2016年06月29日

イタリア旅行の思い出

83c6af6e.jpg6月3日(金)〜14日(火)の12日間、イタリア旅行に出かけました。船橋学習センター・ガリラヤでアンドレア神父の美術講座を学んでいるグループが中心の巡礼の旅です。主要な見学地は、ミラノ、ヴェネティア、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマです。記憶に残る体験のいくつかを記します。

(1) 旅の始まりは、ミラノ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に対面できたことに感動しました。損傷が著しく、かつレオナルドの原画に上塗りされたことで、修復前は改ざんともいえる状態だったそうです。部屋に入るために複数の扉を通ることで外気との接触を減らす工夫をしています。一回に入場する人数を限定し、15分間という時間制限もありました。幸運だったのは写真撮影が可能になっていましたので、この目で見た実物を載せておきます。もともと、サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会の食堂だったところ、修道士たちが席についてこの壁画のもとでパンと葡萄酒を味わっていた光景も想像します。とはいえ、それが壁画の保存とってはマイナス要因のひとつでもありました。イエスの足元が描かれていたかもしれない箇所は、ドアを作る為に破壊され残っていないのですから、受難を象徴するかのような存在といっていいのかも知れません。

(2)旅行中にはたくさんのミケランジェロ作品と出会っています。ダビデ像を制作して評判の高まったミケランジェロには多くの注文が寄せられました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、十二使徒像の制作依頼があったのですが、さまざまな事情から「マタイ」を作りかけたところで中断を余儀なくされました。フィレンツェのアカデミア美術館で、圧倒的な迫力のダビデ像を見ましたが、制作途中のミケランジェロ作品を見ることが出来るということは、幸運な体験のひとつと言えます。シエナ大聖堂(後述)のピッコローミニ祭壇に4人の聖人像がありました。これもミケランジェロの作品かと言われています。「ダビデ」と「マタイ」の間の時期と考えられているようです。(木下長宏『ミケランジェロ』中公新書、2013 を参照しました。

(3)シエナはカンポ広場で年2回行われる競馬パリオが有名です。貝殻様の美しい姿の広場を埋め尽くす観衆の興奮した息遣いが伝わります。ここから坂を上がると大聖堂が現れます。感動です。私たちはバスが到着して、最初は聖ドメニコ聖堂、そして聖カテリーナの至聖所を訪ねました。カテリーナは1347年生まれ、裕福な家庭の23番目の子供で、普通の生活をという両親の願いと異なり修道生活に生涯を捧げます。キリストと同じ33歳で帰天しました。食が細く、自分が吐き出したものを食べたという驚きのエピソードも伝わります。教会分裂時代、教皇にアビニョンからローマに戻るよう伝える使者になったそうです。ご聖痕も受けたとのこと、アシジのフランシスコに通じますね。晴れ渡りすがすがしい日和にも満足して、大聖堂を訪れたあと昼食になりました。ところが、昼食後は雨模様、バスが駐車している場所まで戻るまでには、かなりの土砂降り!思いがけない試練でした。そしてアッシジに向かいました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に着くと、アンドレア神父を歓迎するご家族が、待っておられました。教会の中には、ボルチウンクラという小さなチャペルがあり、聖フランシスコの教会改革の思いを今に伝えています。特別のご配慮をいただいて、アンドレア神父とともに巡礼の皆で祈りの時を過ごすことも出来ました。アッシジは、どこも見ても美しいところです。宿泊先の修道院も心地よく、感謝の思いがこみ上げてきました。

(4)バチカンを背にでは教皇司式のミサに与る幸運を得て、昼食後はローマ市内をアンドレア神父の案内で散策しました。サンタンジェロ城がその存在感を示してくれました。テヴェレ川右岸にある城塞で、正面にはサンタンジェロ橋があります。もともとは、映画『テルマエ・ロマエ』に登場していることでおなじみのハドリアヌス帝の霊廟でした。この霊廟建設にあたって、皇帝自らが関与したといわれています。「五賢帝」のひとりであるハドリアヌスは、先帝の軍事作戦を中止、戦後処理を行い、軍部反対勢力を粛清、辺境の防備を固めることを優先しながら、防衛戦争や内覧鎮圧には武力行使をためらわなかったというのですが、その後、皇帝の性格を一変させる出来事が起こります。地方巡幸の旅において、謎の美少年アンティノオスを伴っていたのですが、この少年はナイル遡航の途中に、溺死してしまいます。ハドリアヌスは「弱々しい女のように泣き崩れた」と伝わります。このエピソードは、『テルマエ・ロマエ』にも描かれていて印象的でした。ハドリアヌス帝はパンテオンを甦らせています。今回は内部に入る機会はありませんでしたが、広々としたのびやかな空間に満たされています。後年、ブルネレスキが訪れ、研究した成果がフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋の設計に刻まれていることも、興味深いエピソードのひとつです。(藤沢道郎『物語イタリアの歴史供拊羝新書、2004 を参照しました。)

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2016年06月18日

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』に寄せて

bc8aa0bc.jpg前回、感想を記した『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』には、第殉教と宣教師のかかわりについて、見逃すことのできない視点を提示してくれていて興味深く読みました。

