2015年04月29日

大澤真幸さんから学んだ日本の憲法

5116494f.jpg4月23日に大澤真幸さんの講演がありました。カトリック新聞の告知板で、知ったのですが日本キリスト教連合会の公開講演会でした。「戦後70年を見据えて〜憲法と宗教〜」というのが主催者のテーマのようですが、大澤さんは「戦争と平和と正義―戦後70年に憲法を考える」という演題で話されました。(開場は江東区潮見の日本カトリック会館)
哲学的な議論でしたので、私としては受容力に欠けると思うのですが、憲法論について常識的な認識は持っておかなければと思いました。
集団的自衛権で憲法解釈が問われていますがが、解釈改憲はすでになされていて、それを容認してきたことに問題があるというきっぱり指摘していただいたので、スッキリしました。自衛隊にしろ、日米安保条約にしても憲法違反に近い解釈改憲といえる。安保条約については、解釈改憲というよりも、自分は喧嘩できない立場だから、アメリカが代わりに喧嘩してくれる論理で正当化されたものだという。
欺瞞といえるのは、「原則的にはAである、ただしBは例外である。」という論法です。
大澤さんの著書にも書いてありました。「憲法九条は、一切の戦争放棄と、あらゆる軍隊(戦力)の不所持を謳っている。・・・だが、戦後の政治史は、これに対する例外を付加していく歴史であった。」(「夢より深い覚醒へ−3・11後の哲学」岩波新書、2012)
要するに気がついてみればほとんどが例外になっているという、笑い話みたいな現状だというわけです。今や、憲法はすっかり骨抜きです。
しかしながら、九条護憲論にも弱点があるとも言われました。他国からの侵略に対しては、‘┐欧襦△發靴は 安保と自衛隊へのただ乗り、が答えというのは頼りない議論に思えるようです。何よりも他国から侵略されたとして抵抗もせず逃げる国民を、受け入れてくれる国などありはしないと言われます。難民を受け入れるのであれば国際法上も懸念はありません。また、亡命できるとしても、経済的にも恵まれている限られた人だけでしかないでしょう。つまりは、弱者を見捨てて逃げるということになります。
日本には自衛隊があり米軍がいるということが、安心感を与えているのだということが暗黙の了解事項になっているが、本来であれば、なくならなければならない存在であるという認識を持っているわけですから、そもそも理論的にも矛盾だというわけです。
九条について、考えることは2つあると言われます。^汰瓦砲弔い董ΑΑΑιずしも善意とは言えない世界の中にいて、安全はどうしたら維持できるか ∧刃造叛亀舛箸いΓ欧弔僚斗廚焚礎祐僂いかなる関係性があるのか・・・「正義より平和が大切だ」と多くの日本人は考えています。実は正義を尊重すると戦争に向かいやすいこと、「正義」という価値観は多様であることを考えなければならない、と問いかけます。アメリカと中国では、明らかに価値観の異なる政治体制を持っています。価値相対主義に基づく、このような考え方を「諦観的平和主義」と呼ぶ。(長尾龍一)ところがこうした価値相対主義は自己矛盾を起こします。なぜなら、「正義より平和が大切だ」というのも一つの価値観だからです。そのため「平和より正義の方が大切だ」という価値観も許容せざるを得なくなります。また、価値相対主義に基づき、いかなる時も平和を優先するのならば、いかなる独裁政権も不正があったとしても国民は我慢せざるを得ないことになります。アメリカ独立革命もフランス革命も行うべきではなかったということになります。「正義より平和が大切だ」という理由で九条を支持する理由にしてはいけないのです。
井上達夫氏の分類を整理して、戦争と平和の正義論を4パターンに類型化して話されました。二つの基準を設けます。一つの軸は「戦争にはよい戦争・悪い戦争があるか、それとも区別はないか」、もう一つの軸には、「戦争を正義の手段として活用するかしないか」を設定すると、4パターンになります。\祇錙弊酸錙墨性▲廛薀哀泪謄ズム自衛戦争論 そ秧菠刃村腟舛吠類されます。 正戦(聖戦)論に関して言えば、正戦とはあくまでも攻撃する側の論理であり、相手側にとっての正当性はありません。17世紀前半の30年戦争というカトリックとプロテスタントの対立が引き金になった戦争でしたが、こうした正戦というのが悲惨な結果を生むことがわかりました。表立った大義を掲げるのではなく、戦争を損得勘定で考える、国益追求手段としての戦争論(プラグマティズム)が生まれます。これが第一次世界大戦の原動力です。さらに自衛のための戦争だけを認める「自衛戦争論」が登場します。パリ不戦条約の精神です。しかし、「自衛」とはかなりあいまいな概念であって、予防のための戦争も可能となり戦争一般が可能となるという自己中心的になっていきます。ファシズム、ナチズムが生まれますが、本当に侵略するまでは行動につながらないという弱点を持っていました。
「純粋平和主義」とは何か、これが一番重要な概念です。「諦観的平和主義」とも違います。戦争にはよい戦争・悪い戦争の区別はなく、紛争解決の手段として戦争をしないという考え方です。ここからが難しい議論になります。正義を振りかざすと、好戦的になることがわかっている。平和主義を標榜しているのであるので、行きつく先が平和であることは確かではあるが、そして正戦論での「正義」とは違う「普遍的正義」があることは認めます。しかし、それが何であるかわからないという立場をとります。意見を押し付けることがないということです。そして大切なことは、攻撃に対するのに、非暴力抵抗、良心的不服従の態度を貫くということです。実は、この立場は人道的介入を積極的に正当化します。戦闘地域にも積極的に介入します。果たして、武力行使なしに紛争を解決することができるのでしょうか。しかるに、武力で抵抗するひとびとと、武力なしで立ちふさがる人のどちらに銃口は向けられるのでしょうか。非武装で抵抗する人々を攻撃することによって、国際的非難は免れないことでしょう。
 私たちの憲法の精神の崇高さを再確認した思いです。リズミカルにお話しいただいたのですが、最後に大澤さんは『ルワンダの涙』のラストシーンが印象的だと語られました。
「キリストは、今ここにおられる。いまだかつてないほどに・・・彼はわれわれと一緒に苦しんでいる。」
キリストのように、ギリギリのところで一緒に苦しむことが必要だというメッセージでした。その例としてあげられたのが、ペシャワール会の中村医師の行動です。中村医師は現地の人々と共に、井戸を掘っています。自分で掘った井戸ならば自らの技術で修繕することもできる。これが人道的介入の具体的な事例です。
そして、このような行動が、日本を世界で一番安全な国にする方法であり、どの方法より人を幸せにするのだとのこと。学ぶことの多い講演でした。

sawarabiblog at 23:08│Comments(0)TrackBack(0)

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