2018年09月26日

『世界の果てのこどもたち』の運命

8d2dfb46.jpgすばらしい作品に出会えました。中脇初枝さんの『世界の果てのこどもたち』(講談社、2015)を読みました。主人公は3人の女の子です。

昭和18年9月の終わり、満洲の吉林省樺甸県白林村大樺樹屯の温日本頭部落にやってきたのは珠子の一家、隣には八重子の一家が住むことになりました。八重子は国民学校に入ったところ、珠子は一つ年下です。。故郷は高知県の千畑村、貧しい村だったため一軒当たりの耕地面積を増やすためにも、奨励された満洲開拓分村に応じて、多くの家が満洲に送り込まれたのです。

朝鮮中部の開城近くの平花里で代々、耕してきた土地を朝鮮総督府に奪われた美子の父親は仕事を求めて満洲に渡っていました。美子は6歳になり学校に通うようになります。学校では日本語を習っています。ある日、父親が帰ってきて満洲に職を得たことを家族に告げ、美子の家族は着の身着のままで、満州に向かったのです。

何不自由なく、横浜の三春台の家で暮らしていた茉莉は国民学校の入学式にワンピースで行きました。もんぺをはいてくる新入生から目立った茉莉は「非国民」言われますが、母親は「胸を張っていなさい。」と伝えます。けれども、茉莉は学校が嫌いになります。ところが、茉莉には幸いなことに、戦争がはげしくなるにつれ、先生が招集されたり、上級生が勤労動員でいなくなったりで、学校はしばしば休みになっていました。

茉莉は父親に連れられて温日本頭部落にやってきます。ぱりっとした背広を着て鼻の下にひげを生やした男の人と一緒にやってきたのが、エナメルの靴を履いた女の子の茉莉でした。区長さんの知り合いの縁だったようです。珠子と美子は一緒にいたので、その時茉莉に出会います。茉莉の父親は運輸関係の仕事をしているが、娘に満洲開拓団の生活を見せてやりたいので連れてきたということだった。

茉莉が持っていた本には日本人の子供が、中国人や朝鮮人のこどもたちが、なかよく凧揚げをして遊んでいます。「五族協和」が表わされているのです。「五族」とは、満州事変前から満州に居住していた漢族、満州族、蒙古族、日本人、朝鮮族を指しているようです。これが、満州国の国家イデオロギーです。
 
美子は珠子に、「お寺に行ってみん?」と誘います。学校で遠足に行ったとき、一年生の美子と珠子は小さいので留守番だったのでちょっとした憧れでした。お寺は遠かったのですが、茉莉もついていきますた。お寺に着いたら、雨が降ってきたので建物の中に飛び込みます。屋根と壁だけのがらんとした建物で、三人は土の床に尻をついて並んで座って、持ってきたおむすびをみんなで食べたのですが、美子は疲れていたのか、一つを食べ残したまま眠ってしまいました。

スコールだと思った雨は降りやまず、3人は戻れなくなってしまいます。お寺の奥の板の間に上がり込んで、3人は語り合うのでした。そのうちお腹がすいていることに気付きます。美子のおにぎりが一つ残っていました。「美子の母親は、わざとおこげができるように飯を炊いて、そのきつね色のおこげが外側になるように握り、食べやすく、痛みにくいようにしてくれていた。」ことが幸いでした。

美子はそれを三つに割って、一番大きいかたまりをまず茉莉に渡し、次に大きいのを珠子に渡します。美子はつぶやきます。わたしの本当の名前は「キムミジャ」っていうのだと・・・

夜が明けるころ、部落総出で探しに向かった人たちに3人は迎えられました。この出来事は、大人になるまで少女たちの記憶にとどめられることになります。

物語は続きます。戦争が当たり前だった時代、3人の少女にはそれぞれに過酷な「運命」が待ち受けていますが、おにぎりが結ぶ縁が、希望のともしびとなるのです。

無謀な国策のおかげで翻弄された人々の苦難を、史実を踏まえて、伝えてくれます。この少女たちに再び出会いたくて、何度も読み返したくなる作品です。文庫には梯久美子さんの解説が付されていて、感動をよみがえらせてくれました。

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2018年09月10日

中脇初枝さんの『わたしをみつけて』を読んで

60c2985d.jpg図書館で何気なく手に取った小説が、思いがけず心に響いたという体験がよくあります。中脇初枝さんの『わたしをみつけて』(ポプラ社、2013)もその一冊でした。

