2014年08月28日

『佐倉学 浅井忠展』

6c5a53da.jpg佐倉市立美術館で開催中(9月7日まで)の『佐倉学 浅井忠展』には、美術館所蔵の『にわとり』を含め多くの作品が展示されています。浅井忠は、幕末の安政3年(1856)に、佐倉藩士・浅井常明の長男として生まれ、変革の時代を生き抜くことになります。
佐倉藩主・堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどしたことから開明派でしたが、阿部正弘が退いた後の老中首座となり日米通商条約の勅許を求めるために上京します。しかし、ご承知の通り攘夷論者の孝明天皇には却下されてしまいます。その後の政局は、井伊大老の登場となり、堀田は失脚することになります。主君・堀田の無念と重なるように、浅井の父親は文久3年(1863)この世を去っています。
浅井忠が、生まれたのは江戸木挽町の佐倉藩中屋敷でしたが、こうした幕末の変革の過程で、参勤交代制の緩和令が施行され、藩士たちは国元に変えることになります。まだ幼少と言える年齢の浅井は佐倉市将門町に移住し、少年期の10年の歳月を佐倉の地で過ごすことになります。佐倉市ゆかりの画家とされる由縁です。
移住にあたって、佐倉城下には江戸詰めだった藩士たちが住むことのできる屋敷地がなかったため、新たに未墾地を与えるという措置がとられます。そして、幼少時に父を亡くし家督を相続した浅井が賜ったのが、将門町の土地だったわけです。武士の屋敷というのは、いわば社宅のようなものでしたが、佐倉に与えられた土地は、開墾を伴っていたとはいえ、自己所有地となります。おそらく親族や知人に助けられながら、成長を遂げたことでしょう。
画業を志すきっかけは、地元で黒沼槐山(くろぬま かいざん)から日本画を学んだこともあるのですが、のちに東京の工部美術学校でイタリア人画家のフォンタネージから洋画を学んだことが大きい。知名度を比べれば、同時代の黒田清輝には及ばないようですが、日本における洋画界のパイオニアとして輝く存在と言えましょう。
16歳で佐倉を離れ、家族で上京します。佐倉はもはやかつての佐倉藩ではなくなっていたようです。寄留先の西村茂樹に学ぶとともに、英語を箕作秀坪の三叉学舎で学んでいます。郷土の大知識人である西村の後援があったのは、将来性を見込まれる若者のひとりだったのでしょう。また成島柳北からは漢籍の指導を受けたとのことですが、「天地間無用の人」を標榜した成島との出会いは、浅井に何を与えたのでしょうか。太田治子さんは、浅井の「黙語」という雅号にその影響を読み取っています。(太田治子『夢さめみれば』)
政府が設立した工部美術学校で、フォンタネージと出会います。残念なことにフォンタネージは病を得てわずか2年で帰国してしまいます。必ずしも順風満帆とは言えない修業時代だったようです。工部美術学校には山下りんも在籍しておりフォンタネージから学んでいます。ちなみに、フォンタネージの後任のフェレッティは技術的ならびに品性にも欠ける人物だったようで、浅井を含め多くの退学者を出します。山下りんは、フェレッティを評して「言語にかからぬ大ヘタ者の来りて」と手厳しい評価を下しています。この混乱の後に、アッキレ・サンジョヴァンニが赴任し、山下は月謝も免除され、助手にも任命されたのですが、フォンタネージへの思い入れが強く、新しい師への不満もあって退学してしまいました。それが後世に残るイコン製作きっかけとなるロシア留学につながているのですから、人生とは不思議な巡りあわせで成り立っているといえますね
浅井たちの場合は、「十一会」を結成して研さんに励みます。日本の洋画界の発展は、やや水を差された状態になったといえるでしょう。ところで、山下りんですが、浅井の父親の弟と縁続きだった可能性があるようです。(前川公秀「佐倉学・浅井忠と浅井家の人々」、『佐倉学 浅井忠展 図録』)
浅井は、1879(明治12)年からは東京師範学校で指導に当たるとともに、教科書や雑誌の挿絵等で生計を立てます。1887(明治20)年に開催された、東京府工芸品共進会に出展された「農夫帰路」を『浅井忠展』で見ることができます。家路につくあどけない少女が、うつむきながら見つめる視線の先に何かがあるような表情が印象に残ります。写真を絵画材料として活用するのが、手法だったようで、この作品と同じポーズをした人物写真が佐倉市美術館所蔵の資料から見つかったとのことです。浅井は写真を絵画材料として取り入れると共に、絵画が不要なものを描かないことができる利点があることを述べています。(木邨かおり「洋画家・浅井忠について」、『佐倉学 浅井忠展 図録』)
さまざまな関心をいだかせてくれる展示です。主要な作品が一堂に会した展示は圧巻で、水彩画にも素晴らしい作品が目立ちます。先日、美術館で学芸員の木邨さんのお話を聴く機会がありました。美術館所蔵の『にわとり』ですが、ロンドンにいた夏目漱石を訪ねた際に描いたとする説がありますが、実は真偽不明のようで、製作年を確定するために調べることになったそうです。描かれているにわとりから探ってみようとして、品種を調べたところ、ヨーロッパのものであることは判明したけれど、もし輸入したものならば日本でも描けるので、これ以上のことはわからないというのが現在の結論のようです。

sawarabiblog at 15:08│Comments(0)TrackBack(0)

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