら、考えさせられました。

橘ジュンさんの『最下層女子高生 無関心社会の罪』(小学館新書、2016)を読んでいますと、心の闇をかかえながら支える人間を見つけられず、自己肯定感も持てないままに堪えている少女たちの実態を知らされます。『ファーストラブ』は虚構の物語ですが、現実を見つめることが求められていると感じました。

作品の世界に戻れば、由紀が、事件についての執筆を思い立ったのも出会いの機会を増やしたいという切実な願いがあると書かれていますが、傷ついた少女たちの居場所を提供してくれる出会いの機会が多くなるに越したことはありません。

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2018年10月26日

奥泉光さんの新作『雪の階』の醍醐味

c0af78bb.jpg奥泉光さんの『雪の階』(中央公論新社、2018)は読みごたえたっぷりの力作です。やっと読み終えました。

物語はきらびやかな場面から始まります。時は昭和10年春、神宮外苑の松平侯爵邸のサロンコンサートが催されていました。演奏するピアニストはドイツ人のカルトシュタイン、バックハウスと並ぶドイツを代表するピアニストで、これから半年、日本に滞在し演奏や音楽学校で教鞭をとる予定になっているらしい。

演奏会が終わり、笹宮惟佐子は自宅のある麹町まで歩いて帰ろうと思います。当のピアニストから手紙をもらい食事の誘いを受けたことにも思いは及んだのですが、それより気がかりなのはコンサート出会う予定だった親友の宇田川寿子が姿を見せなかったことにありました。心配ないと思おうとしても、ピアニストからの誘いの手紙と連動しているようにも思え、不安が募るのでした。

父親の笹宮伯爵は貴族院で天皇機関説を攻撃した人物で、回顧録のために娘の惟佐子に口述筆記を手伝わせています。おかげで惟佐子には政治の裏面の一端を知ることになりますが、不可解の念も生じていました。父親はいったい何をしたいのか、密談すること自体に目的があるとしか思えなかったのです。惟佐子には父親の政治活動なるものが、せいぜい誰かのお先棒担ぎをしているくらいにしか見えませんでした。かなり辛辣な批評です。担いでいる一つの棒は陸軍、「暴発」をおそれていると言いながら実は自らの登場場面が、陸軍が主導権を握った際にはありそうだということなのでした。惟佐子には父親のそうした思惑が滑稽に思えてなりません。陸軍が政治革新をなせば、父親こそ真っ先に処断される対象になりかねないと思えるからです。

惟佐子は青年将校とキリスト教会で出会った体験がありました。寿子に誘われた礼拝のあとに、午餐をともにしたのが槇岡中尉と久慈中尉でした。槇岡中尉は軍服で聖書を手にし、賛美歌を歌う姿を惟佐子は目にとどめていました。実は惟佐子には兄がいて、彼らの五期上になる笹宮惟秀大尉ですが、陸軍内部の権力闘争が絡んでいるのか、青年将校たちはあまり話題にしたがらないようでした。

ところで、友人の寿子のことですが、自宅にも戻っていないことが判明します。そして数日後、「今日の」コンサートに行けなくなったことを詫びる葉書が届きます。コンサートは土曜日でしたが、4月8日、月曜日の消印のあるはがきであったことから。投函されたのが土曜日だったとしても、集配が月曜日だったためだったと推測されました。よほど急いで出したハガキだったようで、文字も乱れていました。消印の仙台中央の文字にも、気になるところです。寿子は制服の士官と寿子は駆け落ちをしたのではないか・・・・

その疑問への答えは、すぐに出たのでした。富士の樹海で寿子の死体が見つかったという報道が、翌日の夕刊に掲載されました。傍らには久慈中尉の死体もあったのです。

ここで俄然、ミステリーの色合いが濃くなってきます。惟佐子には寿子が心中という結論を出したことが信じられません。探偵の役を仰せつかったのは、惟佐子の祖父の縁があることから、かつて惟佐子の「おあいてさん」に選ばれていた牧村千代子です。今は「東洋映像研究所」のカメラマン、仕事で知り合った『都朝報』の記者、蔵原誠治に協力を頼み、この心中事件の真相解明に努めるのです。物語では、この二人の関係の進展も面白く、長い物語を飽きさせることなく読ませる仕掛けになっているように思います。

