2014年09月24日

講演会『安倍晴明と陰陽道・天文道』

86ab6067.jpg山下克明氏の『安倍晴明と陰陽道・天文道−陰陽師と呪術と星』と題する明治大学博物館友の会主催の講演会が9月6日に行われました。
「陰陽道(おんようどう)」は、かつては日本において仏教・神道と並んで三大史宗教とも呼ぶべき存在でした。近年、話題として取り上げられる機会が増えたのは漫画や映画によって認知度が高まったためです。もっとも現代日本社会においても、日取りや方角の吉凶など、生活習慣として意識する人々が多いことは、潜在的な陰陽道の影響を否定できません。この講演は、いわば超能力者として、偶像化されている安倍晴明の実像を解き明かしてくれるものでした。
安倍晴明は実在の人物で、陰陽寮に所属する官人のひとりです。言い換えれば、官人陰陽師です。同時代史料にもしばしば登場するので、その実像を解明しやすい存在のようです。陰陽寮は、中国の隋・唐の時代において天文・暦・時刻を掌った秘書省管下の大史局と占術を掌った大常寺管下の太卜署の機能をあわせたものとして成立します。初見は『日本書紀』天武4年(675)条ですが、記事の続きに「占星台を興す」とあり天文知識の活用がなされていることがうかがえます。
陰陽師の職掌は\蠅き≪韻篋怎F時・方角の吉凶ですが、安倍晴明の年譜からその活動を読み説くと、上記のような「職員令」で規定する「占筮し地を相ること」の他に天文道にも通じていたことを知ることができます。平安時代には、陰陽師の職域が拡大し、天皇や貴族たちのための祓や、泰山府君祭などの呪術祭祀を行うようになります。その背景には、律令社会が破たんし、反乱や災害の発生といった社会不安の増大が貴族層の危機意識が高まったことにあると山下先生は分析されます。陰陽師は、社会的に欠くことのできない存在になっていました。
10世紀になって賀茂忠行・保憲父子が朝廷の信任を得るのですが、安倍晴明はその弟子とされていて保憲が亡くなったのちは長命だったこともあって陰陽道の第一人者として朝廷に奉仕した存在となりました。51歳の時、天文博士に任じられます。天文博士の職務は、天文観測で異変があれば、天文密奏を行うことになっています。天文書は密書なので、本来ならば天文占文は残存しないものとのことですが、晴明の子孫の実物が残されているそうです。天文書のひとつ、『三家簿讃』という中国の星座のカタログともいうべきものがありますが、中国古代の天文家石氏・甘氏・巫咸の三家の星座が赤・黒・黄に色分けされて図示されたもので若杉家文書に残されているそうです。
11世紀後半には、賀茂氏と安倍氏が二大陰陽師の家柄として、陰陽寮の主要官職を独占することになります。その賀茂氏と安倍氏がライバル関係にあったことを示す文書「大刀契の事」(若杉家文書、鎌倉後期の写本)があります。大刀契は宮中に安置された節刀・関契の総称、文書には霊剣の呪力。刻まれた星や四神などが記されていますが、天徳4年(960)の内裏火災で焼損した霊剣を晴明が翌年鋳造させたことを記しています。しかし、山下先生の考察によれば、この霊剣の鋳造は賀茂保憲を中心としたプロジェクトであり、当時の晴明は天文得業生に過ぎず、この文書の晴明の名前の下に「晴明すなわち造るなり」との追記があることの不自然さが指摘できるので、明らかに晴明の功績を強調する意図を読み取れるとのことです。
知られざる陰陽師の世界を垣間見させてくれる貴重な講演会でした。

sawarabiblog at 17:50│Comments(0)TrackBack(0)

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