2016年06月29日

イタリア旅行の思い出

83c6af6e.jpg6月3日(金)〜14日(火)の12日間、イタリア旅行に出かけました。船橋学習センター・ガリラヤでアンドレア神父の美術講座を学んでいるグループが中心の巡礼の旅です。主要な見学地は、ミラノ、ヴェネティア、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマです。記憶に残る体験のいくつかを記します。

(1) 旅の始まりは、ミラノ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に対面できたことに感動しました。損傷が著しく、かつレオナルドの原画に上塗りされたことで、修復前は改ざんともいえる状態だったそうです。部屋に入るために複数の扉を通ることで外気との接触を減らす工夫をしています。一回に入場する人数を限定し、15分間という時間制限もありました。幸運だったのは写真撮影が可能になっていましたので、この目で見た実物を載せておきます。もともと、サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会の食堂だったところ、修道士たちが席についてこの壁画のもとでパンと葡萄酒を味わっていた光景も想像します。とはいえ、それが壁画の保存とってはマイナス要因のひとつでもありました。イエスの足元が描かれていたかもしれない箇所は、ドアを作る為に破壊され残っていないのですから、受難を象徴するかのような存在といっていいのかも知れません。

(2)旅行中にはたくさんのミケランジェロ作品と出会っています。ダビデ像を制作して評判の高まったミケランジェロには多くの注文が寄せられました。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、十二使徒像の制作依頼があったのですが、さまざまな事情から「マタイ」を作りかけたところで中断を余儀なくされました。フィレンツェのアカデミア美術館で、圧倒的な迫力のダビデ像を見ましたが、制作途中のミケランジェロ作品を見ることが出来るということは、幸運な体験のひとつと言えます。シエナ大聖堂(後述)のピッコローミニ祭壇に4人の聖人像がありました。これもミケランジェロの作品かと言われています。「ダビデ」と「マタイ」の間の時期と考えられているようです。(木下長宏『ミケランジェロ』中公新書、2013 を参照しました。

(3)シエナはカンポ広場で年2回行われる競馬パリオが有名です。貝殻様の美しい姿の広場を埋め尽くす観衆の興奮した息遣いが伝わります。ここから坂を上がると大聖堂が現れます。感動です。私たちはバスが到着して、最初は聖ドメニコ聖堂、そして聖カテリーナの至聖所を訪ねました。カテリーナは1347年生まれ、裕福な家庭の23番目の子供で、普通の生活をという両親の願いと異なり修道生活に生涯を捧げます。キリストと同じ33歳で帰天しました。食が細く、自分が吐き出したものを食べたという驚きのエピソードも伝わります。教会分裂時代、教皇にアビニョンからローマに戻るよう伝える使者になったそうです。ご聖痕も受けたとのこと、アシジのフランシスコに通じますね。晴れ渡りすがすがしい日和にも満足して、大聖堂を訪れたあと昼食になりました。ところが、昼食後は雨模様、バスが駐車している場所まで戻るまでには、かなりの土砂降り!思いがけない試練でした。そしてアッシジに向かいました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に着くと、アンドレア神父を歓迎するご家族が、待っておられました。教会の中には、ボルチウンクラという小さなチャペルがあり、聖フランシスコの教会改革の思いを今に伝えています。特別のご配慮をいただいて、アンドレア神父とともに巡礼の皆で祈りの時を過ごすことも出来ました。アッシジは、どこも見ても美しいところです。宿泊先の修道院も心地よく、感謝の思いがこみ上げてきました。

(4)バチカンを背にでは教皇司式のミサに与る幸運を得て、昼食後はローマ市内をアンドレア神父の案内で散策しました。サンタンジェロ城がその存在感を示してくれました。テヴェレ川右岸にある城塞で、正面にはサンタンジェロ橋があります。もともとは、映画『テルマエ・ロマエ』に登場していることでおなじみのハドリアヌス帝の霊廟でした。この霊廟建設にあたって、皇帝自らが関与したといわれています。「五賢帝」のひとりであるハドリアヌスは、先帝の軍事作戦を中止、戦後処理を行い、軍部反対勢力を粛清、辺境の防備を固めることを優先しながら、防衛戦争や内覧鎮圧には武力行使をためらわなかったというのですが、その後、皇帝の性格を一変させる出来事が起こります。地方巡幸の旅において、謎の美少年アンティノオスを伴っていたのですが、この少年はナイル遡航の途中に、溺死してしまいます。ハドリアヌスは「弱々しい女のように泣き崩れた」と伝わります。このエピソードは、『テルマエ・ロマエ』にも描かれていて印象的でした。ハドリアヌス帝はパンテオンを甦らせています。今回は内部に入る機会はありませんでしたが、広々としたのびやかな空間に満たされています。後年、ブルネレスキが訪れ、研究した成果がフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋の設計に刻まれていることも、興味深いエピソードのひとつです。(藤沢道郎『物語イタリアの歴史供拊羝新書、2004 を参照しました。)

sawarabiblog at 10:16│Comments(0)TrackBack(0)

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