惟佐子が物語の中心人物ですが、友人の死にも意外に動揺は少ないようで、喜怒哀楽がわかりにくいところがやや不気味です。むしろ探偵役の千代子の内面、とりわけバディとなった蔵原に対しては、異性を意識しすぎる感があり、無表情の惟佐子とは対照的に描かれています。ところで、惟佐子には軍服の兄がいるのですが、黒子のような存在で実像がなかなか明らかになりませんが、新たな事件が起こるたびに影を落としてくるのは、なぜでしょうか。彼がいかにも二・二六事件に関わりを持つであろうことが予測されるのですが、その前夜のドラマが展開されるのです。ミステリーであるばかりでなく、時代背景が良く映し出させていて、興味は尽きません。

この時代が、過ぎ去った過去と言えるのかどうか、昨今の社会状況は、決して過去の日本と無縁ともいえないように思います。長編小説の醍醐味を味わいました。

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2018年10月11日

『踏絵を踏んだキリシタン』の問いかけ

177325cb.jpg國學院大學博物館で、特別展「キリシタン―日本とキリスト教の469年―」が開催されていますが、その関連企画でシンポジウム「島原・天草一揆とその後」があり聴講しました。(10月6日)

講師のお一人、安高啓明氏(熊本大学)の発表は「踏絵の変容と潜伏キリシタン」、今年『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館)を出版されています。テーマに惹きつけられましたが、さらに「キリシタン史=悲劇の歴史、という固定観念をゆさぶる、刺激的な本である。」と明治大学の加藤徹先生の書評をネットで読み、さらに興味が募りました。

シンポジウムでのお話は、現在教科書に記述されている「絵踏」と「踏絵」の定義についての異論というべき内容から始められました。この言葉を厳密に定義されたのは純心女子短期大学の片岡弥吉先生(故人)で、「踏絵」は対象物、「絵踏」は踏む行為を指すとしたのです。しかし、安高氏は江戸時代には厳密な使い分けがあったわけではないと、言われます。さらに、「踏絵」の呼称は地域的に違っているし、全国的に行われたわけではないと指摘されます。「踏絵」について漠然と感じていたことと、実態は違っているのだということを、先ず認識させられました。当初は、紙踏絵、それから板踏絵、そして真鍮踏絵の登場という過程を経ていることは、その意義を考えるうえで大事であることも知ることができました。もともとは、キリシタンが信仰具としていたものを禁教の道具として利用することで、いわばそれらを侮辱することができるかをもって、キリシタンか否かを判別するとともの棄教を促すきっかけとしたのです。

ご著書の『踏絵を踏んだキリシタン』も参照しながら基礎的な知識を確認しましょう。幕府による踏絵は寛永5年(1628)、長崎奉行水野守信によって始められたというのが有力な説で、キリシタン探索の手段として年中行事化されたのは寛文年間(1660年代)で、宗門改めに加えて、踏絵を実施するかどうかは各藩にまかされていたようです。

長崎奉行は当初板踏絵を10枚所持していたのですが、不足しがちなので寛文9年(1669)、当時の奉行河野通定が仏具師萩原祐左に真鍮製の踏絵を20枚製作させ、都合30枚の踏絵を所持して各藩に貸し出したということのようです。寛文11年(1671)頃に成立の『長崎諸事覚書』には板踏絵8枚、真鍮踏絵20枚保管とあり、従って、現存の板踏絵10枚のうち2枚は絵踏みではなく別の目的で作られた類似品であろうと安高氏は推定しています。

江戸幕府の、最初の禁教令は慶長17年(1612)で、家臣にもキリスト教信仰を禁じます。思い返せば、福者ヨハネ原主水はこの時に、追放の憂き目に遭っていたわけです。

島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置します。そして、寛永19年(1642)「切支丹宗門改」が大名たちに申し渡され、取締りが強化されます。前述のように、絵踏は特に求められてはいなかったのですが、むしろこの取締り強化以前に、絵踏を幕府に先行して行っていた藩がありました。たとえば、熊本藩ではすでに寛永11年(1634)に「影踏」を実施していたという記録があるとのことです。熊本藩主は、小倉から転封された細川忠利、その父は忠興、生母は玉(ガラシャ)です。寛永12年(1635)9月に長崎奉行に宛てた忠利書状には、かつて奉行から貰い受けた「御影」が破損したので、新たな「御影」を求めています。それほど厳しい姿勢で絵踏を実施していたのです。『寛永年中ゟ明暦年中迄 切支丹幷異国船記録』(永青文庫蔵)に寛永11年の影踏の実施を確認できると言われています。史料には、「ミゑいと申て天道の絵に畫たるをふませ」とあるそうです。

