2016年09月19日

「大人のための心理童話」から得たもの

05be870d.jpg久しぶりに森司教との読書会に出席しました。

今回の課題図書は『大人のための心理童話―心の危機に処方する16の物語(上)(下)』(早川書房、1995)、その中の2つの物語を読みながら、参加者が次々に思いを述べました。

この本の中身ですが、アラン・B・チネンというユング派の心理学者が世界の童話からピックアップした物語を素材に、その童話から導きだされる中年男女の心の危機を分析しているものでした。読みやすい心理学の本という理解も可能です。
上巻の「まえがき」に「物語は人間の無意識を解明」と述べていますし、また「一人の大人として人生のさまざまな問題を乗り切ろうとするとき、中年童話は大いに役立ってくれるだろう」と、著者は童話が持つ力を評価しています。精神分析医ということですので、童話が患者の処方に役立つものであることも伝えているわけです。

読書会で取り上げられた物語は、上巻と嵬椶痢嵬魍笋竜嫖勝廚函同じく上巻番目の「死と心の旅」の2つでした。

まずぁ嵬魍笋竜嫖勝廚里話しです。夫婦げんかの絶えない中年夫婦が子牛の世話を見る、見ないでまた喧嘩になり、どちらか先に口を聞いた方が負けとなり、罰として働くことと決めます。すると妻が外出、留守番する夫のところに乞食、巡回床屋、老女、泥棒が次々に現われます。夫は、これは妻のはかりごとだと思い、口を聞かず何もしないでいます。すると彼らは食べ尽くし、髭を剃り、男の顔に化粧を施し、財産を奪って逃げてしまいます。戻ってきた妻は、夫を責め、そればかりか、泥棒たちを追いかけ、彼らを騙しながら財産を取り戻すというお話です。おのれの非を悔い改めたのでしょうか、それから夫は妻の仕事を率先して行うというハッピーエンドの結末です。

このおかしみのあるペルシャの物語について著者は、父権制の強力なイスラム文化から生まれたことに着目しつつ、世界中に男女の逆転の物語は多いとも言っています。それゆえ、男女の役割の逆転は中年には重要な問題だというわけです。世界の民俗例も引き合いに出して、同様なテーマに満ち溢れていることを伝えています。

この物語では、男女の逆転は屈辱を伴っています。夫は化粧され、すべての財産を失ってしまう存在になっています。男性にとって男女の逆転はトラウマになりかねない、と著者は書いています。実は、女らしさに対する拒絶は、さまざまな文化にまたがり、男性心理の奥底に存在するからだということです。

男性は「男性らしさ」、女性の「女性らしさ」とは何か、いわゆるジェンダー(=社会的、文化的に形成された男女の違い)について言及したくなりますが、物語の前提としては、男女の役割分担が、決まっていることが必要です。役割分担が固定している場合、男は外に出て仕事、女は家事に専念するということになるでしょう。
著者は、自身の執筆体験から、欠けている女性的要素を取り入れたということです。その女性的要素とは「情緒、感情、個人的反応、人間関係」と書かれています。このあたりは、著者の保守的見解ではないかと批判も可能かもしれませんが、この表現をとりあえず

心理学的分析として理解することにします。
さらに面白いことに、物語の主人公である妻の行動を評して、「妻は冒険心があり、独立心旺盛で、積極的だが、男になったわけではない。彼女はたんに彼女自身になったのだ」と解釈しているところが独特です。

男にとって、耳が痛くなる指摘もあります。「意識するしないにかかわらず、多くの夫族は卑劣にも、当初、中年での妻の成長を阻止しようとしているのである。」
夫のもとに帰るという物語の結論に、著者は積極的な評価を与えています。イスラム社会特有の父権主義の制約以上に、妻は「自発的に、意気揚々としてもどってゆく。」しかも、女性的要素を失うことないことは、子牛を連れて家を出て行ったことに明らかだとも言っています。財産を取り戻して帰宅した妻は、夫が生き方を変えたことにも気づきます。

中年童話では、不愉快な登場人物たちは改心する、言い換えれば自己改革する。中年は、自分の欠点を受け入れて、生き方を変えてしまうという。この転換ができない人は、きっと苦難の人生が続くことになるのでしょう。中年には柔軟性という美徳が与えられるらしい。青年時代には、「粘り強さ」が求められている。
最後に面白い指摘があります。中年童話には魔法が欠けているということ、魔法ではなく人間的英知で問題解決をしていくのだという。年を重ねるのも悪くはないかな、と少しばかり思わされます。

もう一つの物語は、─峪爐反瓦領后
億万長者の男は、「わたしはどうしても死にたくないんです。」と如来に頼みます。如来から渡された紙の鶴に乗って、男は不老不死の国に行きます。ところが、数年するとあきてしまい、故郷に帰りたくなった男は、またの鶴に乗って戻ろうとします、その途中で、嵐に襲われ、鶴は海におち、溺れそうになると「助けて!死にたくない!」と叫びます。そこへ如来が現われ、これは如来が見せてくれた夢であることを告げられ、「お前には忍耐強さも信念もない。不老不死と不滅の秘密は、おまえには授けられない。お前は自分の運命に満足しなさい。」と諭します。男は、もとにもどって安穏な生活を送るようになりますが、如来は億万長者に自分だけの不老不死を求める変わりに、子供たちを養い、隣人を助けよ、と諭されたのです。

ここでは人生にとって大きな問い、死について論じられます。不老不死を求めて実現すると、今度はその生活に飽き飽きしてしまうというのは、皮肉です。変わらない生活にうんざりして、死を願います。それでも、死が目前に迫ると思わず助けを乞うので、如来から大いに叱られてしまうのですが、知恵を授けられます。それは、いわば当たり前の処世訓です。

著者はこの物語の二つのテーマに言及します。その一つは「生殖性」です。自分自身の不老不死を求める代わりに、「子供たちを養い、隣人を助けよ」と告げます、物語が示唆しているのは、盗賊の存在だと解釈しています。人のものを盗むというのは自分の正当な所有物ではないものを所有することであり、それと同様に男は自己中心的であって、資格がないのにもかかわらず「不老不死」を得るようとしたのだということ、物語の説得性の由縁を教えてくれます。なかなか含蓄が深い。テーマを補強するものとして「折り鶴」の登場に言及しています。折り鶴は生殖性の象徴(鶴は生涯一夫一婦制と言われる)なので、物語に登場する必然性があるというのです。

