2017年01月29日

映画『沈黙』に思いを寄せて

aad0a6fe.jpg映画『沈黙』が公開されて、よりリアルに遠藤周作さんの描いた世界を目にしっかり焼き付けることができます。公開直後に鑑賞することができました。殉教にかかわる残虐なシーンを見ることになるのは極力避けたいと思っていましたが、かなり抑制された表現になっていたように思います。それにしても、当時、絵踏みを強要されて拒んだ人たちはどのような神理解をもっていたのでしょう。確立された死生観をいだくというより、厳しい現実世界と比べて理想郷に行けることを待望しての神理解がベースになっていたように思われます。救いを求める者にとっての福音が、キリスト教の根幹であることは間違いないところです。ところで、絵踏みを拒んだために無惨にも処刑された信徒にひきかえ、キチジローはあっさりと踏んで放免されます。しばしば。信仰に背く処世を行うその姿を見るにつけ、に苦笑いを禁じ得ませんが、性懲りもなくキチジローはひたすら告解を繰り返し、ロドリゴ神父の周辺をうろつきまわる存在です。キチジローをユダと重ねるのは、ロドリゴ神父の思いですが、果たしてユダ=弱きものといった理解で済ませてよいのか?さまざまな問いかけを求められるように思います。

「神の沈黙」というテーマは重たいものですが、作者の遠藤さんはもともとはこの作品に「日向の匂い」というタイトルを考えていたと伝えられています。神は決して「沈黙」しているのではなく、語りかけてくれていると考えておられて物語を紡いだようです。「踏むがいい」という声を主人公のロドリゴ神父は聞きますが、キチジローにも神は声をかけていたのでしょうか。

もし、「神が人々の苦難に対して、沈黙を続けているのか」と考えだしたら、収拾がつかなくなるかもしれません。神は人間に自由を与え、人間が作り上げた世界に介入することを極力、差し控えているからです。信仰するものにとって大きな命題であることは言うまでもありません。人類は苦難の道を歩んできました。癒しと救いについて思いめぐらすしかありません。

遠藤さんがフェレイラ神父の言葉を通して告げているのは「この国は沼地だ。・・・どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」という一つの価値判断です。

歴史上のフェレイラ神父は「転びバテレン」となり「宗門目明し」という役職をつとめた人です。フェレイラは少なくともキリスト教の神は捨て、科学的合理主義を主張し、日本での残りの人生をまっとうしたと理解できます。となると、必ずしも拷問によって転んだだけとは言い切れないのです。肉体的苦痛で転んだとしても、キリシタンに敵対する存在になることは別次元の問題です。

あらためて物語の背景となる史実をひもときますが、寛永14年10月から翌年2月(1637年12月〜38年4月)に起きた島原の乱を鎮圧した江戸幕府は、鎖国体制を完成させます。イエズス会司祭フェレイラが来日したのは、慶長14年(1609年)のことでした。日本語にすぐれ、日本のイエズス会の中心となって働いていたが、日本管区の管区長代理を務めていた寛永10年(1633年)に長崎で捕縛されます。家光親政が始まった寛永9年(1632年)以降、多くの宣教師が処刑されています。フェレイラ神父は長崎において中浦ジュリアン神父らとともに穴吊りの刑に処せられた際に、他の者はすべて殉教したもののひとり棄教したと伝えられています。棄教したフェレイラ神父は「沢野忠庵」という日本名を名乗らされ、日本人妻を娶り、目明しとしてキリシタンの取締りに当たったことは前述のとおりです。正保元年(1644年)にはキリスト教を攻撃する『顕疑録』を出版、沢野忠庵の名は医学書『南蛮流外科秘伝書』の著者としても知られ、実際に外科学を講義したり、オランダ商館にも出入りして外科手術にも立ち会っていたようです。また寛永20年(1643年)に密航後とらえられた『沈黙』のロドリゴ神父のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父が所持していた天文学書の翻訳を、井上筑後守から命ぜられています。(五野井隆史『キリシタンの文化』(吉川弘文館、2012 参照)

1639年、ポルトガル人イエズス会士のアントニオ・ルビノ神父は フェレイラ神父の立ち返りを勧める目的で日本渡航を試みます。その第一弾とし寛永19年(1642年)ルビノ神父自ら乗り込みマニラを出帆、薩摩に上陸しますが、薩摩藩にとらえられ、長崎で取り調べを受けています。このとき、通訳としてフェレイラ神父が立ち会っています。そしてこの一行は全員が殉教します。次いで、第二弾が寛永20年4月に編成されますが、翌5月に筑前大島でとらえられます。この時は、江戸で井上筑後守の取り調べを受け、全員が転びます。この一行の中に、ジュゼッペ・キアラ神父もいたのです。キアラ神父は井上筑後守の屋敷内に建てられたキリシタン屋敷に収容されて岡本三右衛門として生きながらえたのです。

物語に戻りますが、ロドリゴ神父の転びですがキチジローの臆病さ、卑屈さとは別なのだと線引きできるものなのでしょうか。遠藤周作の視点が、弱きもののまなざしに共感していることは理解できます。神父の「転び」は信徒のそれと同一次元で考えてよいものなのか。為政者は明らかに線引きしています。すでに穴吊りに耐え切れず帰郷した信徒が許されないのは、ロドリゴ神父が神を捨てないからだと井上筑後守は迫ります。フェレイラ神父は他の信徒と同じ穴吊りの拷問を受けたことを私たちは知ることができますが、ロドリゴ神父の場合は、それ以前にキリストの「踏むがいい」との声を聞き、踏むのです。ロドリゴ神父の内面の声を反映した一種の幻聴だったのかもしれません。結果的には、井上筑後守の巧みな「転び」への誘導が功を奏したことになります。

しかし本当の神の声は、いかなるものなのか、私たちは問いかけ続けるしかありません。


sawarabiblog at 21:27│Comments(0)TrackBack(0)

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