2014年10月07日

キリスト教の布教と信長・秀吉

02b6e868.jpg今年のNHK大河ドラマは、シメオン(シモン)黒田官兵衛孝高が主人公となっていることから、キリスト教の布教の様相をうかがい知ることができます。高山右近の存在感は堂々たるものでしたが、さりげなく、おねの侍女マグダレナも登場していました。
今年5月に開講したカトリック船橋学習センター・ガリラヤでは、日本キリシタン史の第一人者の五野井隆史先生に、6月に続いて9月にもお越しいただいて講演していただきました。6月は、「江戸のキリシタン」がテーマでしたが、今回は大河ドラマの進行に重なるように「秀吉とキリシタン」をお話しいただきました。

ドラマに主人公の黒田孝高は、小西行長などの導きを得てキリシタンになりました。秀吉による禁教令が出され、高山右近が秀吉から信仰を捨てるように命じられ、応じなかったため改易されたことはよく知られています。秀吉はあえて、孝高に信仰を捨てるように命じませんでしたが、フロイスが報じたところによると、毛利氏との戦闘の途上で、彼を失うことをおそれたことに起因するようです。後に秀吉は、キリシタンである孝高に対して、知行割において、本来与えられるべき領地を削り豊前一か国に限定したのだと告げています。「おそらく秀吉は高山右近の堅い信仰を経験したため、またも著名な武将を失うまいと思って改宗せよとのはっきりした命令を下さず、むしろ心理的な圧力をかけて、黒田をはじめその他のキリシタン大名を次第に倒そうと試みたらしい。その時、信仰を控えめにする人も居たが、黒田の場合は逆効果となった。」(フーベルト・チースリク『キリシタン史考』聖母文庫、なお『カトリック生活』2014年1月号に五野井先生の論考があります。)

五野井先生は、秀吉のキリスト教の関わり方を、2期に分けて考察されました。分岐点となったのは、伴天連追放令が発令された1587年7月24日(天正15年6月19日)でした。キリシタン教会に好意的であった前半と、一転して大名および武将らのキリシタン信仰を禁じた後半に分けられます。伴天連追放令が発令されてもしばらくは一般のキリシタンに対する規制は緩かったのですが、1596年のサン・フェリーペ号事件を契機に秀吉のキリシタンに対する迫害は強まり、翌年2月の26聖人の殉教事件につながっていきます。内容は多岐にわたり、A4サイズの原稿13頁文と資料をいただきましたので、1時間半の講演では、五野井先生も十分に話しきれなかったように思います。

ところで、秀吉とキリシタンの関わりには前史がありますね。周知のようにキリスト教界は信長と出会います。布教にとって前向きな出来事だったと思われます。
わが国へのキリスト教の布教は、周知のようにフランシスコザビエルがトルレス神父と、修道士フェルナンデスとともに来日したことから始まります。京都の宣教は、ザビエルの日本滞在中には進展を見ることなく、困難をきわめていました。ザビエル一行の上陸から10年後になります。1559年トルレス神父は、ガスパール・ヴィレラ神父とイルマンのロレンソ(隻眼の琵琶法師)、そして同宿のダミアンの3人を京都に送り、本格的な宣教を開始します。異国人への蔑みや、仏僧の嫌がらせなども多く、彼らは安定した居所をなかなか得ることができなかったようです。ようやく1560年6月頃、四条坊門姥柳町に居を定め、教会とすることができました。キリスト教の保護者となってくれたのは、時の将軍・義輝、三か条の制札と呼ばれる允許状を得ることができたのです。これによってキリスト教への改宗者もありましたが、寺院や反キリシタン勢力によって、宣教師を京都から追放しようとする動きも活発になります。この状況の中で、ヴィレラ神父はいったん堺へ避難することを余儀なくされます。そして京都の戦乱はさらに帰還を困難にさせました。戦乱の原因の一端が彼らの宣教活動にあるとして、キリスト教迫害の口実とされたことをヴィレラは報告しています。
1565年、トルレス神父は、ヴィレラを援助するために新たに来日したフロイス神父とアルメイダを京都に送ります。京都に到着の数か月後、将軍・義輝が三好義継や松永久秀によって殺されてしまいます。(ちなみに松永久秀は、主君・三好長慶の死後は三好三人衆と時には協力し、時には争うなど畿内の混乱する政治情勢を演出した人物の一人という事になります。織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は信長に降伏して家臣となりますが、その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で自害して果てたと言われます。)
フロイスは、正親町天皇の綸旨によって京都から追放されます。(「大うすはらい」)
しかし、1568年、義昭を擁して、織田信長の軍勢が京都に進出します。天下の情勢は一変します。三好三人衆は阿波へと追い落とされ、松永久秀も降伏します。義昭は将軍となります。
堺に逃れていたフロイス神父は、和田惟政の助けを得て、1569年(永楽12年)に京都への帰還を果たします。フロイスは、将軍のために二条城を築城中で京都にいた信長に会う機会を得ました。フロイスはびろうどの南蛮笠、大きな鏡、孔雀の尾、ベンガル産の杖を持参していますが、信長は南蛮笠だけを受け取り、会いませんでした。その理由は、接待方法がわからず、また受け入れる心の準備が出来ていないからだと説明しています。さらに、惟政の尽力で、最初の引見が出来たのは4月19日頃(永禄12年4月3日)のこと、二条城の工事現場で会いますが、この時、フロイスはみやげに金平糖を持っていきました。この時は2時間ほどの対話が出来たようです。以後、度々フロイスは信長を訪問します。信長は、キリスト教の布教を助けるために、義輝の三か条にもとづいた朱印状を出します。しかし正親町天皇は「大うすはらい」の綸旨は有効であると論じ、信長と義昭の宣教師保護に異を唱えています。天皇をバックアップしたのが、朝山日乗という人物、日蓮宗の僧侶ですが、内裏修復につとめたため信長は禁裏修理奉行に任じています。

信長が岐阜に戻る前にフロイスは、ロレンソを伴って挨拶のため、宿舎としている妙覚寺に信長を訪問します。この時に秀吉が居あわせています。信長の前には朝山日乗上人がおり、彼とフロイスとの間に宗論がなされました。問答は2時間も続き、しびれを切らした朝山日乗は、霊魂の不滅を論じるフロイスへの反論として、ロレンソの腹を切り裂こうとします。さすがに、これは朝山日乗上人面目丸つぶれの不覚の行動と言わざるを得ませんが、この時はおさまったものの、キリスト教排除行動は、執拗に続けられます。

朝山日乗上人との宗論の場に居合わせた秀吉のことですが、1583年、オルガンティーノ神父がロレンソとともに秀吉を大坂城を訪問した際、この事件について言及し、「自分が信長の立場であったなら日乗を斬っていたであろう」と語っています。リップサービスなのかもしれませんが、朝山日乗の精神状態の異変を物語る出来事だったこたが知られます。

sawarabiblog at 13:58│Comments(0)TrackBack(0)

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