2016年10月03日

『ムーンナイト・ダイバー』を読んで

384f7982.jpg天童荒太さん『ムーンナイト・ダイバー』(文藝春秋、2016)を読みました。津浪被害だけでなく、放射能汚染によるダメージは私たちの想像力の限りを超えているとも思えます。この小説で、焦点があてられているのは、生存にわずかな望みを託す家族の思いと、失ったものへの果てしない追憶ではないでしょうか。次の一歩が踏み出せないものへの、本当の支援は行政事務の遂行では決して果たしえないことを教えてくれます。

物語には場所の特定はありませんが、津波に襲われたとともに、放射能汚染の影響で、5年目経過した今なお立入り禁止となっている海辺の町が舞台です。晴れ渡った日の夜更け、満月から2日目の立待月が、照らしています。主人公の瀬名舟作が小型トラックを走らせて向かうのは漁港、そして闇に紛れて、ボートを浮かべダイバーとして海中に潜るのです。小型ボートは父親の同窓生の文平が用意したもの、舟作が潜る海の底には、瓦礫やゴミが大量に沈んでいます。それは、津波以前の生活を彩っていた、それを失った人々にとってはかけがえのない品々の断片でした。実は、舟作たちはある遺族グループの依頼を請け負って、これらの品々を少しずつ回収していたのでした。

ストーリーは、思いがけない形で展開します。ある日のことでした。舟作が、遺品を探すダイバーであると推察した遺族グループの1人の女性から、「行方不明の夫の指輪を見つけないでほしい」と頼まれるのです。この女性が人生の岐路と向き合っていることがわかってくるのですが、舟作にとっても次のステップに踏み出すきっかけとなります。

肉親を失った者たちが、法を犯してまでも海に沈んだ思い出の品を回収するという設定は、やや無理があるかとも思いましたが、死を受け入れるためには、それだけ切実な思いがあることを作者は伝えたかったのだと感じました。主人公の舟作は津波で両親と兄を失っています。遺族グループからの依頼に応答したのは、共感の思いが重なるからにほかなりません。実は、津波当日たまたま体調が悪く兄に仕事を代わってもらったことから、舟作には兄が自分の代わりに死んだという「負い目」があるのでした。

「漁船内で作業をしていた両親と兄は、陸上で横倒しとなった漁船内で、塩が強く香る泥を全身にかぶった状態で発見された。被災後の、故郷の村を、舟作はよろめくように歩き、ときに四つん這いになって進んだ。」

呆然としてばかりはいられず、この時ばかりは、何かを求め続けるしかないのです。唐突な別れが不条理としか考えられない精神状態での行動です。そして、時間の経過とともに贖罪意識が新たな行動になったのでしょう。作中、主人公が「神」の不在を思う場面あるのですが、気にかかりました。舟作の娘が、「神様がいて、みんなのこと見てるでしょ」と無邪気に問いかけたとき、不愛想に「いない」と答えてしまう場面です。舟作は、神が不在だったのではないかと、真剣に問いかけているからでした。・・・もし神が見ているのなら、どうしてあんなひといことを放置したのか、と・・・・

この問いかけに反論するかのように、妻の満恵が、舟作がその日仕事を休んだことで、流されてしまった保育園も休んでいた娘のいのちも守れたことになったことを感謝している描写もあります。もしかして、神様は、いのちに対して不公平なのでしょうか。亡くなったお兄さんにも家族はあるのです。

『福音と世界』9月号に宮下規久朗さんが「祈りの力と聖書への疑念」と題するエッセイを書いておられます。聖書を信じ祈り続けても、娘さんがガンからの生還を果たせなかったことをふまえて、疑いを表明しています。先日、宮下先生と、短い時間でしたがお話しさせていただく機会がありましたが、問い続けておられることが伝わりました。まだ、答えを探しておられるのだと思います。もし信じていた神への信頼が揺らいでいることにもつながっているとしたら、2月のブログに書いた「『あなたにとって神とは?』に学ぶ」の結論とも、もう一度向き合う必要が出てきたように感じました。

神が手を差し伸べるのは、自然の脅威を見せつけることでもなく具体的な人々の営みを見守りながら、あわれみをさしのべることだと答えを出しました。人は、誰もが苦しみもがき生きている。その日々の生き様の中で、希望をつかみとるしかありませんが、出会いはとても大切な要因であり、『ムーンナイト・ダイバー』から、知ることができます。もっとも私たちには、このような劇的な出会いはありませんが、必ずしも無縁とは言えません。

作者の天童荒太さんへのインタビュー記事によると、執筆のためにダイビングも初めて体験したとありました。体験そのままではないでしょうが、次の箇所が印象に残りました。
「あえてヘッドライトを点けず、暗闇の中に自分を置く。沈んでいるのか浮かんでいるのか、瞬時にはわからない。自分で自分の空だが思うにまかせない浮遊感のみを感じる。見るという肉体的な行為も、いまは無意味だ。自分の湯簿さえ見えない闇のなかにいて、人間という限られた存在から解放されているのを意識する。意識としてのみ、自分はいま存在する。」

生と死の境界について、以前カトリック作家の高橋たか子さんのエッセイ『境に居て』を読んでいて、共感したことを思い出しました。

「人はみな、あの世とこの世の境にいるのに、それに気づかぬ大多数の人は、この世へこの世へと、欲望とともに出ていく。欲望が消えかかると、無理に掻き立てて。欲望いっぱいの状態、希望だとか、前向きだとか名付けて。そうではないのに。とはいっても、この私も、そのことに気づくのに、長い時間がかかった。」

こういう境地になることで、実は「希望」も見えてくるのではないかというのが、私の思いです。天童荒太さんの作品は、さまざまな刺激を私に与えてくれます。

sawarabiblog at 11:33│Comments(0)TrackBack(0)

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