2014年11月20日

豊臣政権とは何であったのか?

9dd72278.jpg今年の大河ドラマ『黒田官兵衛』を興味深く見ているせいか、秀吉の政権について考えさせ荒れています。ブログでは、以前に「秀吉は秀頼の父だったのかという問い」というタイトルで書いたことがありました。服部英雄先生がお書きになった『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)にふれたものです。秀吉には、多くの側室がいるのに永年に及び実子ができず、茶々(淀殿)にだけに生まれたというのはどう考えても不思議だと素朴に思い、共感して感想を述べました。大河ドラマでは、秀吉が亡くなり、関が原直前の様相が描かれています。淀殿と秀頼の運命やいかに・・・・

先日、と言っても10月末のことでしたが、三省堂書店で福田千鶴先生の『豊臣秀頼』(吉川弘文館)刊行記念出張講義(神保町ブックフェスティバルのプレイベントとのこと)があり聴講してきました。著書にもはっきり書いておられますが、服部説には反論され、秀頼は秀吉の実子であると断定されています。服部先生が、秀頼の誕生から逆算して秀吉の名護屋在陣中に茶々が在陣していないことも論拠にしていることに対して、福田先生は史料を提示して、在陣していると論じています。もっとも、講座の中では「女にしか子供の父親はわからない」と微妙なニュアンスでも話されましたが、秀頼の父親は秀吉で間違いないそうです。服部、福田両先生は、この春から同じ大学にお勤めの間柄になられたとのこと、「仲良しです」と強調されたのですが、学者としてはお互い譲れないものはあるということでしょうか。生物学的真実は、鑑定でもすれば判明する可能性がありますが、「実子」であると認識していたか、「実子」でないことを承知したままで後継者として選んだのか、意味合いは違ってきます。ともあれ秀吉の死は、次の世代にとって大きな出来事だったには相違ありません。

福田先生の講座は、豊臣政権とは何であったのかを問いかける内容でした、「出生の秘密」にばかりこだわるべきではありませんが、「天下人」の継承をめぐる駆け引きは戦乱に及ぶ時代でもありましたので、政権運営の鍵を握るともいえる生々しい議論も欠かせないようにも思えます。合議にもとづいて意思決定する「公儀」を創出する過程として、秀吉死後の時間が必要になりました。学界の議論では、「秀吉が死去しても、豊臣体制ともいうべき国制は残った」として公儀論へと問題意識を鮮明化した説や、「将軍型公儀」と「関白型公儀」が並立したとする説をご紹介されましたが、この時代の不安定ながらも政権運営は、家康にのみ傾斜していないことを想起させるものでした。

極端に言えば、悪女の茶々とボンクラな秀頼が、秀吉体制を自ら壊してしまった、というような見方がいまだに根強くあると思います。きちんと学ばなければ、先入観はぬぐいきれないでしょう。その意味で、『豊臣秀頼』を学習したいと思っています。様々な論点があるようです。北政所と淀殿の対立が複雑に絡まって豊臣家臣の対立が深まったという視点にも、再検討が迫られているようです。たとえば、『豊臣秀頼』からの引用になりますが、参考になります。

「寧は慶長4年9月に大阪城西の丸を家康に譲り、三本木の京都新城に移ったが、関が原合戦の際に城構えを解き、屋敷構えにして住んでいた。慶長11年に秀頼は寧のために三本木屋敷の修理普請を行い、寧は出家して高台院と名のって以降も、しばしば大阪城に下り、秀頼や茶々との交流を書かさなかった。こうしたことから近年では、茶々と寧は対立関係にはなく、協調関係にあったとみる説が主流となりつつある。」

福田説でとくに強調されているのは、茶々は側室ではなく、妻として寧と同等の立場で考える視点です。
「茶々の妾(側室)としての立場に疑問を持ったのは、秀頼の立場を考えるところから始まっている。というのは、公家社会では嫡出子(妻の子)と庶出子(妾の子)とでは官位をはじめとして格差が設けられ、差別的な待遇をうけるから、関白として公家社会に身を置く秀吉が、生まれてくるわが子をわざわざ庶出子という劣性の立場に置いておくだろうか、という疑問から出ている。」

多くの刺激を与えられました。『黒田官兵衛』の物語もクライマックスを迎えますが、豊臣政権の在り方を考えながら見ることになりそうです。

sawarabiblog at 18:44│Comments(0)TrackBack(0)

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