2014年12月24日

古代の塩づくりの新知見(阿部先生の講演から)

c2357658.jpg明治大学博物館友の会で、例年実施しているのですが考古学の最新成果をお話しいただく講座、今年は「考古学2014」というタイトルですが、講師のおひとりは明治大学の阿部芳郎教授でした。古代の塩つくりについての研究の成果を、学生たちと製塩工程の復元と実験的検証を実施されたこともあわせてお話し下さいました。(講演は9月19日。当日の講演からまとめたものですが、あくまで文責は私にあります。)

岩塩からの塩づくりができないわが国では、古来、海水を使った塩づくりが行われていました。多くの木を伐採し、木を燃やして海水を煮詰めるために森林が失われるということもあったらしい。阿部先生は、明治大学のご出身ですが、初めての奉職されたのは岡山大学、製塩研究のパイオニアの近藤義郎先生がお勤めになられた大学です。阿部先生は、岡山で偶然、近藤先生に出会い、そこで製塩についての知識を問われたそうです。その体験を懐かしそうにお話しされました。直に近藤先生から薫陶を受けられたことは心に刻まれたようです。
近藤先生は、茨城県稲敷市の広畑貝塚の製塩土器を対象とした製塩研究で知られますが、製塩土器研究の対象は香川県喜兵衛島の古墳時代の土器でした。そして製塩が縄文時代にさかのぼることも実証したわけです。阿部先生が、製塩土器の研究に取り組まれたのは、母校の明治大学に戻られてからのことでした。
ところで、具体的にどのようにして製塩がおこなわれたのでしょうか。いくつかの仮説が提示されています。「藻刈るる塩」と詠われているように「藻塩法」という技法が行われた可能性が考えられています。
先ず海藻を採集します。それを干したものに海水をかけると、塩が付着します。それを燃やしますが、出来た灰は塩辛くなります。この灰塩をもう一度土器に入れ海水を加えます。こうすると自然界には存在しないような塩辛い海水が出来上がります。それを煮詰めると効果的な塩づくりが行われることになります。ただし、焼かずに煮詰める方法もあります。いずれにせよ、高い塩分濃度になった水を土器(製塩土器)に入れて乾かします。
1991年に大きな発見がありました。製塩遺跡である愛知県松崎遺跡(6C後半)の調査によると、10僉15僂らいの土器の層と灰の層が交互に堆積していることがわかりました。調査にあたった渡辺誠先生が、焼けたウズマキゴカイを大量に発見します。(ちなみに、たくさん見つけたのは実は、学生たちだったというエピソードを付け加えられました。!)
ウズマキゴカイというのは、ゴカイというミミズみたいな生物で巻貝のような殻を持っているのですが体長1ミリくらいの小さなものです。アマモにくっつく生物であるので、アマモを焼いて塩を作ったことを立証します。こうして製塩の原材料が判明したのです。
阿部先生が本格的に製塩土器に取り組んだのは、東京都教育委員会から依頼を受けて明治大学が西ヶ原貝塚の調査をすることになり、縄文担当者として引き受けたことがきっかけになったということです。先学の研究をふまえて、ご自分なりに客観的な研究を進めようと心がけたとのこと。
ケイソウは環境指標種と言われますが、それは水質によって住む種類が違っているからなのだそうです。たくさんの海のケイソウが製塩土器から出てきました。明治大学が発掘して法堂遺跡の土器の粘土の産地分析を西ヶ原貝塚の土器とあわせて行いながら、比較検討しました。法堂遺跡は、筑波山(花崗岩の岩塊が露出してできている)から風化した花崗岩が下流に流れてきた場所にある。一方、西ヶ原貝塚はローム大地である武蔵野台地で堆積岩から成り立っています。
これまでは霞ケ浦に大きな生産地域があって、関東各地から出土する製塩土器はこの一大生産地域から流通したのだろ言われてきました。もしそうであるなら、遠く離れた西ヶ原貝塚から出てきた製塩土器が霞ケ浦周辺の粘土の性質を有しているはずです。ところが分析の結果、周辺地域の粘土を使っていたことがわかりました。武蔵野台地の縄文人たちは、自分たちで製塩土器を作っていたことが明らかになりました。こうして考えると、一元的な流通モデルではなく、多元的な展開モデルがあることになります。つまり海に近いそれぞれの地域で製塩土器が作られたということになります。