「億万長者は自己中心的だから、まず生殖性を身につけなくてはならない」と著者は、述べていますが、物語の主人公には家族もあるのに、人生の楽しみをどこに見つけていたのでしょうか。死にたくない理由は妻子との幸せな暮らしを持続したいということではないようです。根っからの、風来坊の自己満足とでもいえるのでしょうか。

二つ目のテーマは実用主義であると著者は指摘します。如来の知恵の書こそが、実用主義を伝えていると指摘しています。「死ぬべき運命は、中年の男女を高邁な精神活動や世界を救うことに傾倒させるのではなく、世俗の秩序に立ち返らせる」と言うのです。これは、意味深い指摘です。生きている日常の大切さに気付かせられるということでしょう。例示したのは、エイズ患者のガイという人物です。彼は、過去のトラウマと向き合い、克服し人生を楽しむようになったというのです。「逆接的だが、死は生きることに対して実際的な知恵を与えてくれるのである。」
私の経験上では、そのような見事な死生観に出会ったことはありませんし、死につながる病を受け入れることは決してたやすいことではないように思っています。

余談になりますが、人が死ぬとどこに行くのか、という問いに答えはあるのでしょうか。神様のみもとへと、私などは素直に考えているカトリック信者であり、「死の恐怖」は信者になる以前より軽減していますが、誰も見たことのないですし、そのありかも不明な「天国」の存在については正直なところ、疑問もないわけではありません。答えの不明な死後のことよりも、今の暮らしをどれだけ充実させられるかの方に、関心があります。「天国」は死者との再会の場だと、漠然と考えています。

物語で、男性が主人公になっていることにも理由があると著者は指摘しています。女性は、出産等で、死の意識させられる機会が多いけれど、男性は戦争がない平和な時代には死すべき運命を否定することが可能なのだということです。「権力と栄光に慣れている男にとって死すべき運命は衝撃的だし屈辱なのである。」
死とともに夢の重要性がテーマになっているとのことです。著者は夢にまつわる二つの物語を紹介します。中国の『夢』は使用人を酷使する金持ちが、夢では自分が働かされる立場になることで、夢の意味を理解し現実世界の投機を控えめにし熟睡できるようになった。ユダヤの『王様の夢』は、残酷なお触れで国民を処刑した王が、囚人となって拷問される夢を見てこれまた悔い改める。

ここで、ユングとフロイトの夢理解の違いも伝えています。
「ユングはこの夢の機能を強調し、夢は意識下の思考の限界を補い、抑圧または否定されている問題を提起すると述べている。」
フロイトの研究対象は若者であり、彼らはつらい問題を否定したり避けたりするので、夢は抑圧を反映している。年長者になると、若いころ抑圧されていた問題が出現するという。従って、両者の夢理解の違いは対象者(若者と年長者)の違いであり、夢は中年になると抑圧から啓示になることを示しているという。
「夢を変化の使者として利用することで、中年童話は現実的なトーンを保っている。」

夢か現実か境目のしれない放浪の旅に出た中年はその経験を経て、より精神的な健康と幸福を得ることができるらしい。
読書会で取りあげられたこの2つの物語以外にも、含蓄深い解釈を読むことができます。

sawarabiblog at 22:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年08月09日

長篠の戦いと落合左平次道次背旗

e1c41d0d.jpg5か月前のことになりますが、3月12日、明治大学博物館友の会主催の講演会『織田信長と長篠の戦い』を聴講しました。講師は、東大史料編纂所准教授の金子拓氏です。

長篠の戦いはよく知られていることですが、、天正3年(1575)5月21日、長篠城をめぐる信長・家康連合軍と武田勝頼軍との戦いを指すのですが、講師の金子先生は、なぜその戦いが起こったか、そしてその結果、何があったかを述べたいと、前置きされ史料を駆使してのお話でした。ポイントだけを記しておきます。

信長と武田信玄とはもともとは同盟関係にあったのですが、突然信玄の方から破棄されたことで、信長は大激怒し「信玄の所業、前代未聞」とののしっています。元亀4年=天正元年(1573)、信玄は亡くなり勝頼へと家督継承されます。長篠城は信玄の時代には、武田の手にあったのですが、家康に奪われてしまいます。天正2年、城を奪い返すため勝頼は遠江の高天神城を奪うなど攻撃をしてきます。ところが、なぜか信長の動静が不明、空白期間があってなかなか援軍を出していないのです。その理由として、これまで信長軍としては、兵糧や兵の招集遅れがあったのではないかと推測されていました。
次いで天正3年、武田軍による足助口攻撃の報を受けた際にも、信長は河内攻めをおこなっていて、すぐに援軍を出していません。やはり空白期間があるのです。
このように2年にわたって、信長が慎重な行動だったのは、実は勝頼をおそれていたのではないかと『甲陽軍鑑』が伝えています。信玄側の記録ですので、すべて正しいとは言えませんが、考えられないでもないようです。信長の基本方針は、まず自軍を敵方へ見えざるように配置し、出来る限り武田軍との全面対決や消耗戦は避けたい考えだったように見えます。
当日の戦いは、勝頼軍が「有海原」に進軍したのを好機とし、酒井忠次率いる徳川軍による蔦の巣山砦攻撃が挙行されています。長篠城を囲んでいた勝頼がここで動いたのは、信長の兵力を少なく見積もったか、臆していると考えたためではないかと、考えられます。いずれにせよ、長篠の戦いにおける信長・家康連合軍の勝利は、勝頼の判断ミスと信長の決断が重なった結果であったと言えるようです。

お話しの最後に、金子先生が、鳥居強右衛門の磔図の修復による新発見について語られたことに興味を持ちました。この日のお話は、長篠の戦の共同研究の成果を述べられたのですが、この共同研究の一環として東京大学史料編纂所が所蔵する「落合左平次道次背旗(おちあいさへいじみちつぐせばた)」の研究も行われたそうです。

