2014年10月31日

保阪正康さんのお話しを拝聴しました

0936b206.jpg土曜日の午後は、出来るだけカトリック船橋学習センター・ガリラヤで講座に参加するようにしています。先週(25日)は、ノンフィクション作家・評論家の保阪正康さんのお話しを拝聴しました。
タイトルは『戦前戦中における軍部とキリスト教』、戦前戦中における軍部が、いかに間違った道を歩んでいたのかを、説くことからお話を始められました。それは私たちの文化水準の問題であったことを知らされました。
何よりも当時の軍部は、政治をコントロールしたことがその過ちのだいいであるとのこと。20世紀においては、政治が軍事をコントロールするのが正道なのであって、逆ではないということです。軍事が優先すれば、際限なく戦争が継続することになりかねません。勝つまで終わらせないのです。さらに保阪さんは、戦略・戦術において反日本的文化が持ち込まれたと述べられました。「十死零生」と板書されましたが、生還確率がゼロという作戦など近代国家ではありえない。これは作戦というものではないと、言われます。飛び立つ兵たちの思いはいかがだったろうか。保阪さんはご自身が多くの聞き取りを行って、死にたくて飛び立った人間などいないと断言されます。お話しされる保阪さんの強い憤りが伝わります。日本には、こんなひどい死生観はなかった・・・さらにもう一つの間違いは、国際ルールを無視したことです。かつて日本は捕虜に対して人道的な扱いをしたことで知られていました。それを知っていた米兵は捕虜になることを厭いませんでした。ところが、この戦争においては捕虜に対する扱いは、残虐な扱いに終始したのです。保阪さんの、お話しを心に刻みました。

最近公表された、昭和天皇実録を読み解いておられますが、新しい資料の発見として、養育係として知られている足立たかさんのの他に「桑野鋭」という自由民権運動に関与した経験を持つ人物のお話しは印象に残りました。思いのほか皇室も開明的だったのかもしれません。幼年時代クリスマスのプレゼント交換が行われたという記述もあるとのことですが、足立たかさんのクリスチャンとのかかわりをあらためて考えると納得できるようです。父親の足立元太郎は 、札幌農学校2期生で、同期には新渡戸稲造や、内村鑑三らがいます。昭和天皇の作文はリベラルで人間的だったということですが、記憶にとどめておきたいです。

貞明皇后について言及されましたが、面白く聴かせていただきました。昭和天皇の実母でもあった貞明皇后ですが、自分の生んだ天皇が神の末裔と信じていたとのこと。天皇が宮中会議に熱心でないことを叱り、訪英に対しては大反対したなどエピソードは多いようです。貞明皇后の影響力の強さは、昭和29年8月、昭和天皇は北海道への巡幸に現れていました。岐路、札幌から羽田まで「初めて」飛行機に乗ったと昭和天皇実録に記録されています。「初めて」とわざわざ記載がある理由を考えてみると、26年5月に、貞明皇后が亡くなっていることに思い至るとのです。
貞明皇后の考え方を説明されました。天皇はこの世に降りてきたものとして大地にしっかり足をつけていなければならない。これが絶対的条件であるにも関わらず、飛行機に乗る、つまり浮遊することなどまかりならぬ、これこそが貞明皇后の信念だったというわけです。
その貞明皇后ですが、大正13年12月、新島八重に会うために同志社を訪問しています。皇后が大正から昭和にかけて天皇家でその差配を担った人物であることを、保阪さんはご著書で書いておられます。自らが生んだ4人の皇子の結婚を主導したのがその例だとのこと。秩父宮のパートナーとして会津の松平容保の孫、節子を選んでいます。それは八重を訪問して数年後の事(昭和3年6月)、明治維新の勝者と敗者の歴史的和解を取り持ったのです。(詳しくは『八重と新島襄』、毎日新聞社 参照)

余談になりますが、お話を聴きながら、貞明皇后について、原武史氏が『昭和天皇』(岩波新書)で言及していたエピソードを思い出します。貞明皇后の神がかった思いは、1945年歌会始で披露されたと推測される和歌、「かちいくさいのるとまゐるみやしろのはやしの梅は早さきにけり」から、いくさの勝利を祈り続けた心を読みとっています。皇太后という立場は、とても気にかかる存在です。

保阪さんは天皇を政治に関与させることがいかに歴史的にも間違いであることに気づかせてくれました。昭和天皇はバチカンと終戦工作を進めたかったであろうことなど、多くの含蓄ある話題を提供していただきあっという間の1時間半でした。聴き終えて、とても心地よい思いをいだかせていただいた講座でした。

sawarabiblog at 11:47│Comments(0)TrackBack(0)

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