2015年01月15日
五島列島におけるキリシタン
朝日カルチャー新宿で毎月、五野井隆史先生の講座を受講しています。1月には、毎月の講座とは別に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)認可を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に関連する講座がありました。受講者は会場一杯の50人ほどで、盛況でした。本来であればすでに認可が目前となっていたはずでしたが、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が推薦候補として優先されたため、残念ながら1865年(慶応4)の「キリシタン復活」から150年という節目の年である今年(2015年)には間に合いませんでした。五野井先生は17ページに及ぶ資料を準備され五島の歴史的環境、宣教の歴史をお話しされました。以下、受講内容を整理したく書き記します。
五島の領主(宇久純定)は1565年、平戸在留のパードレに宣教師の派遣を要請します。そのきっかけは、五島に来着したタイからの唐船にポルトガル人が乗船していたことでした。この要望に応えてトルレス神父は、イルマンのアルメイダと日本人で隻眼の琵琶法師ロレンソを派遣します。宣教の当初はなかなか思うに任せなかったようで、アルメイダはロレンソを残して離島します。その後、イタリア人のモンテ神父が来日し、赴任します。司祭が赴任したことで、1566年の降誕祭において五島で初めてのミサがあげられました。ロウレンソはキリストの誕生についての説教をしました。翌1567年は復活祭がおこなわれ、領主の庶子である純尭は四旬節に受洗したことが明かされました。洗礼名はドン・ルイス、領主の純定は冷静に受け止めたようです。五島の宣教は純尭の庇護のもとに進展します。妻も受洗し、あらためて教会で結婚式を行います。しかし、領主・純定のキリスト教に対する態度は徐々に冷えていったようです。1570年の聖週間頃には寺院や反キリシタン勢力の反発が高まっていたことも知られます。
モンテ神父を引き継いだヴァラレジョ新王とゴンザレス修道士が離島したあと、五島のキリスト教界を世話したのは伝道師の養方軒パウロでした。しかしどの程度の期間従事したかは、わかっていません。
さて領主純定が亡くなると純尭とキリシタンは反キリシタン勢力との戦いを余儀なくされます。劣勢となった純尭はキリシタンたちと長崎に亡命します。やがて純尭は半数となった家臣たちと五島に戻りますが、不遇のうちに死亡したと伝えられています。
1590年には、純尭を継いだ領主の純玄(すみはる=純定の孫にあたる)によるキリシタンへの弾圧が強化されます。しかし、その純玄は朝鮮に出陣し同地で亡くなってしまいます。後継した玄雅(はるまさ=純定の三男)も反キリシタンの姿勢を貫きます。五野井先生の資料には書かれていないのですが、結城了悟『キリシタンになった大名』(聖母文庫)には玄雅が受洗したこと、小西行長の支援で領主となったが関が原の戦を機に信仰を捨てたことが記されています。正確な史実が不明な点もいくつかありそうです。
1595年にはフォルトナーレ神父が五島を訪問し900人の告解を聴き、新たに60人に洗礼を授けました。秀吉が死去した前後の五島のキリシタンは2000人以上であったということです。
1614年、禁教令が発令され大多数の宣教師がマカオやマニラに追放されます。1615年、潜伏パードレが来島したと伝えられます。そして、1617年、パードレが署名文書徴収聴取のため各地を訪れています。これはいわゆる「コウロス徴収文書」といわれるもので、当時イエズス会と同じく日本に潜入・布教していたフランシスコ会やドメニコ会の活発な信者獲得、イエズス会の宣教活動への批判に応えるかのように、イエズス会日本管区長のマテウス・デ・コウロスが各地の指導的なキリシタンの証言を集めたものです。
これ以降は迫害の歴史といえます。高山右近は宣教師たちと共に1617年マニラに向かい翌年、帰天します。五島のキリシタンは1630年代半ばにはほとんどいなくなってしまったようです。
キリシタンの復活は寛政9年(1797)11月、五島の領主盛運(もりゆき)は大村氏に対して領民の移住を申し入れたことから始まりました。百姓が激減していることがわかったことからの決断でした。移住したのは、外海の潜伏キリシタンたちでした。彼らは居付き者と称されて地味の悪い土地を与えられますが、3000人がさらに地味の悪い僻地に住むことになります。移住したキリシタンたちは、教理書「天地始之事」と祈祷書を携えてきました。