かつて、歴博では2000年に開催された「天下統一と城」という企画展において、この背旗を頭が下で足が上になるという「逆磔図」説を有力であるとして、展示していました。それがとても印象深く記憶に残っていました。

「長篠の戦い」の直前、武田軍に包囲されていた長篠城から脱出し、信長・家康の援軍が来ることを確認した鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という武士が主役ですが、強右衛門は、来援を確認して長篠城に戻ろうとしたとき武田軍に捕らえられ、味方に援軍が来ることを伝えたため、磔にされたと伝えられています。落合佐平次という人物は、武田方か徳川方かは目下のところ不明の人物だそうですが、鳥居強右衛門の義に感じてこの旗を作ったと言われています。落合家は、のちに紀州徳川家に仕え、子孫もおられるということです。その落合家を調査したところ、2代目、3代目も同様の旗を作っていたことが分かったのだそうです。歴博の展示では、これらの史料も展示されていました。ご子孫の所蔵する旗を見ると、逆さ磔ではなかったようです。史実はどうあれ、磔図として作成されていたことは間違いないようです。旗には血痕も残っていて、実際に戦場に臨んだものだという生々しさを感じることができます。これまで掛け軸の形にされていたのですが、今回修理され裏面も見られるようになり、合わせて科学的な調査も行われたということです。

この「落合左平次道次背旗」は今日から、歴博で展示されていますので、さっそく見てきました。ギャラリートークが行われていて、調査についてお話を聴くこともできました。

「もの」からみる近世「戦国の兜と旗」(第3展示室)は9月19日(月・祝)まで開催。旗と共に、調査結果もパネルで展示されています。歴博所蔵の変わり兜の展示もあり、興味は尽きません。なお、背旗の実物の展示は8月21日(日)まで。その後は複製品の展示に切り替わるそうです。実物をご覧になりたい方はお早めに。(東京大学史料編纂所所蔵資料は、写真撮影ができませんので、パンフレットの一部を載せました。)

sawarabiblog at 17:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年07月23日

『ミケランジェロ展 ルネサンス建築の至宝』に思う

df6da6e9.jpg現在、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の『ミケランジェロ展 ルネサンス建築の至宝』(8月28日まで)を見てきました。ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともに、彫刻、絵画、建築を手がけたルネサンス期イタリアに特有の「万能の天才」の一人と言われますが、主要な活動の舞台であったフィレンツェとローマには、彼の手がけた建築が、残されているそうです。先日のイタリア旅行中にも、ミケランジョロがかかわった建築を見る機会がありました。
さて、この展覧会の見どころのひとつは、フィレンツェのカーサ・ブオナローティ美術館の所蔵する作品を中心に、ミケランジェロ本人による真筆の素描および書簡が35点、展示されていることです。システィーナ礼拝堂の天井画のための素描とされる習作などを拝見していますと、地味な展示ですがミケランジェロの制作過程を知ることができる貴重なものであり、興味をそそられました。旅行中、システィーナ礼拝堂でミケランジェロの作品を目の前に豊かな時間を過ごしたことも思い出され、制作中のミケランジェロの苦闘を想像しました。本来は、彫刻家であったミケランジェロが絵画、そして建築と新たに学びながら超一流の仕事を成し遂げたことに驚嘆します。
写真は、ミケランジェロ展カタログ表紙にもなっているシスティーナ礼拝堂天井画《クマエの巫女》のための頭部習作です。そのほかに、有名なスケッチですが、友人あての手紙に添えられたシスティーナ礼拝堂天井画を描いてる自画像が描かれたものも展示されています。こんなに窮屈な姿勢で苦労して描いていると自作のソネットにつづられていて、苦労がしのばれますが、このような肉体的な損傷を受けたことは理解できるんものも、ほほえましくも感じてしまいます。ミケランジェロ展はその人物像を知るために、よい機会といえるでしょう。


sawarabiblog at 19:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年07月22日

映画『シアター・プノンペン』

c321c148.jpg映画を見る機会は少ないのですが、御茶ノ水での用事が終わり、都合のいい上映時間だったこともあって久しぶりに岩波ホールに出向きました。上映されていたのは、カンボジア映画の『シアター・プノンペン』
物語の主人公は、女子大生ですが、授業をさぼって遊んでいる日々を送っています。荒んでいるのは、病気がちの母親や軍人の父親の干渉から逃げているためのようです。特に、父親が決めた将軍の息子との結婚話には、気が進まないか。ある日、ボーイフレンドからはぐれて、偶然辿り着いた映画館(シアター・プノンペン)で、自分の母親の若き姿を目にします。スクリーンに映し出されたのは、クメール王国を舞台にしたラブストーリー。
この映画は、クメール・ルージュがカンボジアを支配する前年1974年に製作されたものでしたが、内戦の混乱の中で、最終巻が紛失したためにエンディングを見ることができないのだという。・・・・
物語は、この女子学生が主役を受け継いで、映画を完成しようと試みるという展開になるのですが、実は驚きの真実が明かされることになります。
カンボジアの現代が描かれていて興味深いですが、娘の結婚相手を決めてしまうような父親の権威主義は一般的なのでしょうか。プノンペンは、現代にしてはかなり古びた建物が多いように感じましたが、戦禍の爪あととして残されているものなのでしょうか。
映画のロケ地として描かれた、蓮の花に満ち溢れた風景の美しさにいやされますが、残酷な過去の出来事によって、今なお人々が沈黙を強いられていたことを知らされます真実も突きつけられます。
多くの人命が犠牲にされ、多くの映画人も標的にされた時代があったということを、知らされました。


sawarabiblog at 20:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年06月29日

イタリア旅行の思い出

83c6af6e.jpg6月3日(金)〜14日(火)の12日間、イタリア旅行に出かけました。船橋学習センター・ガリラヤでアンドレア神父の美術講座を学んでいるグループが中心の巡礼の旅です。主要な見学地は、ミラノ、ヴェネティア、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマです。記憶に残る体験のいくつかを記します。

