2015年03月26日

長崎巡礼で・・・

908507da.jpg2月27日〜3月2日、長崎に行ってきました。私が所属するカトリック教会に1年間研修に来られていた助祭の司祭叙階式が3月1日に浦上天主堂で行われることになり、同教会の信徒が参列することを目的に企画された旅行でした。
叙階式ミサは3月1日、高見大司教の司式で行われ、二人の司祭と、一人の助祭が新たに誕生しました。私たちは喜びのうちに、叙階式を見守っていました。その翌日に、信司祭は出身教会の諫早教会で初ミサを司式されました、私たちも、参列させていただき、ミサの後は信徒の方々との交流を深めることもできました。
午前中に長崎に戻り、清心修道院とグラバー園を見学するのがその日のスケジュールでした。ツアー初日に見学した大浦天主堂へ向かって右側の石畳の道がクラバー通りで、道沿いにしばらく歩くと清心修道院の門が見えてくるのですが、その道すがらグラバー園の出口の前にあたるところで、ご案内いただいたツアーガイドさんが、思いがけない説明をされました。その場所にあったのは白い洋館でした。案内板に、史蹟十六番館とあります。ガイドさんはこの洋館が遠藤周作さんに感銘を与えた場所であることを、伝えてくれたのです。

十六番館はどのような感銘を遠藤さんに与えたのでしょう。ガイドさんが説明された内容は、遠藤さんが書いた「一枚の踏絵から」といエッセイに記されていました。

遠藤さんが大浦天主堂周辺に来たときのことでした。多くの高校生たちや観光客でにぎやかな状況であるのを避けて、人影のない道を歩いていました。

「私は階段をのぼって、右の方向に歩いた。いつの間にか道はとぎれ、すぐそこに十六番館と書いた建物があった。そこにも女子高校生たちが十人ほど立っていたが、大浦天主堂ほどではない。「何があるの。ここは」と私がたずねると「明治の頃の外人が使っていた家具やなんか、並べているんです。と一人が教えてくれた。・・(中略)・・十六番館はいかにも明治時代の木造西洋館という建物だった。そしてこのあたりにはむかしの神戸や横浜と同じようにペンキ塗りのそうした洋館や、少し黒ずんだ赤煉瓦の建物がいくつも残っているらしかった。考えていた通り、中はつまらなかった。それほど良くもない古家具や食器を大事そうに並べた間を、私は通りぬけ、あくびをしながら外に出ようとして、ふと、出口にちかい一室で、何か四角いものが硝子ケースに置かれているのが眼にとまった。踏絵である。ピエタ――つまり十字架からおろされた基督も体を膝に抱きかかえるようにした嘆きの聖母像を銅板にして、それを木のなかにはめこんだ踏絵である。しかしこの夕暮れの薄暗い館内でしばらく、じっと立っていたのは、踏絵自体のためではなく、そとを囲んでいる木に、黒い足指の痕らしいものがあったためであった。足指の痕はおそらく一人の男がつけたのではなく、それを踏んだ沢山の人の足が残したにちがいいなかった。・・(中略)・・二日後、東京に戻った私はその後の生活のなかで、ふとその踏絵のイメージを心に甦らせることがあった。道を歩いている時や仕事をしている時、あの薄暗い十六番館の片隅でひっそり置かれていた踏絵とその黒い足指の痕とが記憶の閾(しきみ)の下から水の泡のように浮かんできた。」(遠藤周作『日本紀行「埋もれた古城」と「切支丹の里」』(光文社知恵の森文庫)から引用しました。)

長い引用になりましたが、 遠藤さんの『沈黙』の原点になったエピソードのようです。作家の想像力の豊かさにあらためて驚かされます。もっとも遠藤さんは殉教した人々だけでなく、「転んだ」人々にも共感を覚えて作品に生かしたことがユニークなところです。十六番館は現在、閉館しているのが残念ですが、遠藤さんのエピソードを伝えて下さったガイドさんのご案内は、長崎の歴史を振り返るに当たり素敵な思い出をたくさん作ってくれました。十六番館の説明をうかがったあとで訪ねた幼きイエズス修道会の清心修道会(女子修道会)は、養護施設マリア園(医療・社会福祉施設)を運営しています。煉瓦造りの建物は明治31年に建てられた歴史的な建造物だとのこと、しばし祈りの時間を持つことができました。

sawarabiblog at 20:20│Comments(0)

コメントする

名前
URL
 
  絵文字