2016年02月26日

『あなたにとって神とは?』に学ぶ

084e2689.jpg真生会館学習センターで、現在も続けられている講座のひとつである「森司教とともに読む読書会」に参加しています。(現在、真生会館は建替工事中のため隣接のマリアの御心会に会場を移して続けられています。)
2回にわたって『あなたにとって神とは?』(森一弘著、女子パウロ会)を課題図書にした分かち合いが行われました。森司教が話されたことも踏まえて、感想を認めます。

ご著書の第一章「神頼みの神からの脱却」で、森司教は、東日本大震災を目の当たりにした藤原新也氏の嘆きについて言及しています。その嘆きは、「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」というタイトルに現われていて、「神は人を殺した」とまで述べているだけに信仰者として真剣に向き合う必要を感じられてのだと思います。ずばり、藤原氏の神理解は間違いだと指摘しています。藤原氏の神理解には、神とは人間思考の産物であり、言い換えれば実在ではなく「願望の所産」であるとしているのです。人びとは「神頼み」しますし、日常生活に神は浸透しているという前提があり、しかしながら人々の願いに「神」は答えてくれないばかりでなく、東日本大震災のようなむごい仕打ちもされると理解されているのです。この神理解の背景には、「神は全知全能であり、天地の創造主である」というこれまでキリスト教が強調し伝えてきたことにも責任があるということを、述べつつ森司教は神理解に再考を促されています。

それでは、森司教が伝えたい神理解とはどのようなものでしょうか。
天地創造の神は、基本的には事物がそれぞれの本性に刻み込まれた「法」に沿って動き展開していくことを望んでいます。大自然の営みに対して、神は直接に働きかけているわけでもなく、人間の心を思うままにコントロールしているわけでもないのです。そのために、人間にとっては不条理と思われる出来事を避けることが出来ないのです。人びとは、その現実の中にあって、自分はいかに受けとめ生きていくのかを問われているのだということになります。苦しい現実の中で、人生に光を見出せる人は幸いと言えます。
私たちの素朴な思いとしては、神と自然の脅威を同一視してしまいがちです。罰する神を強調してきた宗教者側の説明にも確かに責任があるのかもしれません。私たちの認識として、慈しみ深い神と、怒る神が同居しているようにも思います。認識を改める必要がありそうです。

キリスト教理解を深めるために、含蓄に富む著書であることは間違いありません。読み進めていて、気にかかり読み違えないように理解に努めようとした箇所がありました。
「初代教会がキリストを旧約の世界と結び付けようとした真の狙いは、メシアを待ち続けるイスラエルの人々に対する説得ではなく、キリストの誕生とその生涯の歩みの背後に「歴史の中に働く」神の姿があると伝えることにあったと理解したほうが、すっきりする。」という文章表現がありました。ここに森司教の神理解を解くカギがあるように思いました。

福音書はユダヤの民にわかりやすく、キリストの登場の意味を伝えようとしました。旧約聖書を引用しつつ、メシアの登場の必然性を訴えています。

ピラトがイエスに「お前は王なのか」とたずね、最後に人々の前に引出し赤いマントを着せます。これはイザヤ53章の引用です。その人は王でありながら奴隷の姿で現れています。あるいは、ヨハネ19章には、兵士たちがイエスを十字架にかけてから、その服を取り、分けようとしたとありますが、さらにそれは「彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いた」と聖書の言葉が実現するためであったと書いているのです。ちなみに、その言葉は、詩編22篇にあります。
「骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

福音書は旧約聖書の言葉を引用して物語を紡いでいきますが、ユダヤの民にとって、手っ取り早くわかり易い比喩になっているといえます。歴史的な出来事の中に神の言葉が実現していることが伝えられているわけです。一方、律法学者たちはこのような神の姿を否定していました。、福音書は、旧約の人々を超えるメンタリティを伝えていると森司教はおっしゃっておられました。それは当時の律法学者では解釈できないメッセージだったといえるのかもしれません。メシアの登場と生涯の完成は、聖書の解釈を超えているものだったのです。

「マタイ福音書の冒頭に掲げられている系図の狙いは、アブラハムから始まりキリストに至るまでの長い歴史の中で、人々に希望を与えるために働き続けた神が全世界の人々に開かれていくことを証しすることにあったといえる。」と森司教は書いておられます。

神が手を差し伸べるのは、自然の脅威を見せつけることでもなく具体的な人々の営みを見守りながら、あわれみをさしのべることのようです。

カトリック教徒の作家は少なくないけれど、遠藤周作さんほどの知名度のある方はないでしょう。森司教は、遠藤周作さんの問いかけに応えようとされています。

森司教は、遠藤さんの問いかけに「心の奥のもっと深いところに宗教的な渇望が潜んでいる」と指摘しています。
最後の長編作品『深い河』は、遠藤文学の集大成と言われています。登場人物は、それぞれに悩み、傷つき、罪の意識にさいなまれながらもがき、苦しむ人たちです。『深い河』の大津の存在は、キリスト教界にとっては危険なものだったようですが、遠藤さんの重い主題が、読みやすい文章で語られています。

少し前になりますが、山我哲雄さんの随筆「イエスの最後の言葉」(『図書』2015年7月)を読み、刺激を享けました。イエスの最後の言葉を理解するために、マタイとルカがいかに努力と工夫をこらしたかを考察しています。その行為から実は、マルコに記されているイエスの言葉の信憑性が裏付けられるとも書いています。いずれにせよ福音記者はイエスが神への信頼を失っていないことを、記述しようとしているのです。

イエスは十字架にかけられたとき、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とつぶやきます。これは、アラム語で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味であると、福音記者マルコは伝えます。神への絶望、断末魔の叫びです。それでも神は見捨てないと言えるのでしょうか?

遠藤周作さんは「無力なイエス」と表現します。「受難物語までのイエスと受難物語のイエスのあまりに大きな違い。一方は力あるイエスであり、他方は無力なるイエスである。」(『イエスの生涯』)

重要なテーマになりますが、考え続けていきます。

sawarabiblog at 12:12│Comments(0)TrackBack(0)

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