2015年07月05日

『銅鐸の終着駅』を聴講して

913048fe.jpg5月9日、明治大学博物館友の会総会の恒例行事である特別講演会が行われました。今年は白井久美子氏の『銅鐸の終着駅−小銅鐸分布圏の成立をめぐって』という、興味をそそられるテーマでした。公開講演会ですので、一般参加の方も多く参加され、会員とあわせ171名の方が聴講されました。
「小銅鐸」とは、いったいどのようなものなのでしょう。また大型化した銅鐸との関連についても詳しく知る機会になりました。関東で弥生・古墳時代の研究をするには、対象となる出土史料が近畿地方に比べて圧倒的に少ないわけですが、小銅鐸は多くの事例があるために研究対象とするにふさわしいという白井氏の研究姿勢は、意欲的で素晴らしいです。
銅鐸は、もともと朝鮮半島で出土する小型の銅鈴が起源とされています。それが、倭様化され、もともとの用途であった鳴らす機能を失い大型化したこともよく知られています。それでは、日本で出土する小銅鐸についてはどのように理解すべきなのでしょうか。
出土一覧表を見てみると、小銅鐸が銅鐸に比べて、広い範囲に分布していることがわかります。まず古式銅鐸の分布圏を見ると、天竜川のあたりが東限になっています。そして新式銅鐸の分布は、さらに東に伸びていますが、それでも伊豆半島あたりが東限になっています。それに引き換え、小銅鐸はさらに東に分布しています。関東全体では16例のうち、東京湾東岸の地域に9例、出土しています。銅鐸の分布域を越えて出土している小銅鐸の意味するものは何か、それが大切な視点です。
白井氏は小銅鐸をおおむね3つに分類され、出土地域との関連を分析されていました。その分類に従うと、(A)朝鮮式系小銅鐸、(B)銅鐸型銅製品、(C)汎用型小銅鐸になります。なお出土の1例である大分県別府(びゅう)遺跡のものは、朝鮮式銅鐸そのものです。北九州出土の小銅鐸のほとんどは、朝鮮式銅鐸を模して作られたもののようです。また銅鐸型銅製品とは、日本で独自に発達した銅鐸の影響を受けて小銅鐸にもそれが反映したものをベースに作られたタイプの物を表わしています。それは佐原真氏が、紐の断面の変化を調べて分類したものと同様に、分類できます。これに比べて、汎用型小銅鐸というのはこうしたことに影響されることなく、機能を重視して祭りをつかさどる人が、祭りの道具として身につけたりあるいは、手に持ったりして使っただろうと思われるのの、いわば汎用化したものを指します。(もっともシンプルで、主として祭りの道具としての機能もあったであろうと想定されています。)
新式の銅鐸分布圏にはかなり大型化した、仰ぎ見るような銅鐸が含まれますが、小銅鐸はそれを見た人が模倣したものを作ったと思われます。現在のところ、霞ケ浦の北側からは小銅鐸が出ていません。小銅鐸の出土の有無は、弥生時代の西日本的な要素が、関東にどこまで浸透していったかを示すバロメーターの役目を果たしていると思われます。
大型化した銅鐸ですが、弥生時代後期には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸という区分が生まれますが、実はこれらは対立していたのではなく共存していたとみるのが正解なようです。どこが違うのでしょうか、近畿式銅鐸のモチーフとして双頭の渦巻紋が特徴的ですが、その渦巻紋だけが伊豆半島北部で出土しています。祭りの道具として、渦巻紋だけを使っていたようです。つまり伊豆半島の人は大型化した銅鐸は持っていないのですが、そのモチーフの部分だけを持つことができました。しかし、東京湾沿岸の人たちはそれすら手に入れられず、模倣品を作ったということになります。
倭様化した銅鐸の出土例として、白井氏が整理作業に関わった事例を話されましたちはら台遺跡群の川焼台遺跡から出土した2つの小銅鐸です。
三遠式銅鐸の特徴として、紋様帯の真ん中に稜線がつくのですが、川焼台1号鐸はそれを表現しています。そして稜線を境に綾杉紋が見えると思います。もうひとつの特徴は断面が正円ではなくて印鑑型ないしアーモンドの形をしていることですが、これも表現されています。もう一つの特徴ですが、鈕が縦長で突線の部分が高いのですが、そして近畿式銅鐸の場合は、鈕の脚に壁がありますが三遠式にはありません。これだけの特徴を備えています。つまり、日本で発達した銅鐸の要素が十分取り入れられていることがわかります。2010年、三島市でこれとよく似た、小銅鐸が発見されました。青木原遺跡というところですが、大きさはほぼ同じですが、綾杉紋が残っているだけです。おそらく、同じ原型をつかった可能性があると判断されました。同様に、川焼台2号鐸についても検討し、栃木県小山市の田間遺跡出土鐸が同じ工房あるいは同じ原型を使った可能性があると例示しました。
こうしてみますと、弥生時代は関東では小銅鐸を使った祭りが独自に展開していたかというと、そうとばかりは言えないようで、後期になると違った様相が見えてきます。それが、上記のような銅鐸型銅製品を使った祭りが行われていることから見えてきます。時代は一気に古墳時代に突入する前段階だった様相を帯びてきました。
市原の神門古墳群の出現は、それを物語ります。これまで前方後方墳が多かったところに、畿内色の強い前方後円墳が登場したわけです。人びとの交流の様相をあらためて問いかけています。講座の一部をご紹介しただけですが、とても面白いお話しでした。

sawarabiblog at 20:11│Comments(1)TrackBack(0)

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by イロイロ   2016年02月03日 13:41
銅鐸にはこんな説もあります。

https://www.youtube.com/watch?v=dFByeIriw6Y

コメントする

名前
URL
 
  絵文字