主人公の「わたし」が捨て子であることを伝えてくれますが、今は病院で看護師をしていて、患者さんの死に立ち会う場面から物語が始まります。

看護士さんという職業が気になったのは、2016年12月を始まりとして、その後何度かの入院体験をした私にとって、入院中にお世話になった看護師の方々への感謝の思いがあるからです。看護師さんたちは、どのような思いをいだいて、仕事を続けておられるのでしょう。病棟で、日々患者とのコミュニケーションを保ちつづけることのモチベーションをうかがってみたい思いはありました。夜勤でのかなり長時間勤務をされておられるようにも思えました。体力・気力を充実させなければならないお仕事だと思います。

物語の世界ですが、語り手の「わたし」の名前は「山本弥生」、弥生という名前が付けられたのは3月生まれだったからではなく、捨てられたのが3月だったからです。今日は準夜勤で、もう帰宅してもいい時間なのに、帰らないのは患者さんが亡くなったためでした。「看護師さんは泣かないのね。」父親を亡くしたばかりの娘さんは、おそらく医師や師長には言わない言葉を彼女に浴びせかけます。その言葉に耐えます。やり過ごせばいいことだと知っています。師長が、父親の介護のために退職することになっていました。みんな父親のことには一生懸命だけれど、弥生には父親がいたことがないのです。

夜が明けて帰宅途中、あるアパートの前で犬を散歩させているおじさんに出会います。「このアパートから、ときどきどなり声や鳴き声が聞こえるんだ」と声をかけてきます。虐待を心配して、何か知っていることはないかと尋ねたのです。弥生には心当たりがありません。

新しい師長が赴任します。この師長との出会いが、弥生の思いや仕事への向き合い方を変えていくきっかけになります。診断ミスが原因で、術後に患者さんが亡くなります。症例としては、この作品で描かれているものとは違いますが、かつて私の友人が手術後に亡くなったことを思い出しました。医療過誤によるものと思われましたが、病院は認めなかったとうかがったことがあります。

新任の師長さんは弥生に大切なことを教えてくれます。「私は知ってるの。患者の顔を見て、患者の話をきいて、患者の体をさわって、診察ができる。患者だけじゃない。その先生はね、リンパ腺とも話をするの。あらー、こんなところに出てきちゃったので、どうしたのかなーとか言って。」

この新しい師長さんだけでなく、アパートの前であったおじさんとが患者として出会った事が弥生に新しい人生の目標を示してくれます。孤児として施設で育った体験から、仮面をかぶって生きていた人生に、前向きな心が芽生えてくるのです。

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2018年09月04日

藤田嗣治が描いた戦争

fd4c6488.jpg藤田嗣治は、中南米の旅を終え日本に戻った後の1937年3月、秋田の資産家である平野政吉の依頼で大壁画「秋田の行事」を制作しています。さらに藤田は映画の制作にもチャレンジしています。今回の展覧会で資料としてその映像が公開されています。(「現代日本 子供篇」 Picturesqu Nippon Sons and Daughters of the Rising Sun )

秋田でも撮影が進められていたようですが、今に残されているのは松山市で撮影されたこの作品だけのようです。国策映画ですが、撮影されたシーンの一部に国辱的という非難があることから海外への提供が見送られたとのことです。散髪している場面、紙芝居を見ていたり、子供たちが遊んでいる映像が、淡々と描かれています。昭和初期の風俗が今に伝わり、映像としては興味をそそられます。

その後、藤田は海軍省嘱託画家として中国に派遣されます。そして帰国後に「南昌飛行場爆撃の図」など3点の油絵を制作しています。しかし、突如1939年4月にはフランスに向かいましたが、ドイツ軍がパリに迫った1940年にはパリを離れ、また日本の土を踏みます。戦争は否応なく日常生活を踏みにじりますが、藤田のこのあわただしいともいえる行動には、どのような意図が込められていたのでしょう。

日本に戻った藤田は、1942年あらためて南方戦線を取材し戦争画の制作をすることになるのです。いったん日本を離れたの行動が、戦争画を描く事への拒絶の意思を伴ったのか判然としませんが、再来日後はおかっぱ頭を坊主にして従軍画家としての記録画を制作します。

今回の展覧会では「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)が展示されていました。後者をみて、画面からはピカソの「ゲルニカ」と通底するような叫びのようなものを感じました。