(1) 旅の始まりは、ミラノ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に対面できたことに感動しました。損傷が著しく、かつレオナルドの原画に上塗りされたことで、修復前は改ざんともいえる状態だったそうです。部屋に入るために複数の扉を通ることで外気との接触を減らす工夫をしています。一回に入場する人数を限定し、15分間という時間制限もありました。幸運だったのは写真撮影が可能になっていましたので、この目で見た実物を載せておきます。もともと、サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会の食堂だったところ、修道士たちが席についてこの壁画のもとでパンと葡萄酒を味わっていた光景も想像します。とはいえ、それが壁画の保存とってはマイナス要因のひとつでもありました。イエスの足元が描かれていたかもしれない箇所は、ドアを作る為に破壊され残っていないのですから、受難を象徴するかのような存在といっていいのかも知れません。

(2)旅行中にはたくさんのミケランジェロ作品と出会っています。ダビデ像を制作して評判の高まったミケランジェロには多くの注文が寄せられました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、十二使徒像の制作依頼があったのですが、さまざまな事情から「マタイ」を作りかけたところで中断を余儀なくされました。フィレンツェのアカデミア美術館で、圧倒的な迫力のダビデ像を見ましたが、制作途中のミケランジェロ作品を見ることが出来るということは、幸運な体験のひとつと言えます。シエナ大聖堂(後述)のピッコローミニ祭壇に4人の聖人像がありました。これもミケランジェロの作品かと言われています。「ダビデ」と「マタイ」の間の時期と考えられているようです。(木下長宏『ミケランジェロ』中公新書、2013 を参照しました。

(3)シエナはカンポ広場で年2回行われる競馬パリオが有名です。貝殻様の美しい姿の広場を埋め尽くす観衆の興奮した息遣いが伝わります。ここから坂を上がると大聖堂が現れます。感動です。私たちはバスが到着して、最初は聖ドメニコ聖堂、そして聖カテリーナの至聖所を訪ねました。カテリーナは1347年生まれ、裕福な家庭の23番目の子供で、普通の生活をという両親の願いと異なり修道生活に生涯を捧げます。キリストと同じ33歳で帰天しました。食が細く、自分が吐き出したものを食べたという驚きのエピソードも伝わります。教会分裂時代、教皇にアビニョンからローマに戻るよう伝える使者になったそうです。ご聖痕も受けたとのこと、アシジのフランシスコに通じますね。晴れ渡りすがすがしい日和にも満足して、大聖堂を訪れたあと昼食になりました。ところが、昼食後は雨模様、バスが駐車している場所まで戻るまでには、かなりの土砂降り!思いがけない試練でした。そしてアッシジに向かいました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に着くと、アンドレア神父を歓迎するご家族が、待っておられました。教会の中には、ボルチウンクラという小さなチャペルがあり、聖フランシスコの教会改革の思いを今に伝えています。特別のご配慮をいただいて、アンドレア神父とともに巡礼の皆で祈りの時を過ごすことも出来ました。アッシジは、どこも見ても美しいところです。宿泊先の修道院も心地よく、感謝の思いがこみ上げてきました。

(4)バチカンを背にでは教皇司式のミサに与る幸運を得て、昼食後はローマ市内をアンドレア神父の案内で散策しました。サンタンジェロ城がその存在感を示してくれました。テヴェレ川右岸にある城塞で、正面にはサンタンジェロ橋があります。もともとは、映画『テルマエ・ロマエ』に登場していることでおなじみのハドリアヌス帝の霊廟でした。この霊廟建設にあたって、皇帝自らが関与したといわれています。「五賢帝」のひとりであるハドリアヌスは、先帝の軍事作戦を中止、戦後処理を行い、軍部反対勢力を粛清、辺境の防備を固めることを優先しながら、防衛戦争や内覧鎮圧には武力行使をためらわなかったというのですが、その後、皇帝の性格を一変させる出来事が起こります。地方巡幸の旅において、謎の美少年アンティノオスを伴っていたのですが、この少年はナイル遡航の途中に、溺死してしまいます。ハドリアヌスは「弱々しい女のように泣き崩れた」と伝わります。このエピソードは、『テルマエ・ロマエ』にも描かれていて印象的でした。ハドリアヌス帝はパンテオンを甦らせています。今回は内部に入る機会はありませんでしたが、広々としたのびやかな空間に満たされています。後年、ブルネレスキが訪れ、研究した成果がフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋の設計に刻まれていることも、興味深いエピソードのひとつです。(藤沢道郎『物語イタリアの歴史供拊羝新書、2004 を参照しました。)

sawarabiblog at 10:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年06月18日

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』に寄せて

bc8aa0bc.jpg前回、感想を記した『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』には、第殉教と宣教師のかかわりについて、見逃すことのできない視点を提示してくれていて興味深く読みました。

徳川家康の禁教令は、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して布告された。教会の破壊と布教の禁止が命じられたのです。宣教師たちは長崎に集められ、そこからマカオやマニラに向かうことを命じられた。慶長19年9月)追放された人びとが出帆した。マニラへの船には高山右近も載っていました。
ところが、帰国せず宣教を続けた宣教師たちもいました。その一人、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父(フランシスコ会)は、長崎に潜伏するのではなく司牧のために江戸に向かいます。この神父の生きざまを著者は描いています。ソテロ神父が建てた浅草の頼病院に身をひそめながら司牧を続けていた神父ですが、遂に、1615年4月とらえられてしまいます。1615年8月、スペイン国王フェリペ3世の親書を携えたサン・ファン・バウティスタ号が浦賀に入ります。親書の受取は拒絶されますが、交易をあきらめきれない向井将監の取りなしがあり、サン・フランシスコ神父はこのスペイン船の帰国に便乗することになりました。1616年9月、船は出帆しました。ところが、大村で宣教活動を続け捕縛されたファン・デ・サンタ・マルタ神父(日本205福者殉教者のひとり)は、この船に乗ることもなく殉教しています。サン・フランシスコ神父の処世を批判しているようにも受け取れる書簡が残されています。

その批判を受け止めたかのように、サン・フランシスコ神父は再び日本の地を踏みます。マニラ経由で長崎に渡来し、江戸でも活動、1630年代前半までの消息が知られています。著者の星野さんは、「自分が助命されたことへの贖罪意識が、彼を生き延びさせたのではないだろうか。」と記します。