このように熊本藩では、他藩より率先して影踏を実施してキリシタンがいないという社会を実体化していったことがうかがわれます。それは、なぜだったのでしょうか。藩主の禁教意識に求められることでしょうが、キリシタン対策の徹底を感じさせられます。しかし、時代が進むにつれ形骸化も目立ってきます。病人への一定の配慮、献金や勤労出精といった藩への貢献が考慮され免除される例がありました。そして明治の藩政改革、身分制解体に伴い廃止されます。

ところで、長崎奉行所の旧蔵品の踏絵は、現在、東京国立博物館に所蔵されていて、これらが「本物の踏絵」と言えます。そのほかに偽造品があるわけですが、外国人の求めに応じたものや、明治39年帝室博物館で特別展で踏絵が公開され、それを契機にキリシタンブーが起こったことがきっかけで作られたようです。西南学院大学博物館学芸員の経歴をお持ちで、実物資料と数多く接して来られた安高氏ならではのご指摘でした。

遠藤周作さんが、『沈黙』を執筆をするきっかけとなった踏絵があることをエッセイで述べています。以前ブログに書きましたが、長崎の大浦天主堂の横の坂道を上った先にある「十六番館」で踏絵と対面した体験です。

2015年03月26日長崎巡礼で・・・
http://blog.livedoor.jp/sawarabiblog/archives/52216996.html

遠藤さんの文章を再掲します。
「十六番館はいかにも明治時代の木造西洋館という建物だった。そしてこのあたりにはむかしの神戸や横浜と同じようにペンキ塗りのそうした洋館や、少し黒ずんだ赤煉瓦の建物がいくつも残っているらしかった。考えていた通り、中はつまらなかった。それほど良くもない古家具や食器を大事そうに並べた間を、私は通りぬけ、あくびをしながら外に出ようとして、ふと、出口にちかい一室で、何か四角いものが硝子ケースに置かれているのが眼にとまった。踏絵である。ピエタ――つまり十字架からおろされた基督も体を膝に抱きかかえるようにした嘆きの聖母像を銅板にして、それを木のなかにはめこんだ踏絵である。しかしこの夕暮れの薄暗い館内でしばらく、じっと立っていたのは、踏絵自体のためではなく、そとを囲んでいる木に、黒い足指の痕らしいものがあったためであった。足指の痕はおそらく一人の男がつけたのではなく、それを踏んだ沢山の人の足が残したにちがいなかった。」(遠藤周作『日本紀行「埋もれた古城」と「切支丹の里」』(光文社知恵の森文庫)から引用しました。)

遠藤さんが見たこの踏絵は長崎奉行所旧蔵品ではなく、全国各地に出回った模造品、つまり偽物だったことを安高氏は指摘しています。しかし、長崎で見たことで例え模造品であったとしても感銘を与えるほどみの魅力を踏絵は持っていたと、安高氏はあらためて伝えてくださいました。

『沈黙』が描いたのとは、多少違った実態もあることを指摘され、冷静に史実を見つめることを知らされたとはいえ、「殉教」は紛れもない歴史的事実であったことも忘れるべきではありません。

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2018年09月26日

『世界の果てのこどもたち』の運命

8d2dfb46.jpgすばらしい作品に出会えました。中脇初枝さんの『世界の果てのこどもたち』(講談社、2015)を読みました。主人公は3人の女の子です。

昭和18年9月の終わり、満洲の吉林省樺甸県白林村大樺樹屯の温日本頭部落にやってきたのは珠子の一家、隣には八重子の一家が住むことになりました。八重子は国民学校に入ったところ、珠子は一つ年下です。。故郷は高知県の千畑村、貧しい村だったため一軒当たりの耕地面積を増やすためにも、奨励された満洲開拓分村に応じて、多くの家が満洲に送り込まれたのです。