この作品はアメリカ軍の圧倒的な軍事力により日本軍は壊滅状態になり、追いつめられた民間人が崖から身を投げている状況が描かれています。

そして、「ゲルニカ」はフランコ政権とたたかうスペイン民衆の怒りが込められた作品であることはあまりにも有名です。1937年の制作であり、時期としては藤田が「秋田の行事」を完成した直後に当たりますが、スペイン内戦中に小都市ゲルニカがドイツ軍に攻撃され多くの人々が犠牲になった出来事が制作のインパクトになっています。矢内みどりさんは『藤田嗣治とは誰か』(求龍堂 2015)で、「サイパン島同胞臣節を全うす」が「ゲルニカ」を意識していたのではないかと推測されています。なるほどと合点がいきました。

今回展示されてはいないのですが、「哈爾哈河畔之戦闘」という作品があります。ノモンハン事件を描いたもので日本兵がソ連の戦車に乗り込み、戦車の兵隊を突き刺しています。軍部が求めている構図ですが、実はもう一枚あって、藤田は日本兵の屍を描いていたとのことです。(田中穣『評伝 藤田嗣治』藝術新聞社、1988、司修『戦争と美術』岩波新書、1992を参照)そのもう一枚は現存したいないということですが、藤田のしたたかさとともに、芸術家としてのプライドも感じられるエピソードです。のちに日本の画壇からは「戦争責任」を問われた藤田ですが、芸術家としてのリアリズムを求めていたであろうことは、事実だったようです。

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2018年09月03日

「没後50年藤田嗣治展」開催中です

5e67413b.jpg先日(8月29日)、東京都美術館に出向き開催中の「没後50年藤田嗣治展」を鑑賞してきました。(10月8日まで)2006年に東京国立近代美術館で開催された展覧会でも感動を覚えましたが、あらためて藤田作品をこれだけ多く鑑賞できる機会が得られたことはとても喜ばしい。藤田はスランプなしに60年の画家生活を続けたと評されているのですが、波乱万丈の生涯をたくましく生き抜いた人だったように思えます。戦争画がもとで、日本に居づらくなったのでしょうか、またフランスでカトリックの洗礼を受けたことにはどのような思いが託されているのか、考えさせられます。

1930年代に、藤田は北米、中南米、そしてアジアへの旅をします。アトリエで制作するのを好んだ藤田が長期の旅に出るのは珍しいことでした。その旅で描かれた作品は、「乳白色」のイメージを自ら打ち破るかのように、濃厚な色彩が画面を飾ります。「モンパルナスの娼家」「町芸人」「カーナバルの夜」などが展示されていました。

行き先を中南米にした理由は、はっきりとは分からないようですが、当時はパリ市から税金の督促が届くほどの経済的破綻があり、それまで連れ添っていたユキとも別れたということで、パリを去る内的必然性も生じていたようです。藤田は、新しいパートナーであるマドレーヌ・ルクーとともに旅を続けました。マドレーヌは、パリの有名なミュージック・ホール「カジノ・ド・パリ」でダンサーをしていた女性でした。連れ添って僅か6年で死別することになりますが、藤田にとっては、重要な時期のパートナーだったわけです。そして旅の最後の目的地は、祖国・日本でした。1933年11月に藤田にとっては2度目の帰国となりました。ちなみに最初の帰国は1929年2月、この時は3番目の妻であるユキ夫人を伴っていました。

ペルーのインカ帝国遺跡やメキシコのアステカやマヤの遺跡を訪れていますが、帰国後、メキシコの思い出を表わしながらマドレーヌ像を描いています。(作品は「メキシコにおけるマドレーヌ」、展示されています。)


近藤史人さんは『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫)で、この時期を「藤田彷徨の時代」と呼び、もし画論が書かれるなら藤田の重要な転換点と位置付けられるだろうと指摘しています。

そのマドレーヌですが、単身で一時パリに帰るのですが、その間に藤田は銀座の料亭で働いていた堀内君代と親しくなっていたようです。パリでこれを知ったマドレーヌが急きょ日本に戻ります。ところが、1936年(昭和11年)6月、マドレーヌは高田馬場のアトリエで急死するのです。近藤史人さんは「コカイン中毒で急死」と記していますが、田中穣『評伝藤田嗣治』には、「その死はあまりにも突然で、謎めいていた。警視庁詰めの記者団から、死因を究明せよという抗議のまじった要望が当局に突き付けられた話も伝わる。」と記されています。当時はかなりスキャンダラスな見方をされていたようです。

1936年と言えば2・26事件の勃発した年でもあります。世界は戦争の時代に向かっていきます。この展覧会に出品されている「自画像」は和服姿の藤田が食後に寛ぐ姿ですが、高田馬場のメキシコ風のアトリエを出て、麹町に新築の家を建てている間の仮住まいだった四ツ谷の日本家屋の姿が見てとれます。この頃の暮らしぶりについて藤田はエッセイに綴っています。