宣教師一人一人の思いに、心を寄せることは難しいことですが、フランシスコ会士とはこのような方々であり、今でも同じ心でしょうか。先日、アッシジを訪問したばかりですので共感を覚えます。

sawarabiblog at 22:01|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2016年05月26日

読みかけの本ですが・・・

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2015)を読んでいます。著者の星野博美さんは、写真家でノンフィクション作家。「キリシタンの世紀」に思いをはせて、自らの体験を重ねながら殉教の地を訪ねます。

ミッション系の大学に進学するにあたり宗教欄に「キリスト教(求道中)」と書いたことを、宗教を利用したと告白するあたりの記述の好感が持てます。受洗者であるよりも、直にご自分の気持ちに向き合って歴史の跡をたどってくださっていることで、読み手としても肩の力を抜いて読んでいけます。キリスト教信仰についても、新鮮な驚きを随所に披露しているエピソードも面白い。たとえば、幼児洗礼をうけたクラスメートに出会い、「クリスチャンは世襲できるのか」と驚くのです。考えてみれば、キリスト教は特別な宗教という意識があったという思いを伝えていますが、それは日本人の平均的な意識なのでしょう。この本を勧めてくださったのは同じ教会に所属する信徒の方、その感動を共有できることにもなりました。まだ、読了していませんが、とりあえず感想を綴ります。

著者の関心には、楽器リュートへの憧憬から南蛮文化への興味が深まり、さらに一族の出身地である御宿・岩和田の歴史にも導かれて、キリスト教への関わりを探っていますが、あたかも同時代にタイムスリップしたかのような感覚を読み手である私たちにもたらしてくれます。若桑みどりさんの名著『クワトロ・ラガッツィ』に描かれた世界を、再認識させてくれるばかりはなく、若桑さんとは一味違ったキリシタン時代への感情移入の個人差の妙味を楽しむことにもなりました。著者はすでに、自らのルーツを訪ね歩いた『コンニャク屋漂流記』という作品を発表しておられることも知りました。この作品は、その延長線上にある作品ともいえるようです。

専門書では絶対に表現しない思いが綴られます。例えば、ポルトガル、スぺイン、オランダとの外交をめぐる交渉にあたる家康を評して、「彼はまるで、二股をかけて男を翻弄する小悪魔的な女のようだ。」と書いています。老獪な政治手腕を、こんな風に伝えるとは・・・

祖先の地岩和田での出来事、サンフランシスコ号の難破は1609年9月のこと。
「ロドリゴは幸運だった。漂着でなく、船が木端微塵に壊れる難破だったのも幸運だ。乗員全員が丸腰になったのはよかった。」
こんな感想を述べていおられますあまりにもみじめな姿だったので、日本人としては刈られに同情を禁じ得ない遭ほどの大変な遭難だったのでしょう。

ミッションスクールに通われたことで、キリスト教に対する好意的な思い入れがあるように感じます。著者は導かれるように「殉教」の現場に向かいます。原城の死者に思いをはせながら、私にとっても難問といえる「島原の乱」の犠牲者たちへの思いが素直に吐露されています。
「原城にはこうして仏式、神式、キリスト教式の教えが混在しているのだった。ここで命を落とした人々は、370年たってもいまだに引き裂かれている。・・・(中略)・・・四郎のみならず、ここに籠城した人々の振興は、超能力が求心力となったり、終末思想が強調されたりするなど、本来のキリスト教の教義からはかなり逸脱した精神世界に見える。神父不在の中で、いかに人々の心の中のキリスト教が変容していたかがわかる。」
そして、書き継いでいきます。
「原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。」

五野井隆史氏の『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館、2014)に以下の指摘がありますので参考までに引用します。

「「マルチリヨの心得」は1597年2月の26人の殉教事件直後に作成されたとされ、迫害弾圧が熾烈化していた1620、30年代にもキリシタンには重要な教えであり、信仰の支えとなっていた。島原において庄屋層が先頭に立って蜂起し、キリシタンたちも彼らに呼応して参加し原城に籠ることになった時に、彼らがマルチリヨの「勧め・心得」を顧慮しなかった」ことはなかった筈である。・・・(中略)・・・圧政と飢餓の厳しい現実が彼らに決断を迫ったのであり、このことが、積年にわたるキリシタン信仰弾圧へのわだかまりに火を点けることになったと考えられる。」

著者の星野さんは「原城を世界遺産に!」という幟に違和感というか、空虚感を表明しています。「殺された人たちが今なお、慰霊されていない」という実感、「弾圧された側の末裔がいない」という指摘は鋭く重いです。かつて、「お上」がキリシタンをなぶり殺しにしたことを、現代の公務員たちが世界にアピールする覚悟はあるか、と問いかけているのです。

「殉教」の定義について『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』(ドンボスコ社、2008)から引用したのち、「殉教は無抵抗、非暴力が必須条件であるため」、島原の乱の犠牲者が殉教者と認められないことに言及し、疑問を感じておられるようです。

それでも、この「ペトロ岐部と187殉教者」の列聖に関心をいだいた著者は、次のような思いも伝えてくれます。

「私個人はカトリック教会の教義にはついていけない部分がある。しかし、少なくともこの「あなたを忘れない」というすさまじいほどの執念には、目を見開かされる。・・・・・記憶するために、調査し、記録する。そして伝え続ける。それはそっくりそのまま、私たち日本人が最も不得意、あるいは意図的にやろうとしないことではないだろうか。」
思いがけない視点から、列福・列聖の大切な意味を教えいただきました。

『福音宣教』(オリエンス宗教研究所)5月号に著者の星野博美さんのインタビュー記事があり、次の発言などを興味深く読ませていただきました。

「聖人崇敬など、特にカトリックには温かみがあり、典礼を重んじる点など、日本人の心性に合っている部分があると思います。だから、遠藤周作氏の小説を読むと違和感を持つことがあります。遠藤氏が触れた当時の西洋キリスト教をもとに、自分の中にある東洋と西洋の葛藤をキリシタンの時代に投影してしまったのではないかという疑問を持っています。その西洋コンプレックスを軸にしてキリシタンの時代を見ると、」見間違えることがたくさんあると思う。これは世代差なのかも知れませんが、私たちの世代はもっとフラットに世界と向き合える気がします。」

