2015年06月01日

潮見教会と第五福竜丸記念館を訪ねて

3061f742.jpg4月25日ですので、1か月以上前のことになりますが、カトリック習志野教会の巡礼バスツアーに出かけました。最初の訪問地は、「蟻の町のマリア」と呼ばれたエリザベト・マリア北原怜子(さとこ)さんにゆかりのカトリック潮見教会です。教会の庭の一角には、北原怜子像と、献堂を記念する石碑がありました。この銅像の製作者は松谷謙司氏、石碑の碑文は蟻の会の2代目会長の塚本慎三氏が書き、松谷氏が刻書されたのだそうです。聖堂に入ると、復活の十字架が正面にありますが、祭壇はじめ松谷コレクションといってよいほどの作品で飾られていました。例えば、十字架の道行の第5留のシモンが十字架を担いでいるかたわらに、北原さんと子供がより添っている姿が表現されています。(写真)
これは松谷氏がちょっとしたいたずら心で加えた姿なのだそうですが、十字架の道行としては世界中で類例はないだろうとのことです。こうした形で北原さんの生きた証しが、しっかりと感じとれます。
聖職者でも殉教者でもない一信徒である北原さんが「尊者」として称えられることになったのにはどんな、時代的背景があるのでしょうか。同行された大原神父から、北原さんをめぐる多くのエピソードを聞くことができました。「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原さんは、時にはその偶像を演じなければならないことで悩んだ時期もあったようです。潮見教会は、実は北原さんが通った教会ではありません。献堂前に天国に旅立ったからです。戦争の犠牲による貧困と蔑視の中で、生活のための共同体をつくろうとする蟻の町の人々は、最初はバラックの小聖堂に集い、そして8号埋立地に移転し、現在の潮見教会になるまでには多くのドラマがありました。その過程で、北原さんは自らの豊かな生活を捨てて、蟻の町の人々と暮らすことになったのです。
私は1947年生まれなので、日々の糧を得ることに専心せざるを得なかった戦後の時代風景を見て育ったので、少しは思い起こすこともですが、現代社会から照らしてみると、北原さんの生き方はもはや想像しがたいできないものになっているのではないでしょうか。
北原さんのすばらしさは、施しは貧乏を解決できないのであって、貧しい人たちと同じ目線で共に生きることが必要なのだと感じとり、すぐに実践したことでした。聖書の言葉が怜子さんの心にふりそそいだのです。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによってあなた方が豊かになるためだったのです。」(コリントの信徒への手紙8章9節 新共同訳)
北原さん自身の文章から引用します。
「いかに身を粉にして働いても、己の高慢心をそのままにしておいて、貧乏人を助けることなんかできる筈がありません。蟻の街の子を助けるには、私自身も蟻の街の娘になりきるよりほかに道はありません。」(『蟻の街の子供たち』、聖母文庫より)
私たちは、いつも自らの行動の意味を問い返してみることが大切だと気づかされます。独りよがりではいけないのです。北原さんに気づきを与えたきっかけは、作家で蟻の会の松居桃樓氏の厳しい批判の言葉だったのですが、受け止める柔軟な心が、道を開いてくれました。
残念ながら、この世での時間は限られたものになってしまいました。しかし、神さまは決して見捨てなかった。北原さんを思い起こす機会を、こうして与えて下さっています。
教会の周りは、タワーマンションやオフィスビルに変っていて、言問橋から移ってきた8号埋立地のころの面影はもはやありませんが、潮見教会のたたずまいから往時を想像してみることは可能です。
午後は、夢の島公園までバスで移動、昼食後に第五福竜丸展示館を見学しました。ボランティア解説員の方に丁寧な説明をしていただき、実際に被爆した第五福竜丸の実物を隈なく見学できた貴重な機会になりました。
被爆したと言っても降り注いだのは、放射能を含んだサンゴ礁のチリ、米軍は危険区域と定めた場所から遠く離れていたにも関わらず死の灰をあぶることになったというのですから、とんだとばっちりでした。しかし、それは人間一人一人の生命を脅かすものだったわけです。
久保山愛吉さんが亡くなられたことで、あらためて原水爆の脅威を知ることになったわけですが、周辺の島嶼に住む方々への補償は十分ではないことにも気づかされました。冷戦のもたらした核開発による犠牲と表現しただけでは、あまりにもむごい出来事ではなかったかと怒りがわいてきます。
ビキニ環礁での水爆実験のあった1954年は、北原さんが蟻の街に移住した年でした。日本の戦後史は、戦禍の爪痕を色濃く残しながら、再生と輪廻が繰り返すように動いているように思えます。ました。永井隆博士がなくなられたのは、1951年5月のことでした。これらが同時代の、出来事だと理解しながら、日本の歴史を見つめ直す機会としたいと思いがつのりました。
静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」のほか多くの漁船が被ばくした米軍のビキニ環礁での水爆実験の威力は、広島の原爆の千倍以上でした。アメリカは詳細な実験内容を公表しなかったのですが、この水爆実験で被害を受けたのは、環礁から東方の海上で操業中だった第五福竜丸の乗組員ばかりではなく、環礁からやはり東方のロンゲラップ、ウトリック両島など周辺の島々の住民たちでした。彼らは、実験によって生じた放射性降下物「死の灰」を浴びたことから放射能症となってしまいます。
第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんは帰国後、急性放射能症で亡くなります。水爆実験による最初の犠牲者となりました。乗組員の被災と周辺島民のそれを合わせて「ビキニ被災事件」とされていることは、的確な認識だと思います。
米国政府が核実験に関する情報をずっと隠蔽し続けたために、被曝した島民たちの実態もまた厚いベールに包まれたままだったわけです。島の住民は米軍から人体実験同様に扱われていたようです。放射線症治療に対しての適切な処置がなされなかったのには、それだけのわけがあったようです。第五福竜丸だけに限定して考えるわけにはならないことを、このバスツアーでも学ぶことができました。
展示館の外に出ると、久保山愛吉さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と刻まれた碑が立っています。ほかに第五福竜丸エンジンや、廃棄マグロが埋められたことを記すマグロ塚なども気になりました。
展示館内外で見ることのできる、数々の品々はいわば「負の遺産」というべきものですが、これらは多くの人々の努力の積み重ねで残されたものであることを、忘れないようにしたいです。

sawarabiblog at 20:06│Comments(0)TrackBack(0)

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