「いい物は、いつまでも生命を保ち、新らしいということである。私には東京に存在する徳川時代の遺物も昭和時代の東京を構成する一つとして見なおすことができる。銀座を歩くことよりも、場末の裏町が私に新らしいものを見せてくれる。そういう意味で私のこの仮住居はどれほど楽しいかわからぬパッサージである。」 (「お岩様横丁」『腕一本 巴里の横顔』講談社文庫 2005 より引用)

ちなみに新築した麹町の家は、島崎藤村邸の隣だったということも興味をそそられる出来事です。

藤田は戦後日本を去ることになりますが、今、あらためて注目されているのは皮肉なことでもあります。多くの恋物語を含め、さまざまな人びととの出会いが、藤田作品にとってはさらに多くの注目を集める結果をもたらしています。作品それぞれに、歴史の息吹きも感じさせられ、興味は尽きません。

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2018年08月31日

犬との暮らしを喜び、楽しむ

e53b625f.jpg図書館で手に取った近藤史恵さんの『シャルロットの憂鬱』(光文社、2016)を面白く読みました。犬と暮らす生活を考える上で、大いに参考になるありがたい作品でした。

この小説の主人公夫妻のように、私ども夫婦にとっても、昨年10月からは、それまで二人だけだった生活に大きな変化があったわけです。ペキニーズのマリちゃんが、新たな家族として加わったからです。この作品に登場する犬は、我が家とは違って大型犬のジャーマンシェパードです。犬種の違いもありますが、それぞれの個性の違いもありますし、犬と人間の接し方の違う面は当然ありますが、犬と暮らす生活がもたらしてくれる喜びは全く同じだと感じました。

主役であるシャルロットは、体重が25キロを超える大型犬ですが、お座敷犬なのです。外見はこわそうですが、中身はおとなしく、気のいい女子です。とはいえもとは警察犬、防犯の役にも立つのです。飼い主になったのは、語り手である真澄と、夫の浩輔の夫妻、共働きで、まだ子どもはいないこともあり、寂しさを補うために飼育する機会を得たのでした。庭付きの家で暮らしているので、庭で遊ばせることも出来るので、大型犬にはよい環境のようです。近隣との接点もあることから物語の展開が広がっています。

シャルロットは、飼い主のことが大好きで、家にいるときはずっと飼い主にそばにいて、キッチンで料理をしているときはソファに寝そべって、じっと真澄を見ているのです。そんな様子は、我が家のペットも同様です。出かけて半日ほど留守にすると、帰宅時には大歓迎してくれます。それは、たまらなくいとおしくなる瞬間です。自らの日常生活を重なることを確認しながら、ミステリーを楽しみました。

ところで、シャルロットですが、警察犬としてのしつけができていたはずですが、お役御免になってからは、多少ずるをすることも覚えたらしい。今までやってきたことを忘れたり、あるいは忘れたふりをするというのです。たとえば、飼い主以外から食べ物をもらわないというルールは簡単に破られました。その出来事も、一つの事件のきっかけになっていますが、ここではシャルロットをこの家の住人にするように取り次いでくれた叔父さんの言葉の着目しました。

「賢い犬は、こっそり飼い主をしつけてしまうんだよ」とは、シャルロットをこの家の住人にするように取り次いでくれた叔父さんの言葉です。人間の方が、しつけより愛想を振りまくことで、自分に有利な方向に飼い主を誘導するらしい。我が家も、しつけより愛くるしい顔に負けてしまうことしばしばです。

次のような、描写ものも納得させられます。

「「お散歩に行こうか」と言うと、しっぽを振り、口が開いて笑っているような顔になる。犬を飼うまでは、犬というものがこんなに表情豊かだなんて知らなかった。全身で表現する分、人間よりわかりやすいかもしれない。」

読みながら、自然に笑みがこぼれてしまいます。

なかなか物語の紹介に進みませんでした。この街で暮らす人々との交流を通じて、そして、シャルロットがちょっと関わりながら、いくつかの事件が起こります。ジャンルとしては、コージーミステリーと言うそうです。最初の「事件」は、表題にもなっている「シャルロットの憂鬱」と題された短編ですが、留守宅に忍び込んだ泥棒をめぐる事件です。帰宅して、不審者の侵入に気づいた主人公は、何よりもシャルロットの無事を確かめます。しかし、優秀な警察犬であったはずのシャルロットはそのとき、吠えもせずただ身を隠していたことがわかりました。その理由は、・・・・

