2015年09月28日

マタイによる福音書を読みながら

船橋学習センターでは福音講座がありますが、シスターHの聖書講座に時々参加させていただいています。マタイ福音書を読んでいます。聖書を分かち合うこうした集いには、イエスがともにおられるというのが信徒として共通の認識があります。

7月に分かちあった箇所ですが、記憶にとどめるために遅ればせながらこのブログに記しておきます。マタイによる福音第6章です。「隠れたところで」というのがひとつのキーワードです。結論的な思いを先に記しますが、このマタイ6章は、「神への信頼」がモチーフにあると思いました。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

イエスは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と言っていますね。私たちには、とてもわかり易い警句ですが、当時のファリサイ派が、人々を前にして、「見てもらおうとして」、何らかの「善い行い」をしていた姿が見えてきます。イエスは、それが偽善であることを指摘し、批判したのです。

もう一度、塚本虎二氏訳の『福音書』(岩波文庫)を参照しますと、この箇所には次のような補記があります。(原文にはないけれど理解を深めるためにという理由で、この塚本訳には説明としての補記が文字のポイントを小さくして書かれています。)
「しかし戒めだけでなく行いにおいても聖書学者、パリサイ人以上でなければならない」
すなわち、この補記を参考にするならば、自らを律するだけでなく行動規範にも気を付けよ、とイエスは諭していると解釈しているわけです。これは、大いに考慮すべきことです。さらに塚本訳では、「だからあなたがたが施しをする時には、偽善者のように、自分の前にラッパを吹きならして吹聴してはならない。」と記されています。

この「吹聴して」が、ポイントのようです。
父は「隠れたところにおられる」とイエスは言います。父に見てもらえれば、それでいいのだという思想は、当時の聖書学者たちにとっては許されないものだったのでしょう。そう考えると、福音書には、こうしたイエスの戦いの歴史が刻まれていることにも、思いが及びます。しかし、このような歴史背景を超えてイエスのメッセージは、大切なことを伝えてくれます。
それは、「父が報いてくださる」というメッセージです。この地上ではまだ実現していないであろう「神の国」(マタイでは「天の国」)に、心地よく迎えていただくためには、「隠れて」行うことが尊いことなのだと、知らされているようです。ガリラヤ伝道を始められたときすでに、「天の国は近づいた」とイエスは言っていますが(マタイ4章)、その実現のためには、どうしても人間の回心が必要なのです。

隠れてしなさいと、告げられた行為として、イエスは〇椶靴鬚垢襪箸祈るときC膿するとき、の3つの場合に言及しています。これらは、当然ですが宗教行為として柱にあたる行いです。施しは必ずしも宗教行為とは言えないかもしれませんが、貧しい人々で満ち溢れていた当時のユダヤ社会では、大切な宗教行為だったようです。
ファリサイ人たちは、わざわざ人の集まる広場に行き、施しをしていたのです。イエスは、「偽善者」のなせることだとして、この行為を痛烈に批判しました。言い換えるならば、このようなこれ見よがしの「施し」は、「善い行い」ではなく、端的に「偽善」と断定したのです。

「彼らはすでに報いを受けている」と聖書は記しますが、わかりにくいので、塚本訳を参照しますと、「すでに褒美をもらっている」と訳されています。ご褒美をもらった・・・という言い回しには、若干の皮肉が込められているような気がします。ファリサイ人は、「人格的に優れている」という評価を得ることではなく、俗的な栄誉をもらったに過ぎないのだと、言われているのではないでしょうか。ファリサイ人は、決して「隠れて」は行いません。人目につかないところで、「施し」を行ったとしても、ほめられはしないからです。あえて対比的に言い換えるなら、「神からの賛美」を求まるのではなく、現世の人々からの称賛のみを求めているのでしょう。
「断食するときにも」、他人の目を意識して、苦しみに耐えていることを見せつけるようにしています。これは、イエスから見れば笑止千万の行為だったことでしょう。
「祈り」についてもイエスは、同じように指摘します。「祈るときには偽善者のようであってはならない」と教えます。他人に聞いてもらうために、長々と声をあげて祈ることは慎みなさい、ということです。祈りとは、今日の午後、森司教からもお話があるかと思いますが、神に心を向けることを意味していますから、心底、神と向き合うためには、多くの言葉も時間もいらないということでしょう。
「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とイエスは的確に伝えてくれています。

灰の水曜日の福音朗読箇所が、このマタイ6章です。今年の、岡田大司教の説教では、マザーテレサの「解放の祈り」を取り上げていました。(大司教区のHP参照)
マザーはイエスに願っています。「尊敬されたい」「愛されたい」「名誉を得たい」「称賛されたい」・・・といった欲望から私たちは免れません。他人の目を意識し、しかも優位であることを誇りたくなるものです。特に若いころは、野心も芽生えます。マザーですら、この欲望から無縁ではなかったということに驚きますが、常に自戒していないとこうした欲望にからめ捕られてしまうのかも知れません。
岡田大司教は、イエスの弟子たちがイエスの無私の愛の実践に心を響かせたことを例示しながら、ご自身もイエスの導きでキリスト者としての歩んでこられたこと、伝えてくださっています。

「だからこう祈りなさい」とイエスは諭されました。

『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、 
わたしたちも自分に負い目のある人を 
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、 
悪い者から救ってください。』

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」の祈りは、印象的です。私たちがミサで唱える「主の祈り」と違うのは「罪」ではなく「負い目」と訳される個所でしょう。
福音書は、主の祈りを伝えた後で、もう一度繰り返しています。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし。もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

愛と赦しは、キリストの教えの中心です。一見、罪の赦しを得るための、交換条件のようにも見えます。例えば、「持ちつ持たれつ」とかお互い様のような表現かもしれません。でも、神との間にそのような関係は成立しないはずです。悔い改めが心底できるならは、自らが救われるということにほかなりません。それは、他者の過ちを赦すということと、不可分の関係だということではないでしょうか。私たちは、気づかないままに他者を傷つけてしまうことも、多々あります。そのことに気付けば大きな負い目にもなります。
罪はエゴイズムから生まれます。
「わたしたちは、何らかのエゴイズム、欲望にとらわれていて、わたしたちを支えてくれている広く大きな愛に十分に応えていないという意味で罪人なのです。」(森一弘『キリスト教入門』教友社、
)森司教が書かれておられているような認識を持てるかどうかで、「罪」の基になるものでしょう。

私たちは、時として、一生背負っていかなければならない「罪」を冒してしまうことになります。しかし、自分だけでない、他者の罪=負い目に目を向け、許すことができるなら。その罪の重さから少しは解き放たれるのかも知れません。話が、飛躍するかもしれませんが、人々がこのような意識で満たされるのなら世界に本当の平和が訪れるのです。人びとから、妬み、恨み、痛みを解き放ち、優しさといたわりに満ち溢れた世界、神の国=天の国の完成です。平和は、武力でもたらされるものではありません。

sawarabiblog at 16:53│Comments(0)TrackBack(0)

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