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』は心に響く視座に満ちています。

sawarabiblog at 12:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年04月07日

『バラカ』を読み終えて

3b280da5.jpg朝日新聞3月27日の書評(筆者は明治学院大学教授の原武史氏)が印象に残りましたので、さっそく桐野夏生さんの新刊『バラカ』(集英社、2016)を読みました。さまざまな媒体で著者からのメッセージを目にする機会も多く、気になる作品でした。原武史氏の書評はエピローグにまで触れているので、結末を楽しみにしている方は、その箇所には目をつぶる方がよいかもしれませんが、「すぐれた小説家は同時にすぐれた思想家でもある。」と松本清張を引き合いに、平成を照らし出す小説家として著者の桐野夏生さんを評価しておられることに私は興味を持ちました。書評の一部を引用します。

「古来、洋の東西を問わず、思想家はあるべき政治や社会の理想像を語ってきた。だが桐野夏生は、ユートピアではなく、ディストピア(暗黒郷)を徹底して描こうとする。一見正反対なその手法は、現実を逆照射する点で、思想家に通じるものがあると思う。かつては松本清張の推理小説が現実との鋭い緊張関係を保っていた。清張が昭和という時代を照らし出す小説家だったとすれば、桐野夏生もまた平成という時代を照らし出す小説家といえる。」

この指摘がきになり、小説の構成や文体までも、松本清張作品のように感じられてきました。作品の評価としては、この書評で十分満たされているのですが、一読者として私なりに心に響いた箇所を拾い出しておきます。

SF小説といえるかもしれません。設定は、地震と津波によって原発が爆発し、東半分が壊滅した後の2019年の日本です。いわばパラレルワールドですが、首都機能が大阪に移っていて、東京からは人々が逃げだしているのです。サスペンス小説ともいえるハラハラドキドキ感も満載ですが、何よりも震災後の日本にとって、決してあってはならない日本の姿がおぞましい。それは虚構ではなく、私たちがいま体験している現実の社会を照射していると感じられるからこそ怖いのです。

タイトルになっている「バラカ」とは、震災後に警戒区域で発見された一人の少女の名前です。ただし「バラカ」は本名ではありません。「神の恩寵」を意味していると説明されますが、人身売買される子供に共通につけられた名前という設定ですが、何とも皮肉なネーミングです。この少女は日系ブラジル人夫婦の子として生まれたのですが、さまざまな事情で夫婦が離れ離れになったことが原因で、中東のドバイで人身売買にかけられてしまうのです。そして日本人によって買われた「バラカ」がたどる運命は・・・・・

この日系ブラジル人夫婦は、ブラジル人が多く働く群馬県のO市で結ばれた仲でしたが、結婚後になって夫であるパウロ(佐藤隆司)の行いに愛想がつきた妻のロザは、プロテスタント系の宗教団体「聖霊の声」に傾倒していきます。この教会の牧師(ヨシザキ)との夫の確執が、物語の次の展開につながります。多彩な人物の描写を通じて現代を浮き上がらせているのでしょう。この教会ですが、拠点とする建物を新たに作ることなく、元映画館やボーリン議場、廃工場などの古い建物を利用して活動しています。またテレビチャンネルやインターネットを利用して信者を獲得しているようです。牧師が、宣教のよりどころにしているキーワードは「失敗のサイクル」、一人一人が人生に失敗するきっかけを持っていて繰り返すということを意味しているようです。パウロにとっては、飲酒や暴力がその原因ではないかと牧師は示唆します。夫婦はともに日本人を祖先に持ち、日本人の顔と体を持っているけれど、日本に居場所を見いだせない生きにくさをかかえていることは共通しているのですが、ストレス発散の方向、心持ちがすれ違ってきていたのです。しかし、夫のパウロは牧師から妻を引き離すことを目的に、そして何より自らの「失敗のサイクル」を絶つために、労働者を募集しているというドバイ行きを決断します。しかし、その行動が裏目に出ます。

ドバイは人口の8割が他国から来た労働者から成っていて、生粋のドバイ人はほんのひとにぎりだが、結婚と同時に一軒の家を与えられ裕福な生活を保障されるというのですが、外国人労働者には厳しい世界で、パウロはすぐに失業します。ドイツに更なる出稼ぎに向かいますが、妻子がドバイで行方不明になったことを知るのです。妻子を探すため、パウロは、やむなく「聖霊の声」教会の牧師を頼るという始末です。この牧師は物語の展開において思わぬ形で再登場します。

大震災を経験したのちに、牧師は詩編を引用した説教の準備を行います。
「放射能に毒されつつある父祖の大地に、肉を捧げ、血で雪ぎ、骨を埋めます。・・・なぜそんなことができるのか。簡単です。神が私とともにおられるからです。」
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いをおそれません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩編23)

物語の重要な登場人物ですが、川島という存在は不気味です。おぞましい風貌と行動から、「悪魔」といってよい存在として描かれています。この人物が、牧師の思いをその肉体をも傷つけて断ち切るのです。聖なるものへの対峙が、生々しく描かれていると感じました。

さて、主人公の「バラカ」はどうなったのでしょうか。被曝がもとで甲状腺がんの手術を受けることにもなります。そして反原発派の人々との出会いを糧にしつつも、いつしか原発をめぐる生々しい政治の渦中に巻き込まれていきます。ドラマは三部構成になっていて、第2部では震災が描かれますが、全体としては近未来小説となっていて第3部では震災から8年後、つまり2019年が描かれます。小説の世界では東京も放射能汚染のために半ば壊滅状態といってよく、オリンピックも舞台は大阪に移っています。その廃墟といえる東京で物語は大いに展開します。原発推進派と反対派の狭間で「バラカ」は人権を蹂躙される扱いを受けていきます。虚構の世界ですが、ちょっと歯車が狂い出せば、そうなるかもしれないリアル感も漂わせてくれます。考えてみれば、ナチスが闊歩していた時代が、現実世界にも存在していたと考えるだけでも、ぞっとさせられます。

著者の桐野さんがインタビューに答えている記事をいくつか拝見しました。

「今の政治の流れは恐ろしい。秘密保護法ができてしまい、都合の悪いことは隠してしまおうという世の中です。」(『赤旗』日曜版2016年4月3日号)