それぞれの事件の背後にはそれぞれの家族がかかえた秘密がありました。切ない事情もありますが、ホッとする解決が待っています。シャルロットがもたらしてくれる癒しのおかげかもしれません。

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2018年08月09日

『炎の来歴』から読み取る戦後日本の「平和」

e1efd7a2.jpg小手鞠るいさんの『炎の来歴』(新潮社、2018)を読み終えて、人が生きることの重みを突きつけられます。戦後日本の歩みを振り返ることで、私たちに語りかけてくれる大いなるものを感じます。

物語は終始一人がたりでつづられます。それは戦争が終わって5年も過ぎたころの出来事から始まったのです。語り手の北川は、早稲田大学受験のため岡山から上京したどり着いた上板橋の下宿屋で暮らし始めました。働きながら合格を目指す北川にとっては、同じ下宿に住む早稲田大学生になっている先輩が日常的に女性を連れ込むことを鬱陶しくも、羨ましく思っていました。嫉妬はいつしか憎悪に変わっていました。

受験にも失敗し、工場勤めの日々を送っていたある日、家主が選り分け間違いをして、先輩宛のエアメールを北側に届けます。そのエアメールの差出人が女性であろうと気づくや、中身を見たいという誘惑に彼は打ち勝てませんでした。

「僕を酔わせたのは、手紙から立ちのぼってくる清新な香りだった。・・・・それは新世界の匂いであり、ドボルザークの匂いであり、自由と民主主義の匂いだった。」

かつて敵国だったアメリカに対して、その頃は「自由の女神」そのものと思えていたことも手伝って、この手紙の書き手であるレナータ・ヴァイスという女性を聖なる存在と認識するようになります。先輩の手紙を盗み見るだけだった行動はエスカレートして、一切知らせずに返信を認めます。こうして14年に及ぶ文通が始まりました。

その先輩は女性関係のもつれが引き金になったのか、あるとき下宿を出ていき方不明になってしまいます。そのおかげで、手紙のことは知られずに済んだのですが、この下宿からは追い出されてしまいます。レナータ・ヴァイス女史からの返信が数冊の書籍と共に職場に届けられました。彼女は平和主義者であり、反戦運動家であることがわかります。

彼女はハンブルグ生まれのユダヤ系ドイツ人で、ナチスの迫害を逃れて最終的にアメリカに移住、夫とは若くして死別し、現在は娘と二人暮らししているという。その逃亡生活の過程で、フランスとスペインの国境近くの村に隠れていたときにクエーカー教徒と出会い、改宗するとともにアメリカに渡ることになったのでした。彼女は、兵役を拒否し、非暴力を貫く平和主義こそ自らの思想として生きていることを表明していました。

「アメリカは朝鮮戦争に加担し、朝鮮民族を分断するという悲劇を生みだしました。そして今はヴェトナムで、ヴェトナム人同士が殺し合っています。この戦争を激化させたのはアメリカであり、アメリカの連邦議会と大統領なのです。」

文通を続ける二人は出会うこともなく、語り手の北川は恋心と言える感情をいだきます。相手のレナータにもかなり親しい感情が生まれているも感じられます。手紙にはいつも「平和」が強調して書かれていました。強調された「平和」が意味することが何だったのかを、のちに北川は知ることになります。

物語の後半にはかなり劇的な展開が待っています。戦争を直接体験するのと等しい出来事でした。悲しく、切ない物語になりました。そして北川自身も、あえて紛争地に赴くのでした。そして、そこで見たものは、さらに衝撃的な場面だったのです。

「彼女は消えない炎のような人だった。」と北川は表現していますが、思想を極限までの行動に貫いた人とでした。

あとがきでふれられていることでわかりましたが、この作品にはモデルとなる人物が存在しています。平和活動家のアリス・ハーズさんです。私自身、この作品が描いている時代を生きたものとして、そして何よりもベトナム戦争に対する日本の責任を痛感したものとして、作中人物に共感を覚えます。そして何よりも同じ心を共有しようと努める北川とレナータ、日本とアメリカを結ぶ熱情を堪能することができました。

これは恋愛小説と言ってもよい物語なのですが、平和運動の極致をも描いていて感動します。

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2018年08月04日

島本理生『イノセント』から伝わるいやし

f909b652.jpg島本理生さんの『イノセント』(集英社、2016)を読みました。私にとっては、心に響くシーンが多く、また主人公の一人が若い神父であることにも興味を持ちました。