そして時は移り、1865年2月19日(元治2年1月24日)、長崎の居留地大浦で天主堂の落成式が行われます。プチジャン神父の祈りが実ります。3月17日、浦上のキリシタンが信仰を告げたのです。今年が再宣教から150年目にあたる由縁です。
五野井先生の講座は、わが国における宣教の歴史を知る大切な機会となりました。
五島の領主(宇久純定)は1565年、平戸在留のパードレに宣教師の派遣を要請します。そのきっかけは、五島に来着したタイからの唐船にポルトガル人が乗船していたことでした。この要望に応えてトルレス神父は、イルマンのアルメイダと日本人で隻眼の琵琶法師ロレンソを派遣します。宣教の当初はなかなか思うに任せなかったようで、アルメイダはロレンソを残して離島します。その後、イタリア人のモンテ神父が来日し、赴任します。司祭が赴任したことで、1566年の降誕祭において五島で初めてのミサがあげられました。ロウレンソはキリストの誕生についての説教をしました。翌1567年は復活祭がおこなわれ、領主の庶子である純尭は四旬節に受洗したことが明かされました。洗礼名はドン・ルイス、領主の純定は冷静に受け止めたようです。五島の宣教は純尭の庇護のもとに進展します。妻も受洗し、あらためて教会で結婚式を行います。しかし、領主・純定のキリスト教に対する態度は徐々に冷えていったようです。1570年の聖週間頃には寺院や反キリシタン勢力の反発が高まっていたことも知られます。
モンテ神父を引き継いだヴァラレジョ新王とゴンザレス修道士が離島したあと、五島のキリスト教界を世話したのは伝道師の養方軒パウロでした。しかしどの程度の期間従事したかは、わかっていません。
さて領主純定が亡くなると純尭とキリシタンは反キリシタン勢力との戦いを余儀なくされます。劣勢となった純尭はキリシタンたちと長崎に亡命します。やがて純尭は半数となった家臣たちと五島に戻りますが、不遇のうちに死亡したと伝えられています。
1590年には、純尭を継いだ領主の純玄(すみはる=純定の孫にあたる)によるキリシタンへの弾圧が強化されます。しかし、その純玄は朝鮮に出陣し同地で亡くなってしまいます。後継した玄雅(はるまさ=純定の三男)も反キリシタンの姿勢を貫きます。五野井先生の資料には書かれていないのですが、結城了悟『キリシタンになった大名』(聖母文庫)には玄雅が受洗したこと、小西行長の支援で領主となったが関が原の戦を機に信仰を捨てたことが記されています。正確な史実が不明な点もいくつかありそうです。
1595年にはフォルトナーレ神父が五島を訪問し900人の告解を聴き、新たに60人に洗礼を授けました。秀吉が死去した前後の五島のキリシタンは2000人以上であったということです。
1614年、禁教令が発令され大多数の宣教師がマカオやマニラに追放されます。1615年、潜伏パードレが来島したと伝えられます。そして、1617年、パードレが署名文書徴収聴取のため各地を訪れています。これはいわゆる「コウロス徴収文書」といわれるもので、当時イエズス会と同じく日本に潜入・布教していたフランシスコ会やドメニコ会の活発な信者獲得、イエズス会の宣教活動への批判に応えるかのように、イエズス会日本管区長のマテウス・デ・コウロスが各地の指導的なキリシタンの証言を集めたものです。
これ以降は迫害の歴史といえます。高山右近は宣教師たちと共に1617年マニラに向かい翌年、帰天します。五島のキリシタンは1630年代半ばにはほとんどいなくなってしまったようです。
キリシタンの復活は寛政9年(1797)11月、五島の領主盛運(もりゆき)は大村氏に対して領民の移住を申し入れたことから始まりました。百姓が激減していることがわかったことからの決断でした。移住したのは、外海の潜伏キリシタンたちでした。彼らは居付き者と称されて地味の悪い土地を与えられますが、3000人がさらに地味の悪い僻地に住むことになります。移住したキリシタンたちは、教理書「天地始之事」と祈祷書を携えてきました。
そして時は移り、1865年2月19日(元治2年1月24日)、長崎の居留地大浦で天主堂の落成式が行われます。プチジャン神父の祈りが実ります。3月17日、浦上のキリシタンが信仰を告げたのです。今年が再宣教から150年目にあたる由縁です。
五野井先生の講座は、わが国における宣教の歴史を知る大切な機会となりました。
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