2016年10月26日

糸数アブチラガマで思ったこと

5537e378.jpg10月7日から10日まで沖縄を訪ねました。習志野教会の信徒、とりわけ青年グループを中心とした団体旅行に参加させていただいたのです。平和学習が目的の旅ですが、現地で沖縄の現状をつぶさに拝見し、体験することがとても大切だと痛感しました。

沖縄は1972年に「本土復帰」するまでは、アメリカの施政権下に置かれていました。その遠因は、沖縄戦にあります。1945年、アジア太平洋戦争末期、沖縄に上陸したアメリカ軍は軍事力で日本軍を圧倒します。5月末には首里司令部が陥落し、日本軍は南部に撤退しますが、組織的戦力を失い6月23日には牛島司令官らが自決に追い込まれます。戦闘の終結を意味していないのですが、この6月23日は沖縄では条例で「慰霊の日」と定められています。その後もアメリカ軍による掃討戦が続いたのです。北部への避難ができなかった住民は、避難壕に逃れますが、集団自決の悲劇も知られています。

平和学習の最初の見学地「糸数アブチラガマ」は強烈な印象を与えてくれました。ガマを出た途端、「70数年生きてきて、これほどの体験は初めてです。」とおっしゃった方がおられました。それほど衝撃的だったわけです。

写真の案内板には次のように書かれています。

「このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていた。
地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者が置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。
このガマで亡くなられた方々の遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって蒐集され、「魂魄塔」に合祀された。」

ガマというのは、沖縄独特の石灰岩でできた自然洞窟を指します。アブは深い縦の洞穴、チラは崖を意味しているそうです。沖縄戦においてもともとは糸数集落の避難指定壕だったものが、後に日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、南風原陸軍病院の分室となったものです。さらに 軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属されてきます。

見学するには、ヘルメット、懐中電灯の携帯は必須で、足元に注意しながらゆっくり歩き始めした。入り口付近は天井が低く足元もでこぼこしていますので、慣れるまで注意深く歩きます。壕の中は整備されていますので、病室もあるし当時のトイレの場所も表示されています。しかし、病院ばかりでなく、生活空間出もあったわけでれほど不便な生活を強いられたことでしょう。

敵が入りにくいように、中世の城のように曲りくねった構造になっているということですが、内部施設を作るために、当時の壮年男性は兵隊にとられていたこともあり、高齢の男性や朝鮮軍夫と言われる人々が使役されたと知りました。

平和学習のガイドのYさんに解説していただきながら進みましたが、滑らないように足元を注意することばかり気をとられてあまり覚えていません。病人が寝かされていた場所で全員が集まりました。証言者のお一人、日比野勝廣さんの手記を読みました。

「仰向け寝ている背の下にムズムズしたものを感じ、それらが、やがて首筋、お尻の下にも感じられる。手さぐりでつまんだら、それは、大きな「うじ」で群をなしていた。どこからきたものか、あたりを見まわした時、ふと隣りの吉田君が、いつの間にか死んでいた。そして、すでに腐り始め、そこからはい出していることが分かる。死臭鼻をつき吐き気さえ感じていたが、まさか一番元気だったこの人が死んでいるとは意外だった。そういえば自分をなぐらなくなっていた。
悪臭と「うじ」に悩まされつつも白骨化していく友の傍らから離れるだけの体力もなく、「今にこの姿になるのか」と恐ろしい戦傑の時が続いた。それでも水を求める私は、手近なところに水のあることを思いついた。「小便を飲もう」私はいっしんに放尿に励んだ。しかし、この妙案も効き目はなかった。小便になるような水分は体の中には残っていない。ある日、向う側の上部にある空気穴から黄燐弾が投入され、大音響と共に跳ね飛ばされた。気を失ってしまった。気づくと棚の上から落ちていた。他の者も幾人か吹き飛んだらしい。しばらくしてから、正気に戻り、「ああまだ生きていたか」と辺りを見ると、ここは五メートルばかり下の水たまりの傍らであった。爆風で飛ばされた時、奇跡的に地下水の流れへ運良く行ったものとみえる。私の切望した水が得られたことに、喜びを感ずる暇も惜しく、一気に飲み続けた。痛みも忘れ、とにかく腹いっぱいになるまで飲み続けたことは、今でも覚えている。水腹であっても満腹感は、私に「生命力」を与えてくれたのか、眠りを誘い、起きてはまた、飲みして、少しずつ動くことができるようになった。」
(後日、公式ホームページに手記が掲載されていたので、引用しました。嘉数の激戦地で負傷した兵士の方でした。)

インパクトがあったのは、そのあと、すべての灯りを消すようにと、Yさんから指示があり一斉に懐中電灯を消すと、本当の暗闇を体験することになりました。沖縄戦の当時は、これほど真っ暗だったというわけではないそうですが、Yさんは、人間にとって希望とは何かを考えようと話し始めました。

ここにもし一週間いてくださいと言われて、皆さん耐えられますか?・・・実は期限付きならば人は耐えることができるのだそうです。戦争のように、いつ終わるかわからない状況は、希望を持ちえないので、精神に異常をきたすことにつながるという。

それでは、自分の手さえ見えない状況の中で何を希望とすればよいのでしょう。
私たち、キリスト者にとって、世の光・地の塩となる役割を与えられていると言われました。復活祭における一筋の光は、希望の光なのです。

同行された、神父様の声が響きました。「キリストの光、神に感謝」

得難い体験をして、出口に向かいます。出口付近には土砂が流れ込んだ跡が残されています。アメリカ軍が、流し込んだものだそうです。生き埋めにならず、救出された人びとを思いながら、上ります。私たちの暗闇体験は、1時間だけでしたが、無事に地上の光を浴びることができました。

sawarabiblog at 18:27│Comments(0)TrackBack(0)

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