物語は、2011年 冬、函館の教会に向かう八幡坂のシーンから始まります。キャリーケースを引いて歩く若い女性が、近付いてくるトラックを避けようとして、倒れます。それを見て真田は「大丈夫、ですか?」と声をかけます。それをきっかけに、二人は教会まで同行することになります。初対面のこの女性は徳永比紗也と名のります。真田もフルネームで真田幸弘と名のり東京で会社経営をしていると自己紹介します。比紗也は妊娠していて、本来なら彼と一緒に来る予定だったが彼の都合がつかなかったと伝えます。教会では、真田は比紗也のロザリオをプレゼントします。

「君と子どもの健康を祈って」と真田の言葉に、「神社の安産祈願じゃないんだから」と茶化しながらも比紗也は喜びを表します。出来すぎたおとぎ話のような展開です。

ところで、二人が出会ったこのあたりは教会群になっていて、「坂の上のロープウェイ近くの教会」と言っても、カトリック元町教会はじめ、聖公会の函館聖ヨハネ教会、函館ハリストス正教会が隣接しているようです。ちなみにカトリック元町教会は、観光名所でもあるようなので見学可能ですが、信者さんもおられる札幌教区の教会です。

物語に戻ります。親しくなったこともあり、真田と比紗也はその日の夕食をともにすることになります。真田にとってはちょっとお気に入りの女性だったようです。

会話しているひととき、真田が比紗也から聞いた家庭環境の話題のさい「父子家庭だったんだ」とつぶやくと比紗也は急にせき込みます。このあたり、比紗也が抱えていることの伏線になっています。真田は、そうしたことに気づくこともなく、比紗也ホテルまで送り届け、よい夜だったと、思うのでした。

次にもう一人の主人公が登場します。時は、2012年の春。

神父の如月歓は、病者訪問のため修道院を出ます。いつものことながら頭の中の声が聞こえます。「どんなに神様を信じたところで、一番知りたいことすら教えてもらえないんだな」これは根源的な問いかけです。死を迎えようとしている信者が「知りたいこと」を神父の歓が伝えられるかと皮肉っているようなのです。

訪問を終え出口の回転ドアに手をかけたとき、突然入ろうとした中年男の勢いで、手を挟まれそうになったところ、とっさにビニール傘を差し込んでくれた女性に助けられました。紺色のスプリングコートを着た黒髪のショートヘアのこの女性は、赤ん坊を胸に抱いています。が助けてもらえました。如月歓は、この女性をマリアだと思いました。赤ん坊はロザリオをしゃぶっています。「お時間あるときに、いつでも修道院にいらしてください。お礼をさせていただきたいのです。」彼女は、すぐに立ち去ります。

比紗也はこうして二人の男性と出会い、物語は時を刻んで進行します。2011年冬から2012年春の間に、仙台にいた比紗也の人生の道筋を変えてしまう大きな出来事が起こりました。パートナーとは別れてしまい、比紗也は一人で紡(つむぐ)くんを育てています。東京で美容師として働いています。

登場人物の3人それぞれにかかえている問題は深いのですが、関係性が育っていく中で、傷つきながら、いやされる方向に向かっていくようです。しかし比紗也の心の傷は深く、読者の一人として同情を禁じ得ない場面に突き当たります。なかなか救いが得られないもどかしさもあります。

神父の如月歓には大きな罪の意識があります。中学生の歓は一人の女性を襲ったのでした。比紗也に充てたメッセージにその思いを綴ってています。
「僕は昔、非常に重い罪を犯しました。それゆえに信仰の道を選び、半ば逃げるような形でこの世界に入りました。…どうしたら許されるか見当もつきません。反省と後悔をくり返しながらも、保身のことを考えてしまう自分が情けないです。」

このような告白をされても比紗也にとっては、かなり迷惑だったように思います。この神父とは距離を置きたくなるのも無理ありません。それでも、人はそれぞれに何かをかかえて生きています。すべての人と分かち合えるわけではありませんが、きっかけがある方がきっといいのだと思います。

読み終えてホッとしたのが救いでした。


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2018年07月27日

辻原登『籠の鸚鵡』が描く悲哀

6d018635.jpg購入したままになっていた辻原登さんの『籠の鸚鵡』(新潮社、2016)を読みました。最初の場面から、物語の世界に引き込まれ一気に読み進みました。読み終えて、やっと力が抜けました。「迫真のクライム・ノヴェル」と言うキャッチ・コピーの妥当性については、判断しにくいのですが、私にはとっては、おそらく生涯で体験することはないであろう生きざまが描かれています。それが小説と言ってしまえばにべもありませんが、その世界に入り込んだような錯覚に陥るとともにその臨場感にワクワクさせてもらいました。登場しているのは、極道とは無縁な世界にいる人物ですが、いつしか犯罪に手を染めることになってしまうのです。暴力団員との縁が絶ちがたくなってしまうのが、主人公といえる人物である梶康男で、下津町役場の出納室長をしています。