朝鮮中部の開城近くの平花里で代々、耕してきた土地を朝鮮総督府に奪われた美子の父親は仕事を求めて満洲に渡っていました。美子は6歳になり学校に通うようになります。学校では日本語を習っています。ある日、父親が帰ってきて満洲に職を得たことを家族に告げ、美子の家族は着の身着のままで、満州に向かったのです。

何不自由なく、横浜の三春台の家で暮らしていた茉莉は国民学校の入学式にワンピースで行きました。もんぺをはいてくる新入生から目立った茉莉は「非国民」言われますが、母親は「胸を張っていなさい。」と伝えます。けれども、茉莉は学校が嫌いになります。ところが、茉莉には幸いなことに、戦争がはげしくなるにつれ、先生が招集されたり、上級生が勤労動員でいなくなったりで、学校はしばしば休みになっていました。

茉莉は父親に連れられて温日本頭部落にやってきます。ぱりっとした背広を着て鼻の下にひげを生やした男の人と一緒にやってきたのが、エナメルの靴を履いた女の子の茉莉でした。区長さんの知り合いの縁だったようです。珠子と美子は一緒にいたので、その時茉莉に出会います。茉莉の父親は運輸関係の仕事をしているが、娘に満洲開拓団の生活を見せてやりたいので連れてきたということだった。

茉莉が持っていた本には日本人の子供が、中国人や朝鮮人のこどもたちが、なかよく凧揚げをして遊んでいます。「五族協和」が表わされているのです。「五族」とは、満州事変前から満州に居住していた漢族、満州族、蒙古族、日本人、朝鮮族を指しているようです。これが、満州国の国家イデオロギーです。
 
美子は珠子に、「お寺に行ってみん?」と誘います。学校で遠足に行ったとき、一年生の美子と珠子は小さいので留守番だったのでちょっとした憧れでした。お寺は遠かったのですが、茉莉もついていきますた。お寺に着いたら、雨が降ってきたので建物の中に飛び込みます。屋根と壁だけのがらんとした建物で、3人は土の床に尻をついて並んで座って、持ってきたおむすびをみんなで食べたのですが、美子は疲れていたのか、一つを食べ残したまま眠ってしまいました。

スコールだと思った雨は降りやまず、戻ることをあきらめた3人の少女たちは、お寺の奥の板の間に上がり込んで、語り合うのでした。そのうちお腹がすいていることに気付きます。美子のおにぎりが一つ残っていました。「美子の母親は、わざとおこげができるように飯を炊いて、そのきつね色のおこげが外側になるように握り、食べやすく、痛みにくいようにしてくれていた。」ことが幸いでした。

美子はそれを三つに割って、一番大きいかたまりをまず茉莉に渡し、次に大きいのを珠子に渡します。そして、美子はつぶやくのでした。わたしの本当の名前は「キムミジャ」っていうのだと・・・

夜が明けるころ、部落総出で探しに向かった人たちに3人は迎えられました。この出来事は、大人になるまで少女たちの記憶にとどめられることになります。

物語は続きます。戦争が当たり前だった時代、この少女たちにはそれぞれに過酷な「運命」が待ち受けていますが、おにぎりが結ぶ縁が、希望のともしびとなるのです。

無謀な国策のおかげで翻弄された人々の苦難を、史実を踏まえて、伝えてくれます。この少女たちに再び出会いたくて、何度も読み返したくなる作品です。文庫には梯久美子さんの解説が付されていて、感動をよみがえらせてくれました。 

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2018年09月10日

中脇初枝さんの『わたしをみつけて』を読んで

60c2985d.jpg図書館で何気なく手に取った小説が、思いがけず心に響いたという体験がよくあります。中脇初枝さんの『わたしをみつけて』(ポプラ社、2013)もその一冊でした。

主人公の「わたし」が捨て子であることを伝えてくれますが、今は病院で看護師をしていて、患者さんの死に立ち会う場面から物語が始まります。

看護士さんという職業が気になったのは、2016年12月を始まりとして、その後何度かの入院体験をした私にとって、入院中にお世話になった看護師の方々への感謝の思いがあるからです。看護師さんたちは、どのような思いをいだいて、仕事を続けておられるのでしょう。病棟で、日々患者とのコミュニケーションを保ちつづけることのモチベーションをうかがってみたい思いはありました。夜勤でのかなり長時間勤務をされておられるようにも思えました。体力・気力を充実させなければならないお仕事だと思います。