徳川家康の禁教令は、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して布告された。教会の破壊と布教の禁止が命じられたのです。宣教師たちは長崎に集められ、そこからマカオやマニラに向かうことを命じられた。慶長19年9月)追放された人びとが出帆した。マニラへの船には高山右近も載っていました。
ところが、帰国せず宣教を続けた宣教師たちもいました。その一人、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父(フランシスコ会)は、長崎に潜伏するのではなく司牧のために江戸に向かいます。この神父の生きざまを著者は描いています。ソテロ神父が建てた浅草の頼病院に身をひそめながら司牧を続けていた神父ですが、遂に、1615年4月とらえられてしまいます。1615年8月、スペイン国王フェリペ3世の親書を携えたサン・ファン・バウティスタ号が浦賀に入ります。親書の受取は拒絶されますが、交易をあきらめきれない向井将監の取りなしがあり、サン・フランシスコ神父はこのスペイン船の帰国に便乗することになりました。1616年9月、船は出帆しました。ところが、大村で宣教活動を続け捕縛されたファン・デ・サンタ・マルタ神父(日本205福者殉教者のひとり)は、この船に乗ることもなく殉教しています。サン・フランシスコ神父の処世を批判しているようにも受け取れる書簡が残されています。

その批判を受け止めたかのように、サン・フランシスコ神父は再び日本の地を踏みます。マニラ経由で長崎に渡来し、江戸でも活動、1630年代前半までの消息が知られています。著者の星野さんは、「自分が助命されたことへの贖罪意識が、彼を生き延びさせたのではないだろうか。」と記します。

宣教師一人一人の思いに、心を寄せることは難しいことですが、フランシスコ会士とはこのような方々であり、今でも同じ心でしょうか。先日、アッシジを訪問したばかりですので共感を覚えます。

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2016年05月26日

読みかけの本ですが・・・

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2015)を読んでいます。著者の星野博美さんは、写真家でノンフィクション作家。「キリシタンの世紀」に思いをはせて、自らの体験を重ねながら殉教の地を訪ねます。

ミッション系の大学に進学するのあたり宗教欄に「キリスト教(求道中)」と書いたことを、宗教を利用したと告白するあたりの記述の好感が持てます。受洗者であるよりも、直にご自分の気持ちに向き合って歴史の跡をたどってくださっていることで、読み手としても肩の力を抜いて読んでいけます。キリスト教信仰についても、新鮮な驚きを随所に披露しているエピソードも面白い。たとえば、幼児洗礼をうけたクラスメートに出会い、「クリスチャンは世襲できるのか」と驚くのです。考えてみれば、キリスト教は特別な宗教という意識があったという思いを伝えていますが、それは日本人の平均的な意識なのでしょう。この本を勧めてくださったのは同じ教会に所属する信徒の方、その感動を共有できることにもなりました。まだ、読了していませんが、とりあえず感想を綴ります。

著者の関心には、楽器リュートへの憧憬から南蛮文化への興味が深まり、さらに一族の出身地である御宿・岩和田の歴史にも導かれて、キリスト教への関わりを探っていますが、あたかも同時代にタイムスリップしたかのような感覚を読み手である私たちにもたらしてくれます。若桑みどりさんの名著『クワトロ・ラガッツィ』に描かれた世界を、再認識させてくれるばかりはなく、若桑さんとは一味違ったキリシタン時代への感情移入の個人差の妙味を楽しむことにもなりました。著者はすでに、自らのルーツを訪ね歩いた『コンニャク屋漂流記』という作品を発表しておられることも知りました。この作品は、その延長線上にある作品ともいえるようです。

専門書では絶対に表現しない思いが綴られます。例えば、ポルトガル、スぺイン、オランダとの外交をめぐる交渉にあたる家康を評して、「彼はまるで、二股をかけて男を翻弄する小悪魔的な女のようだ。」と書いています。老獪な政治手腕を、こんな風に伝えるとは・・・

祖先の地岩和田での出来事、サンフランシスコ号の難破は1609年9月のこと。
「ロドリゴは幸運だった。漂着でなく、船が木端微塵に壊れる難破だったのも幸運だ。乗員全員が丸腰になったのはよかった。」
こんな感想を述べていおられますあまりにもみじめな姿だったので、日本人としては刈られに同情を禁じ得ない遭ほどの大変な遭難だったのでしょう。

ミッションスクールに通われたことで、キリスト教に対する好意的な思い入れがあるように感じます。著者は導かれるように「殉教」の現場に向かいます。原城の死者に思いをはせながら、私にとっても難問といえる「島原の乱」の犠牲者たちへの思いが素直に吐露されています。
「原城にはこうして仏式、神式、キリスト教式の教えが混在しているのだった。ここで命を落とした人々は、370年たってもいまだに引き裂かれている。・・・(中略)・・・四郎のみならず、ここに籠城した人々の振興は、超能力が求心力となったり、終末思想が強調されたりするなど、本来のキリスト教の教義からはかなり逸脱した精神世界に見える。神父不在の中で、いかに人々の心の中のキリスト教が変容していたかがわかる。」
そして、書き継いでいきます。
「原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。」

五野井隆史氏の『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館、2014)に以下の指摘がありますので参考までに引用します。

「「マルチリヨの心得」は1597年2月の26人の殉教事件直後に作成されたとされ、迫害弾圧が熾烈化していた1620、30年代にもキリシタンには重要な教えであり、信仰の支えとなっていた。島原において庄屋層が先頭に立って蜂起し、キリシタンたちも彼らに呼応して参加し原城に籠ることになった時に、彼らがマルチリヨの「勧め・心得」を顧慮しなかった」ことはなかった筈である。・・・(中略)・・・圧政と飢餓の厳しい現実が彼らに決断を迫ったのであり、このことが、積年にわたるキリシタン信仰弾圧へのわだかまりに火を点けることになったと考えられる。」

著者の星野さんは「原城を世界遺産に!」という幟に違和感というか、空虚感を表明しています。「殺された人たちが今なお、慰霊されていない」という実感、「弾圧された側の末裔がいない」という指摘は鋭く重いです。かつて、「お上」がキリシタンをなぶり殺しにしたことを、現代の公務員たちが世界にアピールする覚悟はあるか、と問いかけているのです。