この出納室長という職務に目を付けたバーのマダムのカヨ子が色仕掛けで、多額の金銭を巻き上げるのですが、その際、手紙というテクニックを使います。その手紙の内容が、秀逸です。その卑猥の度合いは、残念ながらここに書くわけにはいかないほどです。カヨ子の出身地は長崎、彼女の手紙のわいせつさと裏返しのように、「浦上四番崩れ」に言及されているところがあり、この物語の悲惨さは対象的であり興味深いものです。

「四番崩れ」では多くの村人が和歌山に流されたのですが、カヨ子の曾祖父母もその中にいたというのです。カヨ子は昭和20年12月生まれで、被爆手帳も持っているということも告げています。結婚して出産しますが、胎内被爆の影響は本人にも生まれた子にも出なかったということです。カヨ子の結婚相手の紙谷は不動産業者として独立を果たしたものの事業ははかばかしくありません。そこで一計を案じ、アルツハイマーで身寄りのない老人の持っている農地をだまして取ることを企てます。その企ては成功し巨額の資金を得ることに成功するのですが、その事実を暴力団員に嗅ぎつけられてしまうのです。事態はめまぐるしく展開します。

作品の舞台となっているのは和歌山県下津町、時は1984年、下津のかつての主要産業はミカンと漁業、紀伊国屋文左衛門が紀州みかんを積んで江戸に向けて出帆した港があったという。1950年代に丸善石油が石油精製基地を建設したことから町には多くの雇用と税収がもたらされた。バブル景気に沸いたようです。実際に公金横領事件があり、この作品はその事件がモデルになっているとのことです。

主人公の生い立ちをはじめとするエピソードが随所に盛り込まれ、面白さを演出していますが、カヨ子と梶康男の手紙の交換には、吉本隆明の詩が登場してきたのでびっくりです。登場人物の青春時代がわかります。

    けふから ぼくらは泣かない
    きのふまでのように もう世界は
     うつくしくもなくなったから そうして
    針のやうなことばをあつめて 悲惨な
     出来ごとを生活の中からみつけ
     つき刺す  (以下略。『吉本隆明全著作集1定本詩集』より)

カヨ子の恐喝の背後には暴力団員の峯尾という存在がいて、峯尾は紙谷を脅した男でもあるのです。「みかじめ料」を徴収にきたことをきっかけに、カヨ子と峯尾はいつしか男女関係になっていました。

カヨ子をめぐる3人の男が、複雑に絡み合い、さらには山口組分裂による実際の抗争事件を背景に、この登場人物たちがおこなった犯罪はさらに複雑な様相を帯びてきます。

なお作品のタイトル『籠の鸚鵡』は高峰三枝子が歌った『南の花嫁さん』という曲の歌詞の一節で、事の経過に身を委ねるままに転落していく男女の悲哀に重ねられているらしいです。

  「おみやげはなあに」
  「籠のオウム」
  言葉もたったひとつ
  いついつまでも

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2018年07月18日

村山由佳さんの『風は西から』

ed794d63.jpg村山由佳さんの『風は西から』(幻冬社。2018)を読みました。

主人公の健介は、将来は広島に戻って実家の居酒屋『ふじ』の跡を継ぐつもりで、大学卒業後に実地でノウハウを学ぼうと大手居酒屋チェーン『山背』に就職して5年、現場の店舗で働き始めていました。健介が『山背』にあこがれたのは、業績や成長度合いもさることながら、著名人である社長・山岡誠一郎の〈ことば〉に引き寄せられたからでした。自分たちだけの利益にとどまらず、社会から得た富は社会に還元しなければならない。熱弁をふるうリーダーの姿に感銘を受けたのです。
 店長見習いとして配属された店舗で、すでに異動が決まっている店長から引き継ぎの打ち合わせの際にかけられた言葉に、健介はまだ鈍感でした。「この店は上から監視されている。現状から売り上げがダウンしたらどうなるか。いまだに悪夢を見るのは〈テンプク〉して上に呼ばれることだ。」と。
 〈テンプク〉とは、店舗の売り上げに対する人件費が、あらかじめ決められたラインをオーバーしてしまう事態を指す言葉でした。人件費を節約するために、アルバイトを早めに帰させるなど苦労している実態を聞かされます。
 この店長は、健介の社長に対する敬愛ぶりに冷や水をかけるかのように語ります。「あの社長の熱血ぶりにコロッとまいっちゃうやつがいるんだよな。」
 健介は理想を追い求めます。会社に夢をいだいている社員やアルバイト店員に、無理な負担を強いることなく業績をあげる方法を考えるよう進言したいと考えていたのですが・・・・