物語の世界ですが、語り手の「わたし」の名前は「山本弥生」、弥生という名前が付けられたのは3月生まれだったからではなく、捨てられたのが3月だったからです。今日は準夜勤で、もう帰宅してもいい時間なのに、帰らないのは患者さんが亡くなったためでした。「看護師さんは泣かないのね。」父親を亡くしたばかりの娘さんは、おそらく医師や師長には言わない言葉を彼女に浴びせかけます。その言葉に耐えます。やり過ごせばいいことだと知っています。師長が、父親の介護のために退職することになっていました。みんな父親のことには一生懸命だけれど、弥生には父親がいたことがないのです。

夜が明けて帰宅途中、あるアパートの前で犬を散歩させているおじさんに出会います。「このアパートから、ときどきどなり声や鳴き声が聞こえるんだ」と声をかけてきます。虐待を心配して、何か知っていることはないかと尋ねたのです。弥生には心当たりがありません。

新しい師長が赴任します。この師長との出会いが、弥生の思いや仕事への向き合い方を変えていくきっかけになります。診断ミスが原因で、術後に患者さんが亡くなります。症例としては、この作品で描かれているものとは違いますが、かつて私の友人が手術後に亡くなったことを思い出しました。医療過誤によるものと思われましたが、病院は認めなかったとうかがったことがあります。

新任の師長さんは弥生に大切なことを教えてくれます。「私は知ってるの。患者の顔を見て、患者の話をきいて、患者の体をさわって、診察ができる。患者だけじゃない。その先生はね、リンパ腺とも話をするの。あらー、こんなところに出てきちゃったので、どうしたのかなーとか言って。」

この新しい師長さんだけでなく、アパートの前であったおじさんとが患者として出会った事が弥生に新しい人生の目標を示してくれます。孤児として施設で育った体験から、仮面をかぶって生きていた人生に、前向きな心が芽生えてくるのです。

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2018年09月04日

藤田嗣治が描いた戦争

fd4c6488.jpg藤田嗣治は、中南米の旅を終え日本に戻った後の1937年3月、秋田の資産家である平野政吉の依頼で大壁画「秋田の行事」を制作しています。さらに藤田は映画の制作にもチャレンジしています。今回の展覧会で資料としてその映像が公開されています。(「現代日本 子供篇」 Picturesqu Nippon Sons and Daughters of the Rising Sun )

秋田でも撮影が進められていたようですが、今に残されているのは松山市で撮影されたこの作品だけのようです。国策映画ですが、撮影されたシーンの一部に国辱的という非難があることから海外への提供が見送られたとのことです。散髪している場面、紙芝居を見ていたり、子供たちが遊んでいる映像が、淡々と描かれています。昭和初期の風俗が今に伝わり、映像としては興味をそそられます。

その後、藤田は海軍省嘱託画家として中国に派遣されます。そして帰国後に「南昌飛行場爆撃の図」など3点の油絵を制作しています。しかし、突如1939年4月にはフランスに向かいましたが、ドイツ軍がパリに迫った1940年にはパリを離れ、また日本の土を踏みます。戦争は否応なく日常生活を踏みにじりますが、藤田のこのあわただしいともいえる行動には、どのような意図が込められていたのでしょう。

日本に戻った藤田は、1942年あらためて南方戦線を取材し戦争画の制作をすることになるのです。いったん日本を離れたの行動が、戦争画を描く事への拒絶の意思を伴ったのか判然としませんが、再来日後はおかっぱ頭を坊主にして従軍画家としての記録画を制作します。

今回の展覧会では「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)が展示されていました。後者をみて、画面からはピカソの「ゲルニカ」と通底するような叫びのようなものを感じました。

この作品はアメリカ軍の圧倒的な軍事力により日本軍は壊滅状態になり、追いつめられた民間人が崖から身を投げている状況が描かれています。

そして、「ゲルニカ」はフランコ政権とたたかうスペイン民衆の怒りが込められた作品であることはあまりにも有名です。1937年の制作であり、時期としては藤田が「秋田の行事」を完成した直後に当たりますが、スペイン内戦中に小都市ゲルニカがドイツ軍に攻撃され多くの人々が犠牲になった出来事が制作のインパクトになっています。矢内みどりさんは『藤田嗣治とは誰か』(求龍堂 2015)で、「サイパン島同胞臣節を全うす」が「ゲルニカ」を意識していたのではないかと推測されています。なるほどと合点がいきました。

