2014年10月06日

古代史の面白さを再確認

c4bb50b4.jpg昨日は、台風接近中のために雨も激しく、出かけるのには不向きな一日でしたが、久しぶりに古代史の勉強のため出かけてきました。加藤先生の講座は続いていますし、明治大学博物館友の会の講座などで時々、勉強はしていますが、以前ほどの熱心さに欠けていると我ながら思っているところです。先日、「エクステンションセンター公開講座」のご案内はがきが届きました。思い切って出かけました。思い切ってというのは、会場が専修大学生田校舎とのこと、かなり遠距離ですので敬遠していました。したがって、生田校舎にうかがうのは初めてでした。受講したのは、次の2講座、それぞれ90分の「授業」です。

々嗅敝夘弑擬の「古代の女帝と正倉院宝物「厨子」〜その伝世の歴史を探る〜」
土生田純之教授の「川崎市の古墳時代を探る〜川崎市高津区蟹ヶ谷古墳群の調査から〜」

まず、荒木先生のお話ですが、タイトルの正倉院宝物である「赤漆文欟木御厨子」(せきしつぶんかんぼくのずし)(写真)の伝領の意味を、歴史的に読み解きくことにありました。この厨子は天武天皇の遺愛の品と言われるもので、献物張に「古様作」とあるのですでにオールド・ファッションになっていたようです。天武が亡くなった後は、持統天皇から文武天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇と代々の天皇に受け継がれ、孝謙天皇によって東大寺に献納されています。読み取れることですが、〜霾氷鳥劼竜載がないこと・・・王位継承のためのレガリアの性格がなく、男帝もしくは女帝だけ所持したわけでもない。即位した天皇に親子間で伝えられている。 元明天皇が伝領に介在していない・・・天武・持統系の王統によって所持されるために草壁の子である氷高=元正が受け取った。そして天武・持統の孫の聖武に受け継がれる。そして、孝謙天皇は「草壁」の日嗣として誕生し、俗世の伝領を絶つために東大寺=毘盧遮那仏へと寄進されます。
著名な、黒作懸佩刀が不比等を通じて草壁→文武→聖武へと渡されたとは異なる継承の姿を知ることができました。「赤漆文欟木御厨子」の伝領のプロセスからは、女帝=中継ぎとする議論がうすっぺらなものに感じられます。ご自身も話しておられましたが、荒木先生は、15年前に『可能性としての女帝』において、中継ぎ論を性差によって論じる陳腐さを語っておられた方だったことを思い返しました。

午後からの土生田先生は、前方後円墳1基を含む3基の古墳が確認された蟹ヶ谷古墳群の調査をもとに、地元の古代史を展望するというテーマで話されました。古墳の大小だけで首長権の大きさを論ずることを戒められていたのが印象に残っています。南武蔵には4世紀代に大型古墳の築造がみられます。宝来山古墳や野毛大塚古墳などよく知られています。ところが5世紀前半には、このような大型古墳は姿を消します。中心領域ではないと思われる地に、7世紀には国府(府中市)が設けられます。八王子の北大谷古墳を始めとして、府中市の熊野神社古墳、多摩市の稲荷塚古墳、三鷹市の天文台構内古墳など、切石使用の横穴室石室を持つ古墳の増築が続きます。熊野神社古墳と天文台構内古墳は上円下方墳であり、稲荷塚古墳は八角形古墳の可能性が高く、畿内における終末期古墳の最上位層に特徴的な墳墓と言えます。しかし北武蔵の勢力の衰退も考えにくいので、こうした7世紀における南武蔵の伸張、国府の設置を考え、北武蔵の勢力の移動を考えてみたいとお話になりました。『日本書紀』の武蔵国造の乱は、小杵が上毛野小熊と結び、使主が大和朝廷と結んで争い敗北した木杵が屯倉を献上した話ですが、献上した屯倉のひとつ「橘花」は現在の川崎市にあたります。上毛野と結んだのは北武蔵の勢力、それに対して南武蔵は大和朝廷に親しい勢力と見ることができるかもしれません。そこで、国府は南武蔵に置いたと考える合理性が生じます。もしくは、北武蔵から移動した勢力があったか・・・蟹ヶ谷1号墳(前方後円墳)は畿内の前方後円墳の最終段階にも通じる墳形を持っています。決して巨大とは言えない蟹ヶ谷古墳群からも、今まで見えなかった古代の姿がうかがえるようです。
うまく伝えきれませんが、昨日は古代史の面白さを堪能しました。(以上は、講義を聴いて印象的だった箇所を中心に、当日配布レジュメを参考に記したものです。)

sawarabiblog at 19:35│Comments(0)TrackBack(0)

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