2015年08月29日

ドイツの近現代史から見えてくるもの

9e9783e2.jpg「ドイツと日本を結ぶもの−日独修好150年の歴史−」という企画展示が、歴博で開催されています。(9月6日まで)
「日本とドイツは、150年を越える交流の歴史を持っていますが、外交や文化に関する交流の歴史を、本格的な「展示」というかたちで表現する試みとしては、初めてといえるものだそうです。展示は、下記の構成になっています。

 ワイマール共和国時代の交流 −大正から昭和へー
  A)外交官ヴィルヘルム・ゾルフとドイツへの学術振興支援
  B)ワイマール共和国へ留学した日本人
 ナチズムと軍国主義、第二次世界大戦
  A)中国をめぐる日独の立場 −満州事変と国際連盟―
  B)ナチス台頭と日独の接近
  C)ナチズム下の日独文化交流
  D)「諸国民の中の正義の人」 杉原千畝
  E)日独両国の敗戦

今回の企画展示では、ナチズムにもふれられています。確かに、現代ドイツを考えるためには考えないわけにはいかないでしょう。そして、安保法制に関する論議が高まっている現状において、あらためてナチズムについても考える機会にもなりました。
歴史をひもときます。ナチス登場の前史は、歴博も描いていますが1914年〜1918年の第一次世界大戦です。戦争の引き金になったのは7月28日のセルビアに対する宣戦布告でした。8月1日にはドイツがロシアに宣戦布告をします。これは「祖国防衛戦争」という名目でした。
ドイツは1918年3月から7月にかけて、起死回生をもくろんだ西部戦線の大攻勢を行います。ドイツ軍ではすでに人的資源が枯渇していて、経済的、社会的な混乱は頂点に達していました。連合国軍の攻勢によってドイツ軍は致命的な敗北を喫し、軍事的敗北と国内での混乱によって皇帝ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされます。
そしてドイツ革命の発生により成立した臨時政府によって、1918年11月11日に休戦が成立します。他の戦線においてはドイツ軍が勝利を収め続けていたにもかかわらず、西部戦線の崩壊が引き金になったと言えます。
1918年11月、キール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起を契機に労兵協議会が都市部を支配下におさめ、革命的情勢は一挙に進展します。社会民主党のシャイデマンの宣言によって共和国が成立します
ところで日本ですが、いわば集団的自衛権の発動によって、ドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地であった青島の占領をもくろみます。砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要とした結果、ドイツの青島要塞は陥落します。1914年11月のことです。日本には多くのドイツ人俘虜が送られてきました。私たちに身近なのは、習志野俘虜収容所です。展示にも反映されていました。
敗戦国ドイツは帝政が崩壊し、共和国となり1919年7月、史上初の民主的憲法と言われるワイマル憲法(公式名はドイツ国憲法)を採択します。国会が男女平等の普通選挙で選ばれ、比例代表制のため国民の意志が正確に反映される仕組みでした、しかし、国民の成熟が制度に間に合っていなかったのかもしれません。結局、このワイマル共和国は14年の生命しかなく、その胎内からヒトラーを党首とするナチスが、政権の座につくことになります。
一つのターニングポイントとなった国会議事堂放火事件もありました。ヒトラーは、1933年1月30日首相の座につきます。そして、内閣成立後間もない2月27日発生した国会議事堂放火事件ですが、真相としては不明なのですが、オランダ人でオランダ共産党員であったマリヌス・ファン・デア・ルッベが、実行犯として逮捕されます。そして共産党員の一斉摘発といった弾圧が始まります。反対勢力が一掃されていくのですなぜ、こんなことになっていったのでしょうか。我が国の現在も、似たような状況になっていると言えないこともありません。歴史に学ぶ知恵が必要です。

歴博の展示は、150年の交流を描いています。文化交流のさまざまな様相を知ることができます。

sawarabiblog at 10:20│Comments(0)TrackBack(0)

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