今回展示されてはいないのですが、「哈爾哈河畔之戦闘」という作品があります。ノモンハン事件を描いたもので日本兵がソ連の戦車に乗り込み、戦車の兵隊を突き刺しています。軍部が求めている構図ですが、実はもう一枚あって、藤田は日本兵の屍を描いていたとのことです。(田中穣『評伝 藤田嗣治』藝術新聞社、1988、司修『戦争と美術』岩波新書、1992を参照)そのもう一枚は現存したいないということですが、藤田のしたたかさとともに、芸術家としてのプライドも感じられるエピソードです。のちに日本の画壇からは「戦争責任」を問われた藤田ですが、芸術家としてのリアリズムを求めていたであろうことは、事実だったようです。

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2018年09月03日

「没後50年藤田嗣治展」開催中です

5e67413b.jpg先日(8月29日)、東京都美術館に出向き開催中の「没後50年藤田嗣治展」を鑑賞してきました。(10月8日まで)2006年に東京国立近代美術館で開催された展覧会でも感動を覚えましたが、あらためて藤田作品をこれだけ多く鑑賞できる機会が得られたことはとても喜ばしい。藤田はスランプなしに60年の画家生活を続けたと評されているのですが、波乱万丈の生涯をたくましく生き抜いた人だったように思えます。戦争画がもとで、日本に居づらくなったのでしょうか、またフランスでカトリックの洗礼を受けたことにはどのような思いが託されているのか、考えさせられます。

1930年代に、藤田は北米、中南米、そしてアジアへの旅をします。アトリエで制作するのを好んだ藤田が長期の旅に出るのは珍しいことでした。その旅で描かれた作品は、「乳白色」のイメージを自ら打ち破るかのように、濃厚な色彩が画面を飾ります。「モンパルナスの娼家」「町芸人」「カーナバルの夜」などが展示されていました。

行き先を中南米にした理由は、はっきりとは分からないようですが、当時はパリ市から税金の督促が届くほどの経済的破綻があり、それまで連れ添っていたユキとも別れたということで、パリを去る内的必然性も生じていたようです。藤田は、新しいパートナーであるマドレーヌ・ルクーとともに旅を続けました。マドレーヌは、パリの有名なミュージック・ホール「カジノ・ド・パリ」でダンサーをしていた女性でした。連れ添って僅か6年で死別することになりますが、藤田にとっては、重要な時期のパートナーだったわけです。そして旅の最後の目的地は、祖国・日本でした。1933年11月に藤田にとっては2度目の帰国となりました。ちなみに最初の帰国は1929年2月、この時は3番目の妻であるユキ夫人を伴っていました。

ペルーのインカ帝国遺跡やメキシコのアステカやマヤの遺跡を訪れていますが、帰国後、メキシコの思い出を表わしながらマドレーヌ像を描いています。(作品は「メキシコにおけるマドレーヌ」、展示されています。)


近藤史人さんは『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫)で、この時期を「藤田彷徨の時代」と呼び、もし画論が書かれるなら藤田の重要な転換点と位置付けられるだろうと指摘しています。

そのマドレーヌですが、単身で一時パリに帰るのですが、その間に藤田は銀座の料亭で働いていた堀内君代と親しくなっていたようです。パリでこれを知ったマドレーヌが急きょ日本に戻ります。ところが、1936年(昭和11年)6月、マドレーヌは高田馬場のアトリエで急死するのです。近藤史人さんは「コカイン中毒で急死」と記していますが、田中穣『評伝藤田嗣治』には、「その死はあまりにも突然で、謎めいていた。警視庁詰めの記者団から、死因を究明せよという抗議のまじった要望が当局に突き付けられた話も伝わる。」と記されています。当時はかなりスキャンダラスな見方をされていたようです。

1936年と言えば2・26事件の勃発した年でもあります。世界は戦争の時代に向かっていきます。この展覧会に出品されている「自画像」は和服姿の藤田が食後に寛ぐ姿ですが、高田馬場のメキシコ風のアトリエを出て、麹町に新築の家を建てている間の仮住まいだった四ツ谷の日本家屋の姿が見てとれます。この頃の暮らしぶりについて藤田はエッセイに綴っています。

