2014年12月22日

朔旦冬至と中国の暦について

今年の冬至は、新月と重なるという「朔旦冬至」という現象になり大変珍しいことのようです。まさに今日がその日に当たります。この「さわらび通信」を始めたころに掲示板で互いに書き込み死ながら学び合っていました。投稿いただいたK西さんはすでに故人となってしまわれましたが、天文学がお好きだったことを思い返しました。その投稿を引用します。今日は天文学の勉強です。私は「朔旦冬至」にもふれています。(2001年12月〜2001年1月にかけてのものを編集しました。)

【さわらびTの投稿】
日本の暦の話です。『日本書紀』推古10年(602)10月「百済僧観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、あはせて遁甲方術の書を貢る。」とあります。K西さんの資料から見ても、儀法暦はまだないので、元嘉暦になります。書紀は後世の成立ですし、干支は編集段階で修正されているでしょうから誤解を招く表現かもしれませんが、平朔・定朔の理解のためこう仮定しておきます。
推古36年(628)3月丁未の朔戊申に、日、蝕え尽き足ることあり。つまり1日ではなく3月2日に日蝕があった、と書かれています。元嘉暦が定朔法であるなら、朔の日と日蝕は一致していなければなりません。あえて一致させていないのですから、平朔法が使われていることになります。
中国は面白い国ですね。最初はアバウトで平均日数で1月を決めたその後、朔を月齢0を含む日にする暦を考えるという厳密さも考え出した、というわけですよね。太陽と月の運動が一定でないことも見ぬいて、暦に反映させる。面倒なことがきらいな私にはできません。
冬至を含む月は11月と決められていたようです。冬至が1日(朔)にあたるときを朔旦冬至といったそうですが、桓武天皇の延暦3年(784)11月がまさに朔旦冬至だったのです。わが国で始めて祝われたそうです。しかもこの年の干支は甲子、中国では革命が起こるとされているということですから意味ありげですね。まさにこの年、11月に長岡京遷都が行われたのです。縁起を担いだということになりますね。
しかし政治の世界は怖いです。翌年には長岡京造営の立役者である種継暗殺という不幸が生じてしまうのですから。
メトン周期を中国でもつかっているのですね。この方法だと、19年で月の満ち欠けと季節がほぼ一致するのでしたね。19年目の延暦22年(803)に朔旦冬至がめぐってきました。桓武天皇は2度、朔旦冬至を経験したわけです。この19年間の激動もまたまた興味をそそります。

【K西さんの投稿から】
さわらび通信お仲間の皆さん今年もよろしくお願いします。
今回は太陰太陽暦が最も高度に発達した『中国の暦』の資料を調べたのでご報告します。
中国最初の王朝・殷の時代既に毎月30日の12ケ月で冬至の次の月を年始とする一年で、日の順番を六十干支で数え、時々閏月を挿入して季節との調和を計っていたことが判ってます。BC0年前後に発刊された「律歴志]がBC3000年頃からの中国の天文学の歴史を伝えています。非凡な天体諸現象は皇帝の官選宮廷天文学者たちによって丁寧に観測され、年代記を通じて今日まで伝承されており、これらの年代記は研究者にとって非常に価値のある宝庫だと言われいてます。なぜならば、それで新星や彗星などの出現を調べることができるからです。また、日食や月食も予測し観測されていました。次の周代には、独自に19年7閏のメトン周期を見つけ、戦国時代に置閏法は更に進み76年を周期とするカリポス法が採用され1年を365と4分の1日とする四分暦がこの時代に完成しています。漢代になり年始の基準が従来の冬至から春分に移り、以後それが固定しています。
中国の伝統的思想の一つに、正確な天体観測に基づく正しい暦を民に与える(観象授時)ことが皇帝の任務であり特権であるという考えがあり民はその暦に従うことで忠誠を明らかにしました。それは従属諸国にも求められたため中国の暦は周辺諸民族に大きな影響を及ぼしました。やがて王朝交代のたびに権威の象徴として新しい暦法を制定することが慣例になり、2000年間に46回もの改暦が行われました。改暦と共に暦法は進歩しましたが、中には名前を変えただけで旧式のものに退歩したのもありました。
中国の暦は天文暦の要素と一般生活の為の常用暦とが一緒になったものでしたから日食や月食などの天文現象が暦の予報と外れたりすると天命が改まった(革命)として王朝交代の原因にもなり得ました。歴代王朝は専任の天文官を置いて真剣に取り組み正確な暦を頒布する努力を重ねたのです。その結果、中国の太陰太陽暦は世界最高水準にまで発達しました。
古代日本の暦法は中国の影響を受けて徐々に発展しました。その時代は倭の五王の頃か遣隋使の頃か、私には判りませんので歴史に詳しい皆さんに検討をお任せします。ご指摘のあった、推古朝に観測された日食の記録ですが、日食は朔(新月)以外には絶対起きない天文現象です。当時は暦法の理解や解釈がまだ未熟だったと思います。

【さわらびYの投稿】も引用しておきます。今年も、間もなくクリスマスです。
旧暦では冬至が霜月にくるよう計算して一年の暦を決めたらしいですね。
旧暦の宮中行事だった「新嘗祭」は実は、冬至祭りなんですって。「勤労感謝の日」の11月23日は収穫祭のイメージがあるけど、たまたま明治6年改暦の年の「新嘗祭」が旧暦11月23日だったからと聞きました。太陽のよみがえりを祝うのは、北半球に住む民族共通のことなのでしょう。クリスマス(=キリストのミサ)が12月25日なのも、3世紀古代ローマの「勝利の太陽神」誕生の祝い日だったとか。キリストの誕生が「闇に光を見た」と人の心に感じられる日が、いつしか選ばれたのでしょう。ただ、聖書の「羊飼いが野宿していた」という記述には、いくらパレスチナでも寒すぎてちょっとかわいそうな気がします。冬至の約十日後が新年、(この日付に何かこだわりがあるのかと思っていましたが、)誤差の生じたユリウス暦をグレゴリオ暦に直す時、教会暦でもっとも重要な復活祭算定の元となる春分の日を3月21日に決め、その結果たまたま1月1日が冬至後十日目になったということです。ちなみにキリストの受難は歴史的事実で、ユダヤ暦の過越祭中の金曜日ですから、復活祭は「春分の日の次の満月の次の日曜日」と、今もユダヤの太陰暦の慣習を受けて決められています。

sawarabiblog at 19:38│Comments(0)TrackBack(0)

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