2016年06月18日

『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』に寄せて

bc8aa0bc.jpg前回、感想を記した『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』には、第殉教と宣教師のかかわりについて、見逃すことのできない視点を提示してくれていて興味深く読みました。

徳川家康の禁教令は、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して布告されました。教会を破壊するとともに、布教の禁止が命じられたのです。宣教師たちは長崎に集められ、そこからマカオやマニラに向かうことを命じられます。慶長19年10月(1614年11月)追放された人びとを乗せた船が出帆しますが、マニラへ向かう船に高山右近が乗船していたことが知られています。

ところが、あえて帰国せず宣教を続けた宣教師たちもいました。その一人である、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父(フランシスコ会)は、長崎に潜伏するのではなく司牧のために江戸に向かいました。著者の星野さんは、この神父の生きざまに興味を持って描いておられます。

ソテロ神父が建てた浅草の癩病院に身をひそめながら司牧を続けていたフランシスコ神父は、1615年4月に捕えられてしまいました。1615年8月、スペイン国王フェリペ3世の親書を携えたサン・ファン・バウティスタ号が浦賀に入ってきます。親書の受取は拒絶されますが、対外貿易のうまみをあきらめきれず、宣教師を利用したいと思っていた船奉行の向井将監が将軍に申し出たことにより、サン・フランシスコ神父は解放されこのスペイン船の帰国に便乗することになりました。1616年9月、船は出帆しました。ところが、大村で宣教活動を続け捕縛されたファン・デ・サンタ・マルタ神父(1867年に列福された日本205福者殉教者のひとり)は、この船に乗ることもなく殉教しています。強制送還ともいえる乗船を拒んだ理由は、書簡として残されていて、あくまで信仰にもとづいているということを伝えていて、それはまるでサン・フランシスコ神父の処世を批判しているようにも受け取れると推測しています。とても、興味をそそられる箇所です。

ところが、マルタ神父の批判を受け止めたかのように、サン・フランシスコ神父は再び日本の地を踏みます。マニラ経由で長崎に渡来し、江戸でも活動、1630年代前半までの消息が知られています。星野さんが、「自分が助命されたことへの贖罪意識が、彼を生き延びさせたのではないだろうか。」と記していることは、心に響きます。

宣教師一人一人の思いに、心を寄せることは難しいことですが、フランシスコ会士とはこのような方々であり、今でも同じ心でしょうか。今回、イタリア巡礼で、アッシジにも訪れたばかりですので、とりわけ共感を覚た次第です。

sawarabiblog at 22:01│Comments(1)

この記事へのコメント

1. Posted by さわらびT   2016年06月20日 18:35
読了しました。このドキュメントのフィナーレでは、星野さんが殉教者の足跡を訪ねてスペインにまで飛び立ち、感動の出会いを果たします。大村の鈴田牢に入れられてドミニコ会士の中の、スマラガ神父(ビトリア出身)、オリファネール神父(ラ・ハナ出身)の故郷を訪ねたのです。出身地では、福者として称えられていますが、同時に迫害した日本人への憎しみもあることを知ります。しかし、神父や信者たちと交流する中で、日本の殉教者たちのことも理解してもらうよう努めます。星野さんは、出会いに感謝しながら殉教した神父が残した言葉を想起します。彼らは、日本のキリシタンたちに限りない敬意を払う心を持っていることを伝えていました。星野さんは
、彼らはみな天上の星となったが、天に召される前、互いに心を通わせる幸福な瞬間があったはずだと、綴っています。

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