焼けたウズマキゴカイは、近藤先生が研究された広畑貝塚から採集した炭酸カルシウムの結晶体の中にも、たくさん入っていることがわかりました。また藻につくタイプのケイソウも発見されています。松崎遺跡は古墳時代の遺跡ですが、こうして縄文土器からも松崎遺跡とよく似た状態のもの見つけることができたのです。広畑貝塚から採集した結晶体からは、ほかに焼けた小さな巻貝が見つかっています。カワザンショウという種類の貝で海際の葦などに付く貝です。こうした貝も焼けた状態で見つかりました。
広畑貝塚は貝塚で塩づくりの場所がほとんどわからないのですが、法堂遺跡は砂地でいくつかのピットがあり、その周辺から製塩土器がびっしり埋まっているところが見つかっています。たくさんの灰が出ていると報告されています。今回、あらためてサンプル分析をしたところ、掘り込みから採取された灰の中から大量の焼けたウズマキゴカイが見つかりました。土器の内面からも焼けたウズマキゴカイが見つかったそうです。灰のケイソウ分析をしたところ小判形をした海水藻場指標種が検出されています。一方、同じサンプルから出ている陸産の微小巻貝が焼けていないことは重要のことです。この場所全体が被熱されていればこうした陸産の巻貝が焼けているはずですが、これが焼けずにウズマキゴカイだけが焼けていることは海藻が焼かれたことを傍証しているのではないでしょうか・・・・と、阿部先生の報告は、伝えています。
こうした仮説を立てたうえで、八木原貝塚の発掘を実施して、貝の中からだけでなく、貝を含む層全体から焼けたウズマキゴカイを発見したのだそうです。年代としては、3500年前くらいにあたります。
これまで霞ケ浦西南岸で行われていたと考えられていた製塩ですが、このように西ヶ原貝塚や八木原貝塚から、焼けたウズマキゴカイなどの遺存体が見つかっていますので、海に面した各地で多元的に展開したと考える方がよさそうです。
さて、製塩土器はどのようにして出来上がってきたのでしょうか。これまでは無紋で赤く焼けている土器を、製塩土器として細かく分析されてきました。しかしこれらの土器が、どのような土器から生み出されたのかについては、これまでの型式学では射程距離に入っていませんでした。後期中葉の浅い形をした土器が深鉢になり、晩期の製塩土器になるという変遷の過程は、層位的な関係からも間違いないようです。しかし問題は、この型式変化は霞ケ浦に限定されていないということです。ということは、こうした土器を使った製塩が多元的に展開してきたことを意味します。
製塩土器は晩期初めに現われ、中頃までありますが晩期〜弥生には残っていません。広畑貝塚や法堂遺跡からは焼けたウズマキゴカイ、藻に付着するケイソウが見つかっています。さらに、それ以前の土器からも出ていて、現在見つかっているものでは4240年から3980年(AMS年代)と示されています。そうなると、これまで考えられていた年代より800年ほどさかのぼることになります。
製塩土器から製塩が開始されたと考えるのではなくて、製塩土器が出現するというのは、それ以前の一般的な土器を使っていたのとは何か違う出来事が起こったことによって、塩づくり専用の道具が生まれてきたと考えるべきでしょうと阿部先生はお話になりました。こうした考え方は、すでに近藤義郎先生が広畑貝塚を研究された論文で、「製塩土器の出現は製塩の開始を必ずしも示すものではない」と書いていますが、その後の研究者は、その提言を生かしてこなかったと反省されます。
これまでにわかったことをまとめると、1.製塩は藻灰を利用している 2.製塩の起源は現時点において製塩土器の出現から800年ほど遡る 3.縄文の製塩は霞ケ浦から発生したのではなく、関東地方東部の海浜地域で多元的展開した。従って霞ケ浦から奥東京湾への技術伝播説は否定される。
以上、大変刺激的なお話だったので、文章にしました。繰り返しになりますが、私がポイントと思うものをまとめたものですので、引用には注意してください。

sawarabiblog at 14:15│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字