「震災後、特に顕著な傾向に、レイシズム(人種差別)やミソジニー(女性嫌悪)があって、男性性を誇示するためだけに女を支配する川島はその象徴ですね。」(週刊ポスト2016年4月8日号)

許せない現状に立ち向かう毒のある小説といえます。登場人物の川島とはユートピアならぬ、デストピア(理想が崩れた暗黒世界)の象徴的な存在として描かれているのです。
これは余談になりますが、ドバイについて次の記述が気になりました。「パウロはドバイに来て初めて、この世は金さえあれば不可能はないと知った。」

どういうことでしょうか。

「最大の贅沢は、巨額の金を使って海水を淡水に変え、毎日何回も水遣りをして、不毛の砂漠を美しい緑の土地に変えたことではないだろうか。」

金の威力が絶大ならば、原発の安全対策も無尽蔵に金を消費することによって可能だといえるかもしれません。あえて言えば、少しでもケチるくらいなら地震大国の日本に危険な原発を設置すべきではないともいえます。

大変なインパクトを与えてくれる物語が、生まれたことに感謝します。

sawarabiblog at 11:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年03月04日

『ヤマネコ・ドーム』から見えてくるもの

c01df1d9.jpg著者の訃報を知り、『ヤマネコ・ドーム』(津島佑子著、講談社 2013)を読み直しました。東日本大震災の生々しい記憶と、戦後70年が重なって、ちょうど私たちの生きてきた時代を照らす位相を提示してくれた作品だとあらためて感じた次第です。すでにこの世から放たれた人たちも、なお生き続けている人たちも思念の底によどんでいる何かに突き動かされつつもがいています。戦後70年に問われたことは何かと、考えざるを得なくなりました。

混血孤児たちが主人公ですが、両親を知らない少女が事故か事件か不明なまま命を落としたのは、ずっと前のことになってしまっています。その出来事は、ゆかりのあった孤児たちと、近隣に住む少年、そして孤児たちと親しい付き合いのあった日本人少女に、心に深い傷を残していきます。

物語の冒頭、コガネムシが群がり葉を食い荒らしている映像が迫ってきます。主人公の混血孤児のひとりのミッチには、そのコガネムシの群れの中から今は亡きもうひとりの混血孤児カズの姿が写しだされてくるのです。津浪被害と原発事故という日本に発生した緊急事態!それはかつて、ミッチが赴いたブルターニュの「魔法使い」がもたらした予言の実現でもあったのでした。

「放射能を浴び、それが刺激となって異常発生した虫たちは、自分たちの食欲で時間を食いつぶしていく。」

おぞましい光景です。そしてヨン子には、いつしか水面に浮かぶ女の子の姿が見えてくるのです。「オレンジ色のスカートが水の動きになびき、髪の毛がふわふわ波立つ。」この記憶が、彼らを常に追いつめています。

ミッチは思います。
「日本は世界でいちばん、いやな国だ、と今まで呪いつづけてきた。・・・けれど、ミッチは日本で起きた津浪と原発事故を知って気がついた、日本が大きらいだってことは、日本にそれだけ関心があったことになるんだ、と。」

物語のアウトラインを、書籍紹介のページなどを参照しながら、以下に記します。

アメリカ兵と日本人女性との間に生まれたミッチとカズは、「ママ」に引き取られて暮らすことになりますが、同じような境遇で施設に暮らす子どもたちや、ママのいとこの子であるヨン子がいました。ある日、オレンジ色のスカートをはいたミキちゃんが池で溺死する事件が起こります。ター坊という母子家庭で育つ少年がミキちゃんを池に突き落としたのではと疑いがもたれています。その後、彼らが大人になってから、オレンジ色の衣服を身につけた若い女性が殺害される事件が起こり、かつての出来事が想起されてきます。ミッチはブルターニュに赴きそこで「魔法使い」から日本が滅亡するという予言や、「得体の知れない魔物が居すわる」という言葉を聴きます。また周囲の森にヤマネコがいる古城を訪れるのですが、そこは生者と死者がともにいる気配を漂わせる場所でもありました。

ミキちゃんというフランス人形のようなかわいい女の子の水死が、発端です。主人公のふたりの男の子は「ママ」に双子のように育てられていました。「髪の毛が縮れた黒い男の子」カズと、「肌の白い、鼻のとがった男の子」であり、そして彼らと身近な存在であったヨン子です。彼らは、かくれんぼうの最中にミキちゃんの水死の現場に立ち会ってしまったのです。その場には、母子家庭の少年ター坊もいたのでした。切ないのは、ミキちゃんも孤児ですから悲しんでくれる肉親がいないということですね。 

「津波の孤児」日本で起こった出来事にミッチは強く反応せざるを得なかったのです。この小説の世界は、時代が交錯していることもあって、かなり読み辛いのですが、再読してストーリーの交通整理が出来ました。混血孤児たちは、周囲からは疑われるべき存在だったので彼らの保護者たちは、ひとまず彼らを日本から脱出させたのです。しかし、大人になる前に、あるいはすっかり大人になってからでも、日本に戻ってくるのです。逃げるところはなかったということでしょうか。

この物語は、わが国の現在の為政者には、到底理解できない創造世界でしょう。津島さんが残してくれたこの虚構の世界を見つめ直すことは、とても大切な作業だと確信しました。悲惨な体験とその記憶から逃れるために、海外に向かったはずの孤児たちが吸い寄せられるように日本に戻ってきたことは、私たちの未来に光を照らしてくれているのだと思います。

生きていくのにははなはだ重い「罪の意識」の共有をかかえた彼らが、もう一度気持ちを奮い起します。余震に身震いする日々を過ごしながら、生き残ったミッチとヨン子ですが、ター坊の母親を汚染された東京から救い出すという行動に突き進みます。どんなに嫌な国であっても最後は見届けないわけにはいかないというメッセージが託されているような終章でもあると思いました。