「殉教」の定義について『ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド』(ドンボスコ社、2008)から引用したのち、「殉教は無抵抗、非暴力が必須条件であるため」、島原の乱の犠牲者が殉教者と認められないことに言及し、疑問を感じておられるようです。

それでも、この「ペトロ岐部と187殉教者」の列聖に関心をいだいた著者は、次のような思いも伝えてくれます。

「私個人はカトリック教会の教義にはついていけない部分がある。しかし、少なくともこの「あなたを忘れない」というすさまじいほどの執念には、目を見開かされる。・・・・・記憶するために、調査し、記録する。そして伝え続ける。それはそっくりそのまま、私たち日本人が最も不得意、あるいは意図的にやろうとしないことではないだろうか。」
思いがけない視点から、列福・列聖の大切な意味を教えいただきました。

『福音宣教』(オリエンス宗教研究所)5月号に著者の星野博美さんのインタビュー記事があり、次の発言などを興味深く読ませていただきました。

「聖人崇敬など、特にカトリックには温かみがあり、典礼を重んじる点など、日本人の心性に合っている部分があると思います。だから、遠藤周作氏の小説を読むと違和感を持つことがあります。遠藤氏が触れた当時の西洋キリスト教をもとに、自分の中にある東洋と西洋の葛藤をキリシタンの時代に投影してしまったのではないかという疑問を持っています。その西洋コンプレックスを軸にしてキリシタンの時代を見ると、」見間違えることがたくさんあると思う。これは世代差なのかも知れませんが、私たちの世代はもっとフラットに世界と向き合える気がします。」

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』は心に響く視座に満ちています。

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2016年04月07日

『バラカ』を読み終えて

3b280da5.jpg朝日新聞3月27日の書評(筆者は明治学院大学教授の原武史氏)が印象に残りましたので、さっそく桐野夏生さんの新刊『バラカ』(集英社、2016)を読みました。さまざまな媒体で著者からのメッセージを目にする機会も多く、気になる作品でした。原武史氏の書評はエピローグにまで触れているので、結末を楽しみにしている方は、その箇所には目をつぶる方がよいかもしれませんが、「すぐれた小説家は同時にすぐれた思想家でもある。」と松本清張を引き合いに、平成を照らし出す小説家として著者の桐野夏生さんを評価しておられることに私は興味を持ちました。書評の一部を引用します。

「古来、洋の東西を問わず、思想家はあるべき政治や社会の理想像を語ってきた。だが桐野夏生は、ユートピアではなく、ディストピア(暗黒郷)を徹底して描こうとする。一見正反対なその手法は、現実を逆照射する点で、思想家に通じるものがあると思う。かつては松本清張の推理小説が現実との鋭い緊張関係を保っていた。清張が昭和という時代を照らし出す小説家だったとすれば、桐野夏生もまた平成という時代を照らし出す小説家といえる。」

この指摘がきになり、小説の構成や文体までも、松本清張作品のように感じられてきました。作品の評価としては、この書評で十分満たされているのですが、一読者として私なりに心に響いた箇所を拾い出しておきます。

SF小説といえるかもしれません。設定は、地震と津波によって原発が爆発し、東半分が壊滅した後の2019年の日本です。いわばパラレルワールドですが、首都機能が大阪に移っていて、東京からは人々が逃げだしているのです。サスペンス小説ともいえるハラハラドキドキ感も満載ですが、何よりも震災後の日本にとって、決してあってはならない日本の姿がおぞましい。それは虚構ではなく、私たちがいま体験している現実の社会を照射していると感じられるからこそ怖いのです。

タイトルになっている「バラカ」とは、震災後に警戒区域で発見された一人の少女の名前です。ただし「バラカ」は本名ではありません。「神の恩寵」を意味していると説明されますが、人身売買される子供に共通につけられた名前という設定ですが、何とも皮肉なネーミングです。この少女は日系ブラジル人夫婦の子として生まれたのですが、さまざまな事情で夫婦が離れ離れになったことが原因で、中東のドバイで人身売買にかけられてしまうのです。そして日本人によって買われた「バラカ」がたどる運命は・・・・・

この日系ブラジル人夫婦は、ブラジル人が多く働く群馬県のO市で結ばれた仲でしたが、結婚後になって夫であるパウロ(佐藤隆司)の行いに愛想がつきた妻のロザは、プロテスタント系の宗教団体「聖霊の声」に傾倒していきます。この教会の牧師(ヨシザキ)との夫の確執が、物語の次の展開につながります。多彩な人物の描写を通じて現代を浮き上がらせているのでしょう。この教会ですが、拠点とする建物を新たに作ることなく、元映画館やボーリン議場、廃工場などの古い建物を利用して活動しています。またテレビチャンネルやインターネットを利用して信者を獲得しているようです。牧師が、宣教のよりどころにしているキーワードは「失敗のサイクル」、一人一人が人生に失敗するきっかけを持っていて繰り返すということを意味しているようです。パウロにとっては、飲酒や暴力がその原因ではないかと牧師は示唆します。夫婦はともに日本人を祖先に持ち、日本人の顔と体を持っているけれど、日本に居場所を見いだせない生きにくさをかかえていることは共通しているのですが、ストレス発散の方向、心持ちがすれ違ってきていたのです。しかし、夫のパウロは牧師から妻を引き離すことを目的に、そして何より自らの「失敗のサイクル」を絶つために、労働者を募集しているというドバイ行きを決断します。しかし、その行動が裏目に出ます。