 辛い思いを全身で受け止めざるを得ない物語でした。責任感を持ち続け、ついに力尽きてしまった青年の未来を絶ったのは、誰なのでしょう。ご両親、恋人ばかりでなく周囲の人々が、どれほど口惜しい思いをしたのか、そして彼らは健介の勤務実態を探るべく戦いを始めるのです。
言うまでもなく、この作品にはモデルとなる企業があります。今では「ブラック企業」の代名詞のような存在ですが、メディアでのソフトなイメージをもった社長の実像がいかなるものかを、教えてくれました。
芝居がかった謝罪の言葉を述べた社長を評して、「ありゃ、人間じゃないねぇ。人の心を削り取って食らう鬼じゃわ。」
健介の母親は、つぶやくのでした。
 組織の中の人間一人ひとりは確かに弱いものです。そして労働環境の実態はこの作品に描かれているよりも、より苛酷かもしれません。しかし、一人一人の存在を大切にするという正義が貫かれたときの力強さを、この作品は伝えてくれます。

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2018年06月16日

『万引き家族』が描いた現実

4e2ca44d.jpg話題作『万引き家族』を見ました。

街角のスーパーで、連係プレーで万引きをした親子(治と翔太)が、その帰り道でコロッケを買って歩いていると、団地の1階の廊下で小さな女の子が、凍えているのを見つけます。女の子に声をかけると、二人の誘いに従って、着いてきます。家には祖母の初枝、治の妻の信代、信代の妹の亜紀が暮らしていました。信代は「もう少し金の匂いのするもん拾ってきなよ」といいながら、女の子にうどんを差し出します。女の子の腕にはやけどのあと、腹にもいくつもの傷やあざが見つかりました。治と信代は、このままでは誘拐になるからと団地に女の子を返し向かいますが、両親が喧嘩していて「産みたくて産んだわけじゃない」と母親のわめきを聞くと、置いていくわけにもいかず。結局、連れ帰ることにしました。

女の子の両親は児童相談所には子供を「親戚の家に預けた」とうそをついていたため、しばらくは発覚しなかった「誘拐」でしたが、事件として報道されると、家族は女の子の髪を切り「りん」と名付けます。「りん」も新たに生きることを選ぶのです。

先日、目黒区での幼児虐待死事件が報道されたばかりでしたので、余計に切実な思いにかられました。ほのぼのとした日常生活を過ごしている日々ですが、同じ日本の片隅にこのような悲劇があることを、忘れることができません。

亜紀はマジックミラー越しに接客するJK見学店で働いていますが、一人の常連客と共鳴するものを感じ、密かに交流をしています。何らかの傷を持つもの同士が響きあう関係ですが、常連客は言葉を発しないのです。そこに安心感があるのかもしれません。亜紀の傷は詳しくは語られませんが、癒されるのは常連客との静かな時間なのだと知らされます。

この家族には血縁関係はなく、利害で結ばれていることが後半に明らかにされます。単なる犯罪者集団であるとみなしてしまえば、嫌悪感しか生じないことになってしまいますが、現実社会が生み出した疑似家族であることを、直視する必要がありそうです。

祖母の死を秘匿して、年金受給を継続した行為や、逮捕された治を見捨てて逃げ出そうとした行動は、「本当の家族」だったら、あり得ないと感ずるかもしれません。しかし、本当の血縁同だからといって金銭を巡る争いは避けられないもので、そうした事例に事欠きません。決して、他人事と言って笑ってみることもできないと思うのです。

虐待されていた女の子が映し出された、ラストシーンの意味するものは何でしょうか。

映画は、日常生活の一日であるテレビドラマとは全く違う影響を与えてくれるものだと思います。観ることを選択することから、始まるので多少先入観はありますが、あらすじを伝えることでは決して伝わらない、心の芯に働きかけてくれるものを感じ取ることができるのです。すべての作品がそうであるとは言えませんが、この作品「万引き家族」は、余韻が長く残ります。

いや、テレビドラマにも秀作がありました。血のつながっていない家族を描いたものとして坂元裕二さん脚本の近作、『anone』と『カルテット』がありました。心の響きあうことで、「家族」という「共同体」が築かれるということに、気づかせてくれる作品だったことを思い出しました。

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