予言をした「魔法使い」もまた罪の意識を抱いています。そしてミッチよ、悲惨な現実の中で生き抜いてくれと言い残しています。

巻末に、アメリカの核実験はビキニ環礁だけでなくエニウェトク環礁でも行われ、その結果除染作業で生じた汚染物質を集めて現地に作った巨大ドーム「ルニット・ドーム」がルニット島に作られたことが記されています。表紙写真がそのドームです。

sawarabiblog at 18:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年02月26日

『あなたにとって神とは?』に学ぶ

084e2689.jpg真生会館学習センターで、現在も続けられている講座のひとつである「森司教とともに読む読書会」に参加しています。(現在、真生会館は建替工事中のため隣接のマリアの御心会に会場を移して続けられています。)
2回にわたって『あなたにとって神とは?』(森一弘著、女子パウロ会)を課題図書にした分かち合いが行われました。森司教が話されたことも踏まえて、感想を認めます。

ご著書の第一章「神頼みの神からの脱却」で、森司教は、東日本大震災を目の当たりにした藤原新也氏の嘆きについて言及しています。その嘆きは、「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」というタイトルに現われていて、「神は人を殺した」とまで述べているだけに信仰者として真剣に向き合う必要を感じられてのだと思います。ずばり、藤原氏の神理解は間違いだと指摘しています。藤原氏の神理解には、神とは人間思考の産物であり、言い換えれば実在ではなく「願望の所産」であるとしているのです。人びとは「神頼み」しますし、日常生活に神は浸透しているという前提があり、しかしながら人々の願いに「神」は答えてくれないばかりでなく、東日本大震災のようなむごい仕打ちもされると理解されているのです。この神理解の背景には、「神は全知全能であり、天地の創造主である」というこれまでキリスト教が強調し伝えてきたことにも責任があるということを、述べつつ森司教は神理解に再考を促されています。

それでは、森司教が伝えたい神理解とはどのようなものでしょうか。
天地創造の神は、基本的には事物がそれぞれの本性に刻み込まれた「法」に沿って動き展開していくことを望んでいます。大自然の営みに対して、神は直接に働きかけているわけでもなく、人間の心を思うままにコントロールしているわけでもないのです。そのために、人間にとっては不条理と思われる出来事を避けることが出来ないのです。人びとは、その現実の中にあって、自分はいかに受けとめ生きていくのかを問われているのだということになります。苦しい現実の中で、人生に光を見出せる人は幸いと言えます。
私たちの素朴な思いとしては、神と自然の脅威を同一視してしまいがちです。罰する神を強調してきた宗教者側の説明にも確かに責任があるのかもしれません。私たちの認識として、慈しみ深い神と、怒る神が同居しているようにも思います。認識を改める必要がありそうです。

キリスト教理解を深めるために、含蓄に富む著書であることは間違いありません。読み進めていて、気にかかり読み違えないように理解に努めようとした箇所がありました。
「初代教会がキリストを旧約の世界と結び付けようとした真の狙いは、メシアを待ち続けるイスラエルの人々に対する説得ではなく、キリストの誕生とその生涯の歩みの背後に「歴史の中に働く」神の姿があると伝えることにあったと理解したほうが、すっきりする。」という文章表現がありました。ここに森司教の神理解を解くカギがあるように思いました。

福音書はユダヤの民にわかりやすく、キリストの登場の意味を伝えようとしました。旧約聖書を引用しつつ、メシアの登場の必然性を訴えています。

ピラトがイエスに「お前は王なのか」とたずね、最後に人々の前に引出し赤いマントを着せます。これはイザヤ53章の引用です。その人は王でありながら奴隷の姿で現れています。あるいは、ヨハネ19章には、兵士たちがイエスを十字架にかけてから、その服を取り、分けようとしたとありますが、さらにそれは「彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いた」と聖書の言葉が実現するためであったと書いているのです。ちなみに、その言葉は、詩編22篇にあります。
「骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

福音書は旧約聖書の言葉を引用して物語を紡いでいきますが、ユダヤの民にとって、手っ取り早くわかり易い比喩になっているといえます。歴史的な出来事の中に神の言葉が実現していることが伝えられているわけです。一方、律法学者たちはこのような神の姿を否定していました。、福音書は、旧約の人々を超えるメンタリティを伝えていると森司教はおっしゃっておられました。それは当時の律法学者では解釈できないメッセージだったといえるのかもしれません。メシアの登場と生涯の完成は、聖書の解釈を超えているものだったのです。

「マタイ福音書の冒頭に掲げられている系図の狙いは、アブラハムから始まりキリストに至るまでの長い歴史の中で、人々に希望を与えるために働き続けた神が全世界の人々に開かれていくことを証しすることにあったといえる。」と森司教は書いておられます。

神が手を差し伸べるのは、自然の脅威を見せつけることでもなく具体的な人々の営みを見守りながら、あわれみをさしのべることのようです。

カトリック教徒の作家は少なくないけれど、遠藤周作さんほどの知名度のある方はないでしょう。森司教は、遠藤周作さんの問いかけに応えようとされています。

森司教は、遠藤さんの問いかけに「心の奥のもっと深いところに宗教的な渇望が潜んでいる」と指摘しています。
最後の長編作品『深い河』は、遠藤文学の集大成と言われています。登場人物は、それぞれに悩み、傷つき、罪の意識にさいなまれながらもがき、苦しむ人たちです。『深い河』の大津の存在は、キリスト教界にとっては危険なものだったようですが、遠藤さんの重い主題が、読みやすい文章で語られています。

少し前になりますが、山我哲雄さんの随筆「イエスの最後の言葉」(『図書』2015年7月)を読み、刺激を享けました。イエスの最後の言葉を理解するために、マタイとルカがいかに努力と工夫をこらしたかを考察しています。その行為から実は、マルコに記されているイエスの言葉の信憑性が裏付けられるとも書いています。いずれにせよ福音記者はイエスが神への信頼を失っていないことを、記述しようとしているのです。

イエスは十字架にかけられたとき、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とつぶやきます。これは、アラム語で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味であると、福音記者マルコは伝えます。神への絶望、断末魔の叫びです。それでも神は見捨てないと言えるのでしょうか?

遠藤周作さんは「無力なイエス」と表現します。「受難物語までのイエスと受難物語のイエスのあまりに大きな違い。一方は力あるイエスであり、他方は無力なるイエスである。」(『イエスの生涯』)

重要なテーマになりますが、考え続けていきます。

sawarabiblog at 12:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)