ドバイは人口の8割が他国から来た労働者から成っていて、生粋のドバイ人はほんのひとにぎりだが、結婚と同時に一軒の家を与えられ裕福な生活を保障されるというのですが、外国人労働者には厳しい世界で、パウロはすぐに失業します。ドイツに更なる出稼ぎに向かいますが、妻子がドバイで行方不明になったことを知るのです。妻子を探すため、パウロは、やむなく「聖霊の声」教会の牧師を頼るという始末です。この牧師は物語の展開において思わぬ形で再登場します。

大震災を経験したのちに、牧師は詩編を引用した説教の準備を行います。
「放射能に毒されつつある父祖の大地に、肉を捧げ、血で雪ぎ、骨を埋めます。・・・なぜそんなことができるのか。簡単です。神が私とともにおられるからです。」
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いをおそれません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩編23)

物語の重要な登場人物ですが、川島という存在は不気味です。おぞましい風貌と行動から、「悪魔」といってよい存在として描かれています。この人物が、牧師の思いをその肉体をも傷つけて断ち切るのです。聖なるものへの対峙が、生々しく描かれていると感じました。

さて、主人公の「バラカ」はどうなったのでしょうか。被曝がもとで甲状腺がんの手術を受けることにもなります。そして反原発派の人々との出会いを糧にしつつも、いつしか原発をめぐる生々しい政治の渦中に巻き込まれていきます。ドラマは三部構成になっていて、第2部では震災が描かれますが、全体としては近未来小説となっていて第3部では震災から8年後、つまり2019年が描かれます。小説の世界では東京も放射能汚染のために半ば壊滅状態といってよく、オリンピックも舞台は大阪に移っています。その廃墟といえる東京で物語は大いに展開します。原発推進派と反対派の狭間で「バラカ」は人権を蹂躙される扱いを受けていきます。虚構の世界ですが、ちょっと歯車が狂い出せば、そうなるかもしれないリアル感も漂わせてくれます。考えてみれば、ナチスが闊歩していた時代が、現実世界にも存在していたと考えるだけでも、ぞっとさせられます。

著者の桐野さんがインタビューに答えている記事をいくつか拝見しました。

「今の政治の流れは恐ろしい。秘密保護法ができてしまい、都合の悪いことは隠してしまおうという世の中です。」(『赤旗』日曜版2016年4月3日号)

「震災後、特に顕著な傾向に、レイシズム(人種差別)やミソジニー(女性嫌悪)があって、男性性を誇示するためだけに女を支配する川島はその象徴ですね。」(週刊ポスト2016年4月8日号)

許せない現状に立ち向かう毒のある小説といえます。登場人物の川島とはユートピアならぬ、デストピア(理想が崩れた暗黒世界)の象徴的な存在として描かれているのです。
これは余談になりますが、ドバイについて次の記述が気になりました。「パウロはドバイに来て初めて、この世は金さえあれば不可能はないと知った。」

どういうことでしょうか。

「最大の贅沢は、巨額の金を使って海水を淡水に変え、毎日何回も水遣りをして、不毛の砂漠を美しい緑の土地に変えたことではないだろうか。」

金の威力が絶大ならば、原発の安全対策も無尽蔵に金を消費することによって可能だといえるかもしれません。あえて言えば、少しでもケチるくらいなら地震大国の日本に危険な原発を設置すべきではないともいえます。

大変なインパクトを与えてくれる物語が、生まれたことに感謝します。

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2016年03月04日

『ヤマネコ・ドーム』から見えてくるもの

c01df1d9.jpg著者の訃報を知り、『ヤマネコ・ドーム』(津島佑子著、講談社 2013)を読み直しました。東日本大震災の生々しい記憶と、戦後70年が重なって、ちょうど私たちの生きてきた時代を照らす位相を提示してくれた作品だとあらためて感じた次第です。すでにこの世から放たれた人たちも、なお生き続けている人たちも思念の底によどんでいる何かに突き動かされつつもがいています。戦後70年に問われたことは何かと、考えざるを得なくなりました。

混血孤児たちが主人公ですが、両親を知らない少女が事故か事件か不明なまま命を落としたのは、ずっと前のことになってしまっています。その出来事は、ゆかりのあった孤児たちと、近隣に住む少年、そして孤児たちと親しい付き合いのあった日本人少女に、心に深い傷を残していきます。

物語の冒頭、コガネムシが群がり葉を食い荒らしている映像が迫ってきます。主人公の混血孤児のひとりのミッチには、そのコガネムシの群れの中から今は亡きもうひとりの混血孤児カズの姿が写しだされてくるのです。津浪被害と原発事故という日本に発生した緊急事態!それはかつて、ミッチが赴いたブルターニュの「魔法使い」がもたらした予言の実現でもあったのでした。

「放射能を浴び、それが刺激となって異常発生した虫たちは、自分たちの食欲で時間を食いつぶしていく。」

おぞましい光景です。そしてヨン子には、いつしか水面に浮かぶ女の子の姿が見えてくるのです。「オレンジ色のスカートが水の動きになびき、髪の毛がふわふわ波立つ。」この記憶が、彼らを常に追いつめています。

ミッチは思います。
「日本は世界でいちばん、いやな国だ、と今まで呪いつづけてきた。・・・けれど、ミッチは日本で起きた津浪と原発事故を知って気がついた、日本が大きらいだってことは、日本にそれだけ関心があったことになるんだ、と。」

物語のアウトラインを、書籍紹介のページなどを参照しながら、以下に記します。

アメリカ兵と日本人女性との間に生まれたミッチとカズは、「ママ」に引き取られて暮らすことになりますが、同じような境遇で施設に暮らす子どもたちや、ママのいとこの子であるヨン子がいました。ある日、オレンジ色のスカートをはいたミキちゃんが池で溺死する事件が起こります。ター坊という母子家庭で育つ少年がミキちゃんを池に突き落としたのではと疑いがもたれています。その後、彼らが大人になってから、オレンジ色の衣服を身につけた若い女性が殺害される事件が起こり、かつての出来事が想起されてきます。ミッチはブルターニュに赴きそこで「魔法使い」から日本が滅亡するという予言や、「得体の知れない魔物が居すわる」という言葉を聴きます。また周囲の森にヤマネコがいる古城を訪れるのですが、そこは生者と死者がともにいる気配を漂わせる場所でもありました。