「いい物は、いつまでも生命を保ち、新らしいということである。私には東京に存在する徳川時代の遺物も昭和時代の東京を構成する一つとして見なおすことができる。銀座を歩くことよりも、場末の裏町が私に新らしいものを見せてくれる。そういう意味で私のこの仮住居はどれほど楽しいかわからぬパッサージである。」 (「お岩様横丁」『腕一本 巴里の横顔』講談社文庫 2005 より引用)

ちなみに新築した麹町の家は、島崎藤村邸の隣だったということも興味をそそられる出来事です。

藤田は戦後日本を去ることになりますが、今、あらためて注目されているのは皮肉なことでもあります。多くの恋物語を含め、さまざまな人びととの出会いが、藤田作品にとってはさらに多くの注目を集める結果をもたらしています。作品それぞれに、歴史の息吹きも感じさせられ、興味は尽きません。

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2018年08月31日

犬との暮らしを喜び、楽しむ

e53b625f.jpg図書館で手に取った近藤史恵さんの『シャルロットの憂鬱』(光文社、2016)を面白く読みました。犬と暮らす生活を考える上で、大いに参考になるありがたい作品でした。

この小説の主人公夫妻のように、私ども夫婦にとっても、昨年10月からは、それまで二人だけだった生活に大きな変化があったわけです。ペキニーズのマリちゃんが、新たな家族として加わったからです。この作品に登場する犬は、我が家とは違って大型犬のジャーマンシェパードです。犬種の違いもありますが、それぞれの個性の違いもありますし、犬と人間の接し方の違う面は当然ありますが、犬と暮らす生活がもたらしてくれる喜びは全く同じだと感じました。

主役であるシャルロットは、体重が25キロを超える大型犬ですが、お座敷犬なのです。外見はこわそうですが、中身はおとなしく、気のいい女子です。とはいえもとは警察犬、防犯の役にも立つのです。飼い主になったのは、語り手である真澄と、夫の浩輔の夫妻、共働きで、まだ子どもはいないこともあり、寂しさを補うために飼育する機会を得たのでした。庭付きの家で暮らしているので、庭で遊ばせることも出来るので、大型犬にはよい環境のようです。近隣との接点もあることから物語の展開が広がっています。

シャルロットは、飼い主のことが大好きで、家にいるときはずっと飼い主にそばにいて、キッチンで料理をしているときはソファに寝そべって、じっと真澄を見ているのです。そんな様子は、我が家のペットも同様です。出かけて半日ほど留守にすると、帰宅時には大歓迎してくれます。それは、たまらなくいとおしくなる瞬間です。自らの日常生活を重なることを確認しながら、ミステリーを楽しみました。

ところで、シャルロットですが、警察犬としてのしつけができていたはずですが、お役御免になってからは、多少ずるをすることも覚えたらしい。今までやってきたことを忘れたり、あるいは忘れたふりをするというのです。たとえば、飼い主以外から食べ物をもらわないというルールは簡単に破られました。その出来事も、一つの事件のきっかけになっていますが、ここではシャルロットをこの家の住人にするように取り次いでくれた叔父さんの言葉の着目しました。

「賢い犬は、こっそり飼い主をしつけてしまうんだよ」とは、シャルロットをこの家の住人にするように取り次いでくれた叔父さんの言葉です。人間の方が、しつけより愛想を振りまくことで、自分に有利な方向に飼い主を誘導するらしい。我が家も、しつけより愛くるしい顔に負けてしまうことしばしばです。

次のような、描写ものも納得させられます。

「「お散歩に行こうか」と言うと、しっぽを振り、口が開いて笑っているような顔になる。犬を飼うまでは、犬というものがこんなに表情豊かだなんて知らなかった。全身で表現する分、人間よりわかりやすいかもしれない。」

読みながら、自然に笑みがこぼれてしまいます。

なかなか物語の紹介に進みませんでした。この街で暮らす人々との交流を通じて、そして、シャルロットがちょっと関わりながら、いくつかの事件が起こります。ジャンルとしては、コージーミステリーと言うそうです。最初の「事件」は、表題にもなっている「シャルロットの憂鬱」と題された短編ですが、留守宅に忍び込んだ泥棒をめぐる事件です。帰宅して、不審者の侵入に気づいた主人公は、何よりもシャルロットの無事を確かめます。しかし、優秀な警察犬であったはずのシャルロットはそのとき、吠えもせずただ身を隠していたことがわかりました。その理由は、・・・・

