2015年02月03日

石井光太『神の棄てた裸体』を読む

1月中旬、久しぶりに「森司教とともに読む読書会」に参加させていただきました。真生会館の建替え準備中でもあるので、てっきり読書会は中断していると思い込んでいたのですが、会場をマリアの御心会に移して続いていました。今回の課題本は石井光太著『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』(新潮社)、参加された方々が感想を述べ終えた後に、森司教のコメントがありました。珍しく課題本がノンフィクションであり、しかも描かれているのがイスラム教世界であることも参加者にとっては戸惑いがあるようでした。
イスラム世界をめぐっては、私たちにとって非常に痛ましい事件の報道があったばかりですのでブログに載せることをためらっていましたが、石井さんがふれた世界は人々の生々しい現実ですので、あえて記しておきたいと思いました。ヨルダンのアンマンでのエピソードもありました。後藤健二さんが直面したイスラム社会の現実にそれほど差異はないと思われます。
石井光太さんですが、真生会館の土曜日の講座にも登壇されています。私も一度聴講しましたので、多少の親近感も持っています。ルポルタージュとしては、フィクションととられかねないような会話がちりばめられていることからその手法に批判もあるようですが、読み手にインパクトを与えていることも事実です。2006年の半年に及ぶ石井さんの体験は、旅の目的であったイスラムの性をめぐる洞察について達成されたこともあるし、また力及ばないと反省を迫るものだったようです。描かれた多くのエピソードは、旅をした国々の厳しい現実を伝えてくれています。
森司教はコメントとして、最初に次のような指摘をされました。私たちは身体的存在としての飢え渇き、社会的存在としての飢え渇きを満たしてきたけれど「心をもった存在としての飢え渇き」に直面している。そして、身体的にも社会的にも満たされない社会では、心の飢え渇きを得るための身近な媒体としての性があるのではないか、と話されました。性の問題は、タブーにしがちですが、心と心の触れ合いとして避けることのできない問題であることがわかります。石井さんは、私たちキリスト者が敬意をもっているマザーテレサの行動とはまた別の形で、人と人のふれあいの時間を貧困と差別の中で生きる人々にもたらしたのだと思います。
石井さんは旅に出た動機を始めに記しています。イスラム教について、女はベールを被り家に押し込まれて顔も知らない相手と結婚させられるといった類の、潔癖さが強調されるような紋切型の情報にはいらだちを覚え、一人一人の思いや行動を知りたかったことだというのです。そのために、人々とともに暮らし、働き、同じ釜の飯を食う中で、ありのままの当時28歳だった自分の姿を明らかにしたかったとも述べています。
旅立ったのは2006年正月、まずは、世界最大のイスラム人口国であるインドネシア・ジャカルタの街での出来事。政府の取り締まりが厳しく少女売春の本場だった場所は撤去されましたが、実体としてはスラムに潜って続いていました。石井さんは赤線地帯のバーで働き口を得て、知り合った少女売春婦のエパについて語ります。エパは、スマトラ島の出身ですが、紛争で孤児となった彼女はおそらく物心ついた時から兵士の性の道具として扱われてきたようだと推測されます。ある日のこと、たまたま避妊薬の注射を打っていなかったので、恋人と思う大学生にたいして「今日は避妊具をつけて」と言って怒らせてしまいます。この後が、ひどい話なのですがこの言葉に逆上した大学生に石で殴られてしまいます。頭から血を流している彼女を見た石井さんは、エパのことが心配で大学生と引き離すべきだと考えますが、彼女は「彼に謝らなけりゃ」と繰り返すのです。とどのつまりは石井の心配をよそに、いつしか大学生と笑いながら踊っていたのです。石井さんは、ここで一つ学びます。かわいそうだと考えるよりも、その人の置かれた状況の中で懸命に向き合い日々を過ごしていることを見守ることが大切なのだと・・・・
次にスマトラ島、メダンで娼婦たちの生き方にふれています。彼女たちは底なしの明るさに満ちているようにも映ります。石井さんは、ガイド兼通訳のリキシャの運転手と共に、彼女たちと接していたのですが、スナック菓子を得るヌール婆さんに着目します。婆さんといっても、実年齢は40歳代のようです。ちょっと不思議な性癖があって、性的な誘いを石井さん自身も受けています。東ティモールから逃げてきて、ゲリラに拷問された過去を持っていることがあとになってわかります。拷問によって歯も抜き取られ、膣も焼かれてしまったヌール婆さんですが、インドネシアでは少数派のキリスト教教徒が暮らすスラムで生活しています。スナック菓子を食べたイスラム教徒の娼婦は豚肉が入っていると騒いで去っていきます。そのあとで、婆さんの話を聴いた石井は、彼女の寂しさに気づかされます。男に抱かれることのない体にされてしまっても、男と一緒にいたいがために無償でファラチオしていたのでした。なかなか理解しがたい光景ですが、森司教がおっしゃる「心と心の触れ合い」の形なのだと言えるようです。
パキスタン北部、ペシャワールには幼い男娼たちがいます。なぜ男娼がいるのか。ここは戒律が厳しいために娼婦といえども気楽に男に声をかけにくいのだそうだ。白髪の老人ガイドからアフガニスタン人の兄弟を紹介してもらう。病気の父親に代わって、兄が稼ぎを得ているのはゴミ拾いと、体を得ることだ。弟は楽しく遊んでいるように見えた。しかし、本当は弟も体を売っていた。それも兄を気遣い、知られまいとしていた。ガイドの老人は治安の悪い街で弟の身に危険が及ぶことを心配して、その事実を伝えますが、知ったことを弟には伝えません。恥ずかしいことだけれど、必要悪であるとも認識しているようです。いるからです。お互いを思いやる兄弟だと知ります。
「彼らはひたすら沈黙を守ることで、兄弟という関係を保ちつづけていくのだろう。それが、この土地で生きるために必要なことなのだから。」
 同じペシャワールに住む「ヒジュラ」の物語。「ヒジュラとは、女として生きることを選んだ男たちのことである。」いわば芸能集団ともいえる存在ですが、リーダーは「グル」と呼ばれています。結婚式で踊るのが「彼女」たちの存在感を示す場面と言えるでしょう。郊外の隠れ家に集うグループと石井さんは接触します。そのヒジュラのグループとは別に、「ジプシー」という名のヒジュラと、ガイドの老人を通じて知り合います。(扉写真)彼女は仲間が逮捕されて、一人で旧市街の空き家で暮らしていたましたが、取材した後に、隠れ家がばれ、大家の仲間たちに暴行されて大けがをしてしまいます。この事態に責任を感じた石井は「彼女」の住む場所を確保しようと奔走するのですが、郊外の隠れ家に集うグループと一緒にいる「ジプシー」を発見します。「自分の考えはなんと、浅はかだったのだろう。・・・・どんな生活をしていても、困っている仲間がいれば手を差し伸べるのが彼女たちなのだ。」
一度立ち止まって、相手の立場で考えるとわかることがあるようです。まだまだ旅は続いていますが、長くなるので省略します。石井さんは『蛍の森」という意欲的な作品も発表しています。これからも注目したいです。

sawarabiblog at 19:31│Comments(0)TrackBack(0)

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