ミキちゃんというフランス人形のようなかわいい女の子の水死が、発端です。主人公のふたりの男の子は「ママ」に双子のように育てられていました。「髪の毛が縮れた黒い男の子」カズと、「肌の白い、鼻のとがった男の子」であり、そして彼らと身近な存在であったヨン子です。彼らは、かくれんぼうの最中にミキちゃんの水死の現場に立ち会ってしまったのです。その場には、母子家庭の少年ター坊もいたのでした。切ないのは、ミキちゃんも孤児ですから悲しんでくれる肉親がいないということですね。 

「津波の孤児」日本で起こった出来事にミッチは強く反応せざるを得なかったのです。この小説の世界は、時代が交錯していることもあって、かなり読み辛いのですが、再読してストーリーの交通整理が出来ました。混血孤児たちは、周囲からは疑われるべき存在だったので彼らの保護者たちは、ひとまず彼らを日本から脱出させたのです。しかし、大人になる前に、あるいはすっかり大人になってからでも、日本に戻ってくるのです。逃げるところはなかったということでしょうか。

この物語は、わが国の現在の為政者には、到底理解できない創造世界でしょう。津島さんが残してくれたこの虚構の世界を見つめ直すことは、とても大切な作業だと確信しました。悲惨な体験とその記憶から逃れるために、海外に向かったはずの孤児たちが吸い寄せられるように日本に戻ってきたことは、私たちの未来に光を照らしてくれているのだと思います。

生きていくのにははなはだ重い「罪の意識」の共有をかかえた彼らが、もう一度気持ちを奮い起します。余震に身震いする日々を過ごしながら、生き残ったミッチとヨン子ですが、ター坊の母親を汚染された東京から救い出すという行動に突き進みます。どんなに嫌な国であっても最後は見届けないわけにはいかないというメッセージが託されているような終章でもあると思いました。

予言をした「魔法使い」もまた罪の意識を抱いています。そしてミッチよ、悲惨な現実の中で生き抜いてくれと言い残しています。

巻末に、アメリカの核実験はビキニ環礁だけでなくエニウェトク環礁でも行われ、その結果除染作業で生じた汚染物質を集めて現地に作った巨大ドーム「ルニット・ドーム」がルニット島に作られたことが記されています。表紙写真がそのドームです。

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2016年02月26日

『あなたにとって神とは?』に学ぶ

084e2689.jpg真生会館学習センターで、現在も続けられている講座のひとつである「森司教とともに読む読書会」に参加しています。(現在、真生会館は建替工事中のため隣接のマリアの御心会に会場を移して続けられています。)
2回にわたって『あなたにとって神とは?』(森一弘著、女子パウロ会)を課題図書にした分かち合いが行われました。森司教が話されたことも踏まえて、感想を認めます。

ご著書の第一章「神頼みの神からの脱却」で、森司教は、東日本大震災を目の当たりにした藤原新也氏の嘆きについて言及しています。その嘆きは、「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」というタイトルに現われていて、「神は人を殺した」とまで述べているだけに信仰者として真剣に向き合う必要を感じられてのだと思います。ずばり、藤原氏の神理解は間違いだと指摘しています。藤原氏の神理解には、神とは人間思考の産物であり、言い換えれば実在ではなく「願望の所産」であるとしているのです。人びとは「神頼み」しますし、日常生活に神は浸透しているという前提があり、しかしながら人々の願いに「神」は答えてくれないばかりでなく、東日本大震災のようなむごい仕打ちもされると理解されているのです。この神理解の背景には、「神は全知全能であり、天地の創造主である」というこれまでキリスト教が強調し伝えてきたことにも責任があるということを、述べつつ森司教は神理解に再考を促されています。

それでは、森司教が伝えたい神理解とはどのようなものでしょうか。
天地創造の神は、基本的には事物がそれぞれの本性に刻み込まれた「法」に沿って動き展開していくことを望んでいます。大自然の営みに対して、神は直接に働きかけているわけでもなく、人間の心を思うままにコントロールしているわけでもないのです。そのために、人間にとっては不条理と思われる出来事を避けることが出来ないのです。人びとは、その現実の中にあって、自分はいかに受けとめ生きていくのかを問われているのだということになります。苦しい現実の中で、人生に光を見出せる人は幸いと言えます。
私たちの素朴な思いとしては、神と自然の脅威を同一視してしまいがちです。罰する神を強調してきた宗教者側の説明にも確かに責任があるのかもしれません。私たちの認識として、慈しみ深い神と、怒る神が同居しているようにも思います。認識を改める必要がありそうです。

キリスト教理解を深めるために、含蓄に富む著書であることは間違いありません。読み進めていて、気にかかり読み違えないように理解に努めようとした箇所がありました。
「初代教会がキリストを旧約の世界と結び付けようとした真の狙いは、メシアを待ち続けるイスラエルの人々に対する説得ではなく、キリストの誕生とその生涯の歩みの背後に「歴史の中に働く」神の姿があると伝えることにあったと理解したほうが、すっきりする。」という文章表現がありました。ここに森司教の神理解を解くカギがあるように思いました。