それぞれの事件の背後にはそれぞれの家族がかかえた秘密がありました。切ない事情もありますが、ホッとする解決が待っています。シャルロットがもたらしてくれる癒しのおかげかもしれません。

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2018年08月09日

『炎の来歴』から読み取る戦後日本の「平和」

e1efd7a2.jpg小手鞠るいさんの『炎の来歴』(新潮社、2018)を読み終えて、人が生きることの重みを突きつけられます。戦後日本の歩みを振り返ることで、私たちに語りかけてくれる大いなるものを感じます。

物語は終始一人がたりでつづられます。それは戦争が終わって5年も過ぎたころの出来事から始まったのです。語り手の北川は、早稲田大学受験のため岡山から上京したどり着いた上板橋の下宿屋で暮らし始めました。働きながら合格を目指す北川にとっては、同じ下宿に住む早稲田大学生になっている先輩が日常的に女性を連れ込むことを鬱陶しくも、羨ましく思っていました。嫉妬はいつしか憎悪に変わっていました。

受験にも失敗し、工場勤めの日々を送っていたある日、家主が選り分け間違いをして、先輩宛のエアメールを北側に届けます。そのエアメールの差出人が女性であろうと気づくや、中身を見たいという誘惑に彼は打ち勝てませんでした。

「僕を酔わせたのは、手紙から立ちのぼってくる清新な香りだった。・・・・それは新世界の匂いであり、ドボルザークの匂いであり、自由と民主主義の匂いだった。」

かつて敵国だったアメリカに対して、その頃は「自由の女神」そのものと思えていたことも手伝って、この手紙の書き手であるレナータ・ヴァイスという女性を聖なる存在と認識するようになります。先輩の手紙を盗み見るだけだった行動はエスカレートして、一切知らせずに返信を認めます。こうして14年に及ぶ文通が始まりました。

その先輩は女性関係のもつれが引き金になったのか、あるとき下宿を出ていき方不明になってしまいます。そのおかげで、手紙のことは知られずに済んだのですが、この下宿からは追い出されてしまいます。レナータ・ヴァイス女史からの返信が数冊の書籍と共に職場に届けられました。彼女は平和主義者であり、反戦運動家であることがわかります。

彼女はハンブルグ生まれのユダヤ系ドイツ人で、ナチスの迫害を逃れて最終的にアメリカに移住、夫とは若くして死別し、現在は娘と二人暮らししているという。その逃亡生活の過程で、フランスとスペインの国境近くの村に隠れていたときにクエーカー教徒と出会い、改宗するとともにアメリカに渡ることになったのでした。彼女は、兵役を拒否し、非暴力を貫く平和主義こそ自らの思想として生きていることを表明していました。

「アメリカは朝鮮戦争に加担し、朝鮮民族を分断するという悲劇を生みだしました。そして今はヴェトナムで、ヴェトナム人同士が殺し合っています。この戦争を激化させたのはアメリカであり、アメリカの連邦議会と大統領なのです。」

文通を続ける二人は出会うこともなく、語り手の北川は恋心と言える感情をいだきます。相手のレナータにもかなり親しい感情が生まれているも感じられます。手紙にはいつも「平和」が強調して書かれていました。強調された「平和」が意味することが何だったのかを、のちに北川は知ることになります。

物語の後半にはかなり劇的な展開が待っています。戦争を直接体験するのと等しい出来事でした。悲しく、切ない物語になりました。そして北川自身も、あえて紛争地に赴くのでした。そして、そこで見たものは、さらに衝撃的な場面だったのです。

「彼女は消えない炎のような人だった。」と北川は表現していますが、思想を極限までの行動に貫いた人とでした。

あとがきでふれられていることでわかりましたが、この作品にはモデルとなる人物が存在しています。平和活動家のアリス・ハーズさんです。私自身、この作品が描いている時代を生きたものとして、そして何よりもベトナム戦争に対する日本の責任を痛感したものとして、作中人物に共感を覚えます。そして何よりも同じ心を共有しようと努める北川とレナータ、日本とアメリカを結ぶ熱情を堪能することができました。

これは恋愛小説と言ってもよい物語なのですが、平和運動の極致をも描いていて感動します。

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