2016年01月28日

歴博の特集展示「夷酋列像」に思う

804a0d4b.jpg国立歴史民俗博物館では、特集展示「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」が開催されています。(2月7日(日)まで)
ブザンソン美術考古博物館に所蔵されている蠣崎波響(かきざきはきょう)という人物の手になる「夷酋列像」の里帰り展示がメインの意欲的な展示です。(北海道博物館・国立民族学博物館と本館の三館の連携展示)

この絵画が描かれた背景に興味がわきます。
1669(寛文9)年のシャクシャインの闘いの後、松前藩は各地のアイヌから賠償品を徴収、藩への忠誠を誓わせます。アイヌは「商場」に封じ込まれ、松前藩や倭人との交易に依存するようになります。18世紀には、運上金を課して商人にすべてを任せる「場所請負制」が成立します。「場所」というのは、もともとのアイヌの村落共同体に対応して設定した商業領域を指しています。沿岸地と比べ、比較的伝統的社会が保たれていた内陸部も徐々に、場所請負人から自由ではなくなってきます。

クナシリ・メナシのアイヌの蜂起が起こるのは1789年(寛政元)年のことです。クナシリの場所請負人となっていた飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが、当時クナシリでは強大な勢力を誇っていた長人ツキノエがラッコ漁で不在中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した事件です。北海道本島のメナシ地方のアイヌもこれに応じて、和人商人を襲っています。71名の倭人が殺害されるという大事件ですが、松前藩は260名の軍勢を派遣して鎮圧します。その指揮官の一人が蠣崎波響です。

蜂起の首謀者とみなされた37名が処刑され、軍勢はその首級を携えて凱旋します。アイヌの長人イコトイ、ションコ、ツキノエらは、松前藩に協力的だったのですが、蜂起した者に対して松前藩のは穏便な処置を望んだにもかかわらず、厳罰が課せられてしまいました。蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があるとされた12人の肖像画を描いていますが、それが今回展示されている「夷酋列像」ということになります。

先日、歴博友の会の民俗学講座「フランス人が見たアイヌ民族19世紀後半を中心に−」(講師は内田順子准教授)を聴講しました。「夷酋列像」と直接関連しているということでもないのですが、アイヌ文化を理解する一助となる内容でした。フランス人として、初めてサハリンに上陸、アイヌ民族と接触したラ・ペルーズは彼らの知性、物腰の柔らかさ、威厳を備えた態度を称賛しています。それから100年後に北海道に上陸したパリ外国宣教会のメルメ・カション神父はアイヌの村を探訪した体験をもとにした記述をまとめ出版しているそうです。ちなみに、カション神父ですが、事情は不明ですが、のちに破門されているとのこと、神父をやめてからは外交官として活躍したそうです。このように、あまり認識されることの少ない史実を知るとてもいい機会でした。カション神父が、「夷酋列像」をフランスにもたらした人物の可能性があるとのことでしたが、先日放映されたNHK『日曜美術館』の番組の中では残念ながら、この点については、言及されませんでした。

内田先生はアイヌ民族として初めてのカトリック洗礼についても触れられました。パリ外国宣教会のベルリオーズ司教が、室蘭で世話になった家族や、長崎から迫害を逃れてきた男性の妻に授けています。その洗礼記録が今日なおカトリック室蘭教会に残っていたとのこと、内田先生が室蘭教会で写真の撮影を申し出たところ快く応諾してくださったそうです。カトリックの宣教の歴史をたどるといった興味も深まりました。(展示図録の論考を参照・記述しています。)

sawarabiblog at 13:35│Comments(0)TrackBack(0)

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