福音書はユダヤの民にわかりやすく、キリストの登場の意味を伝えようとしました。旧約聖書を引用しつつ、メシアの登場の必然性を訴えています。

ピラトがイエスに「お前は王なのか」とたずね、最後に人々の前に引出し赤いマントを着せます。これはイザヤ53章の引用です。その人は王でありながら奴隷の姿で現れています。あるいは、ヨハネ19章には、兵士たちがイエスを十字架にかけてから、その服を取り、分けようとしたとありますが、さらにそれは「彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いた」と聖書の言葉が実現するためであったと書いているのです。ちなみに、その言葉は、詩編22篇にあります。
「骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

福音書は旧約聖書の言葉を引用して物語を紡いでいきますが、ユダヤの民にとって、手っ取り早くわかり易い比喩になっているといえます。歴史的な出来事の中に神の言葉が実現していることが伝えられているわけです。一方、律法学者たちはこのような神の姿を否定していました。、福音書は、旧約の人々を超えるメンタリティを伝えていると森司教はおっしゃっておられました。それは当時の律法学者では解釈できないメッセージだったといえるのかもしれません。メシアの登場と生涯の完成は、聖書の解釈を超えているものだったのです。

「マタイ福音書の冒頭に掲げられている系図の狙いは、アブラハムから始まりキリストに至るまでの長い歴史の中で、人々に希望を与えるために働き続けた神が全世界の人々に開かれていくことを証しすることにあったといえる。」と森司教は書いておられます。

神が手を差し伸べるのは、自然の脅威を見せつけることでもなく具体的な人々の営みを見守りながら、あわれみをさしのべることのようです。

カトリック教徒の作家は少なくないけれど、遠藤周作さんほどの知名度のある方はないでしょう。森司教は、遠藤周作さんの問いかけに応えようとされています。

森司教は、遠藤さんの問いかけに「心の奥のもっと深いところに宗教的な渇望が潜んでいる」と指摘しています。
最後の長編作品『深い河』は、遠藤文学の集大成と言われています。登場人物は、それぞれに悩み、傷つき、罪の意識にさいなまれながらもがき、苦しむ人たちです。『深い河』の大津の存在は、キリスト教界にとっては危険なものだったようですが、遠藤さんの重い主題が、読みやすい文章で語られています。

少し前になりますが、山我哲雄さんの随筆「イエスの最後の言葉」(『図書』2015年7月)を読み、刺激を享けました。イエスの最後の言葉を理解するために、マタイとルカがいかに努力と工夫をこらしたかを考察しています。その行為から実は、マルコに記されているイエスの言葉の信憑性が裏付けられるとも書いています。いずれにせよ福音記者はイエスが神への信頼を失っていないことを、記述しようとしているのです。

イエスは十字架にかけられたとき、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とつぶやきます。これは、アラム語で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味であると、福音記者マルコは伝えます。神への絶望、断末魔の叫びです。それでも神は見捨てないと言えるのでしょうか?

遠藤周作さんは「無力なイエス」と表現します。「受難物語までのイエスと受難物語のイエスのあまりに大きな違い。一方は力あるイエスであり、他方は無力なるイエスである。」(『イエスの生涯』)

重要なテーマになりますが、考え続けていきます。

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2016年01月28日

歴博の特集展示「夷酋列像」に思う

804a0d4b.jpg国立歴史民俗博物館では、特集展示「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」が開催されています。(2月7日(日)まで)
ブザンソン美術考古博物館に所蔵されている蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物の手になる「夷酋列像」の里帰り展示がメインの意欲的な展示です。(北海道博物館・国立民族学博物館と本館の三館の連携展示)

この絵画が描かれた背景に興味がわきます。
1669(寛文9)年のシャクシャインの闘いの後、松前藩は各地のアイヌから賠償品を徴収、藩への忠誠を誓わせます。アイヌは「商場」に封じ込まれ、松前藩や倭人との交易に依存するようになります。18世紀には、運上金を課して商人にすべてを任せる「場所請負制」が成立します。「場所」というのは、もともとのアイヌの村落共同体に対応して設定した商業領域を指しています。沿岸地と比べ、比較的伝統的社会が保たれていた内陸部も徐々に、場所請負人から自由ではなくなってきます。

クナシリ・メナシのアイヌの蜂起が起こるのは1789年(寛政元)年のことです。クナシリの場所請負人となっていた飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが、当時クナシリでは強大な勢力を誇っていた長人ツキノエがラッコ漁で不在中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した事件です。北海道本島のメナシ地方のアイヌもこれに応じて、和人商人を襲っています。71名の倭人が殺害されるという大事件ですが、松前藩は260名の軍勢を派遣して鎮圧します。その指揮官の一人が蠣崎波響です。

蜂起の首謀者とみなされた37名が処刑され、軍勢はその首級を携えて凱旋します。アイヌの長人イコトイ、ションコ、ツキノエらは、松前藩に協力的だったのですが、蜂起した者に対して松前藩のは穏便な処置を望んだにもかかわらず、厳罰が課せられてしまいました。蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があるとされた12人の肖像画を描いていますが、それが今回展示されている「夷酋列像」ということになります。

先日、歴博友の会の民俗学講座「フランス人が見たアイヌ民族19世紀後半を中心に−」(講師は内田順子准教授)を聴講しました。「夷酋列像」と直接関連しているということでもないのですが、アイヌ文化を理解する一助となる内容でした。フランス人として、初めてサハリンに上陸、アイヌ民族と接触したラ・ペルーズは彼らの知性、物腰の柔らかさ、威厳を備えた態度を称賛しています。それから100年後に北海道に上陸したパリ外国宣教会のメルメ・カション神父はアイヌの村を探訪した体験をもとにした記述をまとめ出版しているそうです。ちなみに、カション神父ですが、事情は不明ですが、のちに破門されているとのこと、神父をやめてからは外交官として活躍したそうです。このように、あまり認識されることの少ない史実を知るとてもいい機会でした。カション神父が、「夷酋列像」をフランスにもたらした人物の可能性があるとのことでしたが、先日放映されたNHK『日曜美術館』の番組の中では残念ながら、この点については、言及されませんでした。

