2015年04月19日

近世の村の掟と刑罰のこと

4d20aeb3.jpgブログに記すタイミングとしては遅くなりましたが、今年2月、明治大学博物館友の会の会員発表会と同日に、実施された博物館の刑事部門学芸員の日比佳代子先生の講演について書いておきます。「村の刑罰」というテーマでのお話しでしたが、私にとって新たな認識と刺激を与えてくれたものでした。江戸時代の村のルールが独自の法によって決められており、刑罰も独自に定められていた領域があることを知りました。
 日比先生は、最初に基本文献として前田正治氏『日本近世村法の研究』を紹介され、同書の後半部が村法の史料となっていることを教示されました。「村法」=「村掟」は村の運営に関わることを、村人たちが主体的に定めたものを指し基本的にはひとつの村の単位で作っていますが、一村だけでは完結しないような場合には、村々連合で決まり事を作っていることもあるということです。以下、気になったポイントを記しておきます。
「寄合への参加」の規定があるのは、村の構成員にとって「寄合」が重要な意味を持つからです。寄合は、村の決まりごとや村役人の選出を行い、ある時は年貢を納めていないなどの糾弾をしたり、犯罪の摘発をすることもある、寄合に出ることこそ村人としての地位を明らかにする場でした。犯罪があって、その犯人がわからないような場合には、「入れ札」によって決めるという方法は、今日の感覚では果たして的確な方法であるとは思えませんが、寄合は村人の意思決定の場であったことを示しています。
当時の村というのは、個々人の権利を優先するというより、村という共同体の維持を優先する社会であったことを理解する必要があることも知りました。
 村の運営経費を負担するための取り決めや、労役負担も決めていたようです。村生活を維持するために、道路工事や川の普請といった日常的なインフラは村自身で行っていたので、村掟で定めたという。農業に関わる定めは多いことも特長です。村は生産手段を共にする集団であり、田の境や畦(あぜ)についての決め事をしているとのこと。畦のように共同で使う場所には、物を植えたりすることを禁じます。
興味深く感じたのは、土地の割替えについての規定です。良地と悪地を平等にするために、土地の割りあてて、一定の期間が経つと交換することを行うのだそうです。これは当時の人たちにとって、村全体で土地や生産手段を共有しているという感覚がベースになっているようです。土地の開墾にあたってのとりきめなど、土地の増減については揉め事になりやすいことでもあるので、村法によく見られるという。
 労働時間や休日についての規定があるという。その理由ですが、夜中の仕事は盗みと紛らわしいので、夜間の時間帯は作業しないように規定するのだそうです。享和2年(1802)出羽国江俣村の議定には、「稲取仕舞之義、明六ツ時ヨリ暮六ツ時限リニ取仕舞可申候」とあります。財政が苦しい状態になると、今度は、何時から何時までしっかり仕事をしなさいと定めることになったということです。労働時間は、村の生産調整との関連で変わってくるというのは興味深い指摘でした。
治安についての決めごとが見られるのは、中世末の社会混乱の中で集団の強い結合が生まれてきたことに由来しているとのこと。江戸時代になると、治安警察については各地の自治に任せるという対応をとったことにも起因しているようです。
戦国期や近世初期には、とりわけ治安が悪いため、他の村のものが村に入ってくることを警戒しています。
「嘉永4年(1851)越前坂谷村々一統規定証文」を紹介されました。「諸勧進諸牢人物乞之輩我村々江立入厚釜間敷振舞致候節は、早太鼓・早鐘を以て早速及相知・・・」とあって、「不審者が来たら、鐘太鼓で知らせよ」と言っています。外部の人間を非常に警戒していることがわかります。この史料の続きには、「右鳴物の音聞次第其の村方へ駆付搦捕り先規の通り簀巻に致し川責に可致候」とあって、このような鳴り物の音が聞こえたら、すぐに村に駆けつけ、簀巻きにして川責めにしろ・・・つまり殺害すると述べています。殺害をも辞さないという厳しい規定をしていることは驚きです。
こうした村掟を破った人に対する「制裁」についてお話しいただきました。本題の「村の刑罰」のお話です。多くみられるのは過料ですが、次いで追放、村八分になります。
「延寶五年(1677)近江国蒲生郡朝日野村大森諸法度書」には、‖爾稜精酳や竹木の盗みを働いた者は五人組をはずし所払いにする。 他の領の者で盗みを見つけたら払う E霓佑鮓つけて、訴え出た者には褒美として米五斗支給する。犯人はもちろん犯人を隠したものも所払いにすると書かれています。追放する時には、どれと共にで家を壊すということも見られます。村を払うということは、排除するだけでなく、穢れを払うという感覚もあるらしい。関連しますが、博打に関する事例ですが、屋根めくり、ということが行われています。屋根を剥がすことによって払うことも見られます。これは民俗学的な面白さも感じます。
 見せしめ的制裁がよく見られるとのこと、博物館の常設展示でも、「さらす」という行為が特徴的ですが、同時代には一般的の制裁方法であったことがわかります。耳をそいで、追放することがあるとのことですが、これはわざと違う形にする=「異形にする」ということを意味します。山荒らしに対して坊主にして3年間謹慎させるとか、作物荒らしに対して人前に出る時には赤頭巾をかぶせるなど、同様の意味合いです。
ところで、「村八分」はいつまで行われるかについて、実例でご説明がありました。久留米藩三潴郡大島村の史料ですが、伊助の家で村人三人が博打をします。それを佐助・伊平次が発見し村役人に報告し、これに対する制裁は「村方一統付合を放し候」、つまり「村八分」でした。ところが、博打をしたことで村八分にされた四人でしたが、「酒且肴料を差し出して」許してもらったとされています。
この史料から、村の共同体の中で「詫び」という行為が重要な意味を持っていたことがわかります。ところが、この史料には続きがありました。大島村は庄屋がおらず大庄屋が支配していた村でした。従って、庄屋の職務は組の役人である総代が代行していました。庄屋がいないために管理が行き届かない環境ではありましたが、大庄屋の川原孫兵衛さんという人物が叱りを受けています。大島村での博打、及びそれへの村内の処置を見過ごしたことに対して、藩から問題視され、処罰を受けています。
博打をした四人は「酒且肴料を差し出して」許してもらいましたので村での処分は完了していたのですが、これが藩に知られてしまったことで、藩から謹慎処分を受けることになったという出来事が記されています。村制裁権と領主の刑罰権との関係についてのひとつの事例として興味深いものです。通常は、領主側は村制裁権をそのまま認めることを、黙認されていたようなのですが、表沙汰になった時は領主の刑罰権を上位とするために、村そのものが処罰を受けることもあったということになります。
村の自治の独立性には、限界もあったと理解してよいのでしょうか。興味が深まる講演を拝聴できました。

sawarabiblog at 19:49│Comments(0)TrackBack(0)

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