内田先生はアイヌ民族として初めてのカトリック洗礼についても触れられました。パリ外国宣教会のベルリオーズ司教が、室蘭で世話になった家族や、長崎から迫害を逃れてきた男性の妻に授けています。その洗礼記録が今日なおカトリック室蘭教会に残っていたとのこと、内田先生が室蘭教会で写真の撮影を申し出たところ快く応諾してくださったそうです。カトリックの宣教の歴史をたどるといった興味も深まりました。(展示図録の論考を参照・記述しています。)

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2015年12月31日

東山彰良『流』が描いた世界

5cb00eaa.jpg直木賞受賞作『流』(東山彰良)を読みました。あまりにも評判がよいので、思わず手に取りました。祖父にまつわる物語という程度しか予備知識はなく、小説の舞台が台湾であり、さくしゃの東山さんは台湾出身の方だということも初めて知りました。
エピローグは、読み手としてはおかしみを感じさせる場面でありながら、祖父がかつて中国大陸で行った所業が浮き彫りにされるシーンを描き出します。小説のテーマを見通す、謎が提示されています。

本編は、1975年、蒋介石総統が亡くなり、「牧歌的」の蒋経国に権力が移行したころに、祖父が殺されるといういきなり波乱の幕開けです。
「祖父は山東省の生まれで、纏足をしていた曾祖母の腹から生れ落ちるや、まだ目も開いてないはずなのに、狐火を見たと言い張った。」という伝説を持っています。お狐様の予言に従い共産主義者と戦う戦列に加わります。祖父からは具体的な戦闘を聞くことはなかったものの、父から聞いたところでは、抗日戦争当時から、残薬を節約するために、捕まえた敵は生き埋めにしたとのこと。かなり華々しいアクションシーンが描かれる物語の展開のなかにあって、登場人物で、高校教師という父親の存在は影が薄いように思えるのですが、著者の東山さんの父親こそ、扉の次に載っている下記の詩の作者であり、小説の主人公に深く影響を与える設定になっていることに思い当たりました。

魚が言いました‥わたしは水の中でくらしているのだから
 あなたにはわたしの涙が見えません   王璇「魚問」より

大陸にいたころからの祖父の仲間だった李爺爺や郭爺爺が語る昔話に、歴史的背景を知ることが出来ます。「王克強(ワンコオチャン)」という日本軍の間諜となった人物によって多くの村がつぶされたという。祖父の親兄弟が殺された事件をきっかけに、今度は祖父が相棒を伴い王克強を殺しに行ったという。この連鎖を、どこかで断ち切らなければ終わらないのです。
読後に、戦争とは何かを考えさせられることしきりです。

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2015年12月26日

中島京子『長いお別れ』

b21a9766.jpg是非読んでみたいと思っていました。読み終えて、さわやかな風が通り過ぎていく思いでした。一言、「お疲れ様でした」と誰かに言いたくなる。

誰に言いたいのだろうとふと、考えます。介護に格闘した家族にだけ向けられているわけでもないのです。周囲を振り回し、傍若無人にふるまったかに見える一人の老人が旅立ったことへの、そしてその人生がゆるぎないものであったことへの、限りない敬意を表しているのです。ほのぼのとし情感に包みこまれて、後味の良い物語になっています。

アメリカのハイスクールの校長先生の言葉として紹介されていますが、認知症をアメリカでは「長いお別れ(ロンググッドバイ)と呼ぶらしい。それは・・・
「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」
作者本人の介護体験が、ベースになっていることを知りました。それだけに、リアリティがある読み物になっていることがわかります。

同窓会の会場がある駅に到着したのに、そこに来た理由がわからなくない帰宅してしまった出来事が、主人公の東昇平さんの病気が家族に顕在化したことを示すエピソードとして語られています。初期のアルツハイマー型認知症と診断され、進行を遅らせるための薬が処方されます。「認知症は直らないけれど進行を遅らせることはできます」というのは、現在でも治療に対する共通理解なのでしょうか。アリセプトという薬を私の父にも、飲んでもらっていたことを思い出しました。

物語の主役の東昇平さんはかつて区立中学の校長や公立図書館の館長をつとめたようなインテリですので、思いもかけないところで能力の一端を披露してくれます。孫に何回も小遣いを渡して喜ばれもしますが、デイサービスで行われる漢字テストでは優秀な成績をおさめ、あまり化で生活する孫にとっては読めない漢字をすらすら読み、「蟋蟀」といった字をこともなげに書いてしまうので、尊敬されもします。孫の名前も憶えていない、おじいさんなのですが、・・・。その能力を褒めると、その理由を孫に伝えるのに、「相撲」、「発明」、「金槌」といった関連性のない言葉が次々に飛び出します。おじいちゃんはどうも、「昔取った杵柄」とでも言いたかったようです。どこまでが、経験に裏打ちされているエピソードなのかはわかりませんが、笑いを誘われるシーンです。

私の父の場合ですが、食べたばかりの昼食なのに、食べことを思い出せなくなっていた初期症状の頃ですが、入院中の母の見舞いに行くためにタクシーに同乗したことがありますが、運転手にてきぱきと行き先を指示しているので、驚いたことがあります。家庭内で崩れかけていても、対外的にはしっかりしている時期もあったな、と思い返しています。

物語では、亡くなった教員仲間で親友だった中村先生の通夜に参列したとき、友人たちに向かって「ところで、中村はどうした?」と尋ねるエピソードなどが、ユーモラスに描かれていますが、こんな風に病状は緩やかに進行していきました。家族だけでなく、友人たちにも病気であることが知られます。

東昇平さんの意識により添って書かれているところがあり、印象的でした。脳トレタイムがお気に入りで、ビデオ鑑賞は苦手、「退屈が嵩じると射得に帰りたい気持ちが起きてくる。どうでもいいからここを出て、一人になりたいような気もする。」母がお世話になった介護付き老人ホームでも、時おり映画鑑賞をしていましたが、最後まで見ていられる老人が少なかったことを思い出しました。集中力が持続しないのでしょうね。すぐに飽きて、その場から退場してしまいます。周囲には、わがままに映る状況を、本人の目で描写してくれているわけです。

この物語の味わい深さを受け止めています。

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2015年12月15日

安保法制について考える講演会in生田

1e946456.jpg自宅からはかなり遠いのですが、11日(金)明治大学生田キャンパスまで足を運びました。「安保法制について考える講演会in生田」という催しがあると知り、参加しました。このキャンパスの一角には明治大学平和教育登戸研究所資料館があります。
館長の山田朗先生の講演が最初にありました。生田キャンパスは、かつて旧日本陸軍によって開設された陸軍登戸研究所が建っていたところですが、戦後になって明治大学がこの土地を取得したそうです。この研究所は、秘密戦兵器・資材を研究・開発していて、正式名称は「第九陸軍技術研究所」というのですが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていたのです。明治大学博物館友の会の行事で、訪問したことがあります。(ブログでも紹介しました。2012年02月21日)
講演で山田先生は陸軍登戸研究所の歴史から学びつつ、今日の安保法制の危険性を指摘されました。すでに「特態秘密保護法」が成立していますので、憲兵に相当する軍事警察の設置が必然になるとのこと、すでに憲法の卵(自衛隊情報保全隊)が存在していて、スパイ機関が設置につながることを指摘されました。「憲兵」とは、本来警察しかない逮捕権を持つ存在です。戦争とは、いきなり発生するものではありません。平時にこそ準備されています。護衛艦はすでに大型化され空母に匹敵するなど着々と装備が整えられ、実質的に兵器の準備が進んでいることを説明して下さいました。
次いで、お二人目の講演は、専修大学文学部元教授・専修大学史編集副主幹の新井勝紘先生でした。国立歴史民俗博物館にお勤めだったこともあって親近感のある先生です。「五日市憲法草案」を中心テーマに話されました。
2013年11月、皇后美智子妃は誕生日の宮内庁記者会見での質問への回答文書で、「五日市憲法草案」にふれ「近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。(中略)市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」と述べたと報道されたことからお話を始められました。美智子妃を感銘させたその「五日市憲法草案」とは、どのようなものなのか。新井先生に導かれながら、着目点を記します。嚶鳴社草案を参照しながら、独自の憲法草案を作りあけたこと、そのための討議が重ねられていたらしいことも、あらためて知ることが出来ました。今の日本国憲法につながる思想を読みとることができます。
開かずの蔵であった深沢家の土蔵を最初に開けたのは、1968年8月のこと、研究者としてこれだけの大発見に遭遇するのは稀有のことらしい。大学4年で、歴史的現場に立ち会った新井先生は大学教員となり、今年で定年を迎えたとのこと、「五日市憲法草案」は東京都指定有形文化財となっています。
「五日市憲法草案」が参照した嚶鳴社草案と比較すると、同文の箇所は意外と少なく、嚶鳴社草案に該当条文がない箇所も多く国民の権利に力点を置いた独自の案として考えられていることがわかります。
同時に発見された討議題集(深沢権八手録)には63項目ありますが、例えば「自由ヲ得ルノ捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」・・・つまり自由の権利を獲得するための近道は、知恵によるか暴力に訴えるか・・・「増税ノ利害」「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」「女帝ヲ立ツルノ可否」・・・興味深い議題が続いています。そのほかに「私擬五日市討論会概則」という史料があり討論のルールを定めています。その内容を見ると、意外と厳しく「発議者ハ新規ノ論旨ヲ挙ケテ之ヲ説明スルノ権利ヲ有セス、前キニ述ヘシ所ノ論旨ニ依リテ答弁スルヲ得ヘキノミ」とあって途中で意見を変えることはできないと定めています。
土蔵を開けるきっかけとなったのは、利光鶴松という方の存在でした。千葉卓三郎は夭折しますが、そのあとに教員となった利光鶴松さんという方は、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)の創業者なのですが、手記を残しています。「深澤権八氏ハ五日市地方ノ豪農ニテ頗ル篤学ノ人ナリ」と記し、しかも東京の出版物は何でも深澤家の書庫にあり自由に読めたというのです。この自由なコミュニティを羨望の念を持って思わざるを得ません。
「五日市憲法草案」は、地方自治権についても言及されています。
「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサル者トス」
私たちが享受している「日本国憲法」に通じる思想性の高みが感じられます。知られているように、「日本国憲法」の作成にあたっては、鈴木安蔵さんらの憲法研究会案を参照しているのですが、植木枝盛の憲法草案がベースになっています。
限られた時間内でのお話でしたが、エッセンスをお話しいただきました。
岩手県久慈市の小田為綱家文書から発見された「憲法草稿評林」という史料についても言及されました。この史料は元老院起草の憲法草案を批判したもので、ひとつの憲法構想といえるものですが、皇統が断絶したときは「統領」を選出するとの記述あり、共和制にふれた稀有の憲法草案といえるとのことです。国民の意識がここまで進んでいたとは言えないだろうが、記憶すべきものだと指摘されたことが印象に残りました。学ぶことの多かった集いでした。

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